ミニレポ第218回 静岡県道77号川根寸又峡線旧道 奥泉地区

所在地 静岡県川根本町
探索日 2015.3.10
公開日 2016.5.02

大井川沿いの距離も命も短かった旧道


【周辺図(マピオン)】

今回紹介するのは、静岡県川根本町の奥泉地区にある、静岡県道77号川根寸又峡線の短い旧道である。

左図の通り、現在の県道は、奥泉集落の南にある大井川の小さな蛇行を、渡谷橋と川根路橋という2本の橋で串刺しにする形で、ほぼ直線的に通過している。
だが、このような線形があるとき、橋を介さない川沿いの旧道を想定するのは、もはやトンネルの脇に旧道を探すことと同じくらい、オブローダーにとって自然な行為である。
そして事実、ここには旧道が存在した。

実際にこの旧道を探索したのは2015年のことだが、2010年に初めてこの地区での探索を行った当初から、ここに旧道がある事は知っていた。
左図に旧「大井川林道」と表記した道を、「静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区」の表題でレポートしているが、そこでもこの旧道の存在に触れている。

わずか600mほどの短い旧道なのだが、存在を把握しつつも探索までに時間を要した理由は、そこが短い割には“大変そう”だったということと、基本的には現道から見通せる程度の規模なので、優先順位があまり高くなかったのである。
だが、比較的短時間で探索出来るこうした小さな旧道は、大きな探索が終わった後の日が暮れるまでの空き時間を無駄にしないという目的にはちょうど良かったので、今回遂に探索する事になったのだ。いわゆる、スキマ時間の探索である。

探索レポートの前に、この川沿いの短い旧道が現役だった期間について、これまでに入手した情報を総合して考察しよう。



まず旧版地形図を見較べてみると、昭和42(1967)年版では車道としてこの川沿いの道が描かれている。

現在の県道を構成する渡谷橋と川根路橋のうち、昭和36(1961)年に大井川林道の一部として開通した渡谷橋はこの当時すでに架かっていたが、川根路橋は昭和48(1973)年に初めて架設されたので、その時に川沿いの道が旧道化したものと思われる。

なお、この昭和42年版地形図にも描かれているとおり、川根路橋には先代と呼ぶべき奥泉橋なる橋があった。
これは昭和37(1962)年に開通したという記録があるが、現在も片岸に残る吊橋の主塔跡や、昭和45(1970)年撮影空中写真に写る非常に華奢な姿を見る限り、自動車を通せるような規模では無かったと思う。(「橋梁史年表」にある「奥泉橋」の緒元(幅7mなど)は、現在の川根路橋のものとみられる)
ゆえに、この奥泉橋の開通をもって、直ちに川沿いルートが旧道化したとは考えていない。

対して昭和27(1952)年版地形図を見ると、この頃は自動車の通れるような道はまだ、大井川の上中流を隔てる山峡の地である奥泉まで届いておらず、昔ながらの里道が描かれているばかりだ。その里道も今回探索する旧道とは別の場所、概ねは対岸を通っていたようである。

それでは、今回探索の旧道はいつ開通したのかという問の答えだが、これは昭和37(1962)年か、それより数年遡った頃と思われる。
以前にこのレポートで紹介した通り、昭和37(1962)年に林道大間線が寸又峡温泉まで開通し、それまで徒歩か森林鉄道でしか訪れる事が出来なかった同地に自動車が入るようになったという記録がある。
そして、昭和46(1971)年に林道大間線は県道223号千頭停車場寸又峡線に認定され、これが平成5年に主要地方道に昇格して現在に至っている。(余談だが、このときに欠番となった静岡県道223号は、2013年に「(2)ふ(2)じ(3)さん」の語呂合わせから、全く別の“海上県道”として甦る事になる)

以上を総合すると、今回紹介の旧道は、昭和37年頃に林道として開通し、昭和46年に県道昇格するも、昭和48年の川根路橋開通に伴って旧道化したというような経歴が予想されかなり短命だったことが伺えるのである。
(なお、本編の表題は「静岡県道77号川根寸又峡線旧道」としたが、上記経歴から見れば、本来は「静岡県道223号千頭停車場寸又峡線旧道」というのが正しい。)


それでは、探索の模様をどうぞ!





