ミニレポート第286回 国道352号不通区間 栖吉町末端部 前編

所在地 新潟県長岡市
探索日 2011.05.17
公開日 2024.11.08

 稀少な国道不通区間の“未来が見えない”末端へ


令和6(2024)年11月時点で、国道の交通不能区間(≒まともな車道として繋がっていない区間)がどのくらい残っているか、ご存知だろうか。

ちなみに、全国の国道の総路線数は459本で、その合計延長(実延長)は約55000kmある。


答えは、16路線、18ヶ所、合計195.7kmである。

上に掲載したのは、国交省の『道路データブック2024』の「一般国道における交通不能区間の状況(2023年(令和5年)6月末)」という資料だが、掲載されている路線のうち、国道417号の不通区間は同年11月の冠山峠道路開通によって解消したため、現時点では上記の数字になっていると思われる。

この数字を多いと感じる人よりは、少ないと感じる人の方が多いと思う。
“酷道”と呼ばれるような未整備の国道も次第に減ってきているが、“酷道”以下の未整備状態である不通区間となると、これはもう相当稀少な存在なのだ。
しかも、そのうちのいくつかは不通の解消へ向けた事業が進められている最中だから、遠くない将来に返上となる見通しがある。ここのような永久的に解消されなさそうな路線も含まれているので、不通区間の“絶滅”は今のところ考えにくいが)

今回取り上げるのは、上記リストの赤枠のところにある、国道352号の不通区間である。
総延長が331.7km(重複区間を除いた実延長は240.6km)もある長い国道352号には、全国屈指の“酷道”として名高い福島〜新潟県境区間の「樹海ライン」があるのだが、そこを通り抜けた先の新潟県長岡市の萱峠には、全長4.9kmの【自動車交通不能区間】未改良道路(供用を開始している)のうち幅員、曲線半径、勾配その他道路状況により、最大積載量4トンの貨物自動車が通行でき ない区間が地味に存在する。

ただ、上記リストにも掲載されているとおり、この萱峠においても、昭和55年度より長きにわたって新潟県による「萱峠バイパス」整備事業が進められており、いずれ不通が解消される見込みがある。

…………とも直ちに言い切れないのが、この路線の悲しいところだったりする……。

次の図を見て欲しい。



この図は、新潟県の平成21年度第1回再評価委員会提出資料を元に描いた萱峠バイパスの全体概要図だ。

そして、同じく新潟県の平成30年度再評価実施後5年経過した事業箇所の再評価項目表には、萱峠バイパスの事業目的が次のように示されている。

当事業区間にある現道は幅員狭小や線形不良が連続しており、萱峠工区を含む長岡市栖吉町から山古志種苧原間は、通行不能となっている。このため、山古志地区から長岡市中心部までは、一般県道栃尾山古志線及び県道柏崎高浜堀之内線を利用し大幅に迂回する必要がある。
萱峠バイパスを整備することにより、山古志地区と長岡市中心部を結ぶネットワークが構築され、日常生活圏(魚沼市・山古志地区・長岡市)の連携強化、日常活動の利便性の向上が図られるため、円滑な 生活道路交通の確保を目的とした延長11.0kmのバイパス事業である。

『平成30年度再評価実施後5年経過した事業箇所の再評価項目表』より

改めて図をもとに説明するが、萱峠にある国道352号の交通不能区間は、長岡市(山古志地区)の種苧原(たねすはら)から同市栖吉町(すよしまち)に至る途中の4.9kmとされている。

この不通区間に整備されつつある萱峠バイパスは、3つの区間からなる全長11kmの計画で、未開通なのは種苧原から萱峠の下にトンネルを穿って竹之高地町(たけのこうちまち)へ至る3.9kmの区間だけである。

ただし……、

先ほど引用した「事業目的」からは分かりづらい(故意に明言を避けている?)が、いま行っている工事が終わって、萱峠バイパスが「完成」することで、国道352号の不通区間が解消されて長岡市山古志地区と同市中心部が直結する……ワケではないことに注意を要するのである。

なぜなら、図でも分かるように、萱峠バイパスが全通しても、不通区間の南側の行き止まりが種苧原から竹之高地町へ4kmほど移動するだけで、引続き竹之高地町から栖吉町までの不通区間(推定3km)は残るのである。
そして残念なことに、この竹之高地町から栖吉町へ至る区間の整備は、未だ事業化されていない。
事業主体さえ決まっていない状態だ。

