ミニレポ第256回 八森沖の雄島 中編

所在地 秋田県八峰町
探索日 2018.06.03
公開日 2021.09.12

雄島上陸成功! 島内の道路探索をスタートする


2018/6/4 17:09 (出航から54分後) 《現在地》

人生初の自力航海による無人島到達を果たした私は、大いに興奮しながらカヤックを陸揚げし、我々のフロンティアに第一歩を刻んだ。
航海時間は54分、航行距離は約3km。
この雄島、最も近い陸地との距離は200mもないので、わざわざこんな長く航海する必要性はなかったが、我々は航海がしたかったからそうしたのだ。そして、大いに満足した。

しかし、無人島は無人島でも、名もなき岩礁への上陸では、こんなに興奮はしないだろう。
この島にはちゃんと雄島という名前があり、人がいくらかなりとも時を過ごした形跡がある。それが、先ほど海上からも見えた石仏や、鳥居の存在によって証明されている。
これも何度も書いているが、かつて島内に橋が架かっていたという話を聞いたことがあることも、私にとって島の価値を何倍にも高める“人跡情報”の一つだ。

この訪島は、私にとっては廃道探索の正常な延長線上にある行為だ。そう断言したい。
それではこれより、雄島の道を記録する作業を始める。



まずは、島の交通の起点である、水陸交通の結節地、港の施設をチェック。
我々が上陸に使用した港は、ご覧のようなおそらく世界最小級の掘込式港湾であった。
さすがにこれほど整った湾入は、偶然こういう地形というわけではなく、人工的なのだろう。
写真右奥の岸壁部分はコンクリートで整地されていて、ハイヒールでご来島のお客様も安心である。

島の道は、この港から始まるに違いない。

上記の船着場より、島の北側を眺める。
20mほど先に、先ほど海上からもチェックした、この島のもう一つの港であるコンクリート張りの船揚場が見える。
これらの港湾施設を擁する島の東面は、本土との関係において、島の“正面”といえる。

この写真の景色を一言で表わすなら、岩礁海岸だ。
地形図には反映されない小さな海岸線の出入りがたくさんあり、1周500mにも満たない小島であることを忘れさせる奥行き感のある風景だ。

果たしてここに道路は……、あるの… か?



とりあえず、磯を歩いて、この島の最大の人工物とみられる船揚場へ向かうことにした。
凹んだところには雨水が溜まっているが、たいていどこでも自由に歩けそうな磯だった。

しかしこの移動の最中、我々は見つけた。




舗装された道を!

より正確に表現するなら、セメントで磯の凹んだところを埋めて歩き易くした一画を発見した。
これは、原始的な舗装と言えるものだろう。
そうした飛び飛びの小舗装は、岩場に点々と続いており、岩とセメントが渾然一体となった細い歩道を形成していた。
我々は、雄島で道を発見した。

しかも、そうしたセメントの一つには、竹ひごで書いたような陰刻された文字が読み取れた。
なんとまだ新しい、平成22年の署名である。
最近まで島の道路整備は続けられていたのである。
よく探せば、もっと新しいものもあるかもしれない。



17:13 (上陸4分後) 《現在地》

船揚場に到着した。
到着したなんて、大層なことを書いているが、船着場から20mくらいしか離れていないので、本来なら数秒で行き来できるのだ。ただ、我々は島での時間をゆったりと過ごす心積もりでおり、必要以上に移動時間を使っていた。そうはいっても、既に時刻は17時を回っていて、いくら日の長い時期であっても、帰りの航行のことを考えれば、17時45分には島から出る必要があるだろう。

パドル漕ぎの疲れを癒すべく、島の最高峰である標高13mの雄島を背にして、船揚場のスロープに横になるミリンダ細田氏。
この大掛かりな施設に見合う人の出入りが、かつてあったのだろうか。

なお、彼が大事そうに腹に抱えているものは、彼がこの島へ唯一持ってきたものであり、その正体は、パイの実である。
彼は行動食としてパイの実を誰よりも愛好しており、数箱持ち歩くことが常套化している。
パイの実を見たら、ミリンダ細田を思い出してあげて欲しい。



先ほどから「現在地」を伝えるために地形図を多用しているが、ぶっちゃけ、限界を感じている(^_^)。
この小さな無人島、地形図ではゾウリムシ程度にしか描かれておらず、その上でどう「現在地」の位置を変えても、変化は伝わりづらいと思う。
そこで、かなり精細な画質を持っている昭和50(1975)年撮影の航空写真を利用したいと思う。(→)

