静岡県道388号接岨峡線旧道 東藤川地区 第1回

公開日 2011.7.14
探索日 2010.4.19
所在地 静岡県榛原郡川根本町

【周辺地図(マピオン)】

今回採り上げるのはタイトルの通り、静岡県道388号接岨峡(せっそきょう)線の旧道にあたる道である。
右図に赤く示したラインが、それである。

地図上では、この旧道にこれといった不自然さは見あたらないと思うが、冒頭で「県道の旧道」と言い切らず、「旧道にあたる」という遠巻きな表現をしたのには訳がある。

もう一度地図を見て貰いたい。
この場所は、川根本町の中心地である千頭地区から5km半ほど北に入った奥泉地区で、寸又峡へ向かう県道77号川根寸又峡線と、接岨峡へ向かう県道388号接岨峡線が二岐に分かれている。

寸又峡へ向かう道と、接岨峡へ向かう道が、混在している場所。
この2系統の道が、それぞれのペースで新道を建設してきた結果、「旧道にあたる道」は、少しだけ複雑な変遷を遂げているのだ。
その過程で、名前も何度も変わってきた。

本編に入る前に、一帯のルートの変遷を地図上で見てみよう。
鍵になるのは、大きな文字で示した“3本の橋”たち。
渡谷(とや)橋、川根路(かわねじ)橋、泉大橋である。






※右のように枠が赤い画像は、カーソルオンで表示が変わります。もし変わらない方は、こちらから【表示】して下さい。


昭和27年と42年の地形図を比較してみる。
なお、右下の円部は奥泉地区の拡大図である。



上の2枚の地形図から分ることは、昭和27年当時、接岨峡へ通じる道と寸又峡へ通じる道は、奥泉集落内で分岐して“いなかった”ということだ。そして、この当時はまだ、自動車が通れる道が奥泉まで到達していなかったことも読み取れる。

対して昭和42年版になると、渡谷橋を通って大井川の左岸伝いに接岨峡を目指す車道が開通している。
だがこの道は県道接岨峡線ではなく、森林開発公団が建設した「大井川林道」という林道だった。
『森林開発公団十年史』によると、大井川林道は昭和35年から40年の間に建設され、全長は14.4km。
その一部として渡谷橋が完成したのは昭和36年だった。
一方の奥泉集落を通って寸又峡へ通じる道も車道に変わっているが、こちらもほぼ同じ時期に東京営林局が建設した林道である(『本川根町誌』による)

おおよそ15年の間に相次いで林道が開通し、一帯の交通事情は一変したことが理解される。
(本編とは関係しないが、大井川鉄道も中部電力の専用線から旅客も扱う井川線に生まれ変わっている)


今度は現在の道路地図と比較する。
一番目をひくのは、長島ダム(接岨湖)が出現していることかも知れないが、ここではそれは置いておく。

注目して欲しいのは、新たに出現した川根路橋泉大橋であり、これらの完成が、それぞれ緑と赤で示した2つの“旧道”を生んだのである。

だが、この2本の橋は同時に出来たわけではなく、だいぶタイムラグがあった。
まず川根路橋の竣工は渡谷橋開通の翌年である昭和37年だが(なぜか昭和42年地形図には描かれていない。また、このとき開通したのは現在の橋[昭和58年竣工]とほぼ同位置にあった旧橋の「奥泉橋」だった)川根路橋が開通した事で、従来は接岨峡方面専用の橋であった渡谷橋が、より量の多い寸又峡方面への交通も受け持つことになった。
このことは渡谷橋にとってイレギュラーであったらしく、それが“橋に及ぼした変化”は、本編の最初の見どころである。

昭和42年から48年の間に、川根路橋を渡って寸又峡へ向かっていた林道は、県道223号千頭寸又峡線へ昇格している。そして平成6年に主要地方道へと昇格し、県道77号川根寸又峡線になった。

最後に開通したのが泉大橋で、昭和58年の竣工である。
そしてこの同じ年に、県道388号接岨峡線が新しく指定された。
泉大橋の開通によって、従来の大井川林道のうち赤く示した区間は必要性が薄れ、廃道同然となった。

以上の経緯を踏まえると、今回紹介する廃道が県道であった事実はなく、「旧県道」とは呼びがたいことがお分かりいただけるだろう。
タイトルでは分かり易いように妥協したが…、厳密には“大井川林道の廃道化区間”というべきなのである。




歴史を秘めた赤いヤツ。 渡谷橋



2010/4/19 17:10 《現在地》

今回紹介する旧道と現道の分岐地点はここではないのだが、旧道との関連性という意味では、まずここから紹介する必要がある。
大井川を渡る渡谷橋である。

ちなみに、この風景に見覚えのある人もいるだろう。
ここは、というかこの写真は、以前「大井川鉄道第九号隧道」をレポートした際にも、“最初の1枚”として使っている。

左に見えているのは、大井川鉄道の第十号隧道である。
そして、渡谷橋と第十号隧道の間のスペースから左に分かれていくのが、今回は探索していない旧道。
先ほどの解説にも「緑のライン」として出て来た、寸又峡へ向かう方の道の旧道である。




