ミニレポ第230回 国道285号旧道 羽立橋

所在地 秋田県上小阿仁村
探索日 2008.9.24
公開日 2017.7.04

親柱が印象的だった、五城目街道の要衝橋


日本には古くても頑張っている橋がたくさんあるが、どの橋もいつかは必ず寿命を迎えるときが来る。
私にとってなじみ深いフィールドである秋田県の上小阿仁村にも、現代日本人の平均寿命くらいは働いている橋があるのだが、それが最近いよいよ寿命を迎えそうな気配が濃くなっているので、ここに記録を留めておきたいと思う。

これは、保存活動が行われそうなほど有名でも、特別珍しい構造というのでもない、日本の各地にまだまだたくさんある平凡な老橋の姿である。


橋の名前は、おそらく羽立(はだち)橋という。
橋名ははっきりしない部分がある(理由はこの後の本編で)のだが、とりあえずこの名前で進める。
羽立橋は、秋田県北秋田郡上小阿仁村にある国道285号の旧道の橋で、同村を南北に貫流する小阿仁川に架かっている。
国道の橋だったのは昭和45(1970)年の国道285号初指定時から、昭和53(1978)年に「新羽立橋」を含む羽立バイパスが開通するまでの比較的短期間だが、橋そのものは昭和12(1937)年の完成であり、今年平成29(2017)年に築80年を迎えた。
現在この橋は上小阿仁村の村道・長信田羽立線の一部になっている。

以下の探索レポートは、今から9年前の平成20(2008)年の姿である。
それではご覧いただこう。




2008/9/27 9:10 《現在地》

ここは羽立橋の東岸だ。
橋の年齢よりは若いものだと思うが、1本のサクラが橋頭の空を覆い隠さんばかりに枝を広げていて、花の時期にはきっと素晴らしい眺めだと思う。
全長120mのまっすぐな橋の向こうに、対岸の堂沢地区の山がちな景色が見えている。
こちら側は羽立地区といい、橋の名前の由来になったものと思われる。

見たところ、どこにでもありそうな古ぼけた橋という印象を受ける。
ではこの橋のどこから「古ぼけた」印象を受けるかと問われれば、路面の両側の低いコンクリート欄干と、それとは対照的に巨大な親柱、加えて親柱の手前に侍る副親柱とも言うべき存在たちによると答える。これらは皆、古い橋の外見的特徴であり、特に低い欄干だけは現代の橋が(道路構造令的に)真似の出来ないことだ。




それともう一つこの橋の古さを感じる点があるとしたら、それは親柱よりも目立つように設置された重量制限の標識や看板だ。
橋には10トンの重量制限が行われていたが、利用者は羽立や長信田(ながしだ)といった旧国道沿いにある集落の住人くらいであったから、制限はほとんど問題になっていなかった。
また、例外的に路線バスの通行が認められていた。
路線バスは旧道を通るというお馴染みの長閑な光景が、ここにもあったのである。

写真は、親柱へズームイン。
その造形は凝りに凝ったものだった。芸術に疎いので上手い解説が思い浮かばないが、昭和初期の橋によく見られる幾何学的な凹凸による装飾に余念がなかった。
当時としては、自由な形に造形できるコンクリートは土木の素材として最新のもので、デザイナーも今日の我々が初めて3Dプリンターに触れたような新鮮な気持ちで、橋を飾ることに熱を入れたのかもしれない。そしてその出来映えは、初めてコンクリートの橋を目にしたかも知れない上小阿仁村の村民を喜ばせることはあっても、悲しませることはなかったはずだ。

なお、冒頭に述べたとおり、この橋の名前はいまいちはっきりしない。
その理由は、親柱に刻まれた銘板が読み取れないためだ。(読み取れない理由は、片方は風化、もう片方は固定してある看板のせい)



秋風が心地よく流れる橋の上へ来てみると、さっそく今のこの橋に相応しい感じの車に追い越された。
人間はもちろんだが、軽自動車と較べてみても、昭和12年生まれのこの橋は十分に広々として感じられる。
だが実際の幅は5.5mしかない。
車線や歩道を分ける白線がないだけで、こんなにも広く感じられるのだった。

