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3本目の橋である「中子橋」から200mほどで、すぐに4本目の橋が現れた。
これまた栖吉川の本流を渡る橋で、規模も外観も立地も、3本目の橋とほとんど区別が付かないくらいそっくりな橋であった。
例によって銘板をチェックしたところ、「中ノ橋(なかのはし)」「昭和55年12月竣功」「一般国道352号線」といった情報を得た。
1〜3本目の橋は登場の度に路線名が違っていたが、これ以降は全て国道の橋であろう。
2011/5/17 7:37 【現在地】
国道17号長倉ICより約6km進んだところにある大きな左カーブの地点にて、山肌を斜めに切って登っていく急な脇道を見つけた。
チェンジ後の画像はその入口の様子で、脇道の方を指して「萱峠コース」「萱峠登山口」と書かれた木製道標が設置されていた。
同じ道標に拠れば、国道の進路は「花立コース入口」となっており、この地点がこれら二つの登山道ないしハイキングコースの分岐地点として案内されているのである。
私はこの「萱峠コース」を歩いてみたことはないが、入口にはしっかりとした踏み跡が付いていた。
それだけでなく、ある時期の地形図を見ると――
――この「萱峠コース」の歩道が、国道352号であったように描かれていた。
掲載した地形図は、昭和56(1981)年版のものである。
この時点では2本目の橋の「祓橋」までしか現在の国道は描かれておらず、3本目、4本目の橋の代わりに、林道然とした細い道が国道色で描かれている。
そして、「現在地」から先は点線の徒歩道となって、西側の尾根から萱峠を目指す道が国道色で塗られている(分かりづらいので赤く着色した)。
この表記が正しいとすれば、国道352号が初めて指定された当初の不通区間は、現在の「萱峠コース」を通る“登山道国道”だったことになる。
一方、チェンジ後の画像は最新の地理院地図であるが、「萱峠コース」は依然として徒歩道として存在しているが、そこに国道の色塗りはされていない。
代わりに、跡もう少し先でぷっつりと終わってしまう広い車道が、国道として塗られているのである。
私も、引続き広い車道を進む。
コース分岐地点のすぐ先に、5本目の橋が架かっていた(写真は振り返って撮影)。
例によって銘板をチェックすると、「地蔵岩橋」「昭和57年1月竣功」「一般国道352号線」などの表記があった。
そして、この5本目の橋こそ、現時点における国道最奥の橋であった。
もう車道の末端が、迫っている。
7:44
地蔵岩橋を過ぎると、国道は最終的に栖吉川を右に見ながら進むようになる。
川沿いの上り坂が目立って急になってきて、いよいよ地形が奥地化しつつあるのを感じるところだが、それでも道幅や路面状況は変化せず、特に行き止まりを予感させる表示物も依然として現れない。
そして、長倉ICからおおよそ6.5km、栖吉集落外れの「胸像」および冬季閉鎖地点から約2.5kmの地点に到達すると――
7:45 《現在地》
貴重な “国道ブチギレ地点” 登場!!
これ見よがしに、ブッツリ切れてやがる!