2015/3/10 16:21 

奥泉駅の駅前駐車場から自転車で出発した私は、旧道の南口である渡谷橋へと向かって、県道77号を南下する。

現在地は川根路(かわねじ)橋の橋上で、ここから下流方向の川縁を眺めると、これから探索しようとしている旧道を一望する事が出来るのだ。
これまで何度かここを通りかかり、その度に目についてはいたのだけれど、探索するのは今回が初めてだ。
正直ここの探索は、徒労の畏れが先に立ち、踏み込むことには少しだけハードルが高かった。




だって


こんなんなってるんだもの!!

「これは酷い」と、見るたびに思っていた、この旧道の壊れっぷり。

川原が広々としているので、崩壊地を迂回しながら歩く事は、それほど難しくないとは思うけれど、

それでも面倒な上り下りを余儀なくされるのは明白で、中々手が出なかったのだよ。



川根路橋に続いてすぐに現れた、渡谷(とや)橋。
こちらは上下線を別々のトラス橋が受け持つという変則的な構成が目を引く存在だ。

このようになった理由は、過去のレポートでも述べているが、今回の旧道と無関係ではない。
すなわち、昭和36(1961)年に初めて架設された当初の渡谷橋は、大井川林道という一林道の橋に過ぎなかったが、昭和48(1973)年に先ほどの川根路橋が開通したことで、渡谷橋と川根路橋を経由するルートが新たな県道となり、そのために交通量が激増したことを受けて、渡谷橋にも川根路橋と同じ2車線の容量を持たせるべく、昭和57(1982)年にトラス橋を増設したのである。

ちなみに向かって左の橋が新しいトラスで、右が古いトラスだ。



こちらの橋の上からも旧道を眺められるが、その有り様は相変わらずのやんちゃっぷりで、全長600mほどの一連の旧道のうち、2本の橋上から眺められる400mほどは、大半が崩壊地に呑み込まれているように見える。

現地は蛇行する大井川の流れの衝にあたる位置で、工事前からこういうろくでもない未来が予想できそうな地形なのだが、どうして強行したものか。
そもそも、この旧道が開通するより20〜30年も古い昭和10(1935)年に、同じ川縁に建設された大井川鉄道井川線(開通当初は中部電力専用軌道)が、当初から長いトンネルだけでここを越える事を選択した理由を考えなかったのだろうか。
(既に鉄道のトンネルがあったから、道路は同じ位置にトンネルを掘れなかったとも考えられるが…)




16:24 《現在地》

渡谷橋を渡って、すぐさまUターン。
ここが旧道の南口にあたる、渡谷橋の南岸橋頭だ。

ここから左奥へ川沿いに入る道があるが、それが目指す旧道である。
とくに入口は封鎖はされておらず、先の道路状況についての警告ももない。
また旧道左側に見える坑門は、大井川鉄道の第10号隧道(坑門に「10」のプレートあり)だ。


旧道の入口には、河に向かって一体のお地蔵さまが安置されている。

過去何度もここを訪れているが、いつも献花が絶えない。
それに、周りを囲む石祠の笠石は古そうだが、壁はごく新しいコンクリートブロックである。
元の祠は土砂崩れに巻き込まれでもしたのだろうか。
地蔵自体もだいぶ綺麗で、もしかしたら新たに造立されたものなのかも知れない。

このお地蔵さまが熱心に祀られている経緯は不明で、鉄道、道路、旧道、河川の何れと関係があるのか全く分からないが、危険地帯を思わせる意味深なオブジェである。




どうせ自転車に乗ったまま最後までいけるとは思えないので、入口に乗り捨てて、徒歩で侵入を開始!

まだ最序盤だが、既に路面には大小の落石が落ち葉と共に散乱していて、かつてあったはずの轍は全く見えなくなっている。
ちなみに、未舗装である。
だが、案外に道幅は広く取られていて、車のすれ違いが十分可能な程度はある。
また、路肩にはガードレールの支柱だけが点々と並んでいて、本体は廃道化の際に回収されたものとみられる。

振り返ると、自然界にあってはちょっとばかりショッキング過ぎる色をした渡谷橋が、だいぶ遠くになっていた。



16:26 《現在地》

こいつは、ちょっとした事件だぜ!

一度は間違いなく地中に消えていったはずの井川線の線路が、その横っ腹を再び現しやがった!

