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旧白沢トンネルの埋め戻された東口を確認したので、次は西口を探しに行こう。
意識すれば現道から見ることが出来る東口とは異なり、西口は、探さなければ絶対に辿り着けない場所にある。
2021/5/14 11:05
再び自転車に跨がって、現白沢トンネルを潜る。
その東口は、旧トンネル同様に地山から突出した重力式坑門で、「白沢トンネル」と描かれた扁額が掲げられているようだが、あいにくツタが邪魔をしていて文字は読めなかった。
【銘板】もある。
現トンネルは全長375mで、洞内は東口から西口へ向かって上りの片勾配である。
また、西口付近の洞内にカーブがあり、入口から出口を見通すことが出来ない。
六十里越区間内では最も新しいだけあって、他の7本のトンネルよりも一回り以上広くて走りやすいが、区間内の多くのトンネルがそうであるように、照明がない。これだけ長い国道のトンネルで、広い歩道まであるのに照明がないのは珍しい。前述したように、洞内はカーブがあるため暗く、灯りを持たない歩行者はギョッとすることだろう。まあ、歩行者はほとんどいないと思うが。
11:09 《現在地》
登り坂とカーブを同時に味わいながらトンネルを出ると、そのまま覆道に繋がっている。
この覆道には現地に名前の証しがないが、資料によると、烏帽子(えぼうし)スノーシェッドという名称で、全長174m、平成16(2004)年の竣功となっている。
つまり、現トンネルが開通した当初はなかった後補の構造物である。
スノーシェッドが後補であるからか、“矢印”の位置に、坑門附属の銘板が、ほとんど見えない状態で埋め殺されてしまっている。
おそらく扁額も、あるべき位置に掲げられているのであろうが、こちらについては“完全に”見えなくなっていた。
……まあ、どちらも通行上、なくて困るものではないが。
そして、この烏帽子スノーシェッドに存在を隠されてしまったものが、もう一つある。
この写真の立ち位置から、そのまま視線を右へずらすと…。(↓)
覆道の外に、旧道が!
まさに、オブローダーでなければ見逃しちゃう隠しステージだ。
私も最初に車で通ったときは全然気付かず素通りしている。
だが、「石川県民」氏がそうであったように、通りがかりに東口を見つけたことで興味を持ち、帰宅後に地図を調べた結果、この烏帽子スノーシェッドの外に旧道があることに気付いた。
そのことを実際に現地で確かめるのが、今日の探索の目的だった。
この先に、まだ見ぬ旧白沢トンネルの西口があるはずである!
11:11
覆道の外へ、自転車ごと“脱獄”した。
旧道があるべき位置に、確かに平場が続いている。
ただ、当時の路面や、本来の道幅は喪われていた。
現トンネルの坑口を守るコンクリートブロックの擁壁が、旧道の道幅の大半のうえに建築されているためだ。
しかし、ほんの少し現道を離れると、そこには旧道を守っていたコンクリート吹付けの法面が、そのまま残されていた。
密生した灌木が視界の大部分を妨げているが、ここからさらに少しだけ進むと――
11:13 《現在地》
おおおっ!!! 旧道の路面があった!
昭和57(1982)年に現トンネルが開通しているので、それと引き換えに廃止された、すなわち40年も昔の廃道であるはずだが、鋪装がされており、道幅もちゃんと2車線分あった。
まるで時が止まったような旧国道が、普通に車で走った場合は絶対に気付けないし、立ち入ることも出来ない位置に、残っていたのである。
それを見つけ、初めて足を踏み入れる。オブローダーが愉快に感じる喜びが、ここにあった。
しかもこの旧道、滅茶苦茶眺めが良い!!