まさしく、絵に描いたような未成道の末端風景だ…。
ただ、いちおう終点には真っ当な「目的地」といえるような施設が、存在していた。
それは、末端直前の道路左側に用意されたごらんの駐車スペースで、「花立峠2.4km 鋸山3.4km 登山口」と書かれた木製道標が設置されているほか、駐車場の奥からは踏み跡の濃い歩道が山手に延びていた。ここは「花立コース」の登山口であり、登山者のための駐車場なのである。
この施設があるお陰で、行き止まりである国道にも存在意義が与えられている感じだ。
(チェンジ後の画像)地理院地図が道を国道色で塗っているのは、この駐車場の入口までである。
だが、同じ幅の道自体は、もう少し先まで真っ直ぐ続いている。
引き続き、いかにも未成道らしい“真の末端”を目指して直進する。
なお、現在は登山コースとして利用されている花立峠だが、萱峠と同じく東山丘陵の主稜線を越えるこの峠も歴史の深い道だった。
越えた先は旧栃尾市の半蔵金集落となっており、「胸像」地点で【分岐した】林道真木半蔵が、実質的に花立峠の現代版ルートといえる。あちらは一応車での通り抜けが可能なようである。
標高に目を向けると、栖吉集落が約90mで、そこから2.5km入った車道末端の「現在地」は約200mである。
ここまでは全体的に勾配の緩い谷道であったが、この先は花立峠にしても萱峠にしても標高700mクラスの高みに聳えており、山の地形も相当急峻である。
麓から来た道路整備がここで(長らく)止まっているのも、この先はどうやっても難工事が予期される地形だからだと思われる。
ここまでの5本の橋の竣工年を見る限り、昭和40年代から整備が始まり、50年代末頃には、ここまでの整備が行われたようだった。
現在まで続く萱峠バイパスの整備事業は昭和55年の開始らしいので、その前の事業だったのだろう。
私が探索したのは2011年5月なので、もう十年以上も前のことである。
当時は本編の内容通り、長倉ICから国道の末端に至るまで一度も国道の不通を予告する表示物は見当らなかったのであるが、2023年7月に撮影されたストリートビューを見てみると(↑)……
末端直前の【この地点】に、「はここまで この先は通行不能区間です」と書かれた新潟県長岡地域振興局が設置した看板を見つけた。
ここ10年ほどの間に、わざわざ設置したようである。
なんだかんだ、末端までの手入れは続いているようで安心した。
7:46 《現在地》
国道352号不通区間の末端には、登山者向け駐車場が用意されていた。
だが、そこから始まる登山道とは別に、ここまでの国道の進路をそのまま引き継ぐ広い道が、なおも直進して延びていた。
未舗装であるうえ、最新の地理院地図だとここから先は国道の色は塗られていないが…。
写真は、駐車場の入口から真っ直ぐに50mほど進んだ地点だ。
ここにも分岐が存在していた。
地理院地図では右の道だけが描かれており、正面の道……といえるのかも怪しい、いかにも未成道の末端らしい部分は描かれていない。
まずは右の道へ行ってみる。
入口にバリケードが設置されていて、奥で何かの工事が行われている現場の雰囲気だが、人気は無かった。
なお、昭和27(1952)年の地形図だと、ここからさらに栖吉川を遡り、最終的に萱峠の北側にある「割坂」という峠で山古志へ越える道が描かれている。
だが、この「割坂」という道は、昭和47年版以降の地形図からはすっかり抹消されている。
そのことを踏まえて、チェンジ後の画像は最新の地理院地図である。
最新の地理院地図にも「割坂」は描かれていないが、驚くべきことに、現在の国道352号は「割坂」を通るルートになっているようだ。
地理院地図には描かれていないのだが、新潟県が公表している緊急輸送道路図(長岡地域)を見ると、図上に赤線で示した経路で国道が描かれているのである。
本編冒頭で紹介したように、国道352号には4.9kmの自動車交通不能区間が指定されているのであるが、これは逆に言えば、供用中の現道自体は存在するということだ。そしてその現道の位置というのは、意外なことに、萱峠ではなく、「割坂」越えのルートであるようだ。
「割坂」、どんな場所なのか気になるが、今回そこを目指すような大それたことは企てていない。それはまた別の機会だ。
そんな訳で「割坂」を目指す気概はないのだけれど、分岐を右折して川沿いに進むこの道が「割坂」方面の入口と考えられるので、将来の探索のため、ちょっとだけ探ってみよう。
一応は、この足元の空間を供用中の国道352号が通っているはず。少なくとも、道路台帳の図面上ではそうなっていると思う。
これで“おにぎり”でもあれば、多くの酷道ファンが飛びついたと思うのだけど、なんにも無さそうである。
それどころか、現状の地形は、奥に見える大きな砂防ダムの工事によって蹂躙されていて、そもそも、砂防ダムを越える道が残っているのかも怪しい感じだ。
さらに進む。
おおっ! 廃橋の橋台跡を発見した!
