今回紹介するのは、北茨城市平潟(ひらかた)の集落にある隧道だ。
ごく小さな隧道であるせいか、地理院地図や2万5千分の1地形図にも記載されていないが、右図のスーパーマップルデジタルのような大縮尺の道路地図には控えめに描かれている。
隧道がある平潟は、太平洋に面した小さな入り江にある平潟港を中心に発展した港湾集落だ。名物は、あんこう鍋。
集落の北外れに福島県との県境があり、いわき市勿来(なこそ)地区に接している。勿来関として歌枕になっているこの地名を聞いたことがあるかも知れない。平潟と勿来は、たいへん古くから関東地方と東北地方の重要かつ主要な交渉の場であった。
そして、このような歴史深い境界地の多分に漏れず、ここも起伏に富んだ地形をもっている。
この写真は、平潟漁港前を通る旧国道の風景だ。北を向いて撮影している。
昭和30年代に集落外の山側をショートカットする平潟隧道が出来るまで、国道6号(陸前浜街道)がここを通っていた。旧国道になってから時間が経っていることと、平潟集落のメインストリートとして綺麗に整備されているために、あまり旧国道らしい雰囲気は残っていないが、海岸沿いの平地が狭く、集落のすぐ背後まで取り囲むように山が迫っている地形が見て取れると思う。それがたいして高い山ではないために、トンネルを掘って往来するのに適していた。
このような地形条件に立脚しているのが、今回の本井隧道である。
2016/4/18 16:48 《現在地》
ここは平潟港と国道6号を結ぶ茨城県道259号平潟港線の途中である。全長わずか700mほどの県道は、全線が国道から港への緩やかな下り坂になっている。写真は港側から撮影した。
旧国道でもあるこの県道から、本井隧道への道が分かれている。
奥の“矢印”の位置から入るのだが、なぜか入口の写真を撮影し忘れていたので――
文明の利器、googleストビューのお世話になります。
狭いことが唯一の特徴といえるくらいの目立たない脇道だ。
間違っても通りすがりの部外者が入ろうと思うような道ではない。
さしものストビューもこの先は網羅していない。
それでは、いつもの自転車で入ってみる。
入ってすぐ、真っ正面に小高い丘が現れた。
なんのひねりもないが、あそこが隧道の在処である。
既にその坑口が小さく見えてもいる。
県道から隧道までは約130mで、途中に脇道があるが、だいたいまっすぐ進めば辿り着ける。
隧道の姿がはっきりとしてきた。
遠いから小さく見えただけではなく、実際にかなり小さい断面だった。
道も狭いのだが、輪をかけて小さな断面だ。坑口前に建つ民家の1階屋根くらいの高さしかない。
だが、入口からここまで、そして坑口前にも、自動車の通行を制限するようなものはなかった。
16:50 《現在地》
なんだこれ?!
