このレポートの「最終回」は、平成21年に探索して23年に公開されているが、その中では主に2つ、時間切れのためにやり残したことがあった。
あれからさらに2年の年月が流れたが、ようやく再訪して“穴”を埋めることが出来たので、この回を公開することにした。
このレポートの「最終回」は、平成21年に探索して23年に公開されているが、その中では主に2つ、時間切れのためにやり残したことがあった。
あれからさらに2年の年月が流れたが、ようやく再訪して“穴”を埋めることが出来たので、この回を公開することにした。
2013/3/4 6:17 【周辺図(マピオン)】
ここは静岡県浜松市天竜区の北部にある大嵐(おおぞれ)。愛知県と間近に接する場所だ。
私がこれまで自転車同伴で攻略した廃道の中でも有数の難度を誇る静岡県道288号の上にいる。
現在地から、この道が廃道の牙を剥き出しにする地点まで1.5kmほどしか離れていないが、ともかく今回は県道288号と戦いに来たわけではない。
県道288号が跡地利用をしている「飯田線旧線」の方と関わりが深い、2つの小探索をやりに来たのである。
この大嵐の地へ来るのは3度目(1つの探索の中の別日に来たのを除けば2度目)であるが、これまでは自転車と電車で来ていたので、今回は自動車で来てみた。しかし経験した人ならば分かると思うが、車でここへ来るのもひと苦労である。山深くて。
さて、本題に入る。
右の写真の地点は、大嵐駅側から数えて1本目の短い隧道(栃ヶ岳隧道)を抜けた先の広場で、奥に見えるのは約1.4kmの長さを有する夏焼隧道である。
ここは2本の隧道に挟まれた1haほどの平場になっているのだが、実はここに県道ではなく線路があった頃は、このような地形ではなかったのだ。
次の写真を見て頂きたい。
これは昭和31年に国鉄の飯田線工事事務所が発行した『飯田線中部天竜大嵐間線路付替工事誌』(以下『工事誌』)に掲載されている写真だが、この撮影地点が上の写真の場所だ。
(このレポートを順に読まれた読者さんに説明は不要だと思うが、昭和28年から30年にかけて佐久間ダムの建設に伴って飯田線が約14km水没することから、これを迂回する約18kmの新線付替工事が行われた。工事誌はその際の記録である。)
左の写真には、いかにも鉄道らしいプレートガーダー(栃ヶ澤橋梁)が写っているが、現在は橋など無く、それを架けるべき沢さえないのである。
これでは、2枚の写真が本当に同じ場所を撮影したものなのかと、疑念を抱くのは当然である。
だが、確かにこの古写真が現在地を撮したものだと分かる“証拠”が、ただ一つだけ存在する。
それは上の写真の位置に立って、左の山側に向き直ることで発見できるものだ。
沢の名残とも思われぬような窪み。
そして、その奥に見え隠れする暗部。
一目で廃坑・廃隧道の類と分かる朽ち果てた坑が、
半世紀前の写真と今の風景の、ただ一つの共通点である。
入る前に、この坑が何であるかをはっきりさせておこう。4年前は知らなかったのだが、今回は知っている。
この坑の正体は、飯田線(新線)の大原隧道に連絡する、「第一横坑」と呼ばれていた構造物である。
先ほどの工事誌の記録によると、全長(地表〜本坑)は201mであり、昭和29年1月から5月までかかって掘られている。
横坑建設の目的は、飯田線最長(完成当初は国鉄で第5位)の長大トンネルとなった大原隧道の工期短縮であり、横坑によって本坑の予定地へショートカットして切羽(トンネル工事の掘進部)の数を増やすことが目論まれた。
つまり、レポートのタイトルとは反して、飯田線旧線ではなく、飯田線新線(現在線)の建設に関わる遺構ということになるが、ご了承頂きたい。
ゴツゴツした茶色の岩場からポタポタと水が滴り落ちる坑口。
坑門と呼べるようなものはなく、骸骨然とした廃レールセントル(支保工)のアーチが、
私の視線を闇の奥へと自然に誘った。岩とかびのくすんだ匂いがする。
妙に天井が低いが、おそらく坑口から流入した土砂のせいであろう。
当然のように無風で無光の洞口。 気持ち良いものではない。
ザッザッザッザッ…
濃厚“廃”空間!