歩車道分離のない昔ながらの橋から見える景色も、全体的に建設当時からあまり変わっていないと思う。
この橋がある上小阿仁村は、明治22年の町村制施行と同時に開村して以来、昭和と平成に吹き荒れた合併の嵐を素通りして今も形を変えず存続する、まるで生きた化石のような根っからの山村だ。(対になっていた隣の下小阿仁村は昭和30年に消滅)
山村のご多分に漏れず住民の高齢化が進んでいるが、そんな村の歩みを永く見てきた旧橋も、村人だけを相手に余生をのんびりと過ごしていた。




派手な装飾が施されていた親柱とは異なり、長い欄干のデザインは質実剛健といえるものであった。
コンクリート製の肉厚な欄干は、その上を平均台のように歩けそうだ(悪ガキがそれをやって叱られる風景がイメージできる)。
とはいえ装飾的要素が全くないわけではなく、城壁の矢狭間(やざま)を思わせるような小窓が、3つをワンセットとした配置で開けられていた。しかも3つの穴の大きさは「大・小・大」という一定のパターンを持たせられており、なかなかリズミカルな楽しさがあった。

そんな欄干だったが、経年によって小窓部分の風化が相当進んだらしく、大半の小窓がセメントで補修されていた。この補修が行われたのは比較的最近のようで、補修箇所の新しい色合いが年経た部分との強烈なミスマッチを起こしていた。




9:14 《現在地》

小阿仁川西岸の堂川側橋頭へ辿り着いた。
橋の袂は秋田県道24号鷹巣川井堂川線と接する丁字路で、橋が国道だった時代にはこの場所が県道の終点だった。
交差点に信号機はなく、村道に降格した旧道の側にだけ「一時停止」の標識が取り付けられている。

また、旧道側にだけ秋田県が設置した青看(支柱に秋田県のプレートあり)がある。
見て分かるほど支柱が傾いた青看だが、その左折の矢印には国道285号の“おにぎり”が描かれているのが興味深い。これは国道時代を彷彿とさせる内容であるのだが、旧道化した昭和53年よりも前に設置された青看なのだろうか。(国道285号の指定は昭和45年、“白看”から“青看”へのデザイン変更は昭和46年である。国道時代に青看が設置されたとすると、その期間はかなり絞られる。ただ正直、支柱のデザイン的には平成に入ってからの設置のように見えるのだが…)

そして、ここにはもう一つぜひ紹介したいものがある。



異形のナニかへと化した親柱!

これには、ミリンダ細田氏もご満悦である。



橋の四隅に立つ親柱のうち、なぜか北西角の1本が極端に風化している。
もはやもとのデザインなど分からないくらい全体的に面や角が落ちていて、正体不明の“コンクリートお化け”のシルエットに……。

コンクリートの塊というのは硬いものという認識は間違っていないと思う。
だが、それでも長い年月の間には、徐々に風化して原型を失っていく。
先ほど見た欄干のように補修を受ければよいが、そうでなければ、やがてはこうならざるを得ない。

しかし、なぜここまで放っておかれてしまったのか?
これではまるで廃橋ではないか。
橋が愛されていないからだなどとは思いたくない。
だが、欄干は補修したのに親柱は崩れるに任せていたのには、理由があるはずだ。

それはおそらく、欄干は道としての安全に必要だから補修され、親柱はただの装飾品だから放置されたということだろう。
その心は、予算の不足……。たぶん、そういうことなのだと思う。村道に多くを求めてはいけない。村の身の丈(財政規模)に合わないほど大きな橋を村道として管理することの大変さが、この悲しい親柱を生んだのだと思う。
重ねていうが、橋が愛されていなかったのだとは思いたくない。



なお、本橋を訪れるのは初めてではなかったが、これまで4本の親柱に1枚ずつ取り付けられている銘板は全て不明という判断だった。だが今回の探索では、そのうちの1枚(奇しくも最も崩壊が進んでいる親柱)に、微かだが文字が残っていることが判明した。以前来たときは濡れていたために気づかなかった。

しかし、肝心な書かれてる文字が解読できない。
橋の銘板に書かれている内容は、「橋名・橋名の読み・河川名・竣工年」の4つのどれかと思うが、絞り込めない。
ここに解像度の大きな画像を置いておくので、我こそはと思う方は解読にチャレンジしてみて欲しい。