砂防ダムの手前、小さな支流が左側から落ち合っているのだが、そこを渡る短い橋の跡であるコンクリート橋台が両岸に残っていた。
よく見ると、橋台の支承部に横木である丸太が乗っている。すなわち、木桁の橋(木橋)だったということだ。自然に落ちたのか、洪水で流されたのか、名前も分からない橋である。
鉄板敷きの砂防ダム工事用道路は、橋跡のすぐ下流を仮設の暗渠で越えているが、台帳上の国道は、いまもそのまま廃橋の位置に残されていそう。
7:49
さらに砂防ダムに近づくと、直前の橋跡の続きである道形が、山際を横切る明瞭な平場となって現れた!
きっとこれが、国道352号の現道だ!!
平場に登ってみると、確かに1車線幅の車道らしい道形であった。
意外にしっかりとした道幅がある。直前のコンクリート橋台を踏まえれば、この辺りまでかつては車が入っていたと思われる。
チェンジ後の画像は、下流側を振り返って撮影。
知られざる国道352号の廃道化区間を発見してしまったようで、とても興奮した。
これでこのまま良い感じの廃車道が峠に向かっているとすると、探索の大変なお宝発見という期待も持てたのであるが…。
7:50
案の定、建設中の砂防ダムによって道の跡は全く無造作に分断されていて……。
しかも、砂防ダムを迂回して先へ進む道は特に用意されていない様子。
ここで、完全に分断されている!
曲がりなりにも国道352号の現道があると思われるのに、なんと悲しい仕打ち!
諦め悪く、手近な草付きを這い上がり、砂防ダムの天端まで登ってみたが……
7:55 《現在地》
無情にも、ダムの上流にそれらしい道形は見当らなかった。
そしておそらく、砂防ダムとして稼働を始めた後は早晩、かつて道があった谷底は厚い土砂に埋没してしまうことだろう。
ある程度上流まで行けば、砂防ダムの影響を脱して、かつての「割坂」の道が残っているかも知れないが、正直、この手の崩れやすく草の育ちやすい土の山に長い時間取り残された廃道は、よほど時期を選ばないと、まともな探索にはならないだろう……。
やはり今日はここまでだ。こいつは一筋縄では行かない。
8:03
分岐まで戻って来た。
最後は、広い直進路の末端へ行ってみよう。
ああ…、これぞ未成道……。
ブルドーザーで荒通しされただけのもやっとした切り通しが、急坂になって真っ直ぐ続いている。
道幅は狭くなったが、それは広い切り通しを造る途中の段階だからだと思う。
昭和40年代後半から50年代の後半にかけて、途中に5本の橋を架けつつ、一般県道、主要地方道、国道と足早に出世しながら新設された国道が、遂に力尽きた末端である。
なんとなく、きりの良いところでスパッと道が終わってなくて、こういう未完の工事跡が少し伸びているのは、工事の中止が何らかの想定外の要素を孕んだものであったことを窺わせる。
断定的なことは言えないが…。 やはり、彼の失脚が……
8:06 《現在地》
最後の分岐から100mほど、荒通しされた掘り割りが真っ直ぐ続いていたのであるが、それを抜けて右手に谷が開けたところで、多少の盛土をした感じのまま、ぷっつりと、道の痕跡は終わった。
長倉ICから約6.7kmにて、真の末端、造成途中で放棄された未成道部分の終端に到達した。
少し先には駐車場で分岐した花立コースの登山道が見えたが、ここから行くようには出来ていない。完全に行き止まりだ。
末端より、長岡市街方面を振り返った。
現在建設が進められている萱峠バイパスの山古志側終点である竹之高地町へは、ここから直線でも約3km離れている。
そして、この最後の空隙を埋める道路は、未だ事業化されていない。
私が生きているうちに、この道路は繋がるのか。誰も答えられそうにない。
昭和61(1986)年に発行された人文社の『新潟県広域道路地図』を見ると、国道352号の計画線が既に全線描かれていた。
本編冒頭では、昭和55年に事業化された現在の萱峠バイパスの計画について、新潟県が公表している資料を基に解説したが、同事業がスタートして間もない当時、既に国道352号の不通を全て解消するだけの計画が公表されていたことが伺える。
当時は種苧原から栖吉町まで、一貫したバイパスとして建設する計画だったのだろうか。
それが何らかの事情で、現在のように種苧原〜竹之高地町を萱峠バイパスとして先行実施し、竹之高地町〜栖吉町については、この事業では実施しないことになったのか?
