2014/1/29 16:58 《現在地》
「前編」とこの「後編」の間にミニレポ187の探索をやって戻って来た。
これから汐合橋を渡って、対岸から河中に橋脚が見える神都線の旧線跡へとアプローチしてみるつもりだ。
なお前回も書いたとおり、この汐合橋もなかなか年季が入った古橋で、昭和11年の竣功と伝えられるが、親柱を含めて、あまり草臥れた印象は受けない。
橋上に歩道が無いなど、確かに古い規格であることは見て取れるが、昭和55年に下流の汐合大橋が開通するまでは国道だっただけあって、それなりに手を加えられて来たのだと思う。
それに今は交通量もだいぶ減り、歩道が無くても困らなさそうだ。
とてもよい眺め。
遠くに見えるのは、JR参宮線のプレートガーダー(明治44年架設、改修歴不明)。
眼下の五十鈴川があまりに穏かで、川というより海っぽい。汐合川という古称は相応しい。
おそらく水も潮気を帯びた汽水だろうと思う。
伊勢神宮の近くから流れ出た水が、神域を潤してここへやって来ている。
私はお伊勢参りなどしたことはないが、この風景を見て自然と心の晴れやかになるのは、古くから多くの日本人が愛してきた眺めの神秘の力かも知れない。
こんな穏やかな川だが、500年以上前の明応7年(1498年)に発生した明応東海大地震に伴う津波と洪水により一挙に開削された河道だというから驚きだ。
それ以前の河道がどこであったかは、地図を見れば誰でも分かると思うが、「五十鈴派川」と呼ばれている川が旧河道である。
河中の橋脚は、明治43年に架設された神都線(前回から廃止時の路線名を取って神都線と呼んでいるが、開業当初は別の路線名であった。だがややこしいので、本頁では神都線で統一する)の汐合川鉄橋のもので、橋は同型のプラットトラス4連であったから、河中には3本の橋脚が等間隔に建っている。(写真は中央の橋脚)
前回紹介した絵葉書では、干満の差だと思うが、今見えている倍くらいの高さが水面上に出ていた。そしていま水に隠れている部分にアーチを持つ門型の橋脚であった。
明治の土木技術でこの河床の土砂を岩盤まで深く掘り、基礎を埋めてから橋脚を立てる仕事は、大変だったろうと思う。
橋脚の周りに川の水を堰き止める仕切りを作って、水を抜いてから工事をしたのか、或いは水を張ったまま潜水夫が活躍したものか。
正直、あの絵葉書のプラットトラスが現存していたら、橋脚は今も裏方であったろう。
私もこんなにマジマジ眺めもしなかったろうし、あれこれ語りもしなかったろう。
橋脚の上面に左右で微妙な高低差がある事も知らなかったろうし、その理由を考える事もなかっただろう。
…まあ、分からないんだけどな。理由。
地震とかでずれないようにわざと段差を付けたのかな? 今まで気にしたこともなかったな。
まあ、ひとつだけ言えることがあるとしたら…
今の主役は、アンタだぜ。
いよいよ対岸に近付くと、今度は橋台がお出迎え。
対岸から見た時にも多分そうじゃないかと思っていたが、出っ張っている港御蔵でも乗っていそうな石垣(江戸時代っぽい雰囲気)の正体は、やっぱり橋台だよ。
絵葉書に神都線の鉄橋と一緒に映っていた、明治19年以来の旧汐合橋(木橋)のものであろうか。
鉄橋と違って木橋は相当沢山の橋脚を水面に立てていたはずだが、それらは全て姿を消していた。
橋台。それも右岸側の橋台のみが部分的に残っていたのであり、明治道フリークとしては見逃せない一件だった。
(明治の大規模な橋台が、現役当時と同じように水に触れているものは、レアな印象だ)
そして、木橋の橋台とは明らかに違った組積方で直線的に組み上げられているのが、奥の橋台だ。
手前が江戸時代の町人風ならば、奥は明治のお洒落な山高帽がとってもよく似合いそう。
言わずもがな、神都線鉄橋の橋台である。
これから、あの先端を目指す。
と、ここで、今まで単に移動のための場、或いは旧橋を望見する展望のための場としてだけ私に意識されていた、昭和11年完成のある意味哀れな古橋「汐合橋」が、
「俺も見て〜」 と、私を呼び止めた。
見ますとも!
後補らしく面白みの乏しかった左岸の親柱とはうって変わって、昭和11年の匂いがプンプンする右岸の親柱に、ドッキドキ!
それに、今までスルーしていたのが不思議なくらい、下流側の風景も綺麗だった。
奥に見える橋は、これまで何度も名前だけ出て来た、国道42号&167号の汐合大橋だ。
こっちよりも倍くらいは長い。
この白い親柱は、現在見られる一般的なそれとは違い、二面に銘板(というか刻字)を有していた。
たとえば写真のものだと、向かって右側は「志ほあひはし」で、路面側の面に「昭和十二年二月架換」とあった。
橋梁史年表には昭和11年竣功とあったので数ヶ月ずれているが、これは誤差の範囲(或いは年度数えの違い)と判断するとして、竣功ではなく「架換」というのが目新しかった。
新架ではなく、従来から(隣に)あった木橋を置き換える橋であるからこそ、このような表現を選んだものと思うが、先人に対するそこはかとない敬意が感じられて嬉しかった。
イイネ! 架換!