これは横坑とか、そんな生易しいもんじゃない。
第10号隧道の途中部分が、おおよそ30m程度、地表に現れていたのである。
一般的な構造物の分類に従えば、ここはロックシェッドというべきものなのだが、地形図ではここも隧道として一緒くたに描かれている。

思うに、昭和10(1935)年の鉄道開業当時は、ここも全部地中にあったのだろう。
それが後から川沿いに道路が建設された際、元より浅かった隧道の一部が地表に露出してしまったのだと考えられる。そして危険防止の為、ロックシェッドでガードしたのだろう。



鉄道を再び地中へ見送ると、そこからは一気に荒れ方が増してきた。

今はまだ土砂崩れがあるだけで、路肩は変わらずそこにあるから、引き続き路盤を歩いて行くことが出来るが、それも風前の灯火だろう。
最初に現道の橋の上から見ているので分かるのだが、この先の“核心部”には、路盤が完全に流出してしまっている場所が何カ所も見えていたから。

そして、

道路標識ハケーン!!




倒れず残っていた標識は、「落石注意」。

見馴れたものではあるが、この1本の道路標識の存在は、旧道の素性を考える上で、結構重要な情報を提示している。
特にポイントになるのは、支柱に薄らと残る「静岡県」という文字の存在だ。
これは、標識が県道上に存在していたことを示唆する。

冒頭で述べたとおり、千頭から奥泉を経て寸又峡へと至る道路が、初めて県道に昇格したのは昭和46(1971)年である。
その経路上にある奥泉橋が、昭和37(1962)年に開通している記録があることから、県道は当初からそちらに認定され、同橋を通らないこの川沿いの道が県道であった時期は存在しないという可能性もあったのだが、ここに県道であった証しと言うべき道路標識を発見したことで、その疑問は解消した。



ほ〜ら、始まったぞ〜。

道路が完全に採石場の砂利置き場みたいになっちまってる。

安息角のユルサが、そのままこの斜面の崩れやすさを物語っているようだ。


嗚呼アァーー……

これはもう、正面突破を断念するベストタイミングですわ…。
都合良く、川原に下りるための天然スロープが出来上がってやがる。

普通なら、道というのは崩れるほどに踏破が難しくなるものだが、
ここでは落石の量が多すぎたがために、路肩にあった高い擁壁の落差が全て、
崩土の造る崖錐斜面に取り込まれ、そのために川原へ簡単に迂回できる。

……これは、ラッキー!


河原の高さまで下りて振り返ると、渡谷橋を映えさせるベスト・ショットが頂けた。
しかも、この地域では比較的珍しい、薄らと山が雪を被った状況での撮影は、絵になる。
現在地は南口から250mほど進んでいて、川の蛇行の折り返し地点に近付いている。残り約350m。



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意地を張らず、一足早く川原へ下りてきて正解でした(笑)。
擁壁の下の川原を歩いていくと、下降地点からほんの20mほど進んだ所で、
ご覧の有り様だよ!

入口附近ではガードレールが回収されていたが、この辺りはそれもされていない。完全放置である。
この切り立った岩盤の中を、大井線の第10号隧道が貫いているわけだが、大丈夫なんだろうか?
崩落により徐々に土被りが浅くなっているはずだから、新たな崩落や偏圧のために隧道が潰れないか心配である。




(↑スクロールバーを動かして360度パノラマ画像をご覧下さい!)

素直に川の蛇行に付き合ったばっかりに、ろくな目にあわない旧道の憐れさよ。

沢山の石垣で頑張って造ったのは伝わってくるのだが、自然の猛威の前で為す術なく壊滅。



16:33 《現在地》

玉石練り積みの石垣が、胴巻きのように川縁の急崖を取り巻いているが、そのうえにあるべき路面は、完全に崩土の山に覆われているか、石垣ごと崩れ落ちているかで、お話にならない。
このようにして、手の付けようのない崩壊地が、だいたい200mくらい続いているのである。
広い川原のお陰で迂回が容易なのは救いだが、大井川の上流に今みたいに多くのダムが建設されていない昔は、水量も遙かに多く、こんな悠長な川原歩きなど考えられなかったことだろう。




川原歩きで上流へ進んでいくと、川砂利回収用の作業道路としてでも使われたものか、川原から自然な感じで登っていくスロープがあった。

一見すると、この道が旧県道のような感じにも見えるのだが、実際はそうではなく、あくまでも本来の道は、左手の擁壁の上にあったのである。

そして、スロープを上りきると、その本来の道との合流地点となるのだが、合流して来たのはそれだけではなく…。



線路も出て来た!