どなたか、事情をご存知の方がいたら、教えて欲しい。
とりあえずは、未だ完成予想時期の発表がない萱峠バイパスの完成を、首を長くして待とう。
そうすれば、残りの区間もなんとかしようという機運が盛り上がるかも知れない。
山古志と長岡を東山丘陵越えで結ぶ萱峠は、塩を始めとするいくつかの生活必需品を外部から供給されなければならない立地である山古志地域にとって、古くから利用された生活路であった。
その必要性を示すように、昭和27年の地形図を見ると、萱峠の周辺に並列するいくつかの別ルートが見える。具体的には萱峠の北西側に南蛮峠があり、北東には割坂と花立峠が描かれている。
だが、これらの中に車道化を果たした峠はない。いつになるのかは分からないが、国道352号から不通区間がなくなるときが、その歴史的な瞬間になるだろう。
ここでは、恵まれることが少なかった明治以降の萱峠の整備史について、文献より分かったことを紹介したい。
山古志村が昭和60(1985)年に発行した『山古志村史 通史』には、大正期から昭和初期にかけて目論まれた整備計画についての言及があった。
少し長いが引用する。
もうひとつは昔からの長岡で出る道のひとつとして、道路法施行まで唯一の郡道であった種苧原長岡線である。萱峠から栖吉村を通って長岡に出るこの道は、それまでもしばしば使われており、当初開鑿にも力を入れていた道であった。郡制の廃止に際してすばやく「郡県道移管願」(大正11年10月)が出されたのも同道であった。
翌大正12(1923)年の7月から8月にかけて、萱峠開鑿のため村をあげた工事が進められた。「萱峠道路開鑿人夫帳」によると、7月22日から8月5日まで、連日のように村人が交代で出夫した。7月26日には、「夕刻工兵大隊萱峠線開鑿の為め下士壱名卒十六名出張」(佐藤久佶「大正12年当用日記」)してきたという。軍隊に助力を請うことによって、萱峠道開鑿の悲願を達成しようと計ったのである。
しかしこのような努力にもかかわらず、結局県道への認定からは、はずされてしまった。昭和2(1927)年には、種苧原村、栖吉村、山通村、半蔵金村、広瀬村の連名で、同線の「県道編入願」が出された。この道は「長岡街道」として物資運輸の重要な道なのに、県道認定からはずされてしまい、非常に不便になってしまった。是非県道として認めて欲しいという趣旨であった。しかし、改修に余りに費用がかかることが懸念されてか、同道はなかなか認められず、昭和5(1930)年に至ってやっと県道に認定された。
萱峠の道は、旧道路法が施行された大正8年の時点では、郡道種苧原長岡線に認定された。
だが、まもなく郡制が廃止されると郡道も廃止の運びとなり、関係者は県道への昇格を要望したが却下された。
並行して関係者は自力での道路整備を計画し、陸軍の手も借りて努力したが、資金不足のため十分に目的を達することは出来なかった。
これはやはり県の事業として正式に取り上げて貰う必要があると痛感したが、そのためにはまず県道への昇格を果たす必要があった。しかし県側としても、600m以上の高低差を克服する必要がある萱峠の整備には膨大な費用を要することが予期されたので、多数の要望を限られた予算で割り振らねばならない以上、容易にこれを容れることは出来なかった。
そんな状況でモノを言ったのは、強い政治家の政治力であった。
そのようなことを山古志の人々が強く印象付けられるような出来事があった。
次は、昭和56(1981)年に発行された『山古志村史 史料2』からの引用である。