萱峠バイパスの事業化は、昭和55(1980)年であるという。
既に事業開始から44年を経過していまだ開通していないばかりか、やっと開通しても、その先に未だに事業化さえされていない区間が残っているのである。
不通区間の完全解消までは、まだまだ気の遠くなる話しだと思わないだろうか。
まあ、今後急にとんとん拍子で事業化されれば、案外20年くらいで開通し、私が生きているうちに国道352号の不通区間が解消する可能性はゼロではないと思っているが…。


萱峠バイパスが抱えるジレンマを垣間見ていただいたところで、現地の景色も添えておこう。
撮影はいずれも、いまから13年前の平成23(2011)年の5月16日である。


海抜約700mの萱峠頂上付近の景色。
近世以前より山古志地区と越後平野を結ぶ主要な交易路として利用されてきたが、明治以降の車道化には恵まれなかった。
峠と名前はあるが鞍部らしい地形ではなく、緩やかなピークを越える峠である。一帯は数年前まで放牧地として利用されていた。種苧原から頂上まで車道が通じているが狭い。

チェンジ後の画像は、峠付近から見下ろした山古志側の山々。中央右寄りの人家が集まっているところが種苧原だ。
山肌の至る所に茶色い地肌が見えているのは、当地方が全国一の地すべり地帯であるためで、山古志村に壊滅的な被害を与えた平成16(2004)年の新潟県中越地震の傷痕も多く含まれる。



一方こちらは、萱峠の直下で建設が進められている萱峠トンネル(仮称)種苧原側坑口の様子。
全長約1.2kmの本トンネルを含む、トンネル3本を有する3.9kmが現在も未開通である萱峠バイパス最後の区間であるが、これらのトンネル自体は平成21(2009)年までに貫通済みである。
にもかかわらず附帯工事が難航し、未だ供用開始に至っていない。

事業再評価年度2008年2013年2018年2023年
事業開始からの
経過年数
29年34年39年44年
事業進捗率
(事業費ベース)
80%78%84%86%
事業費155億186億186億193.5億

上記は、直近4回の5年毎の事業再評価時の事業進捗率や事業費の変化をまとめた。
この間、新たな供用開始はなく、ずっと最後の3.9km区間の整備を続けているが、事業の進捗は遅々としている。一応、中断はされていないようだが…。
事業の進捗が遅い理由としては……

“厳しい経済状況による公共事業削減などの影響により、当初、見込んでいた事業費の確保が難しい。
(H20年度国道事業費は、H15年度国道事業費の49%に減少している。)”
2008年の事業再評価より
“トンネルの掘削に際して、当初想定していた地山よりも脆弱であったため、掘削補助工法等の追加を余儀なくされた。”
2008年の事業再評価より
“萱峠工区内の雪崩予防柵工工事の用地の取得において、相続未登記の土地があり、関係相続人が多数いたため、その対応で不測の時間を要したため、事業進捗が遅れた。”
2018年の事業再評価より

……などと毎回言い訳されているが、事業の長期化に伴って事業費も増える傾向にあり、2018年の費用対効果(B/C)は0.6まで低下している。(これは本来なら事業中止となる数字だが、残事業については1.5であるため事業は継続されている)



種苧原の国道末端附近に設置されている「萱峠トンネル」の看板には、完成予想図と供にバラ色の未来が描かれていた。
これを見ると、トンネルが完成すればそのまま長岡市街地へ抜けられそうな雰囲気だが、実際は前述の通り、竹之高地町までの事業予定である。
とはいえ、種苧原地区から竹之高地町を経由して長岡市街地へ出られるようになるので、従来の羽黒トンネルを通るルートよりは4kmくらい短縮され、一定の整備効果はあると思われるが。


萱峠バイパスの概観を紹介し終えたところで、ようやく今回の探索の内容へ入っていく。

今回紹介したいのは、先ほど掲載した地図のピンク枠の範囲……長岡市栖吉町側の末端部である。

次の地図を見て欲しい。


先ほど見て貰った数点の現地写真は、全て種苧原側のものであったが、今回探索レポートとして紹介したいのは、反対の栖吉側末端部である。

地図は最新の地理院地図だ。
この区間の国道352号は、国道17号の長岡東バイパスにある長倉ICから始まる。
そこから東へ走り、栖吉町の集落を抜け、栖吉川の谷に沿って山へ入っていく。
そして唐突な国道末端へ。ここまで長倉ICから約6.5kmである。

国道の色を塗られた道が終わる――ただそれだけで、国道ファンにとっては大注目の場面である末端附近だが、地図上では特に集落や施設のある様子は見えない。
とても地味そうな末端である。

