このレポートの元となった探索は、時系列で言うと「廃線レポ46千頭森林鉄道(沢間〜大間)最終回」の直後に行われた。
よって、先に前記レポをご覧頂いた方が、展開が分かり易いと思う(だから、自転車での探索だ)。
それはそうと、実はこの探索、当初の計画には無かった。
しかし、周辺の地形を直に感じているうちに妙に気になり出し、急遽“寄り道”した内容である。
→【周辺図(マピオン)】
それでは恒例通り、次に現在の地形図を見て貰おう。
今回のターゲットは図に赤く示した部分で、県道77号「川根寸又峡線」の朝日トンネルに対応する旧道である。
距離はちょうど1kmくらいであろうか。
元の地形図には全くこの部分の道は描かれていないものの、法面と路肩がそれぞれ「崖(岩)」と「崖(土)」の記号として残っているため、「消したんだな」と明らかに分かる状態になっている。
消した=廃道 と見て、ほぼ間違いないだろう。
こんなに分かり易いのに当初の計画に入ってなかった理由は、朝日トンネルの線形(長さ)を見る限り、まだ新しい廃道だと思ったので、熟成が足りないと予測していたためだ。
続いて、前のレポ(廃線レポね)で書いたことと一部重なるが、県道77号の歴史について『寸又峡開湯三十周年記念誌』(以下『開湯記念誌』)を参考に、まとめてみたい。
現在の県道77号のベースとなったのは、東京営林局が昭和37年に建設・開通させた「林道大間線」である。
「(この道の開通によって)千頭より初めて寸又への自動車の乗り入れがあり、寸又峡にとっては文明開化の年でありました」(『開湯記念誌』)
との記述からも、それが果した意義の大きさが分かる。
昭和38年からは、この林道に19人乗りのバスが寸又峡温泉まで運行された。
なお、大間林道が開通した昭和37年は、寸又峡温泉開湯の年でもある。
この年に湯元より大間集落まで3796mの引湯管が敷設されたことで、それまで山間の一集落に過ぎなかった大間が“秘湯”の温泉場として、南アルプス観光拠点への第一歩を踏み出したのである。(なお、大間川上流の湯元集落は現在廃村)
昭和37年の地形図には、前の版まではなかった大間への
車道が描かれている。これが大間林道だ。
昭和43年、寸又峡温泉の一帯が奥大井県立自然公園に指定されて観光の整備に拍車がかかる一方、同年4月に千頭森林鉄道が全線廃止される。昭和44〜45年には林鉄廃線跡を改築した寸又右岸林道が開通し、千頭〜大間間の第二のルートとなる。(昭和43年2月、全国の茶の間に寸又峡温泉を一躍有名にした「金嬉老事件」が発生した)
昭和46年、林道大間線が県道「千頭停車場寸又峡線」に昇格した。
平成3年、「県道の冠水区間であった粟代橋、大間橋間に朝日トンネルが完成」(『開湯記念誌』)
。
平成5年、県道千頭停車場寸又峡線および県道川根本川根線が一本化され、新たに主要地方道「川根寸又峡線」に指定される。
以上が概要であるが、『開湯記念誌』には朝日トンネルの開通が平成3年の出来事であったことが書かれていた。
それにしても、「冠水区間」というのは、いったいどんな旧道なのだろう。
よほど水面に近い所を通っていたのだろうか?
その辺に注目しつつこれからの本編をご覧頂きたいが、今回「第1回」に限っては、“ある別の道”が主役である。
それでは、「寸又峡橋」附近よりレポートをスタート!
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