道路の開鑿が山古志郷の人々にとって最も切実な願望であったことは、早くからそのための活動が活発におこなわれていたことからも伺うことが出来る。実際、現金収入を得るために出稼ぎに行くにしても、町の往来が簡単であれば、それだけ有利な雇用の機会を得ることが出来るはずであった。道路が悪いため、米やまゆなどの生産物を肩にかついで小千谷や広神村、栃尾町などの市場にもっていかねばならなかった。
道路をめぐる政党と村民の関係は、民政党とて同じであった。東竹沢村でも、堀之内種苧原線にはずれる梶金区では、むしろ種苧原長岡線等への関心が深かった。そしてこの線の完成を積極的に推しているのが民政党議員の桜井真吾であった。昭和2(1927)年の県議選において、竹沢村、東山村、種苧原村、それに東竹沢村梶金区の多くの票が桜井に投じられた。桜井はその期待に答えるべく努力し、その結果同線は昭和5(1930)年10月3日に県道として認可され県報に告示された。したがって、「関係村落では永年の懸案が目的を貫徹したのは畢意桜井氏の努力の賜物であると感謝」していたという。
大正14(1925)年に普通選挙法が公布されてから、多くの地方政治家やそれを志す者達が、自らの票田となる地盤を作り出すべく、支援者が住まう地域の道路整備など、利益の提供を公言しながら激しい選挙活動を行うようになった。
比較的産業に乏しい山村ゆえ、それまで公共事業などの面で冷遇を感じていた山古志地域の人々にとっては、そうした政治家の活動は大きな助けとして受け止められた。
昭和5(1930)年に、県道種苧原長岡線への昇格を果たした萱峠であったが、その後もなかなか県による整備の順番は回ってこなかったようだ。
それでも、県道であればこそ、県の力で改良される希望が持てた。(その後、昭和33(1958)年3月28日に一般県道広神長岡線となり、昭和46年6月26日に主要地方道長岡小出線へ昇格した)
この昭和5年の県道昇格のような“成功体験”によって、地域の要望の実現のため、政治家の力を積極的に活用するという姿勢が、山古志地域の伝統となった。
中越地方から内閣総理大臣まで上り詰めた田中角栄という政治家は、そんな山古志村にとって、稀代の救世主として写った。
昭和57(1982)年に山手書房が発行した『田中角栄と越山会深層の構図』には、山古志村が手にした国道の指定にまつわる、次のような驚くべきエピソードが登場する。
そして昭和56年4月。中山トンネルの「国道昇格」は、建設省の事務ベースで可能な芸当ではなかった。国道291号の終点を小出町から柏崎市まで延ばすのに、どうして、わざわざ山間部にねじまげ、遠回りし、あまつさえ国道17号という別の幹線と交差し、またぐ形で、ルートを設定する必要があろう。中山トンネルを「国道」にするには、これほどの無理をしなければならなかった。政治路線といえば、これ以上の政治路線はなかった。田中角栄は、その影響力を使い、全国の国道昇格延長を当初予定の4000キロを5500キロまで膨らませて、政治路線をねじこんだ。
政府全体の財政運営の立場からすれば、これは正しい政策選択とは、いえまい。こうした「利益還元」の積み重ねが、国家財政の赤字を招いたともいえよう。しかし、陽のあたらぬ日本海側、なかでも豪雪山村の山古志村、さらにそのもっとも奥地の小松倉の人々にとっては、これはただちに生存の条件にかかわっていた。全体の利益、などというおぼつかないものと違う生活の現実であった。
とはいえ、国の財政にも限度がある。中山トンネルが国道になったからといって、明日から急に予算が下りて立派なものになるわけではない。(中略)しかし、国道になれば、いつかは国道にふさわしい整備が進められるだろう。何より、村から国や県に道路整備を陳情する際に、「国道」であることは力強い足がかりになる。一番遅れている地域の、一番ひどい道路だからこそ、いささか不相応な「国道昇格」が地区民にとって、とりわけうれしかった。
