旧坂北村役場である筑北村考古資料館の軒下に、こうやって(→)立て掛けられるところを偶然発見した、「別所隧道 昭和 年三月竣工」と刻まれた隧道扁額。
その元来の所在地がどこであるかの捜索は、有力情報の入手から始める必要があったが、ネット上では見つけることが出来なかった。
そこで、隧道の所在地として最も可能性が高い、旧坂北村の村誌の入手を手配した。
旧坂北村は1990年から97年にかけて上下巻および別冊からなる3冊の『村誌さかきた』を刊行しており、このうち『村誌さかきた下巻(歴史編・近現代編)』に狙いを定め、閲覧の機会を得ることにした。しかし一定の時間がかかるので、同時にもう一つの情報入手手段も進めた。
それは、考古資料館の管理者である筑北村へのメールでの問い合わせだ。
村公式ホームページの問い合わせフォームから、扁額の由来について問い合わせてみたところ、1週間ほどでとても素晴らしいお返事を頂いたのである。
ありがとうございました!
現在手元にある資料(旧村村誌等)と地元の方から聞いた内容により、以下のとおり回答いたします。
「別所隧道」について。
旧村村誌等に記録等がありませんでしたので、地元の方より聞いた内容は、正確な竣工年は分かりませんでしたが、記載されている文字の幅(ちょうど年の所に穴が空いている)からして、1桁だと思われますので、竣工年は昭和元年から9年ではないかということでした。
作られた経緯としましては、旧坂北村別所地区の岩殿寺近くに生活道路を開通するため、山の一部を掘ってトンネルにしたようです。
当時は縦横幅2メートル位で、自動車の普及により道幅を拡張したため、現在はトンネルではありません。
キタキタキタァーー!!!
案の定、この扁額を掲げていた隧道が、旧坂北村の別所地区内に存在していたということだ。
既に道路拡幅のために撤去されてしまったらしく、「現在はトンネルではない」というのは残念だが、扁額がこうして取り外されている以上、その覚悟は出来ていた。
所在不明でしたで終わらなかっただけでも、十分な成果だと思う。
そもそも、回答によれば、(当時入手を手配中だった)村誌にも記載がない隧道であるとのことで、しかも歴代地形図にも出ていない(このことは確認済みだった)ワケだから、これはもう、現地で扁額を見つける以外には、ほとんど「別所隧道」の存在を知る手掛かりは残っていなかったと思える。
そういう隧道に巡り会える機会を与えてくれた扁額はやはり偉大だし、それを処分せずに残していた村の関係者の判断は、私にとって本当に値千金だった。
十分に感謝し、感動を味わったところで、最後のピースを嵌めてしまおう。
現地探索だ。
隧道が現存しないことは分かっているが、その跡地を確かめる意義は少しも薄れていないし、もしかしたら少しくらい痕跡があるかも知れないしな。
右図は、別所地区周辺の最新の地理院地図だ。
扁額を発見したのは旧坂北村の中心市街地だったが、別所はそこから山をひとつ挟んだ西側の谷間の地区である。
赤○を付けたところに、「別所」の注記がある。
ただ、これは大字未満の字レベルの地名なので、道路地図などでも色分けがされていないために、範囲を知るのは少し手間だ。
『角川日本地名大辞典 長野県』を調べると――
――という解説があって、改めて地図を見ると、別所川に沿って「平・町・日影」の集落の点在を発見したし、村名の由来となった岩殿寺の在処も分かり、別所川流域の南北にかなり長い区域が、明治22年の町村制によって坂北村となる以前の別所村の範囲だということが理解された。
筑北村からいただいた回答にも、岩殿寺が出ていた。
それも、「旧坂北村別所地区の岩殿寺近くに生活道路を開通するため、山の一部を掘ってトンネルにしたようです
」とあって、別所隧道の所在地は、このお寺の近くであるらしい!