隧道そのものは、少し礼を失する表現になってしまうが、一瞥で全貌を知り得る程度のものであった。
ようは、小規模なうえに、特別変わった姿でもないということだ。
だが、その坑口前に立つ1本の道路標識が私の注目を誘った。
見ての通り、「高さ制限」の標識で、最大高2.5mとある。
「5」の数字に修正痕があるのが珍しいといえば珍しいが、問題はこれでもない。この本標識の下に取り付けられた補助標識の内容が問題だ。
「ワゴン車通行可」
補助標識に本標識の規制の対象になる車両の種類が表示されるのはよく見るが、そこで使われる車両の種類として、「ワゴン車」という表現を初めて見た。赤字(オレンジ?)で強調されているのも初めてだ。
道路制度の解説本を執筆した者の端くれとして、すこしだけ真面目に検証をしてみたい。
政令「道路標識、区画線及び道路標示に関する命令」の「別表第2備考(六)車両の種類の略称」(この下の方にある)には、「規制標識に車両の種類を記載するときは、次の表の上欄に掲げる車両について、それぞれ同表の下欄に掲げる略称を用いることができる
」として、32種類ある“車両の種類”と“略称”の対応を挙げている。
32種類の略称は、「大型、大型等、中型、特定中型、普通、大特、自二輪、軽、小特、原付、二輪、小二輪、、自転車、トロリー、乗用、大乗、中乗、特定中乗、バス、大型バス、マイクロ、路線バス、普乗、タクシー、貨物、大貨、大貨等、中貨、特定中貨、普貨、けん引、標章車」というもので、一度も見た覚えのないものもあるが、当然「ワゴン車」は含まれていない。本来は「普通」に含まれるのだろう。
そもそも、高さ制限2.5mがあるのだから、わざわざ車体の形状の問題でしかない「ワゴン車」云々を表示する必要はなさそうだが、何かワゴン車のドライバーに特段の安心を与える必要性があったのだろうか。
16:50 《現在地》
遅ればせながら、これが本井隧道の西側坑口全景だ。
高さ幅とも目測2.5m程度しかない小断面トンネルで、この手のトンネルではよく見るコルゲートパイプによる上半断面巻き立てが行われている。
長さも短く、目測20m程度だが、照明がある。
コンクリート製の坑口も平凡なもので、上部に笠石的な凹凸が付いているのが唯一の意匠的部分か。
あとは、地図には書かれていなかった隧道名を知ることが出来たのは、「本井隧道」と刻まれた
扁額のおかげだ。
とはいえ、扁額というよりは表札と呼んだ方がしっくりきそうな、控えめな代物であった。
取り付け位置も扁額の定位置から脇に寄せられており、本来の扁額の位置には、この先にあるらしい旅館の看板が、でかでかと表示されていたのだった。
同じ旅館の看板は入口にも立っていた
「ワゴン車」を補助標識に掲げる高さ制限標識と、この堂々たる看板でのアピール。
なるほど、ここは公道ではなく私道なのかと合点した人もいるかもしれないが、なんと、これでもれっきとした北茨城市が管理する公道(市道)だ。
なぜそんなことが言えるかといえば、この隧道は「平成16年度道路施設現況調査」に記載されている。
同資料は市町村道、都道府県道、国道、高速自動車国道という、いわゆる「道路法の道路」に属するトンネル施設の一覧であり、私道のトンネルは記載されないはずである。
なお、記載内容は次の通り(抜粋)である。
名称:ホンイズイドウ 竣工:昭和48年 全長:24m 全幅:2.4m 有効高:2.7m
意外と新しい。
ただいま隧道通過中。
トンネル内は狭く、対向車を退避するスペースはトンネル前にもなかったと思うが、
それでも問題にならないくらいには、通行量が少ないのだろう。
向かうトンネル出口には、入口で最も主張していた存在が、視界の大半を遮っていた。
16:51 《現在地》
このトンネル東口に分岐があり、地図に記載されている道は向かって左だが、これがとても狭い。
正面の入りやすい道は、旅館の駐車場で終わっている。
トンネルはワゴン車も通れるが、この左の道は見るからに軽トラスペックである。普通乗用車では(見通しの悪さも含めて)勇気が要る。試してはいないが物理的に通れない可能性もある。
このトンネルが昭和48年生まれだとすると、旅館へのアクセスのために掘られたのだろうか。
であるならばこの状況は何も不自然ではないが、もし純粋に峠道を越えるためのトンネルだったのだとしたら、現状は主従が交代した状況といえる。
もっとも、どんな形でも活用され続けることがトンネルにとっては幸せだと思うが。
えっ!?
こっち側の高さ制限は、2.0mなんですか?
