紀伊半島の南東岸に位置する那智勝浦町の周辺にはリアス式海岸が発達しており、半島を巡り太平洋を行き来する古の船舶に風待の便宜を計る天然の良港がいくつもあった。
町の北部、新宮市と接する宇久井(うぐい)地区にも、そうした古い港から発達し、いまでは地方港湾に指定されている宇久井港がある。
地方港湾のご多分に漏れず、いわゆる港県道と呼ばれる種類の短い県道が認定されている。
一般県道237号宇久井港線。
昭和39(1964)年に認定された約1.2kmの短い県道で、紀伊半島の大動脈である国道42号と宇久井港をほぼ最短距離で結んでいる(右図)。
それほど道路ファンの注目に値する特徴があるわけではないが、強いて言えば、終点付近でちょこっとだけ狭い区間が描かれていることだろうか。あと、これは誰もがそうだというわけではないだろうが、あまり流行ってなさそうな地方の短距離“港県道”には、それだけで走ってみたくなるような魅力があるのも事実であろう。
今回はこの短い県道を探索するのもミニレポらしい任務なのであるが、もう1つ追加任務がある。
それは、この県道の終点からさらに1kmほど進んだ宇久井半島の先端部、目覚山の麓にかつてあった旧フェリー基地(埠頭)の調査である。
ここにフェリー基地があったことは、私がコレクションしている90年代の道路地図帳などに必ず掲載されているので知っていた。
今日では忘れられつつあると思うが、かつて70年代から00年代にかけて結構長い期間にわたって、宇久井のフェリー基地は太平洋を行き交う大型フェリーの寄港地であった。
代表は昭和48(1973)年から平成13(2001)年まで就航していた、東京〜高知間を結ぶフェリーであり、運営会社は途中で変わっているが、船体に大きくデザインされた三井商船グループを象徴する日の出の意匠で多くの船舶ファン、フェリーファンに愛された代々の「さんふらわあ号」が終始就航していた。(さんふらわあ号は現在も健在だが、那智勝浦寄港は2001年に廃止されて久しい)
「さんふらわあ」の寄港によって、那智勝浦宇久井の港は一躍、海に山にと魅力的な観光地がひしめき合う紀南の海の玄関口となった。
就航翌年の昭和49年は本航路が最も賑わった年であり、東京や高知から当港へ下船した者は実に17万人、当港からの乗船者も5万7千人あまりあり、当時まだ高速道路が全くなかった紀伊半島への観光ルートとして確かな存在感を示すことに成功していた。
ほかにも名鉄グループ傘下の太平洋沿海フェリー(現太平洋フェリー)の名古屋〜大分(別府)便「あるごう」も、復路のみだが寄港した時期があったし、さんふらわあ号が撤退した翌年からは、川崎〜宮崎便のマリンエキスプレスが寄港していた。だが、平成17(2005)年の同社の清算を最後に、このフェリー基地を利用する定期便はなくなった。これが紀勢自動車道の最初の区間開通の前年の出来事であった。
今回の探索では、この旧フェリー埠頭が最終目的地である。
2015/7/25 12:53 《現在地》
国道42号を勝浦市街から新宮方面へ走っていくと、角にローソンがある交差点がある。
右折する道が、県道237号宇久井港線だ。青看にもしっかり行き先が表示されており、他に国民休暇村(2022年現在は休暇村南紀勝浦と改名)や宇久井ビジターセンターなどの観光施設の案内もある。
だが、さすがに見当たらなかったな。
東京や高知、あるいは名古屋や大分、はたまた川崎や宮崎へのカーフェリーが運航していた時代の案内物は。
当時は間違いなくあっただろうし、数十年の間で何十万台という車がここを右折し、宇久井半島の先端、ここからおおよそ2.2km離れたフェリー基地を目指していたはずだ。
現在ここを右折する車は、ほとんどが地域住民であろう。
地方港湾としての宇久井港を利用する大型車両や貨物車両も、あまり多くはない。
この日は稀に見る猛暑であった。
私は角のローソンでシャリシャリしたアイスを購入し、これを煽りながら探索を進めるという、惰弱なスタイルで臨んだことを告白せねばならない。
そのせいで食べ終わるまでの前半戦はあまり撮影をしていなかったのだが、普通にストビューでも見れる道だから許してね。
これがその前半戦の道。
いたって普通などこでもある2車線県道だ。
左側には頂上に宇久井中学校を頂く小高い森があり、反対は海に向かうほとんど平らな住宅地になっていた。全線を通じてほとんど勾配のない路線である。
13:01 《現在地》
県道入口から500m少々で、初めて海が見えた。もう全長の半分近くを終えたことになる。
ここには分岐があり、右折すると宇久井港の岸壁があり、他に少数の石油備蓄タンクや漁船の船溜まりなどもある。
実質的に地方港湾としての宇久井港の機能は、ここを右折した先にあるのだが、県道は直進していく。
こういうふうに最新の港の機能と“港県道”のルートが合致しないことは良く見られることである(“港国道”でもよくある)。
港湾整備は道路法を中心とした事業ではないために、道路法で認定された道路は港湾整備の進展があってもあまり積極的には認定替えされないために起きているのだと考えられる。
と、ここで一つ文献からの受け売りを読んで欲しい。
地方港湾としての宇久井港の歴史に関する文章だ。読むとこの先の県道の風景を解釈する役に立つ。
そして一緒に掲載した新旧航空写真の比較も見て欲しい。