六十里越の国道が今も人気のドライブコースであるように、そもそも風景に恵まれた道だが、何らかの理由により廃止されているこの旧道も、眺めはすこぶる良い。
見渡せる峠方向には、うねうねと青い山肌を回り込んで伸びる現道や、壮大な送電線の連なりを、爽快に見渡せる。
巨大な山河を自分たちのために作り替えてきた、そんな人類の偉大な仕事の成果を思う存分に独り占めに出来る眺めは、私の大好物である。
また方向を少し変えると、人による国内の地形改変では最大級の事例といえる田子倉湖の湖面も、路肩の草木を透かして見ることが出来る。
この湖面は道路から100mは低い所にあるが、これより下の湖畔を走る道がないから、巨大な人工物でありながら人工のものが全く目に付かない湖である。
11:15 《現在地》
現道との分岐から150mほど進んで来た。
眺めのスケールは素晴らしいが、小規模な旧道であるから、もう終わりが近いはずだ。
そろそろ、旧白沢トンネルの西側坑口の擬定地である。
ここまで間違いなく私を運んできてくれた鋪装路面が、ちょっとした森と呼べるくらいに大きく育った木々のもとへ吸い込まれるように伸びていき――
11:16
道は、あるべき広さと平らさと、鋪装された路面を一挙に喪った。
まだ山側にコンクリート吹付けの法面が続いているから、間違いなくここが旧道なのだろうが、豹変である。
あまり人為的に埋め戻されたという感じもしないのだが、どうなんだろう。崩落跡というほど険しくもない、微妙な感じだ。
この時点でのGPSデータによる「現在地」を、旧道の現役時代である昭和51(1976)年の航空写真に当てはめてみたのが、上の画像だ。
センターラインを持つ2車線舗装路が平然と続いているシーンなのだが、実際はこのような“森”へと変化していた。
あるべき道が、喪われていた。
路面が喪われ、さらに進むとコンクリート吹付けの法面も区別が付かなくなって不明となったが、それでも路肩に連なる長い擁壁と、その上に設置されたガードロープの支柱が、残っていた。
おかげで、ここに道があったことは確信できた。
果たしてこの状況の先に、旧白沢トンネルは残っていてくれるのだろうか。
先に見た東口の状況を見る限り、坑口は埋め戻されていそうだったが、坑門が残っているかが焦点だ。
この先、仄かに左の山側へ切れ込んでいく谷地形があるのが感じられる。
GPSを見る限り、その奥が旧坑口の在処である。
ただ、この段階で既に、道としては跡形なしといえる状況だった。具体的な遺物が全く地表には見えなくなっている。
おそらく路面よりも数メートル高い位置に地面があり、道は全体的に埋れているのだが、それが意図的なものなのか、自然の崩壊によるものなのか、両者の複合なのかが、はっきりしない。
チェンジ後の画像は、同じ場面で来た道を振り返って撮影したものだが、一応ブル道なりの道形があるものの、道幅も路面も、明らかに旧道のそれではない。
埋れた旧道の上に再設置された作業路といった雰囲気だった。
しかし、周囲の樹木が廃止後芽吹いた木の芽より育ったものとは思えないほど太いなど、違和感もある。
11:25
そして最終的に私は、西口があった場所に辿り着いた。
その場所を、確かに踏みしめた。
しかし、直前までの状況から予感されたとおり、残念ながら、トンネル本体の遺物は皆無であった。
そのことは、チェンジ後の画像である平成17(2005)年版航空写真からも明らかである。
何をどの方向から撮れば、ここが坑口の跡地だと分かりやすいだろうか。
そのことに思い悩みながら撮った1枚だが、やっぱり何も分からない。
平面座標的な意味では一致しているが、おそらく高度的に現在の地表は旧道および旧トンネルよりもだいぶ高く、遺構を望める希望は皆無といえた。
残念ながら、西口は、そこに通じるラスト100mほどの路面ともども完全消失が、探索で得た結論である。
したがって、旧トンネルは東西両口とも非開口であり、立ち入り不能ということがはっきりした。
旧道・廃トンネルとしてはそこまで古くない存在であり、旧道の一部は現道から隔絶されつつも綺麗な姿で残っているが、トンネルは意表を突く遺物の乏しさであった。現道からも見える【埋れかけた東口坑壁】しか残っていなかったのである。