両側の坑口で高さ制限が違うとは……、これはいったいどうしたことだろう。
「ワゴン車」云々の補助標識もない。
これについて合理的な説明は可能だろうか。
そういえば、向こうの「2.5m」は「5」の部分だけシールで修正されていたが、こちらは先に剥がれてしまったのだろうか。
実際の事情が分からないが、部外者に変な邪推をされかねない状況になっている。
「高さ制限」という規制標識の設置者は、道路管理者に限られている。
ここが市道であれば、北茨城市が設置および管理をしているはずだ。両側の坑口で表示内容が異なるのはかなり不自然だが、別に誰が困るわけでもなさそうだ。
そもそも、こんな超ローカルなトンネルにも真面目に道路標識を設置したという仕事の丁寧さが、妙な突っ込みどころを生んでしまったのだから、微笑ましい気がする。
ゴテゴテとしたものがないぶん、本来のトンネルの姿をよく残している西口を振り返って撮影。
トンネル上にある丘は低く、何かに利用されている様子もないので、トンネルでなく切り通しにすることも出来そうだが、あえてそうしなかったのはなぜだろう。
必要な断面の小ささゆえか。
とんな経緯で誕生したのか知りたいが、残念ながら「北茨城市史」にも記載がなく、不明である。
このトンネルの来歴について詳しそうな良い旅館があるので、利用する人がいたら、ぜひ情報の収集をお願いしたい。
16:52 《現在地》
軽トラ幅の坂道を70mほど下ると、平潟の最も海寄りを通る市道に出た。
ここもなぜか写真を撮影していなかったので(どうした俺)、ストビューさんに抱っこしてもらう。
ところで、この本井隧道という名前だが、最初にいた旧国道沿いが本町、丘を挟んだこの辺りが井戸の入(いどのいり)というようなので、トンネルによって結ばれた両地区名の頭文字をつなげて命名されたのではないかと推察する。
もしその通りだとすれば、なおさら旅館駐車場へのアクセスルートというよりも、山を越えて地区を結ぶことに本意を持ったトンネル名という印象を受けるのだが。
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@ 地理院地図(現在) | A 昭和57(1982)年 | B 昭和26(1951)年 | C 明治41(1908)年 |
本井隧道は、昭和48年に竣工したものである。
この情報は、前掲した「平成16年度道路施設現況調査」と、隧道東口に取り付けられた銘板のあいだで共通しており、あえて疑うべき特段の事情も見当たらなかったわけだが、念のため歴代の地形図を見比べてみたところ、思いがけない状況が発覚した。
本井隧道は、明治生まれの可能性が極めて高い。
右図は、現在・昭和57(1982)年・昭和26(1951)年・明治41(1908)年の地形図の比較である。
これを現在から過去へ向かって遡って見ていくと、現在と昭和57(1982)年版には隧道が描かれていない(後者は道自体も描かれていない)にも関わらず、昭和26(1951)年版には忽然と姿を表し、そのまま明治41(1908)年版にも記載されている事実が発覚した。
昭和20年代以前の版には、国道(現在は旧道の部分もある)上にも現在は開削されて消えてしまったトンネルが描かれている。県境の平潟隧道(平潟洞門)と、そのすぐ北側の九面(ここづら)隧道(九面洞門)である。
そしてこの2本の隧道は、なんと、江戸時代に生まれであった。(「明治以前日本土木史」にもこのことが書かれている)
本井隧道までもが江戸時代生まれという可能性は限りなく低いが(であれば上記資料に出ている可能性が高い)、明治34(1901)年に編まれた「茨城県案内」という地誌が、平潟の名所を二十七勝挙げる中に“洞門奇勝”を挙げており、平潟洞門の説明のあとに、こう書いている。
「平潟は山を負うの地なるを以て洞門頗(すこぶ)る多し然(しか)れども其(その)何年に成りしかを詳(つまびらか)にせず
」……云々と。
「洞門頗る多し」というくらいだから、地形図に描かれなかったものも含めて、かなりの数があったのだろう。
であれば、地形図にもはっきり描かれていた本井隧道などは、当時はかなり重要な位置にあったのではないか。
現状では「地味」としか言いようのない本井隧道だが、その実態は、かつて“トンネルの町”として知られた平潟の、現存する最古の隧道かもしれない。
完結。