……個人的には、最後の2文字が「はし」と読める気がしており、その上の文字は「かみこあに」の5文字であるような気がする。
そうなると、この銘板は橋名の読みであり、「かみこあにはし(上小阿仁橋)」という橋名が浮上する。少なくとも、「はだちはし(羽立橋)」とは文字数が違う気がする。
ここに本橋の正式名が謎であるという問題が浮かび上がってくるのだが、この橋名問題については後でまとめる。

右の写真は西岸にあるもう1本の親柱だ。こちらはあまり壊れていないので、銘板も生存している可能性があるが、東岸の1本と同じように10トン制限の看板が固定されていて見ることが出来なかった……(これが今生の別れに…涙)

上記銘板の解読を試みた読者様が、画像に特殊な処理を行って凹凸を強調したものを作成して下さった。 →【加工画像】

また別の読者様は、変体仮名を交えて「かみ古阿にはし」と刻まれているのではないかと解読して下さった。

2017/7/5追記


…といった感じで、ここまで橋の上からお伝えしました。


続いては、ステージ2 だ。






9:20 《現在地》

橋を鑑賞するならば、下からである!(断言)

そんなわけでやって来てみれば…ガツンと来たぜ!!

この橋の下へ来たのは初めてだったが、通行しただけでは感じられなかった“橋の熱”が感じられて、グッときた。
細々と余命を繋ぐだけの老いさらばえた橋のように思っていたが、衰えたとはいえ、かつて秋田県の重要な交通路を担った大型橋に違いはない。
路面の下にはそんな歴戦に相応しい重厚な桁が隠されており、大きな橋桁がしっかりと地に足を付けていた。まさに縁の下の力持ちという言葉を思い出させる光景だった。

ところで、本橋の橋桁は写真に黄線を入れた位置で分割されている。通常の桁橋では橋脚上で橋桁が接続するが、本橋の構造はそれとは異なっている。
ちょうど車の上にある橋桁は、いかなる橋脚にも触れておらず、地面から見れば浮いた存在である。代わりにこの橋桁を支えているのは、前後にある橋桁なのだ。



このような橋の構造を片持梁構造、あるいはカンチレバー構造といい、それを用いた橋をゲルバー桁橋という。

右図は自作した本橋の模式図だが、現在地は中央にある両側を「ヒンジ」に支えられている桁の下だ。
この形式の橋は通常の連続桁橋に較べて可動部が多く、地盤の不良や地震などで橋脚や橋台が不同沈下した場合でも、ある程度吸収して耐えられる粘り強さに特徴がある。

そしてこれはあまり知られていない事実だが(私も最近まで知らなかった)、「秋田県土木史 第一巻」(秋田県土木部/平成2年)によると、秋田県は全国的に見ても戦前生まれRC(鉄筋コンクリート)ゲルバー桁橋の多産地帯であるらしく、岩崎橋(湯沢市、国道13号旧道、昭和10年架設、全長254m)や大曲橋(大仙市、秋田県道36号線、昭和13年架設、全長369m)などが規模の大きな現存橋として挙げられていた。

同書に本橋の名前はないものの、昭和12年という竣工年や、全長120m(5径間)という規模は、秋田県の戦前RCゲルバー桁橋として記録されるに足る存在だと思う。
事実、羽立橋は先の大曲橋とともに、土木学会が選定する「日本の近代土木遺産2800選」に「秋田県に多いRCカンティレバー橋群」という理由で選出されているのである。(羽立橋はCランク、大曲橋はBランクの格付け)
しかも、平成25(2013)年に大曲橋は老朽化のため掛け替えが行われ、撤去されてしまった。

本橋の技術的な意味での価値は、下へ来てみて初めて分かった!



(←)おおっと!ナイスタイミング!!

今回は「山行が」お馴染みの“軽トラ”ではなく、この橋の頑張りを象徴するような“路線バス”が、うまく通りかかってくれたぞ!
日々の運行本数がさほど多くないことを思えば、これはラッキーな遭遇だ。

そして、フルサイズのバスと較べてみても十分に大きな橋桁の姿に、改めて心強さを感じた。
補修痕まみれの欄干や、ボロボロのまま放置されてしまった親柱からは、このような印象は受けなかった。


(→)
本橋の構造上の特徴として、ゲルバー桁であることとともに、桁にアーチ構造を取り入れていることが挙げられる。
このコンクリート充腹アーチという構造も戦前の橋によく見られる古いもので、前出の大曲橋とも異なる本橋の特徴である。
全国的に見ればまだそれなりに現存例はあると思うが、今後新たに作られることはたぶんない形式だ。