右岸にあるもう1本の親柱の内容は、この通り。
正面側が「汐合橋」で、側面が「五十鈴川」であった。
当時既に五十鈴川が本称であったことが分かる。
それにしても、路面側にも刻字がある親柱は、いかにも長閑な徒歩交通や低速な車両交通の時代を彷彿とさせるものだ。
現代の自動車交通では、そもそも走行中に親柱を読むことが難しいが、まして路面側のそれは不可能に近い。
歩行者にしても、歩道があって当然な現代では、車道に面した銘板を読むことが既にイレギュラーである。
細かなことだが、こういうところにも時代の趨勢は反映されているのだと思う。
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17:01 《現在地》
汐合橋を渡りきったが、道路の左側にはなお100mほども水面が続く。
対して右側は一見陸地のようだが、塀の向こうに石油か何かのタンクがあり(塀に出光のマークが書かれているので、給油所の跡地だろうか?)、さらにその向こうに神都線の廃線跡があるが、その先はやはり水面である。
つまり、ここは五十鈴川に張り出した埠頭状の陸地である。
地図で見るとよく分かるが、五十鈴川の川幅の半分弱が、人工的としか見えない四角い陸地によって狭められている。
私はこれが、神都線の橋を短くするために明治期に行った埋め立ての結果ではないかと考えているが、残念ながら史実としては未確認である。
この五十鈴川は川というよりもほとんど海の入江なので、川幅を多少狭めても洪水の心配は少ないのかも知れないが、人工的なものであるとしたら、なかなか大胆な地形改変であると思う。
史料は見つからなかったが、出来る範囲で裏付けをしたい。
左の画像は、明治25年測図大正2年鉄道補入版の5万分の1地形図だが、五十鈴川を北から見ると、二見道、神都線の前身である鉄道、参宮線のそれぞれが川を渡っているのが分かる。
そして、これらの橋はいずれも右岸に自然地形とは思えない、不自然な出っ張りがあるのが注目される。
これらの橋や道路が架かる前の地形図と比較出来ればベストだが、残念ながら手許に無い。
だが、もう一つ注目すべき“数字”に出会った。
それは、橋梁史年表に記録されている明治19年架設の初代汐合橋の橋長が245mであるのに対し、昭和11年に架設された汐合橋の橋長は146mと、100mほども減っている事だ。
このことは、明治19年から昭和11年までの間に、何らかの理由で右岸の埋め立てが行われた可能性を示唆している。
そしてそれはたぶん、明治40年代の鉄道橋建設を契機に行われたのではないかと思うのだ。
いかんいかん!
気づいたらまた、ゴチャゴチャと想像に根ざした昔話をしてしまった!
本題である廃道廃線の探索に戻る。
汐合橋の袂から100mほど東へ進み、本来の五十鈴川の川岸まで来ると、右側に並走する道が現れた。
これこそが明治以前からの古い道で、旧汐合橋(木橋)の続きである。
神都線の線路は、この旧道との併用軌道であったようだが、痕跡は見あたらない。
この先はもう二見の市街地で、明治の廃道や廃線跡は既に掻き消されてしまっているのだが…
ここで振り返れば、
対岸で見た、
桜並木の廃線跡!!
さあ、
ミニレポなんだけど、
ここからクライマックス!!
今日という旅の日の、エンディング曲が流れ始めた感じ。
思わず口ずさむ、お気に入りのあの曲。
大袈裟だと、言われてもいいから、言いたい。
(でも、ちょっと恥ずかしいからミニレポで)
何なんだ。 この夕日と、桜並木と、廃線跡の取り合わせ。
俺を泣かせたいのか。
ここで再び昔の絵葉書。
これまた発行者・撮影年とも不明だが、「二見名所 汐合川の風景」とあり、
五十鈴川の上流側から神都線の鉄橋を撮影している(その奥に木橋の橋脚も見える)。
ポイントは、右側の陸地。
すなわち、いま私がいる半島のような場所だが、
鉄道が敷かれていた当時、そこには桜など1本も生えていなかったのだ。
当たり前である。
鉄道には、桜さえ邪魔だったろう。
それが今は、こんな立派な桜並木に成長している。
手入れをしている人が居るに違いないのだが、なんで桜を植えたのだろう。
またまた私の勝手な想像だが、鉄道がいなくなって、橋も消え去って、
そんな寂しい空き地に、再び人の通いを取り戻すためには、
桜の名所にすれば年に一度だけは賑わうと、誰かが思ったのかな〜。なんてな。
釣り人も、船遊びの風流人も今はもういないが、
来れるなら、桜の季節にまた来てみたい。
そして、至福の廃線探索にも、敢えなく終点の時。
17:04 《現在地》
築100年を超える橋台だが、今も石組みに隙間なく、凛と水面に立つ。
100年の間には、昭和19年の東南海地震と津波や、28年の台風13号、そして34年の伊勢湾台風など、多くの危機があった。
特に、路線全体で伊勢湾台風の被害復旧に莫大な費用を要したことが、神都線の命運を断ったともいわれる。(昭和36年廃止)
今は支える橋桁も支えてくれる人も共に無いが、なおも凛と立ち、河中孤立の同胞(橋脚)を見守り続けている。
鉄の橋桁と電車を支えた橋台と較べ、その隣にある木橋の橋台は、付け入る隙もありそうな長閑な表情を見せてくれる。
いつの間にか橋桁ではなく、コンクリートの建物を支えるようになってしまった後世をどう考えているかは知らないが、素朴な外観がいじらしく、2つの橋台で“夫婦橋台”とでも名付けたくなる好対照だった。
うん、満喫した!
こうして、くれなずむ夕日を舞台装置とした静かな川面の歴史散策は、
ひとまずの幕を降ろしたのであった。
最後に、紅顔と染まった私の横顔を想像しなくてイイヨ。キモくないよ!
おわり