行政の通常の「順番」を待っていたら、遅れた地域はいつまでも遅れたまま追いつけない。最後尾から追いつき、追い越すにはどうしたらいいのか。貧しい地区が発展を目指すには、どうしても国や県から金をとってこなければならない。「政治」の力こそがそれを可能にするものと、とこの地区の人々は信じてきた。
国道291号は、昭和45年の指定当初、群馬県前橋市と新潟県小出町(現:魚沼市)を結ぶ路線であったが、昭和57(1982)年4月1日に小出町から日本海沿岸の柏崎市まで延長された。この際に山古志村の南部を横断する経路が選ばれ、同村小松倉集落の人々が中心となって昭和8年から24年まで16年もの月日を掛けて掘り抜いた“日本最長の素掘り隧道”こと中山隧道(全長922m)が国道になった。
この出来事は、昭和47年から51年まで内閣総理大臣を務め、ロッキード事件による退陣後も一審判決で実刑となる昭和58年まで隠然と政治力を保ち続けた田中角栄の政治力によるのだというのだ。
確かに、小出と小千谷を結ぶ区間には既に国道17号があるのに、その北側に迂回して山古志村へ入り、しかも幅わずか1.5mほどしかなく車も通れない中山隧道が国道となったのは、自然の成り行きではなかったといわれればそんな気がする。
そんな国道291号の村内通過より7年早い国道50年4月1日に、山古志村を通る最初の国道として誕生していたのが、本編の国道352号であった。
そして案の定、ここにも角栄の影があった。
前出書は、次のように記している。
種苧原は、かつては490戸を数え、この山里ではまれにみる大集落を維持していた。種苧原越山会会長青木徳司(60)もまた、若いころ、トンネル熱にうかされていた。種苧原の西側には猿倉岳がそびえ、長岡の平野に下りるには、その猿倉岳をぐるりと遠回りしなければならない。「猿倉岳を破って、山の向こうの蓬(長岡市蓬平)へトンネルを掘らなけりゃ」と青年団長になったばかりの青木は思い詰めていた。
昭和22年冬、田中角栄が種苧原に入ってきた。除雪などまったく手付かずのころだから、青木らは田中をソリに乗せ、ソリも通れないところは背に負って案内した。(中略)田中のいうことは、青木らの想いと符合していた。なぜ人々は、出稼ぎにいくのか。たまたまこの世に生をうけ、そこが豪雪のへき村だった。そこに住んでいて収入が十分でなければ、他の土地に稼ぎにいくほかない。(中略)それならば、種苧原から長岡や小千谷など近くの都会地へ出る道路をよくしてもらおう。出稼ぎにいくのではなくて、出稼ぎ地を近くへ寄せるのだ。長岡へ抜けるトンネルをつくって、冬でも通行できるようになれば、親からもらった土地で立派に生きていける。
青木徳司、そして種苧原で土建業を営む小幡基弘らの間で、越山会が結成された。種苧原は(山古志)二十村郷の中でもいち早く田中との政治的パイプを築いた。青木の若き日のトンネルの夢は実現しなかったけれど、そのかわり長岡と種苧原を結ぶ国道352号の建設に結実した。長岡から栃木県日光を結ぶ国道を、わざわざ種苧原を通すのである。これも山古志村という小さいながらも独立した自治体であり、その中でも種苧原だけで独立した越山会を持つ、「鶏口」の政治力を示すものにほかならなかった。
国道352号が山古志村の種苧原を通ったことも、田中の力によるものであったと述べている。
本書が執筆された当時において、国道に指定された萱峠は、遠くない将来、国道に相応しい姿へ立派に改良されるものと信じられていたのだろう。実際、国道に昇格した国道291号の中山隧道は、昇格から20年足らず後の平成10(1998)年に2車線の完備された中山トンネルへと生まれ変わっている。