これが、渡谷橋の袂で分かれる旧道の入口。

ここは資材置き場になっていて砂利が敷かれているので、何となく奥へ簡単に行けそうだが、この旧道がただ者でないことは、もう少し後で紹介する。
いずれは、意を決して探索してみたいと思っているが…。

 ↑ 2015年に探索しました!→【レポ】

ともかく、この旧道は昭和36年にまず渡谷橋が開通し、翌37年にその先の奥泉橋(先代の川根路橋)が開通するまで、現役だったはずである。




あらためて、渡谷橋を紹介する。

この橋が印象深いのは、1車線分のトラス橋が2本並んで架かっているという珍しさにある。

上下線を2本の橋が分担しているまでは、それなりに見る風景だが、両方ともトラス橋というのは、山中にあって相当に珍しい。

ややもすればドギツイ感のあるビビッドな赤色塗装の二重橋も、負けないくらい活き活きした自然美の中にあっては、その鮮烈な印象に一役買っている。

そしてこれが単に美しいだけではなく、道路ファンにとって大いに興味深いのは、2本並んで架かっている橋の来歴について、色々想像する楽しみがあるからである。




しかもこのトラス橋、2本揃って珍しい曲弦プラットトラスなのである。

曲弦トラスとは、このようにトラスの上部の梁(上弦材)が曲線(実際には少しずつカーブした直線)で出来ているもので、平行弦トラスよりも長い径間を得やすいが、歴史的には戦前の鉄道橋など、古い時代のトラス橋によく見られる形式である。

本橋は昭和36年とそこまで古くはないが、大井川の渓谷は水量が多く橋脚を立てることが困難であるため、1スパンで渡河出来る曲弦トラスを採用したものであろう。




なお、これまで敢えて触れないでいたが、この上下線2本の曲弦プラットトラス橋には新旧がある。

現在下り線(北行き)に用いられている橋が旧で、上り線が新である。
長さも10mくらい新の方が長いし、道幅も橋の架かっている位置の高さも、微妙に新の方がグレードが高い。
しかし、それでも敢えて同じ曲弦プラットトラス形式になっているのは、新を架設するときに景観へ配慮したのだろう。

なにせ、新の方は昭和57年の架設と、もはや“曲プラ”にお呼びがかかる時代ではない(と思う)のだ。

前説に書いた、川根路橋(奥泉橋)の開通が本橋に及ぼした“大きな変化”というのは、想定外の交通量の増大によって、珍しいトラスの二重橋になったことを指していた。
こういう事態がもし想定出来たならば、当初から2車線のトラス橋にしたことだろう。
(なお、新橋に取り付けられた建造銘板によると、発注者は静岡県になっており、県道の改良工事として架設された可能性が高い)



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橋を渡って、反対側の袂へやってきた。

こちらから見た時の方が、新旧橋の違いが分りやすい。
親と子ほども、大きさが違う。
だが、どちらも親柱にある橋名は「渡谷橋」であり、あくまで2橋で1つの顔をしている。




突然雨が降り出した…のではなく、翌日に追加で撮影した写真である。

個人的な好みは、2つ並んだ橋の屋根のカーブがシンクロしている様子。

とても、美しいと思う。




この橋の最後に、旧橋の由来を象徴するようなパーツを2つ、見て貰おう。

右の写真は、旧橋の親柱のひとつで、堂々たる「東京営林局」のプレートがはめ込まれている。(新橋にはない)
この道が林道として生を受けた何よりの証明である。

それにしても、この橋の銘板は随分と自己主張をしている。
わざわざ赤と白の塗装を施してあるのである。
東京から遙か300kmも離れた山里で見る、東京の文字。
それがいやに誇らしげに見えたのは、私が田舎育ちだからだろうか。




そして、旧橋のトラスに取り付けられた建造名板のアップ。

塗り重ねられた塗装のために字影が薄くなっているが、2行目に大きな文字で「森林開発公団建造」とある。
前説で延べたとおり、本橋が林道は林道でも、森林開発公団が建設した「大井川関連林道」であることを記録している。

なお、森林開発公団による関連林道事業は昭和34年から42年に行われ、大井川関連林道を含む51路線が全国に建設された。
完成した林道は全て、その地域を管轄する営林局に即時引き渡されたので、銘板の文字と矛盾はない。

『森林開発公団十年史』には、大井川関連林道の説明文中に「昭和35年度には起点付近大井川渡河のため下路式プラットトラス支間70mの橋体を購入し翌36年度架設」という記述がある。





林道に生まれ、県道として栄えた記憶を、その双つの躯に残す渡谷橋を後に、

次回は、いよいよ旧道区間へ…。