そしてここは、開通という名の”未来”が見えていない、悲しい末端である。
再三述べている通り、2024年11月現在において、この栖吉側の末端から竹之高地町で現在工事が進む萱峠バイパスの末端までを繋ぐ約3kmは、事業化されていない。具体的な整備計画が見当らないのである。だからこそ、現時点では全く解消の見通しが立っていない末端ということになる。それを私は悲しいと感じるのである。

そこが実際どんな場所なのか、そしてどんな道が通じているのか、気になるのではないだろうか。
私は気になったから、萱峠を訪れた翌日の2011年5月17日の朝に行ってみた。
本編はその内容となる。

本編は、4.9kmある不通区間の攻略を目指すものではない(それはまた別の機会に)。
また、今回探索した全区間の車窓は、グーグルストビューにて2023年7月時点のものをみることができる。となると、これはあまり意義のある探索と思われないかも知れないが、冒頭で述べたとおり、いまや国道の純然たる不通区間は数が少なくなっており、その存在自体が貴重なのである。こねくり回さない理由はない。





2011/5/17 7:08 【全体地図】【現在地】

やって参りました。国道352号の”末端”への旅。
この1枚目の写真の場所は、国道17号と国道352号が立体交差で接続する長倉ICより、国道352号を1.1kmほど不通区間方向へ走った路上だ。
ここまでの路上には特に不通区間を予期させるような標識類は見当らず、各種分岐の行先表示には常に「栖吉」が表示されていた。

見ての通り、現代の国道としてなんら遜色のない整備状態だが、路傍に“おにぎり”を見つけたので車を停めて運転席から撮影した。
朝の時間にそれが許されるくらい交通量は少なめだが、それもそのはず、この先に待つ集落は栖吉一つしかない。
広い道の先には越後山脈の前衛的山域である東山丘陵が横たわっており、その最高峰である鋸山(765m)も見えている。
待ち受ける不通区間は、丘陵と呼ぶにはいささか高いこの主稜線を、ここからは見えない萱峠(約700m)で越えて、同山域に深く抱かれた山古志地区へ抜けるのである。

このように現状の交通量に見合わない上等な整備がなされているのは、ここもまた「萱峠バイパス」として整備済みの区間だからである。
事業主体である新潟県の資料によると、長倉IC附近から栖吉集落付近までの2.6kmの現道は「萱峠バイパス」としての供用済み区間であるという。
そこは栖吉側では唯一となる同バイパスの事業区間であり、開通時期は平成初年代と思われる。

既に紹介したとおり、計画延長11kmの萱峠バイパスは、未だ事業化されていない不通区間によって、栖吉側と種苧原側に分断された存在だ。
だが、そもそも分断された両側に同じ事業があることは、不自然極まりない。
当然、分断を解消する不通区間の整備についても、何らかの計画があることが、昭和55年から長らく続くこの事業の大前提であったと思われる。
残る区間については新潟県の事業としてではなく、国の直轄事業としての採択が目論まれているのではないかと推測するが、裏付けとなる証拠は未発見だ。



7:08 《現在地》

長倉ICから約3kmで、栖吉集落へ辿り着く。
ここまでは歩道付きの2車線道路だったのが、集落に入る辺りから懐かしい感じの1.5車線道路となり、歩道は消え、路肩すれすれに住家が並ぶ。
萱峠バイパスとしての整備区間が終わり、昭和50(1975)年に初めて国道352号に指定された当時からおそらく変わっていない従来の道路になったのを感じた。
いかにも未改良の3桁国道らしい控え目なサイズの【おにぎり】も、懐かしさを感じさえた。

写真は栖吉集落の中心部にある市道との交差点で、国道は直進だ。
この交差点にも案内標識はなく、行く手の不通を予告するものは相変わらず見当らない。
今日では「世にも珍しい」存在となりつつある国道不通区間まで残り3kmほどと迫っているが、総じて地味に推移している。

全国にある他の不通である国道の前後風景と比較してみても、もっと大々的に、「この国道は行き止まりだぞ!」とか「延伸希望!」みたいなアピールがあるものと予想していたが、そういう感じはない。なんというか、地元では不通であることが普通で、違和感なく溶け込んでいる雰囲気を感じた。
ちなみに同じ不通区間の反対側末端の種苧原には、前掲した【こういう看板】などのアピールがあったから、少々の温度差を感じた。

実際に地区の目前で延伸工事が進められているかどうかの違いもあるだろうが、そもそもこの道路の開通への期待感にも、峠の表裏で温度差がありそうだった。こういうのは大抵、都市側よりも山村側の方が欲求が強くなるが、この場合、栖吉が前者、種苧原(山古志)が後者だ。