だが、それが角栄失脚の影響であるかについては明確ではないものの、国道昇格から50年近くを経た現在も、国道352号の種苧原から先は完成していない。ようやく猿倉岳をトンネルで潜って、当時より長岡市の一部ではあった山あいの竹之高地町に辿り着こうと四苦八苦しているところだ。さらに長岡市街地まで1本の国道として繋がるためには、あと2本は長いトンネルを貫通させる必要があろう。
……果てしなく、遠い。
彼の政治力に影響を受けた道路や鉄道というのは、余りにも語られている話の総数が多く、中には荒唐無稽と思われるようなものや、文献的な根拠が見当らないものもある。だが、少なくとも山古志に国道291号や352号が指定された経緯については、かなり真実味を帯びていると感じる。
こうしたことを是とするか、非とするか、うけとり方は人それぞれだと思うが、道が地域を変える力の大きさが真実である以上、そこに関わる人々の必死に生きた結果が今日であることは疑いがない。今日に続く未来もまた、必死に紡がれていくことだろう。
不穏なタイトルでの追記更新となったが、まずは上のストビュー画像を見て欲しい。
これは本編の探索から12年後の2023年7月に撮影された栖吉末端の【この場所】だ。
なんと、国道の路面の1車線分が駐車場に変化していたのである。
正直これは、意味が分からない。法的にどうなっているのかもよく分からないし…。
そしてここを進むと、舗装の末端まで1車線分が駐車場化されていて、その奥の【本当の末端】附近は、季節のせいもあるとは思うが、もう完全に草の海に没し、切り通しの存在も目視不可能なレベルになっていた。
近年におけるこの“変化”を見て、私は思ったのだ。
栖吉の国道末端は、時間の経過によって延伸の実現には少しも近づいておらず、それどころか、もう既に延伸は諦められているのではないか、と……。
この(不穏な)気づきに端を発して、本編完結後に追加で調べてみた。
現在の長岡市が有している、将来の道路計画を。
そして判明してしまった。
栖吉からの国道延伸は、現状において、ほとんど絶望的ということが。
平成27(2015)年3月に長岡市、見附市、小千谷市、出雲崎町の3市1町(長岡都市圏)が共同で策定した「長岡都市圏交通円滑化総合計画」がある。
この計画は長岡都市圏の長期交通計画であり、同名の前記計画(平成16(2004)年度〜平成22(2010)年度)を引き継ぐ形で策定された。計画期間は、平成27(2015)年度〜平成36(2024)年度の10年間である。
同計画では、建設すべき幹線道路として、右図のような路線と区間を、短・中期計画(計画期間中に実現を目指すべきもの)と、長期計画(計画期間満了後を含めて実現を目指すべきもの)に分けて明示している。
このうち赤枠で囲ったところを見て欲しい。
「長期計画」として、「(仮称)長岡東西道路接続道路」という路線があり、その区間として、「国道17号〜萱峠」と記されているのである。
なるほど。
この区間からして、これこそ国道17号長倉ICから栖吉町を経由して萱峠へ至る国道352号の延伸を指しているものと、一度は納得しかけたのだが……。
その次のページに掲載された各計画路線の位置図を見て、唖然とした…。(↓)
この図を見ると、図の右下にある「山古志」から図中央を南北に貫く「国道17号」へ至る、長期整備路線を示す緑色の「(仮称)長岡東西道路接続道路」が描かれている。
そして、同路線の国道17号側は、その仮称である路線名が示す通りに、「長岡東西道路」と接続しているのである。
