今回採り上げるのはタイトルの通り、静岡県道388号接岨峡(せっそきょう)線の旧道にあたる道である。
右図に赤く示したラインが、それである。
地図上では、この旧道にこれといった不自然さは見あたらないと思うが、冒頭で「県道の旧道」と言い切らず、「旧道にあたる」という遠巻きな表現をしたのには訳がある。
もう一度地図を見て貰いたい。
この場所は、川根本町の中心地である千頭地区から5km半ほど北に入った奥泉地区で、寸又峡へ向かう県道77号川根寸又峡線と、接岨峡へ向かう県道388号接岨峡線が二岐に分かれている。
寸又峡へ向かう道と、接岨峡へ向かう道が、混在している場所。
この2系統の道が、それぞれのペースで新道を建設してきた結果、「旧道にあたる道」は、少しだけ複雑な変遷を遂げているのだ。
その過程で、名前も何度も変わってきた。
本編に入る前に、一帯のルートの変遷を地図上で見てみよう。
鍵になるのは、大きな文字で示した“3本の橋”たち。
渡谷(とや)橋、川根路(かわねじ)橋、泉大橋である。
※右のように枠が赤い画像は、カーソルオンで表示が変わります。もし変わらない方は、こちらから【表示】して下さい。
昭和27年と42年の地形図を比較してみる。
なお、右下の円部は奥泉地区の拡大図である。
上の2枚の地形図から分ることは、昭和27年当時、接岨峡へ通じる道と寸又峡へ通じる道は、奥泉集落内で分岐して“いなかった”ということだ。そして、この当時はまだ、自動車が通れる道が奥泉まで到達していなかったことも読み取れる。
対して昭和42年版になると、渡谷橋を通って大井川の左岸伝いに接岨峡を目指す車道が開通している。
だがこの道は県道接岨峡線ではなく、森林開発公団が建設した「大井川林道」という林道だった。
『森林開発公団十年史』によると、大井川林道は昭和35年から40年の間に建設され、全長は14.4km。
その一部として渡谷橋が完成したのは昭和36年だった。
一方の奥泉集落を通って寸又峡へ通じる道も車道に変わっているが、こちらもほぼ同じ時期に東京営林局が建設した林道である(『本川根町誌』による)。
おおよそ15年の間に相次いで林道が開通し、一帯の交通事情は一変したことが理解される。
(本編とは関係しないが、大井川鉄道も中部電力の専用線から旅客も扱う井川線に生まれ変わっている)
今度は現在の道路地図と比較する。
一番目をひくのは、長島ダム(接岨湖)が出現していることかも知れないが、ここではそれは置いておく。
注目して欲しいのは、新たに出現した川根路橋と泉大橋であり、これらの完成が、それぞれ緑と赤で示した2つの“旧道”を生んだのである。
だが、この2本の橋は同時に出来たわけではなく、だいぶタイムラグがあった。
まず川根路橋の竣工は渡谷橋開通の翌年である昭和37年だが(なぜか昭和42年地形図には描かれていない。また、このとき開通したのは現在の橋[昭和58年竣工]とほぼ同位置にあった旧橋の「奥泉橋」だった)、川根路橋が開通した事で、従来は接岨峡方面専用の橋であった渡谷橋が、より量の多い寸又峡方面への交通も受け持つことになった。
このことは渡谷橋にとってイレギュラーであったらしく、それが“橋に及ぼした変化”は、本編の最初の見どころである。
昭和42年から48年の間に、川根路橋を渡って寸又峡へ向かっていた林道は、県道223号千頭寸又峡線へ昇格している。そして平成6年に主要地方道へと昇格し、県道77号川根寸又峡線になった。
最後に開通したのが泉大橋で、昭和58年の竣工である。
そしてこの同じ年に、県道388号接岨峡線が新しく指定された。
泉大橋の開通によって、従来の大井川林道のうち赤く示した区間は必要性が薄れ、廃道同然となった。
以上の経緯を踏まえると、今回紹介する廃道が県道であった事実はなく、「旧県道」とは呼びがたいことがお分かりいただけるだろう。
タイトルでは分かり易いように妥協したが…、厳密には“大井川林道の廃道化区間”というべきなのである。