岩殿寺付近の地図を拡大してみよう。↓↓↓
とりあえず、この地図を眺めた時点で、特に怪しいと感じた場所は一箇所だった。
図中の「擬定地」である。
ここはとても「岩殿寺に近い」し、川の蛇行によって出来た薄い尾根を道が貫通しているので、切通しがあるはず。隧道擬定地として申し分ない地形。
また、「自動車の普及により道幅を拡張したため、現在はトンネルではありません
」という証言も重要で、現在も車道として使われている道路上であるはずなのだ。
そのことも加味すれば、ここがいちばん怪しいと思った。
だが念には念を入れ、現地調査の前に、歴代航空写真のチェックも行った。
隧道の撤去時期についてははっきりと書かれていなかったが、「自動車の普及により」ということであれば、この地方でそれは戦後のことであろうから、航空写真を撮られている可能性が高い。
左図は、アニメーションGIF画像で、5枚の航空写真を連続で表示している。
解像度の問題もあり、昭和22年の画像はちょっと判断材料にならないと思うが、50年と48年の2枚は間違いなく“明り”であるものの、46年と40年は尾根の緑が道路を跨いで続いているように見える(22年もそう見える)のではないだろうか?
特に、46年と48年の見え方の差は歴然で、撮影月も5月と8月で、本来は48年の方が緑が濃いはずなのに、尾根が綺麗に切断されて切通しが見えている。
単純に道路を拡幅しただけという可能性もあるものの、この2年の間に、ここにあった“別所隧道”を撤去しつつ拡幅を行ったとみて間違いがないように感じた。
事前調査では以上の成果を得、他に有力な擬定地も現われなかったことから、扁額発見の翌月に行った現地調査では、この「擬定地」をピンポイントで確認することにした。
現地へGO!
2020/6/23 12:15 《現在地》
県道55号大町麻績インター千曲線を坂北駅方面から大町方面に進み、差切峡へ入る手前の仁熊地区で、岩殿寺という案内のある道へ左折する。これが村道別所線である。そこから約1.2km、整備された2車線道路を走ると、そこに岩殿寺(がんでんじ)がある。
写真中央に茅葺きの山門が写っている。
境内は広く、この地方の代表的な古刹として知られているだけあって、本堂の他にも様々な建造物や石仏があった。
私はこの恵まれた境内に、別所隧道や、門前を通る道路の開通記念碑のようなものがありはしないかと期待したが、見当たらないようだった。
旅の安全を参拝してのち、門前へ戻った。
1枚目の写真の地点に戻ってきたが、今度は上流方向へカメラを向けている。
ここには分岐があり、本線と見える道は直進だが、右の道は直ちに別所川を渡って、対岸の山へ取り付いて登っていくようだ。
手書きの案内板などがあり、この橋の道は、寺名と同字の岩殿山(いわどのさん)の登山道であった。案内板によれば、ただの登山の山ではなく、かつては修験道の修行の山で、岩殿寺も古くは修験道の拠地であったそうだ。
肝心の“隧道擬定地”は、このまま直進した先で、地図読みで180mくらい離れている。ようするに、すぐ先だ。
ここから見えている緑の尾根と交差する地点のようである。
別所川の清楚な流れをガードレールの下に見ながら、短い距離の移動を開始。
数キロ下流では差切峡という峡門に閉ざされる定めだが、ここにその険しさはない。
写真の地点は、蛇行のために道から離れていく流れを見通している。
地図上に顕著なように、ここから流れは小さくΩ状に蛇行し、
川沿いの道には、隧道か切通しかの選択を強いてくる。
で、ガードレールの上の道路風景。
ごめんなさい。
引き延ばしようがないですな(苦笑)。
12:23 《現在地》
かつて別所隧道があったとみられる地点(擬定地)は、ここ。
予想通り、深い切通しがあった。そして、隧道は現存せず。
一応、切通しの右側の空き地の奥まで確かめたよ。旧隧道がうっかり残っていないかということをね。
明るい蝉声が雨のように降り注ぐ初夏の切通し。