(←)
アーチ構造であることがよく分かるアングルで。

橋脚は思いのほか綺麗で、70年以上前のものとは思えないほどだ。
その橋脚が桁を支えるために乗せているのは、鋼鉄製の巨大なローラー支承だった。
桁の荷重が集中する構造上の要であるが、橋桁や橋脚から見れば点のような小さな面でしかない。まさに力学構造の妙である。

(→)
あまり見た覚えがなく、名称や機能ははっきりしないが、一部のアーチ桁の下面には金属のプレートが貼られていた。
もとは全ての桁に取り付けられていたのかも知れないが、かなり傷んでいるように見える。
単純な補強用の部材か、コンクリートの腐食を防ぐカバーのようなものか。



2008年のレポートは、以上である。

この当時、10トン制限の存在や、親柱の風化などに隠せない老朽ぶりを感じはしたが、
それでもまだ末永く頑張るものだと思っていた。というか、旧道となった直後に解体撤去されなかった時点で、
この橋を半永久的に使い続ける意思が、村にはあるものだと思っていた。


これは若かりし私が、雪をおして敢行した“山チャリ”の途中に撮影した、平成15(2003)年当時の羽立橋だ。
5年後の2008年と同じ10トン制限が、既に行われていたことが分かる。
ここは私が知る限りにおいて、のんびりとしていつも変わらない“不動の橋”だった。


だが、そんな都合のよい橋があるはずはなかったのだ。

私がこの橋の安否についてなんとなく油断している間に、状況は刻々と変化していた。



これは平成26(2014)年に撮影されたグーグルストリートビューの画像である。

いつの間にか、重量制限が10トンから2トンへ、大幅に厳しくなっている。

路線バスの特例措置もなくなり、橋の完成当時から守ってきたバス路線という地位も意義も失っていた。

(もう一つ、よく見ると重大な変化があるが、それは後述する)


そして…



平成29(2017)年6月30日現在、

橋は、「車両通行止」になっている!!

「10トン」→→「2トン」→→「車両通行止」となったわけで、これからどうなってしまうのだろう。
今はまだ歩行者の通行だけは許されているが、この次があるとしたら全面封鎖で、その先には解体撤去しかないと思う…。

そして気付けば、あの“異形のナニか”と化していた親柱たちも、はじめからなかったかのように撤去され、
味も素っ気もないガードレールに置き換えられてしまっているではないか!(この変化は、2014年以前に起きていた)
これにより橋名を知る手がかりの一部が永遠に失われてしまったのである。
辛うじて記録した銘板画像の解読者出現を、一層真剣に待たねばならなくなった。



読者様からの情報提供により、10トン制限から2トン制限に移行する途中の段階で、4トン制限の時期もあったことが判明した。

村が発行している「広報かみこあに」の平成23(2011)年4月号に、『上小阿仁橋(羽立)の維持管理』という記事が見つかり、そこに「橋の老朽化により、健全度調査診断業務を実施した結果、現在の利用形態で危険性は認められないものでありました。今後は、荷重制限(4tまで)を継続しながら、計測センサーを設置し、ひずみを観測管理していきます。」と書かれていたのである。

つまりまとめると、2003〜2008年は10トン制限、2011年は4トン制限、2014年は2トン制限、そして2017年は車両通行止というふうに、細かい段階を経て規制が強化され続けていることが分かった。

2017/7/5追記

なお、東側橋頭の親柱は2本とも健在である。

だが、2014年までは橋の袂に大枝を広げていたサクラの木が伐採された。
そのせいで、橋頭の風景がとてもさっぱりとしていて、なんだか橋の完成当時に巻き戻ったみたいだった。(終活の身辺整理みたいに思ってしまったのは、内緒にしたい)




なお、2008年の探索時には重量制限の看板によって隠されていた向かって右の親柱の銘板位置が目視できるようになったのだが、残念ながら文字は全く見えなかった。

また、2008年には1文字もないと思っていた左の親柱の銘板には、「橋」の一文字が読み取れることが判明した。
銘板スペースの余白的に「●●橋」の●部分は2〜3文字の可能性が高いように思うが、文字のサイズや字詰めによってぎりぎり「上小阿仁橋」(4文字)までは可能か?