長岡東西道路はその名の通り、信濃川によって東西に分断されている長岡都市圏の東西を全線4車線のバイパスで結ぶ長岡市の都市計画道路であり、国土交通省が定める高規格道路にも指定されている。平成11(1999)年より整備がスタートし、2024年現在は関越自動車道長岡ICから信濃川をフェニックス大橋で横断して国道17号の高畑南交差点に至る約8kmが、暫定2車線ないし完成4車線で供用されている。
長岡都市圏が長期計画として持っている「(仮称)長岡東西道路接続道路」とは、この長岡東西道路を東端の国道17号高畑南交差点より東へ延伸し、山古志の萱峠まで結ぶものなのである。
高畑南交差点は、国道17号と国道352号が接続する長倉ICから約1.7km南に離れている。
そしてその一方、「長岡都市圏交通円滑化総合計画」に、栖吉を通る現在の国道352号の延伸は含まれていないのである。
長岡市をはじめとする地元自治体は現状、国道352号を栖吉末端から山古志側へ延伸する計画を持っていない!
これは明らかに、昭和55(1980)年に国道352号の改築である萱峠バイパスが着工した当時とは、計画が異なっているとみられる。
そうでなければ、萱峠バイパスの一部区間として、長倉ICと栖吉を結ぶ区間の整備しなかったと思うし、【こういう道路地図】が描かれることもなかっただろう。
萱峠バイパスと長岡東西道路を接続しようとする「(仮称)長岡東西道路接続道路」は、平成16(2004)年策定の「長岡都市圏交通円滑化総合計画」の前期計画から既に盛り込まれていたようである。
現在から見れば20年も前のことだが、当時既に萱峠バイパスの工事は最後の山古志村種苧原と長岡市竹之高地町が建設中で、数年後には開通すると見込まれていた。
だが、この区間が開通して萱峠バイパスが全線開通しても、その先にはまだ竹之高地〜栖吉の未事業化区間がある。そういう(いまと同じ)状況だった。
そんな状況にある平成20(2008)年9月の長岡市議会の会議録に、次のような興味深いやり取りを見つけた。
右図を見て欲しい。
長岡市は現在、萱峠バイパスの開通を見越して、図中にピンク線で描いた位置にある市道東幹線28号線の改良を進めている。
この道路を国道に準じるレベルまで改良することで、同バイパスの開通後は、種苧原〜竹之高地〜蓬平〜片田という経路で、国道17号および長岡市街へ連絡しようという算段なのである。
このことは相当前(会議録を見る限り平成13(2001)年)9月以前)からの既定路線となっている。
だが、あくまでもこれは暫定的な措置である。最終的には、上述した「(仮称)長岡東西道路接続道路」によって、長岡市街地と直接結ぶことが計画されている。
国道352号は栖吉経由になっているが、この新たな計画道路は、栖吉を経由しない。
山岳地帯を貫く工事の難しさや事業費が、これで軽くなるわけではないと思う。
これはもっと単純に、栖吉経由よりも東西道路と直接結ぶ道路の方が、整備効果が高いと判断されたのだと思う。
そんなわけで、昭和40年代の後半、国道352号誕生以前の県道長岡広神線時代から少しずつ整備が進められていた“栖吉ルート”の完成は、既に断念されてしまったとみて良いだろう。
だが、山古志と国道17号を最短で連絡する計画自体は放棄はされていなかった。
それは救いと言えると思う。
まもなく、現在の「長岡都市圏交通円滑化総合計画」は計画期間を満了する。
そうすれば次の交通計画が登場してくるだろう。果たしてそこでは、この仮称付きの道路が、長期計画から短・中期計画へとフェーズアップしているか、期待して待ちたいと思う。
皆さまはこの計画について有望と思われますか。また、開通したら利用したいですか?