いささか古い航空写真ではあるが、島の状況は当時も今もほとんど変わっていないように見えるので、問題ないだろう。
とりあえず「現在地」は、このように島の東岸にある船揚場だ。

こうして航空写真で見ていると、海岸線も単純な楕円形ではなく、特に東岸には裂けたような亀裂が多く見られる。
これがどうして出来た地形なのかは分からないが、島の大部分を占めるとみられる溶岩の成因と関係があるのだろうか。
こんな小さな火山島なのだとしたら、なかなか興味深いものがある。




ここで満を持して、全天球画像が登場。
我々が臨む小さな別天地を文字通り“一望”するには、この画像がうってつけだ。

グリグリして見回すと、私と細田氏を結ぶ直線上にある岩礁の随所に、
セメントで均された部分
が見えると思う。まるで虫歯を治療した跡みたいだが、これが
船着場と船揚場を結ぶ道路であり、前述した「平成22年」の施工地もここに含まれている。

いまひとつ画像が分かりづらいという方のために、補助線を入れた同じ全天球画像も用意した↓。



改めて島の道の繋がりを、この補助線付きの全天球画像で確認していただきたい。

船揚場を中心に、3本の道が島の各所へ伸びる形になっている。
1本目は、既に歩いた船着場へのセメントを垂らした道である。
2本目は、船着場とは反対側の海岸線に沿って伸びる、防波堤のように見える道。
3本目は、島内の高地である雌島へ上っていく道で、階段もあるようだ。

続いては、上記の“2本目の道”を辿ってみよう。



防波堤のように見えた道だが、実際も防波堤を兼ねているように思われた。
自然石を積み上げて目地をセメントで固めただけの、原始的な造りの防波堤だ。
それでも島の土地を高波から守ろうという意識の感じられる構造物だった。

防波堤の上は舗装されていて歩き易いが、終点はすぐ近くあった。
船揚場から3〜40m先にある6畳間ほどの広場が終点で、テントを張るのにちょうど良さそうなところであった。徐々に消えていく街の灯りを眺めながら、この広場で夜を越えるのは、乙なものであろうと思う。




17:14 (上陸5分後) 《現在地》

広場のすぐ奥に、他と一線を画して頑丈そうな堤防があった。
長さは短いが、大きな石材を積み上げており、とても頑丈そうに見える。

先ほど航空写真で、島の東岸には亀裂のような地形があるという話をしたが、この堤防は亀裂の入口を塞ぐものであり、これによって船揚場に続く低い土地を確保している。
もしこの堤防がなければ、島の低地は波に侵され、今より遙かに少なくなっていたと思う。
チェンジ後の画像だと、細田氏が乗っている堤防を境に右側は波が渦巻き、左側は乾いた低地であることが分かると思う。

果たして、この黒々とした石造堤防はいつの時代のものなのか。
明らかに最近のものではないだけに、帰宅後の正体解明が楽しみだった。

雄島は、確かに小さな無人島だ。
しかし、陸から遠望したときの印象よりも遙かに多くの人手が加わっていることが、上陸して初めて分かった。
ここはますます我々好みの島だった。




それではいよいよ、島の高地へと探検を進めよう。

まるで遺跡の一部のような階段が、踏まれる時を待っていた。

果たしてこの先で、橋があったという話の裏付けになるようなものは、見つかるだろうか。




17:16 (上陸7分後) 《現在地》

船揚場から3方向へ伸びる道の最後の1本が、これだ。
島の内陸部を占める、ふたコブの山へ登っていく道である。
ふたコブは、低い方が雌島、高い方が雄島といい、地形図には雄島の頂上とみられる位置に、海抜13mの「写真測量による標高点」が描かれている。

道は、雌島へ上っていくように見えた。
地形的には、岩場をよじ登っても山頂へは辿り着けそうだが、我々は道を辿ることに重きを置いており、道はある限りそれに従って進みたい。




この写真は、上の写真を撮影した同じ位置から、右を撮影した。
道はどうやら、まず雌島に登頂してから、そこを足掛かりに、最高峰である雄島の頂上を目指すようになっていそうだ。

ちょうどいまは島に強烈な西日が射しており、それを逆光で仰ぐ形に眺める雄島には、高山を思わせる神々しさが宿っていた。




雌島へ上る岩場の急な部分には、階段が設置されていた。
適当に削った岩場と、コンクリートのステップを組み合わせた、野趣溢れる階段である。
この階段、ボロボロの様子から見ても、相当に年季が入っていそうである。
マチュピチュ遺跡とかにありそう(イメージ)。

で、ここに見えている分だけの短い階段を、わずか数秒で上りきると……




らん、らんらら らんらんらん♪

階段の上には、某ナウ●カの劇中シーンを思わせる金色の野原が広がっていた!!