16:35 《現在地》

ピンク色は、私が辿った迂回ルート。
黄色が、本来の旧県道ルート(破線は迂回区間)である。
そして、右にあるのは井川線の第10号隧道の北口だ。

どう考えてもここはトンネルだけが「生き残る道」だったんだろうなぁ…。
それが出来ないなら、現県道のように、対岸へ逃げる以外に手はなかったはずなのに…。
井川線に乗ったことのある人は大勢いると思うけど、それがどんなに工夫された存在であるのか。
こうして無惨な敗北者の姿と見較べる事で、よりそのことが鮮明になった気がする。




嵐が去った後の平和な朝。

そんな感想がぽつりと洩れる、平穏無事のほのぼのロードだ。
路面状況もいやに整っており、井川線の保線に関わる車の出入りがありそうだ。

ここから100mほどの区間は、旧道と線路が同一平面上に綺麗に並んでいて、両者を隔てるものは疎らに並べられた鉄柱だけである。
しかも、線路上にJRのような沢山のバラストは敷かれていないため、本当に線路面と路面とが同じ高さにあり、もし鉄柱さえなかったら、ここは昔ながらの併用軌道と区別が付かないことだろう。
なんとも井川線らしい、等身大を感じさせる鉄道風景だった。
(厳然と隔てられたトンネルの直後だけに、この近しさが余計印象的だ)




続いて1台の廃車と一緒に現れたのは、踏切だった。
どこかで線路を渡る必要があるはずだとは思っていたが、踏切が残っていて嬉しい。

もっとも、奥泉集落側の遮断機が常時下りた状態で固定されており、警報器なども存在しない。
一応、道路と線路が平面交差する地点には渡り板が敷かれているが、保線車両専用の踏切施設というべきだろう。
警報器が存在しないので、目視で良く左右を確認してから、横断する。




いいでしょ〜? いいよねここ。
とても、お客さんを乗せる列車が走ってる気がしない(笑)。
これで軌間762mmだったら、まさに林鉄の風景なんだよなぁ。
トンネルとかの建築限界は、森林鉄道1級と同レベルだし…。



同じ踏切地点から眺める、進行方向の風景が、また素晴らしい!

撮り鉄をする人ならば、きっと目ざとく見つけて活用しているのかもだけど、
ここには、今よりももっと鉄道と日常が隣接していた、雑な時代の雰囲気がある。
現代人に鉄道ファンがこうも多いのって、多くの現代人が最も情緒豊かに過ごした時代の鉄道風景が、
親しみを感じさせるものだったからじゃないかって思う。現代の鉄道は、少し理路整然とし過ぎてる気がしたり。


味わいの閉鎖踏切を渡れば、奥泉集落内の現道合流点までは、緩やかな登り坂を一息である。
右奥で線路を跨いでいる赤いものは、現道の川根路橋だ。

それはそうと、前説で見たように、この一連の旧道は、線路よりも開設された時期が新しいと思われる。(にもかかわらず線路より先に役目を終えたのである)
これは結構珍しいことで、今日廃道になっているような道路の多くは、並走する線路よりも古いのが普通だ。
というか、ここにあったのが国鉄の所有する普通の鉄道であったら、物理的にその安全性を脅かしかねないような位置に、新たな道路を敷設するということは許されなかった気がする。
少ない土地を分け合う精神で、鉄道の監理者が柔軟な対応を行ったものと推測する。




16:40 《現在地》

はい、これで奥泉集落の現道合流地点に到達!
スタート地点から一周をして参りました。

一周約1kmの行程(うち旧道600m)は、現道区間で自転車を使っているが、スタートからわずか20分という、まさにコンパクトなスキマ時間に相応しい探索になった。
この後、目の前の奥泉駅に停めていた自動車を動かし、自転車を回収する一手間はあったが、それを含めても30分以内のミニ探索だ。

でも、風景は中々に多彩で楽しめたし、短命には短命の理由がある事もよく分かった。
また何より、見えているのにスルーしていた旧道を、しっかりやっつけたことがスッキリいたしました。



完結。



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