11:55 《現在地》
「第二難波隧道」に立ち入る。
坑口もそうだったが、洞内も半分以上が土砂に埋もれ、立ち上がると天井に頭が付くくらいの空間しかなかった。
濡れた泥の洞床には潅木が無数に転がり、天井や壁を乾いた土の汚れが薄く覆っていた。
これまでの隧道と同様、この隧道も満水時には水没することが分かる。
この隧道はとても短く、あっという間に出口に達する。
『三信鉄道建設概要』によると第二難波隧道の長さは34.2mで、中部天竜〜大嵐の旧線にある全38隧道中、5番目に短い。
ちなみに最も短い隧道は第二亀沢隧道で、27.2mと記録されている。
出口は入口以上に土砂の流入が激しく、ほとんど埋没しかかっている。
そして、這い出るようにして外に立つと、次の一歩が踏み出せないことに驚く。
かなり大きな橋の跡!
これを松沢橋梁という。
少し前まで廃線跡は湖畔すれすれを通っていたが、ここ数百メートルで、だいぶ登ってきている。
もう湖面は軽く足がすくむほど下に見え、橋を迂回するために気軽に行き来が出来る状態ではない。
しかし、2本の橋脚が立ち尽くす橋の向こうには、次なる隧道の一部と思われるコンクリート面が見えている。
これはどうにかして進みたくなる風景だ。
なおこれは余談だが、『三信鉄道建設概要』によると、大嵐駅の位置は設計段階で一度変更されており、当初設計よりも数十メートル高い所に建設されたのだという。
それは当時、大嵐付近の天竜川を堰き止めてダムをつくる計画があったからだというが、これは結局実現しなかった。
この設計変更によって、白神〜大嵐間の路盤もより高い位置に設計されることになり、そのせいで更に多くの隧道を施工する必要が生じたという。
結局はこうして佐久間ダムに呑み込まれたわけだが、もしこの設計変更がなければ、いま探索が出来る範囲はより狭く、夏焼隧道などが県道に転用されることもなかったと考えられる。
ぎょぎょぎょ。
私が這い出してきた坑口を振り返って、というか見下ろしてみて、また驚く。
なんか変だと思ったが、それは崩壊のため途中で“打ち切られていた”のである。
続くべき橋はすでに無いが、橋だけでなく橋台も、坑門までも、崩れ去っていたのである。
この状態でまだなんとか通り抜けはさせてくれる隧道には、萌える…。
先へ進まねばならない。
しかし湖畔へ迂回することも、橋の真横の斜面をトラバースすることも、地形的にかなり難しい。
となれば残るは上に逃げるしかない。
期待して見上げると、湖畔が遠のいた分だけ県道は近くにあった。
そこを目指して、ガシガシ登る。
所々風化した岩肌が露出しており、滑落に注意を要する。
12:01 《現在地》
県道という名の廃道に復帰。
昨日はどんどん薄暗くなる中、写真も撮らずに通り過ぎた路傍の小屋は、林業関係者の休憩所と思われた。
窓も扉も打ち破れた、廃屋である。
そしてこの廃屋の傍らから、下を覗く。
松沢橋梁を越えたかなと思ったからだ。
うむ。 越えていた。
橋を越えただけでなく、次の隧道(やっぱり隧道だった!)の裏側まで来ていた。
すぐ下に見える四角い平場は、坑門の上面に違いない。
少し先には見覚えある橋脚も見える。
次にすべきことは、この平場に降り立つこと。
そしてその次は、隧道の前にたどり着かねばならない。
実はこの2ステップ目が結構難題で、ヒヤヒヤする所もあったが、写真も撮っていなかったようなので、スルーして坑門前へ(笑)。
やって来た来た、次なる隧道。
第三難波隧道。
難波シリーズのラストナンバーである。
坑口前には平坦な場所は少しもなく、崩れ落ちた土砂が斜面をなして、そのまま20m下の湖面へ滑り込んでいた。
落ち着ける場所では全くないので、早々と隧道内へ進行する。
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どよ〜ん。
久々に、出口の見えぬ隧道だ。
風も吹いていないし、やっぱりこの奥は“予想通り”の展開なのかな…。
一連の廃隧道の中で最も北に位置しており、海抜も高い第三難波隧道であるが、やはり満水時の水没は免れないようだ。
洞床はひび割れた泥の海だ。
春の田んぼの匂いがする澱んだ空気の洞内を行くと、わずかなカーブの先に“壁”が見えてきた。
閉塞しているのだろうとは思ったが、あの壁はこれまでの閉塞風景とは違う。
人工的に封鎖された壁のようである。
なお、この隧道も路盤に4〜50cmは泥が積もっているようで、一個だけ残っていたマンホール(待避坑)は、屈まないと入れない高さだった。
壁よ壁よ、遂にここまできたのだ…。
みんなの見ていないところで、私は少し感動した。
はからずも2日がかりとなった飯田線旧線(中部天竜〜大嵐)の探索も、この灰色の壁をもって一応の決着となる。
【第2回】のラストに掲げた当区間内の隧道は、全部で38本。橋梁は23本。
うち、今回の稀に見る低水位にもかかわらず、完全に水没して全く存在を伺えなかった隧道が24本あった。(【参考】 なお、水没している24本は同時に“泥没”しているとも考えられ、仮に湖が干上がっても地上に現れない可能性が高いのではないか)
そして、湖上にある14本については、その全てを確認することが出来た、(最南の亀谷隧道は目視のみ)
今回の探索の目的は、達成されたといっていいだろう。
閉塞壁には水抜きの穴さえ見あたらず、全くその裏側を伺うことは出来ない。
しかし、天井や壁の節々から地下水が滲みだしており、ここが相当に地表に近いことを感じさせる。
これ私なりの推測だが、この隧道の北口擬定地のすぐ上を県道が通っているので、県道陥没を防ぐための隧道封鎖ではないかと考える。
閉塞壁を背に振り返ると、50mほど先に入口が見えた。
第三難波隧道の全長は69.6mと記録されている。
よって目測ではあるが、閉塞壁の先の隧道は20m程度と想像できる。
おそらくは土砂で埋め戻されているのだろう。
何年に一度そういうことがあるのか分からないが、暗い湖水が洞内を満たす姿を想像し、少し息苦しくなった。
土気色の洞床も不気味だった。
早々に脱出する。
そして、県道へ戻る。
12:09
第三難波隧道北口擬定地点の直上である。
県道の路肩の下を探したが、坑門は埋め戻されているようで、全く痕跡は無かった。
そして正面には、少し大きな沢(夏焼沢)を挟んで目線の高さに、見慣れた夏焼隧道の坑口が見えた。
県道は黄色く示したルートで沢を迂回する(途中にバリケード有り)が、鉄道は直進していた。
当然橋が架かっていたと思うところだが、『建設概要』に橋の記載は無く、築堤だったと考えられる。
いずれにせよ、夏焼沢を横断する部分の廃線跡は、いかなる痕跡もとどめない。
次回は、昨日素通りした夏焼隧道から大嵐駅へ向かう。
長かったレポートも、終わりは近い。
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