やべえ……。

想像以上に神聖な雰囲気があたりを包んでおり、土足で入り込んでいっていいものか、一瞬躊躇ってしまうほどだった。
そしてこの神聖の野原の中央、最も高い地点には、廃墟のように崩れかけたコンクリートの小さな祠が、おそらくこちらに背を向ける形で建っていた。



再び登場、平成6(1994)年の私が撮影した雄島の遠景にも、この祠と見られるものがぼんやりと写っていた。
向かって左の低い雌島の頂上にあるのがそれだ。
ただ、この撮影当時は崩れかけてはいなかったような感じがする。今の状況だと、これほど大きく見えないと思う。

そして当時は、雄島の頂上にも同じ大きさの祠があったように見える。




金色の野原の正体は、岩場に浅く根を張って広がる、一面のノビル(野蒜)のような植物だった。
特徴的な刺激臭はノビルそのもので、ノビルと同じような球根を付けていた。ただしその玉の大きさはやや小さく、また強い赤みが掛っていた。
無人島だが、ノビル好きならこれだけを食べて、しばらく生きながらえることができそうだ。

救荒植物として知られるノビルが、もともと島に自生していたものなのか、人が持ち込んだものかは不明だが、階段から人の通り道に沿うように広がっているように思われ、これと背の低いススキのような植物だけが、この島にある植生なのではないかと思われた。木はないようである。(と思ったが、5枚前の写真の階段の左側に、1本だけ小さな松のような木が写っている)




鮮烈なノビルのかほりに包まれながら、崩れた祠の後ろへ辿り着いたとき、島に静寂が戻っていることに気付いた。
陸から届いていた賑やかな太鼓の音色が、いつの間にか終わっていた。

この先の場面に、お囃子は相応しくないということなのかもしれない。
おそらく八森の人々が代々守り伝えてきた聖域の一つに、我々は足を踏み込んでいる。

雌島、登頂。



17:18 (上陸9分後) 《現在地》

雌島のてっぺんからは、島の南側の陸地を一望することが出来た。
島の南部には、隆起した海底のような岩棚が広がっていて、植物のない荒涼とした場所になっている。もし私が名付け親なら間違いなく、「千畳敷」と名付けるだろう。

我々はこの場所には足を踏み入れなかったが、島内で最も広く平坦な土地だ。
ただ、全く波風を遮るものがない外洋側であり、ハタハタが大漁になるような冬の嵐のときは、とても立ち入れる状況ではなくなるだろう。
我々が上陸した本土側に港があったのは、風波を避ける意味合いも大きかったはずだ。

チェンジ後の画像は、写真中央付近の水平線を望遠レンズで拡大したものだ。
肉眼でも微かに見えるので私は気付いたが、左から順に能代火力発電所の煙突、男鹿半島の寒風山と本山が、見えた。
いちばん遠いのは本山で、おおよそ60km離れている。
もっと空気が澄んでいる日なら、140km離れた鳥海山が、寒風山の左に見えのではないか。もし見えれば、秋田県の北端から南端が見通せることになる。



こちらは北側の風景。
こちら側もゴツゴツした千畳敷が広がっていて、おそらく雨水が溜まっている小さな池が二つ見えた。
観光地として申し分なさそうな風景の素晴らしさだが、本土と繋がっていないことで、忘れ去られている感じだ。

海上は、青森県境である白神山地が日本海に没するところまで見通せた。
我々の航路もこの景色の中にあった。(青線は航路のおおよその位置)

ひととおり島の周囲の様子を見回したところで、敢えて紹介を遅らせてきた島の核心となる領域、雌島と雄島の頂上領域を、ご覧いただくことにしよう。
これが本当に美しい眺めで、私は一時期これをPCの壁紙していた。


↓↓↓




雌島(右)と雄島(左)と、八森の山海と。


こんな美しい島が、あったんだねぇ……。

奥の雄島には鳥居が残っているが、もともとは雌島にもあったらしく、コンクリートの土台が目の前に二つ見える。

もっとも、人がくぐるにはキツイくらいの小さな鳥居であったろう。



大破したコンクリートの祠に、青銅の色を纏った笑顔の神像が祀られていた。

せっかく来たので、山行が初の参拝開始!