商港の宇久井港は、かつては地元漁船に利用されていたが、昭和20年代に後背地に巴川製紙および三重県鵜殿の紀州製紙ができたことにより、木材関連の貨物量が年々増加。昭和34年、県が荷役機械を設置する等の港湾整備を行い、さらに県・町が浚渫の土砂で港内に埋立事業を進め、昭和40年約8万7000平方メートルの土地造成が完成。同時に港内泊地や接岸施設の整備を行い、商港としての設備は整った。新宮港が完成するまでは、熊野灘で工業原料を扱う唯一の商港であった。現在は製紙原料ならびに原木類のほかに、港内の石油基地用の石油が移入され、建築骨材の砂利が昭和35年ごろから移出されている。
上記には書かれていないが、宇久井港が地方港湾に指定されたのは昭和28(1953)年のことで、それから県や町の手で埋め立てを含む大規模な港湾整備が昭和40年まで進められた。
県道237号の指定は昭和39年であり、地方港湾としての完成を見越して認定されたことが窺える。
そうして整備された宇久井港は、隣接する新宮市の新宮港(昭和45年に地方港湾指定)が整備されるまでは紀南唯一の工業港として、後背地の製紙業や木材業の出荷、建築骨材である砂利の移出などに広く利用されていたのである。
新旧地形図を比較すると、地形は全く変わっていないものの、岸壁の利用には変化が見られる。
全体的に昭和51年当時の方が多くの石油タンクがあったり、骨材を積み出すためのプラントがあったりと、賑やかである。
現在の宇久井港は漁港の船溜まりとしての機能がメインであり、工業港としての主要な役割は新宮港に譲った。
13:02 《現在地》
先ほどの分岐を直進した県道は、なおしばし山裾を走った後で、風の強い漁村らしく低い瓦屋根の建物が多くある住宅地へ入っていく。これが古くからの漁村としての宇久井の中心集落である。
既に起点から750m来ており、県道の終わりはもう近いが、ここで道は1.5車線になった。
県道はずっと低い所を走っていて見晴らしが利かないので気づきづらいが、航空写真を見れば一目瞭然に、この辺りから先は陸繋島の地形である。
宇久井半島は陸繋島の半島で、旧フェリー基地があった半島突端部分の高地はかつて島だったが、熊野川が運んできた土砂によって自然に本土と繋がった。
集落は南北が海になっている低い砂州上に広がっていて、南面は埋め立てられた宇久井港の岸壁で拡張されている。元は現在の幅の半分くらいの狭い砂州であった(この写真の道路の右側はもう海だった)。
1.5車線になった直後に、進行方向逆向きを正面とした“ヘキサ”がある。
写真はヘキサを読むために振り返って撮影した。
県道は宇久井港側が起点なので、おそらく起点を出発し最初に出会うヘキサがこれだ。
それにしても、暑さにさえ目を瞑れば、良い景色である。
熊野灘を映したような青い空と、霊山をいくつも抱える深緑の峰々が、宇久井のフェリー基地へ降り立った旅人を出迎える天然のもてなしであった。
時空を跨ぐ長距離の船旅ならではの愉快さが、そこにはあったに違いない。現在、長距離フェリーで紀南の港に発着する便は全くないので、かつて体験した人たちの宝物であろう。
ところで、このヘキサがある辺りの海側の埋立て地は、草が生い茂る中に遺跡然としたコンクリートの構造物が点在する不思議な廃空間になっている。
昭和50年代の航空写真だとここには砂利や砕石を扱う広大な骨材プラントがあり、その名残りである。ここに集積された熊野川流域産の砂利や砕石は、専用のベルトコンベアーで岸壁沖に停泊した砂利船へ積み込まれ、名古屋や京阪神の大消費地へと運ばれた。
13:03 《現在地》
アイス片手にローソンを出発してまだ6分しか経っていないが、県道は早くも最終局面を迎えている。県道としては終点から起点へ向けて走っていて、残りはもう100mほどになった。
海側の埋立て地は草生した廃墟のエリアもあるが、、新興の住宅地となっているところもある。
そんな住宅地の一角に、この写真の地味な交差点があり、県道は最後にここを右折する。
この最後の右折から先は、地理院地図には県道として描かれていないが、スーパーマップルデジタルは県道としている。
そして信頼すべき和歌山県公式の道路情報サイトの地図でも、右折を県道としているので間違いなかろう。
旧フェリー基地へ行くには道なりに直進なのだが、まずは県道を辿りたいので、一旦右折する。
あーー、好き好き。
好きよこう言うの。
いいよねこの……、県道に認定された当時の港湾機能からはかけ離れてしまったところに残る、
忘れられたような県道の姿…。決して廃道ではないが、それに通じるさびがある。
しかもこの最後は海へ通ずるストレートという潔さも“港県道”らしくて素敵。
目的地は、そして起点は、港湾の原点たる“海”なのである。
13:05 《現在地》
県道宇久井港線、起点到達。走破完了!
宇久須港の波穏やかな港湾に面する防波堤に突き当たったその地点が、県道の起点であった。
現在は素敵な住宅地の一角だが、認定当初は大型砂利運搬船が接岸する賑やかな骨材プラントのただ中だったはず。
防波堤を向こうには、鯨のような姿をした緑の島が、長い防波堤で本土と結ばれていた。
鍋島と呼ばれる島で、港への出入りはあの島と左の駒が崎の間の狭い海を通って行われる。
おかげでどんなときもこの海は穏やかである。天然の良港とされてきた由来だ。
(鍋島には光るキノコが大量に生えているらしく、子供たちを動員して大量に取りまくっている記事が面白かった)
といったところで、今回の目的その1を達成したので、
残るもうひとつの目的達成へ向けて、探索続行だ!
今度は工業港ではなく、かつて一時代を開こうとしたフェリー基地の名残を見にいくぞ。
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