この長さから幾分を減じたものが、隧道の全長だったとみられる。
すなわち、別所隧道の長さは15〜25m程度であったろう。
旧地形図にも描かれなかったのも頷ける長さだと思う。
特に隧道の気配が濃い切通しというわけでもなく、どこにでもある規模。
だから、前述の航空写真だけではやはり足らず、もし役場情報がなければ、
ここに別所隧道の幻影を重ねることは難しかったように思う。
おそらく、細長い別所地区内だけでも、切通しは他にもあるはずだから。
最初に見たのが下流側の西口で、これは通り抜けて振り返った東口。
前後の道も完全に2車線舗装路になっているので、
幅、高さとも、たった2mほどであったという隧道は、まさに昔日の幻だ。
しかし、車道としては最小限度のサイズであっても、坑門は素掘りではなかったのだろう。
素掘り隧道にコンクリートの扁額を取り付けたケースは見たことがなく、内部の巻き立てはさておき、
坑口だけは、扁額と同じくコンクリートで作られていた可能性が非常に高い。
だが、その姿を私が今ここで目にしたら、きっとこう言ったと思う……。
「扁額でけー!!!」
(まあ上のは「写真はイメージです」なんだけど)
扁額のサイズは、目測で、幅130cm、高さ50cmくらいもあったのだ。
それを、高さ幅とも200cmほどの坑道を戴く坑門に掲げたとしたら、
当然、この感想になったはず。
ぜひ見てみたかったものだし、もし写真でも出てきてその姿がはっきりするなら、
たとえ探索はコレで終わりだとしても、そのお姿次第ではミニレポではなかったかも知れない。
という扁額の印象おくとしても、ただの素掘り隧道ではなかったことには、やはり感心する。
現地探索終了。
@ 地理院地図(現在) | |
---|---|
A 昭和45(1970)年 | |
B 昭和27(1952)年 |
というわけで、昭和初年代から昭和40年代中頃まで、この別所川沿いの路上に、別所隧道というささやかな隧道が存在していたことが分かった。
帰宅後しばらくして、『村誌さかきた下巻(歴史編・近現代編)』を読むことが出来た。
この本に「別所隧道」についての記述がないことは、既に、役場情報によって判明している状況だったが、それでも別所川沿いの道路の歴史など、隧道と関わりがある情報がありはしないかと読み進めると、確かに「別所隧道」のワードはどこにも登場しないものの、全く触れられていないわけではなかった。
坂北駅開駅による駅前の道路整備を契機に、他の地区の道路改修の促進にも影響を与えたと思われる。昭和三年以降村内の主要な地域の道路改良が進められてきた。刈谷沢神明宮に至る路線、現桂線、別所線(現在の別所線から字宇洞坂を経て長田に至る路線=宇洞坂線 平成六年一月より小仁熊ダム建設のため一部付け替え工事が行われている)、長田碩水線、山寺線、東山線などがその主なものである。
坂北駅は、旧坂北村の熱心な陳情活動が実って、昭和2(1927)年に国鉄篠ノ井線の西条と麻績の中間駅として開業した。
引用したのは、この開駅を契機に村内の主要な村道の整備が進んだという記述であり、昭和3年以降に別所川沿いの村道別所線の改良も行われたらしい。
扁額に昭和初年代の竣工年が刻まれていたことと合致する記述である。
確かに古い地形図(→)を見較べると、昭和27(1952)年版と昭和45(1970)年版では、別所隧道付近の道の位置が変化している。
古くは、現地で見た【岩殿寺前の橋】を渡るのが(この橋も架け替えられてはいるだろうが)メインルートであったらしい。
地形図における村道のような末端路線の更新は鈍く、実際には昭和初年代にも村道別所線の付け替えと別所隧道の開削が行われていたはずだが、図に反映されたのは、もう隧道が撤去されようとしている昭和45年版からであった。このような点からも旧地形図から別所隧道を見つけることは不可能だったのだ。