……ここで、車からいつもの自転車に乗り換えた。



7:10

栖吉集落内の国道は総じて前時代的なものであるが、同集落は田園地帯と山峡の境にあたり、道は集落内を小刻みに蛇行しながら次第に上り坂となって、峠へ連なる渓谷へ入り込んでいく。

いまでは珍しい(おそらく不名誉な)不通国道の一例となっている萱峠だが、決して歴史の浅い道ではない。
近世以前より長岡藩城下より山古志へ至る最短ルートとして広く利用される交易路で、峠の前後にある栖吉と種苧原には多くの人と物資が集まった。
その名残りは栖吉の国道沿いに細長く連なる典型的街村の形態や、沿道の方々に見受けられる古い石仏に残されている。
かつて古志郡栖吉村といったが、中越地方の中心市として拡大した長岡市域に昭和25(1950)年に組み込まれ、現在は長岡市栖吉町が正式な地名である。



7:15 《現在地》

沿道最後の人家を過ぎると同時に、旧栃尾市半蔵金(現長岡市内)への山越えである林道真木半蔵線を左に分ける。
そしてその直後、国道は1.5車線のまま、初めて「通行止」という文字を記した看板が2枚同時に現れた。
長倉ICから3.9km地点である。

2枚の看板が語る内容はそれぞれ、「冬期間通行止」と「連続雨量80ミリになると通行止 この先2.0km」であり、いずれもこの先の不通を予告するものではなかった。
この後に及んでなお、不通は予告されなかった。



それはそうと、この看板の地点(冬期間と異常気象時の通行止地点)の山側は、遊具のないミニ園地として整備されており、いくつかの石仏と共に、一際目立つブロンズ胸像が安置されている。
掲示された碑文によれば、栖吉村の出身で同村村長、新潟県会議員、県議会議長などの要職を歴任し、「県政と大長岡建設の基盤づくりに貢献した」戸田文司氏を顕彰したものである。

これは余談だが、彼の名前はある時代の新潟における道路整備に関する話題では、ほぼ必ずと言って良いほど名前が挙がる田中角栄元総理のエピソードに、しばしば登場する。田中氏を強力に支持した地元の長老的ポストであったとされるためだ。
そんな彼が栖吉村の人物であったなら、その栖吉とやはり田中氏の強力な地盤だった山古志を結ぶこの路線の整備が、彼の総理時代までに達成されなかったことは、寧ろ不思議に思えてくる。

とはいえ、田中内閣の総辞職は昭和49(1974)年12月で、萱峠の国道昇格が昭和50(1975)年4月。
シビアなタイミングだったが、国道昇格の内定は田中総理時代であろう。
もし辞職が数年遅ければ、この国道もとうに全線が開通していたかも知れない。
そしてその開通の後にこそ、この位置に戸田文司の胸像が建つ意味が、背景を知る人にこそ知られるという案配であったのかも……、なんてことを考えたのである。





7:19 《現在地》

不通区間に臨む最後の集落である栖吉の人家を全てやり過ごしても、道は集落内と同じ1.5車線道路のまま、栖吉川の渓谷沿いに延びている。
交通量は今まで以上に少ないと思われるが、舗装や路上の白線はまだ意外に綺麗である。
至ってどこにでもありそうな普通の道路風景だ。

果たしてここからどのような“末端”に繋がるのか。楽しみである。



7:23 《現在地》

間近な清流の音を供として、緩やかな谷道をしばらく行くと、本流に注ぐ小さな支流に架かる短い橋が現れた。
外観において特筆すべきところは見当らない通常の橋であるが、本橋には、未だ開通せざる道が歩んできた長い歴史に想いを致す機会を与える、ある印象的な要素が、ひっそりと仕込まれていた。

それは、橋の四隅の親柱に掲げられた4枚の銘板のうちの1枚に刻まれた、次のような内容である。



(一)県道広神長岡線

これは路線名である。
基本的に4枚セットである橋の銘板のうちの1枚に、その橋が所属する道路の路線名が入るのは、新潟県の大きな特徴(地域色)だ。
ちなみに他の3枚は「橋名」「橋名の読み」「竣功年」になっていて、他の地域ではしばしば入る「河川名」が省略されている。
本橋の場合、橋名は真木川橋、竣功は昭和45(1970)年11月と記されていた。

注目すべきはもちろん、路線名である。
現在の路線名は「一般国道352号」となるはずだが、銘板にあるのは橋の竣功時点の路線名である。
こういう風にして、ある道路の旧名を現地にいながら知る機会が多いのは、新潟県を探索するときの愉快な特徴である。