以上が、ここ数年の間で起きた、そして私がこのレポートを書こうと思った理由となった、羽立橋の変化である。

これをもって現地レポートを終了する。




羽立橋の橋名問題

本編中でも触れたように、羽立橋の正式な橋名ははっきりしない部分がある。
可能性のある橋名の候補は3つあるのだが、それぞれの根拠を以下にまとめてみた。

橋名の候補主な根拠
羽立橋
  • 現地にあるバス停の名前が「羽立橋袂」である(右図参照)。
  • 本橋に隣接して架かる現国道の橋の名前が「新羽立橋」である(右図参照/現地で銘板も確認済)。
  • 土木学会がまとめた「日本の近代土木遺産2800選」に「羽立橋」として登録されている。
  • 現場の親柱にある銘板に「●●橋」と書いているものがあり、スペース的に●●の文字数は4文字を入れるにはやや狭く見える。
  • 橋の袂にお住まいの老夫婦(2名)は、橋名は「羽立橋だと思っていた」と証言した。(根拠として「新羽立橋」の存在を挙げて)
上小阿仁橋
  • 現場の親柱にある銘板には「かみこあにはし」と書いているように見える(未確定)。
  • 2017年6月現在、現地付近に設置されている【通行止の予告看板】に「上小阿仁橋」とある。
  • 村の広報誌「広報かみこあに」に「上小阿仁橋」とある。
  • 土木学会が公開している「橋梁史年表」に「上小阿仁橋」として登録されている。
  • 「平成28年度(第1回)秋田県道路メンテナンス会議」の資料(内容は後述する)に「上小阿仁橋」とある。
  • 橋で犬を散歩させていた古老(1名)は、橋名は「上小阿仁橋で間違いない」と証言している。(根拠として村が設置した上記看板を存在を挙げて)
小阿仁橋
  • 昭文社「スーパーマップルデジタル」の表記は「小阿仁橋」である(右図参照)。

この3つの候補のうち、どれが本当の橋名なのだろう。
地元に長く住んでいる住人の意見でさえ分かれていることには軽く衝撃を受けた。

個人的な意見としては、当初はバス停名や現橋名を重視して「羽立橋」を推していたが、今は「上小阿仁橋」こそが最も有力な説だと思っている。
未だ確定しない銘板の内容はおくとしても、橋梁台帳を持っている村当局の設置した看板にある橋名は重視してよいだろう。

また、根拠というほど確実ではない経験則的なものではあるが、今ほど橋が多くなかった時代は、それぞれの市町村を代表するような重要路線の橋の名には、河川名か市町村名を用いることが多かった。(手元に地図がある人は東海道を通る国道1号か、その旧道に架かる橋の名前を見て欲しい。大きな川を渡る橋の名が河川名である例を多く見つけられるはずだ。)
次の項でも述べるが、昭和12年に橋が架設された当時、この道は上小阿仁村を代表する幹線道路であり、しかも小阿仁川を渡るのはこの一箇所だけだった。そこに相応しい名前は、一集落名に過ぎない羽立よりは、河川名である小阿仁か村名の上小阿仁が適しているように思う。




羽立橋が建設された詳しい経緯は不明

今回このレポートを書くために、「上小阿仁村史 通史編」など、羽立橋が建設された経緯が書かれていそうな資料を調べたのだが、残念ながら直接の事情は分からなかった。
代わりに判明したのは、羽立橋のある道…五城目街道…の大まかな歴史である。

右図は秋田県の中央部から北部にかけての広域地図だが、羽立橋がある国道285号は県都の秋田市と県第二の都市である大館市を結ぶ最短ルートになっている。
国道7号や秋田自動車道あるいは鉄道の奥羽本線といった全国区の幹線とされる交通路は、秋田〜大館間で能代市を経由するルートだが、秋田〜大館間の移動だけなら「五城目町〜上小阿仁村〜米内沢(よないざわ)(北秋田市)」を経由する国道285号の方が√2倍くらい近い。
そのため国道285号は地方山間部にある3桁国道として稀に見る交通量を誇っており、近年ではそれに見合った整備も進んでいる。