そこはたった2年間の付替線工事で30柱の殉職者を出している、
昭和20〜30年代の土木工事現場の厳しさを想像させるに足る空間だった。
レールセントル(33kg/m)だけが原形を留め、地山との間に噛まされていた
松の丸太はほとんど朽ち果てて消滅してしまっている。
またこの横坑は、一般的に見られるズリ出し用の横坑よりも断面サイズが大きく、
横幅4.4m、高さ3.7mと記録されている。それはここに複線の工事用軌道を敷設していた為である。
工事用軌道のレールは当然工事終了時に撤去されたはずであり、痕跡は見られなかった。
この状況で201mの貫通を期待するのが馬鹿だと言わんばかりに、
横坑は入口から20mかそこいらで、敢えなく閉塞していた。
閉塞部を固めているのはセメントミルク入りを思わせる堅い土砂で、
天井の空洞や、周辺支保工の歪みが見られないことから、
人為的な埋め戻しによるものと判断できる。
フフッ。
この洞内探索に要した時間は、正味1分。
そのためだけではないとはいえ、ここへ来るのは片道10km以上の寄り道であった。
「時間がないから」と探索を断念した2年前だったが、その気になれば、
この決着を見届けることは容易かったであろう。
でも良いのだ。
好きなものを駆け足で巡るほど虚しいことはない。
6:22 《現在地》
ただいま、地上。
背にした峰に未だ朝日を遮られた、静寂の佐久間湖畔である。
旧線が廃線になる間際から、そこを県道へ変える工事が終るまで、きっと慌ただしく人が行き交い、鋼の槌音が響いたであろう、「栃ヶ澤」を埋め立てた広場だが、今は林業用の作業小屋(フレーム外)がひとつあるだけで、広い空き地となっている。
佐久間ダムから実に17kmも天竜川を遡った地点なれど、その水嵩は船を浮かべるに足る。
さすがは全長30kmを公称する日本最長のダム湖である。
流れの止まった水面に固まって浮かんでいる浚渫船は動きを完全に止めており、その姿は船と言うよりも一塊の工場のようであった。
この湖面と共に繰り広げられた4年前の死闘を思いだし、私の顔は自然と薄笑いになっていた。
…さて、もう一つの「やり残し」へ向かおうか。
ところで『工事誌』によれば、この場所には今回探索した第一横坑だけでなく、第二横坑が存在していた。
その坑口の位置は左の写真に示した辺りと思われるが、「使用後埋め戻した」と明記されているだけあって、痕跡は特に残っていないようだ。
『工事誌』曰わく、第二横坑は全長49mで、高さ3m、幅2.3mと第一横坑よりも小規模である。
建設された時期は昭和29年12月であり、その目的は第一横坑同様に切羽の数を増やすことであったという。
付替線の工事が、工費の節減よりも工期の短縮を圧倒的に重視していた事がよく分かる、極めて狭い範囲に建設された二つの横坑であった。
なお、大原隧道の内部側にこれら横坑との分岐の痕跡があるかどうかは未確認である。
前面車窓を楽しむ機会があったら、確かめてみて欲しい。
6:25 《現在地》
栃ヶ岳隧道をくぐると大嵐駅である。
この駅が新旧線の合流地点なのだが、微妙に駅の位置も変更されており、旧線時代の駅の遺構と思われるものが残っている。
それが写真に写るホーム跡である。
県道の路面との微妙な高低差や、側面にある笠石を擬したでっぱりの存在など、これが旧大嵐駅のホームなのはほぼ間違いないと思われるが、現存している部分は完全なものではない。