突然だが、私は昔から細田の柔和な笑顔が大好きで、それを“布袋顔”だと思っている。
この布袋顔という表現は、七福神の一柱である布袋尊がいつも笑顔を絶やさず、笑う門には福来たるを実践したことをモチーフにしている。

それで、一瞬ここにも布袋さまが祀られていると錯覚した。
神像は、今にも笑声を発しそうな豪快な笑顔を持っていた。
しかし、小脇に抱えた目出度い鯛と、片手の釣り竿が、七福神のお仲間である恵比寿天であることを物語っていた。

受け売りの知識だが、恵比寿さまは海の神さまで、漁業関係者からの信仰がとくに篤い。
八森漁港の目前に浮かぶこの島なれば、恵比寿さまが祀られているのは必然であろう。
定期船は通わぬ島だが、地元の人々にまで忘れられてないことは、崩れた祠の瓦礫がちゃんと像の周りに避けられているので間違いない。




祠は屋根と壁の大部分が失われ、恵比寿さまは地上に放たれている。
その視線も放たれていて、肉眼では見えるはずのない日本列島の右曲がりの島弧を、神の視力で見渡しているようだった。

(→)
普段、廃道探索中に出会った路傍の石仏でも、ここまで熱心には観察眼を向けないと思う。
道標石や道の来歴を記した記念碑なら別だが。

しかし今回は、気軽には二度と訪れがたい離れ小島ということで、記録できるものは何でも記録して帰りたい熱が凄く、私は恵比寿さまのお身体に何か文字が入ってないかを探し始めた。ボディチェックである。
見ての通り、この像は青銅(ブロンズ)像なので、文字入れは石仏よりも容易いはず。

……で、見つけましたよ文字を。
片膝で座る台座の目立たない後部側面(祠が完全だった時分なら見られなかったと思う)に。

ライトの光を斜めから当てながら解読すると、次のように読み取れた。
「能代住 渡邊富太良」
特に目立たない位置の刻字であることから推測して、これは像の作者の署名であろう。
能代はもちろん現在の能代市(当地の18km南方)の中心市街地にある、長い歴史を持つ能代町のことで、そこに作者は工房を構えていたのだろう。(これを調べて初めて知ったけど、太朗の「朗」を「良」と書くお名前は、昔も今も結構いらっしゃるんですね)


(←)
お足元周りにも、2箇所に文字を発見した!
これらは祠があっても覗き込めばギリギリ読めそうな位置だ。

チェンジ後の画像は、足の下の台座の文字の拡大で、かなりの文字数が彫られていた。
錆が絡んで読みにくかったが、光の角度を工夫しながら頑張って読み取った内容は、次の通り。(縦書き)

茂浦邑
椿邑
立石邑
漁師中
願主
日沼吉左工門

これはつまり、茂浦村(邑)、椿村、立石村の漁師たちの代表者である日沼吉左工門氏が願主となって、この像を寄進したということであろう。
茂浦、椿、立石は、いずれもこの島の面前にある集落内の小地名としていまも残っている。
像の素性がこれで知れたぞ。

(→)
もう一つの文字は、よほど覗き込まないと見つかりにくい足の影の部分にあって、しかし、一番知りたかった像の建立年が、ここに刻まれていた。

建立年は、私のブロンズ像のイメージよりも断然古くて、なんと明治10(1877)年であった。
(「歳」は「年」の意味で使われており、「丒」は「丑」の異字体である。明治10年は丑年だった。)
明治10年頃の秋田の漁村の生活といえば、まだまだ江戸時代から引き継いだ旧慣が支配的であったと想像するが、なぜこの地の漁師たちは、敢えてブロンズ製の恵比寿像を建てようと思ったのか、気になるところだ。
私にこういう美術品の知識が全くないので何も言えないが、さほど珍しいものではないのかな。



さらに、像の足元に落ちていた1枚の古銭を発見。
表裏とも錆を吹いていて状態はとても悪いが、辛うじて紋様の一部が読み取れた。直径は2.3cmであった。

帰宅後、紋様やサイズが一致する古銭を探したところ、大正5年から大正13年に発行された桐紋一銭硬貨と判明した。
コレクションとしての価値は、仮に美品であってもほとんどないみたいだが、明治と大正がこんな小さな島の中に、形として残っていることに、改めて驚いた。
まるで島そのものが、八森の人々が庭先に埋めたタイムカプセルみたいじゃないか。





といったところで、雌島の恵比寿さま詣りは終了。

次は島の最高峰、雄島攻略!

ずっと気になっていた、“あの情報”の成否も、ついに明らかになる?!




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