この県北への捷路である五城目街道が、近代道路制度の中で初めて頭角を表わしたのは、明治29(1896)年である。
秋田県はこの年に里道五城目街道(五城目〜上小阿仁〜米内沢)を、里道でありながら県費をもって整備する県費支弁道路に指定した。これは今日の道路制度に照らせば県道に認定された程度の意味を持っている。

(とはいえ、当時はまだ車両の交通に耐えるような道ではなく、特に上小阿仁村の南の玄関口である笹森峠(レポート)を自動車が初めて通ったのは昭和28年頃だった。)



五城目街道は大正9(1920)年の(旧)道路法施行時に正式に県道へ昇格し、府縣道米内澤五城目線となった。羽立橋が建設された当時の路線名もこれである。

左図は昭和14(1939)年の地形図だ。
ここには府縣道時代の五城目街道や完成したばかりの羽立橋が描かれている。
使われている橋の記号はコンクリート橋ないし石橋を表わすものであり、永久橋になった羽立橋の姿を正しく描写している。

それから(現)道路法が施行された昭和28年に県道秋田大館線へ改称され、同時に準国道的な性格を有する主要地方道にも認定された。
その次はいよいよ昭和45年の一般国道285号への昇格であり、あとはバイパスの建設や旧道化など、本編中で述べたとおりとなる。

このように五城目街道は、鉄道を持たない上小阿仁村にとって開村以来常に第一の交通機関であり続けている。
同村に初めて路線バスが入ったのは大正10(1921)年で、米内沢から村南部の沖田面まで五城目街道上を運行した。
つまり、羽立橋が架設される以前から路線バスが渡る橋があったことになるが、痕跡が残っていないので、この先代の橋は木橋だったのだろう。
それに代わって昭和12年に誕生した羽立橋こそ、上小阿仁村にとって初の永久橋であったと思う。

橋の命名について考えられる一つの説を以下に述べる。初代の木橋が「羽立橋」といい、2代目のコンクリート橋(本編の橋)は村最初の永久橋を記念して「上小阿仁橋」と名付けられ、3代目の橋は初代橋を意識して「新羽立橋」と名付けられた可能性があるのでないか。





羽立橋の現状と、気になるゆくえ


平成28年度(第1回)秋田県道路メンテナンス会議 資料」より転載(一部著者による加工あり)

ここ数年の間で、10トン制限→4トン制限→2トン制限→車両通行止というふうに、急速に利用度を狭められている羽立橋。
その行く末を決めるのは、道路管理者である行政の対応である。

秋田県がまとめた資料の中に、「上小阿仁橋」の名前で本橋について触れているものを見つけた。
右図はその資料からの引用である。

これによると、上小阿仁村が管理する上小阿仁橋は、平成27年度に県が実施した点検時に、「主桁に鉄筋露出、補強材の損傷、ゲルバー部に支承の機能障害」といった損傷が発見されたため、「構造物の機能に支障が生じている、又は生じる可能性が著しく高く、緊急に措置を講ずべき状態」とされる「判定区分IV」として、通行止めを実施中である。今後については「修繕、撤去を含め検討中」という。


さらに、2017年にミリンダ細田氏が行った、犬の散歩のために橋を渡っていた古老から聞き取り調査によって、以下の情報が得られた。

  • この橋は上小阿仁村に出来た最初の(木橋ではない)半永久的な橋だった。
  • 洪水等で橋の状態が悪くなったのではなく経年劣化でこうなった。
  • 調査の結果、撤去するには1億円が必要で、補修するにはそれ以上かかると分かった。
  • 今のところ村では橋を直す予定も、解体撤去する予定もなく、現状を見守っている。
  • たまに柵を外して渡る農作業車が見つかって、お叱りを受けている。


……最後の証言は長閑で微笑ましいが、全体的に橋を巡る見通しは暗そうだ。

とはいえ、もう80年も前に託されたであろう本橋建設の意義は、十二分に果たした末の現状といえる。

「老兵は死なず、ただ消えゆくのみ」という、日本人好みの名句もある。


その一方、お金がないから撤去さえ出来ないというのは、シニカルな地方の現実だ。

だがこれも、村を支えてきた橋の余生と長く寄り添えるという、地方の美点かもしれない。

特別に珍奇ではないが、ただ昔から頑張ってきたという平凡な橋が私は大好きだ。



見慣れたこの景色から、橋だけがなくなってしまったら、ちょっと寂しい。





完結。


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