まずホームの長さが極端に短いが、これは現駅や県道の配線に支障するために撤去されたと考えれば辻褄が合う。
だが、ホームの幅が異常に狭いことは、従来から(私の中での)謎であった。
立派な松の生長が、廃止後に流れた月日の遠大さを思わせるが、問題はそこではない。
さすがに安全意識が希薄な時代であったとしても、背後に天竜川へ落ち込む斜面を背負った状態で、こんなにホームが狭いという事が許されるであろうか。
おそらく1m程度しかないのである。
その縁に立って下を覗いてみると、ホームの一端が擁壁と一体化していて、そのまま数メートル落ち込んでいた。
下は30〜40mの落差を隔てて佐久間ダムの湖面に続いている。
これは常識的に考えておかしい。
本当にこれは、旧駅のホーム跡だったんだろうかという疑問が生じる。
この写真は『飯田線の60年 三遠南信夢の架け橋』に掲載されていた、旧線時代の大嵐駅の構内である。
これを見ると、広いホームが線路よりも山側に存在していた事が分かる。
写真からは、島式ホームか対面式ホームかといった構内配線は掴めないが、旧大嵐駅は飯田線の前身である三信鉄道が延伸する課程において、昭和11年12月の開業時から翌年8月(全通)までの間、終着駅だったことがあり、それなりに広い構内を有していた。
そして全通後も列車交換が可能な駅(停留場ではなく停車場)として存続した。
そして『工事誌』には、新旧線が交わる駅構内図が掲載されていた。
この構内図を見る限り、私が旧ホームだと思っていたものが存在する場所には、路盤の縁を守る擁壁だけが描かれており、それが旧大嵐駅の旅客ホームでないことは明らかである。
確かにホームの狭さに違和感を感じはしたが、私はずっと勘違いしていたというのか?
しかし、そうとも言い切れないのである。
大嵐駅が開業して7年目にあたる昭和17年9月22日、同駅構内で大規模な地滑りが発生し、ホームを含む施設の大部分を天竜川に流失した記録があるのだ。
その復旧には約半年間を有し、この間は駅の前後に簡易な乗降場を設けて徒歩連絡を行なったという。
今は静かな秘境駅だが、こんな派手な過去を隠し持っていたのである。
そして、このときの大規模な復旧工事が行なわれ、川側には長い擁壁が設けられた。
それが、この旧ホームらしきものの下に続いている、コンクリート擁壁の正体である。
上の図を見れば分かるとおり、昭和29年の線路付替工事が行われていた当時の旧大嵐駅は島式ホームであり、川縁にホームを設置する余地はなかった。
だが、改めて見てもやはりこれ、ただの擁壁には見えない。
ホームっぽい!
ただの擁壁であれば、なぜこの一角だけ高くなっているのかということを説明が出来ない。笠石も。
やはりこの構造物は、旧大嵐駅のホームなのだと思う。
それも、昭和11年の開業当初から昭和17年9月の災害発生まで使われた、初代のホームだったと考える。
戦時中という悪条件を差し引いても、復旧に半年の期間を有した大災害である。
当初の構内配線は対面式であったが、川側のホームの大半が崩壊し、その残骸を取り込む形で擁壁が建造されたと考えると、現状との辻褄が合う。
昭和17年以前の構内配線をご存じの方がいたら、ご一報いただきたいものである。
朽ち果てきったホーム跡から天竜川の上手を望むと、300mほど上流に鷹巣橋の巨体が見えた。
今度はあの場所に“きっかけ”を有する、第二のやり残しをやっつけに行こう!
移動中にまみえた、これが飯田線最長の大原隧道だ!