なお、引用した別所線に関する記述には括弧書きで、宇洞坂線という道のことも出ている。
現在(村史刊行当時)は村道宇洞坂線と呼ばれている道も、戦前には村道別所線の中に含まれていたらしく、宇洞坂というのはその途中にある峠で、(旧坂北村の中心地で扁額所在地である)長田地区と別所地区の間にあった。
別所地区から新設なった坂北駅へのルートとして、別所川を下るものと上るものの二線が整備されたということなのだろう。
宇洞坂も別所隧道の所在地として相応しいが、「岩殿寺近く」という条件を満たさない。
さて、別所隧道が撤去された経緯については、役場情報では「自動車の普及により道幅を拡張したため」とあったが、村史にも時期的に関係があるかもしれない記述を発見した。
(昭和)四十年には村道別所線へのバス乗り入れを計画され、道路整備を進め、西条から別所中里までの間に、待避所を設け、関係方面に働きかけ、見通しは明るく思われたが、実現することなく終わった。
昭和40年代に、村道別所線に路線バスを通そうという計画があったらしい。記事だと、バスは西条駅と別所の中里集落を結ぶ区間であったように読み取れるが、中里から1.7km離れた岩殿寺が著名な古刹で、岩殿山の登山口でもあったことを考えれば、ここまでバスを通そうとしたとしても不思議ではないし、昭和40年という時期は、航空写真から推定された隧道撤去の時期(昭和46〜48年)と近い。
小仁熊ダムの建設に伴う別所線、宇洞坂線の付け替え工事は、近年にない大掛かりなものであった。
このような記述もあるが、小仁熊(おにくま)ダムの着工は平成元年(完成は平成15年)で、調査開始も昭和50年代末からなので、隧道撤去の直接の原因ではなかったと思う。ただ、現在の村道別所線が村道にしては立派な2車線道路であるのは、この工事によって二度目の拡幅が行われたためなのだろう。
さらに、隧道存在の決定的な証拠も村誌に発見した。
右図は、道路法制定後に最初村内に認定された、昭和27年12月24日現在の村道一覧表である。
合計30路線 総延長42312mであったが、ここに前述した村道別所線や村道宇洞坂線の名前があり、このうち別所線の「とんねる」の欄に「一」と書かれているではないか!
しかも、これが村道唯一の「とんねる」であったことも分かる。
この当時の別所線は、「沢口精米所前」と「仁熊分校前」を結んでいたとのことで、あまりにも地名がローカルで分かりづらいが、旧地形図から仁熊分校の位置は判明しており、そこから「全長3056m」ということだと、現在の県道55号との分岐地点から、別所の南端にあたる大畑集落までが、路線認定されていたようだ。
この径路上のどこかに隧道が1本あったことが、村誌からも確かめられた。
そして、その後の村道の変遷は、左図によって確かめられた。
二つの表が並んでいるが、上の表は昭和38年3月31日現在のもので、依然として「隧道 一」が記録されている。
認定された村道の総延長は10年あまりで倍以上に増えているが、相変わらず隧道は別所線にあった1本だけだったのだろう。
対して下の表は平成5年4月1日現在のもので、隧道の欄が全て空欄になっている!
こうして村誌の記述からも、隧道が昭和38(1963)年から平成5(1993)年までの間に廃止されたことが明確になった。
……とはいえですよ。
やはり、地元の方から聞き取りしていただいた貴重な役場情報がなければ、隧道のサイズは分からなかったし、所在地についても長く悩むことになっただろう。
改めて、親切な役場担当者さんの対応に深謝します。
今回の私は、別所隧道の扁額を見つけただけで、探索すべき隧道はもはやこの世になかったという結論だが、オブローダーとしては、美味しいものをたらふく食べた感じがする。
道を切り開く者があり、その歴史の“未知”を切り開く者がある。それがオブローダーだ! (ビシッ)
ほんとに皆様も、古い建物の軒下には注意だよ〜。何か見つけたら、ぜひ教えて下さいね。
完結。