昭和50年から国道352号になっているこの道路だが、昭和45年時点では、一般県道広神長岡線であったことが分かった。
さらに言うなら、国道昇格以前のこの段階で、当時の国道として遜色がない幅を持つ橋を新設していることが印象的だ。
当時の萱峠は県道広神長岡線の不通区間であったわけだが、既に不通区間の解消へ向けた準備的な道路整備が始められていたことを窺わせる。
昭和55年からスタートした現在進行中である萱峠バイパス事業の前身といえる“何か”の計画が、既にあったのではないだろうか。


そして、この橋の銘板における“小さな発見”は、すぐに次の発見に繋がった。



7:25 《現在地》

これは偶然か分からないが、真木川橋を渡った地点から道幅が2車線となり、センターラインによってそれが明示されるようになった。それまでの1.5車線道路より、少しだけ広くなったのである。
そしてすぐに(200m足らずで)、今度は栖吉川の本流を横断する、2本目の橋が現れた。

1本目の橋は少しだけ古さを感じさせるコンクリート高欄だったが、2本目の橋は赤い塗装をされた金属高欄だった。コンクリート高欄よりは現代的で、橋幅も少し広い。
親柱がないので4枚の銘板は高欄の四隅に取り付けられていたのであるが、それによると、橋名とその読みは「祓(はらい)橋」、竣功は「昭和47(1972)年12月19日」で、気になる路線名は――



(主)長岡小出線

――と、こうなっていた!(興奮)

私がここでさらに興奮気味になったこと、皆さまも共感していただけるだろうか?

なんと、竣功年がたった2年新しい今度の橋は、一般県道から一段階昇格して主要地方道となっていた!
それに伴い路線名も変化して、主要地方道長岡小出線というのが、昭和47年12月当時の路線名だったのである。

ある1本の道を進むに従い、橋の竣工年が次第に新しくなったり古くなったりするのは、よく見る変化だ。
そのような変化を見ることで、いつ、どんなペースで整備が進められたかが見えてくる。
本道路の場合は、一般県道であった時代から整備が始まり、まもなく主要地方道に昇格していることが分かった。
そしてこの次の段階が、現在の路線名である国道352号への昇格だったのだ。

脳裏に浮かんだのは、出世魚。
“一般県道→主要地方道→一般国道”という、道路における最も典型的な昇進コースにこの道路は乗っていた。出世の度に路線名も変わっている。
(一)広神長岡線も(主)長岡小出線も、【この地図】を見れば分かるように、現在の国道352号の経路の元となった直系の先祖であろう。

このような2段階の昇格自体は全国的にも珍しいことではなかったが、隣接する橋の銘板によって、その進展が暗示されるような状況は、新潟県ならではの楽しさだと思った。
しかも、工事の進展と同時進行のように、短い期間で2回も昇格して、とんとん拍子と思える国道昇格を果たしながら、それから半世紀近く経過してなお、未だ全線開通には至っていないという現実のシビアさ、急激な事業の鈍化も、印象的だった。
これもまた、田中内閣総辞職(昭和50年)の影響だったのだろうか……。



祓橋を渡った先は急な左カーブで、そこに雪渓のような大量の残雪が残っていた。
雪崩が堆積していたのかも知れない。
そのため、本来の2車線道路は完全に雪の下に隠された状況だったが、道路沿いの空地にこれを迂回する大量の轍が刻まれていて、いわば“勝手道”のような状態で通行されていた。

5月下旬で、これだけ緑のシーズンになっても、地形によっては雪の交通障害が残るのが豪雪地の難しいところだ。
一応冬季閉鎖期間は明けているのに、この有様なのだ。本来こういう場所にはスノーシェッドや雪崩防止柵を手厚く整備し、通行の安全を確保する必要があるだろうが、現状はとてもそこまで手が回っていない。ただ2車線道路があるだけ。



7:32 《現在地》

一般国道三五二号線

キターーー!!!

祓橋からさらに400m進んだ地点に架かる3本目の橋の銘板だが、今度は確かに「一般国道三五二号線」と刻まれていて、見事、銘板の路線名が2段階の昇格を果たしたことを確認した。
この「中子橋」の竣功年は「昭和55(1980)年3月」となってるから、これは確かに国道昇格後の橋であった。

1本目から3本目まで。僅か600mの間に連続して架かる3本の橋の銘板が、いずれも異なる路線名を記しているというのは面白い。そして珍しい。
これらの竣功年の差から、この区間の工事が昭和45年から55年までの10年をかけて進められたことも窺い知れるのである。
本レポートを書くうえで一番に伝えたかった“驚き”は、この3本の橋の3枚の銘板のことであった。
とても地味ではあるのだが、この秘かな愉快さが皆さまにも伝わっていると嬉しい。

次回は、いよいよ末端へ。





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