大嵐駅の駐車場の脇にでっかい口を開けている。
ちなみに複線断面に見えるのは坑口付近だけで、内部は単線だ。
このトンネルは難工事だっただけあって本当に偉大な効果を持っており、これを使うことが出来ない自動車の場合は、水窪の市街地から
(かつて水窪町に所属していた)この大嵐駅まで、大津峠越えの林道を延々18kmも走らなければならない。
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6:28 《現在地》
人の気配はないのに駐車場に車だけ5台くらい駐まっている大嵐駅前(ここが最寄り駅となる愛知県豊根村(旧富山村)からの通勤者のものだろうか)を通過し、中央付近で静岡県道287号と愛知県道426号が接続する(路線名は同じ「津具大嵐停車場線」)奇妙な橋、鷹巣橋(昭和31年竣功)へ。
橋を渡りきる頃には愛知県だが、その微妙な辺りで下流を見下ろす事が重要。
大嵐駅のある辺りから、青碧の湖面へ躊躇いなく下りゆく一筋の階段あり!
この階段に立つ事も、4年前は時間的な都合から断念した、やり残しであった。
これが今回の水位。
4年前の平成21年1月の状態と比較すると…。
階段自体は少しも変化していないようだが、
水位の変動が、ハンパないっ!
余り季節が違わないのにこの水位の違いは、なんなんだ?
前回の県道288号探索では、この水位の低さがあったおかげで自転車同伴での攻略に成功したのであり、
飯田線の水没した旧線の遺構も驚くほどたくさん見る事が出来たのであった。
あれはもの凄いラッキーだったのかも。
再び大嵐駅前へ。
階段の入口は俯瞰で確かめてきた。
どうやらこの辺りから痩せた尾根伝いに下って行く道があるようだ。
ど〜れどれ…。
オッケイ! 発見。
ちょうど意味深にガードレールが途切れている箇所を覗き込むと、緩斜面を下る薄い踏み跡を見つけた!
緩斜面というのは勘違いで、踏み込んでみるとこれが最初から随分と急な斜面である。
道はそこにジグザグのカーブを描いていた。
上手く木の根が階段のようになっていたりと、歩きにくくはないが、太い木が余り生えていないなど、斜面の全体ががれた印象であり、昭和17年の大嵐駅を呑み込んだ土砂災害の痕跡と考えられる。
谷を渡る冷たい風を頬に感じつつ、無人の湖面へ近付いていく感覚は、立入禁止というわけではないのに、私に微かな背徳感を覚えさせた。
ジグザグでひとしきり下ると、ガレ場の斜面から、おもむろに一筋の痩せ尾根が盛り上がってきた。
道はこの痩せ尾根に進路を定め、速やかに乗りうつる。
すると両側が切り立つ一方、道の勾配はとても緩やかになった。
ここから先は昭和17年の災害の影響を受けずに済んだのかも知れない。
帰ってきたMOWSON!
こんなものを見付けた。
「ハトドリンク」とペイントされた牛乳瓶である。
戦前のおさげ女学生が、牛乳瓶を慌てて飲み干しながら駅で待つ通学列車へ飛び乗るシーンを想像した私。(萌え)
サイト『漂流乳業』さんに同じマークの瓶が色々掲載されていました。→【外部リンク】
痩せ尾根は幾らも歩かぬうちに飢渇し、好水性の常緑樹に覆われた突端をさらけ出した。
待ちに待った、階段出現である!
階段は急で狭いものだが、一応金属製の手摺りが備え付けられており、利用者の便利と安全を考えたものであるように見受けられる。
この階段は、誰がいつ、どのような目的で建設したのか。
実ははっきりしない。
歴代地形図から、鷹巣橋の変遷を辿ってみたのが右のアニメーション地図である。
現在の鷹巣橋は昭和31年に、佐久間ダムの竣功とセットで誕生したものである。
それ以前にも橋はあったが、現在の鷹巣橋よりも少し下流に描かれていて、長さも半分以下のようである。
そしてさらに時代を遡り、鉄道が建設される以前の明治の地形図には、橋の代わりに渡船場が描かれている。
他に該当するような地形が見あたらないので、十中八九、旧鷹巣橋の在処はこの階段の先であったと思われる。
そうなると、旧鷹巣橋の建設の時期が知りたくなるが、大嵐駅の開設に伴うもの(昭和11年)という線が濃いように思うが不明である。
地盤が変動しているのか、単純に階段がずり落ちているのか知らないが、
階段全体が傾いていた。
道理で歩いていて奇妙な不安定さを感じたわけだ。
遂に樹林の護りから、湖上の風に躍り出た。
横風が一気に強さを増して身体全体に当ってきて、身体のバランスを失する程ではないにせよ、不安にさせる。
そして、とても寒い。
幾たびも幾たびも沈没と浮上を繰りかえしてきたであろう、不毛の岩脈となった突端部。
水面恐怖症の人であれば、視界のほとんどを水面に塞がれるこの先の数歩は、悪夢かも知れない。
私はまだ引き返さない。
押し黙った湖面の向こう側には、数段の階段と、灰色をした泥土の世界が続いていることを知っている。
そこにはなんら旧鷹巣橋の所在を示す遺構は見られないが、天竜川の水面を跨ぐだけの、ごく簡単な吊り橋だったのだろうか。
ダムの澱みの底を見通すことは、今の土木や科学の力でも不可能で、それは歴史の証言によってのみ可能であろう。
私はまだ、引き返さない。
着水!
次の一歩は長靴の効用を損ないうるので、
これで引き返します(笑)。
でも、帰る前にこれだけは見たい!
ここで上流側を向くだけの、とても簡単なお仕事です。
次第に透き通った青へと変わりつつある空をバックに、鷹巣橋を仰ぐ。
大嵐駅とはこの鷹巣橋でのみ結ばれている、愛知県豊根村。
平成17年に合併する前の旧富山村は、本州で最も人口の少ない村(人口218人)であったが、
そのようになった原因の一つは、村の中心部を沈める佐久間湖の出現であった。
工事中には一時的に膨れあがった人口も、全て終れば以前の3分の2になっていたそうだ。
ダムそのもののような巨大な橋を見上げながら…
旧富山村の住民の大半が歩いたに違いない、えらく無骨な階段に想いを馳せる。
これにて、大嵐界隈のやり残しはやり遂げたはず。 探索終了。
平成24年10月20日に寄せられた読者さまのコメントが、この階段と旧鷹巣橋についての貴重な証言となっていた。以下に転載する。
私のお父さんが富山村出身です。現在は豊橋に住んでいます。私が小学校にまだ入学してない頃飯田線で富山に行きました。
その時の記憶が鮮明に思い出しました。大嵐駅を降りて長い階段を下り、ゆらゆら揺れる吊り橋を抱かれながら渡り、右上の高いところを指さして、「あそこに大きな吊り橋ができる」と聞きました。まだダムの水はなく天龍川が流れていました。ダムの右岸の道を走るとトンネルが見えていたのがこの話の隧道ですね。
大嵐駅と湖面を結ぶこの階段が、旧鷹巣橋への通路であった可能性は高い。
だが、水没後も完全な廃道になっているわけではなく、湖上交通との数少ない連絡用通路として活躍しているようである。
現在でも微かに踏み跡が付けられているのは、そのためではないだろうか。
また、これははっきりした証言を得たわけではないが、水没後に、飯田線の乗客が、この階段を歩いたかも知れない。
というのは、昭和32年8月に大嵐駅から数えて2つめトンネル(第一西山隧道)で大規模な土砂崩れが発生し、鉄道は約1ヶ月間不通になったのだが、この際に国鉄は最寄り駅の大嵐〜小和田間に、佐久間湖を利用した水上輸送を代替輸送として行なったのである。
これが実施された期間は9月3日から16日までのわずか14日間であったが、歴とした国鉄の旅客輸送であり、ボートの操縦には(同じ国鉄の)青函局より動員した青函航路の航海士があたった。
しかもその際に「大嵐と小和田には天竜川まで道路を作って」という記事があるのだ。(以上は『飯田線百年ものがたり』の記事を参考)
もしかしたら、現在の階段はこのときに手直しされたものかも知れない。
そして大嵐の物語は、小和田の物語へ続く…?