2008/11/10 12:14
起動からまもなく100分を経過。
すでに我々は、赤倉沢の出発地から数えて1.5kmに迫ろうという距離を歩いていた。
当初予定していた大滝又支線の全長は1.4km。
ここで再び本流を渡る大型橋梁の残骸が出現したことによって、当初予定延長の超過はほぼ確定的となった。
…というより。
どうやら大滝又支線の起点というのは、赤倉沢などという中途半端な場所ではなくて…
こてまでに、もっと起点らしい場所があったと言うことに気づく。
前後に比べて目立って谷幅が狭くなる部分をピンポイントに狙って架けられていた、二度目の本流渡河橋。
残っていれば!
残っていれば …それを繰り返し唱えざるを得ない、大型橋梁跡である。
対岸(右岸)の岸壁に立ち尽くす木製橋脚一束四本がその主な残骸であり、桁の残骸はほとんど見られない。
今は穏やかな渓水も、時と場合によっては奔流になって荒れ狂うのだろう。
ここまで壊れると、さすがに「萌え」よりも落胆が勝ってしまう。
せめて端正な石造橋台でもあればと思うが、前回の本流渡河橋とは違い、それは存在しない。
岩山に直接架けられたような橋ゆえ、あえて橋台を要しなかったのかもしれないし、「こちらは支線」ゆえ、より規格が落ちたのかも知れない。
我々は、橋を迂回するべくつけられたらしい踏跡を見つけ、ほぼ最短で路盤に復帰した。
直前に見たあの険しいV字谷の縁であるから、復帰した路盤も決して安穏としたものではなかった。
それでも以前に増して踏跡は一層くっきり現れており、獣も人もこのほかに選択の余地が無いという、そういう地形を物語っているようだった。
踏跡があるから、それなりに確信を持って歩けはするものの、実は結構ハイリスクな道になっている。
それそのものが嫌らしく谷側に傾斜した幅30cmの踏跡は、濡れた土の上に濡れた落ち葉が乗っているという、滑るべくして滑る状況である。
油断は禁物。
枕木もレールもしばし見ていない。
もしかしたら、もうすでに軌道跡ではなくなっているのかも。
そうじゃないと誰が言い切れるのか。
そんな不安を憶えながら歩いていくと、道ばたの立木に見慣れたものを見つけた。
碍子が…木に取り込まれてる…
林鉄による運材に、閉塞確認のための電話連絡は欠かせなかった。
それゆえ、かなり奥地の事業所にまで電話線は敷かれたのである。
これは、この最奥の支線にもかつて電話が導入されていた。その消えかけた証である。
また、事業所としてもそれなりに長期間運用されていたことを示している。
12:26
路盤は、美しい渓谷に沿って穏やかに続いている。
未だ終点の現れないことを見るに、記録にある全長1.4kmいうのは、最初の大橋を渡った所にあった分岐地点から数えてのものだったようだ。
ということは、分かれたもう一方のルートが、岩見三内森林軌道の本線であったということか。
そして、この支線の終点もそう遠くはないということを、我々は穏やかな景色の中に予感した。
大半の林鉄にとっては、「沢との高低差=残りの距離」なのだ。
すでにこの路盤、片足は渓に突っ込んでいる感じがする。
林鉄の残りの距離と、水面との比高がおおむね比例するという経験則についてであるが、これを打破するには、林鉄伝家の宝刀である「インクライン」や、「つづら折り」とか「スイッチバック」といった線形上の裏技が必要となることが多い。
逆に言えば、水面に近づいてきた林鉄跡には、そのような「大物」が現れる可能性が高いわけで、我々は気を緩めず方々を観察しながら進んでいった。
しかし、実際に行く手に現れたのは、掘り割りとは呼べないほどの穏やかな掘り割りであった。
続いて現れた、妙にすがすがしいカーブ。
今にもトロッコが走って来そうだなどというのは「嘘くさい」が、ジムニーくらいなら現れそうである。
…突然「ジムニー」なんて言い始めたのは、妙にここが車道っぽいように見えたからだが、さすがに自動車の轍は無い。
路上左側の轍のように見えるラインは、軌道時代からあっただろう水抜きの側溝である。
意外な難所だったのが、路盤を斜めに塞いでいる巨大な倒木。
下に潜るような隙間はないし、上を跨ぐにも、朽ち木特有のツルツルぬるぬるで、手掛かり足掛かりとも容易でない。
すでに渓流は3mほどに近づいているが、木の上から滑って落ちれば怪我は免れまい。
写真の細田氏も、ユーモラスなポーズとは裏腹に、実は必死である。
それを越えて少し行くと…
「オッ! 細田さん、レールあったぞ!!」
私が宣言した久々の林鉄らしい発見に、すぐ駆け寄ってくる細田氏。
そこに満を持して放たれる、私の一言。
「一番つまらないパターンだけどな!」
目に見えて落胆する細田氏が、可愛い。
我々にとって、廃レールの使用方法で最も萌えないのが、こんなガードレール的な使用法である。
この廃レールや、ここまでただの一本も枕木が残っていないことなどから、この支線も廃止後の一時期は車道転用を受けていた可能性が高い。
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12:46
ついに水面は路盤下2mほどの位置に張り付くようになり、次に沢が少しピッチを上げれば間違いなく軌道を飲み込むという高さになった。
そんな状況のままなおゆるゆると軌道は続き、私も細田氏も「粘るなー」「渋いなー」などと言いながら、ただ黙々と辿っていた。
そして、谷が二股になっている地点に着いた。
左右の谷は、水量も幅も同じくらいである。
地形図を確かめると、大滝又沢の入り口から約1.4kmの地点である。
ここに来て、初めて複線以上のレールを敷きうるような平場が現れた。
山側にもさらにもう一段平場があり、何らかの施設が置かれていたことを感じさせた。
限界まで近づいた水面。
そして、この広場の出現。
全ては、この林鉄の終点がここにあったことを暗示している。
大滝又支線の終点に到着した。
平場の先は、落差2mほどの小さな滝になっていた。
その上部も覗いてみたが、流れは一気に急さを増していて、路盤を設ける余地は無さそうだった。
軌道の終点として、十二分に納得のいく地形であった。
後半は地味ながら、中盤にかなり大きな本流渡河橋を設けていた大滝又支線の全容。
現在地である終点の200mほど上流部には、地形図にスギの記号が描かれた緩斜面があり、ここまで沿線に植林地を見なかった本線にとっての「価値」はそこにあるのだと推定される。
また、この終点から植林地までの運材手段は、おそらくは架空索道であったろう。
人が通う道くらいは他にあったろうが、見たところ痕跡らしいものは無い。
我々は、この成果に満足し、「分岐地点」へと戻った。
残りの気がかりは、分岐地点の先…おそらく「岩見三内森林軌道」の本線と思われる路盤の、行き先である。
13:29
約40分かかって、大滝又支線の終点から、その起点と考えられる分岐地点まで戻ってきた。
来るときは、右から手前に入ったわけだが、今度は手前から奥へ進む。
ここは丁字路になっているのだが、如何にも林鉄のレールが敷かれていたらしく、角が丸く切られている。
ちょうどデルタ線のようにレールが敷かれていたのだろう。
直進すると急に路盤が広くなり、複線以上が敷かれていたような感じの場所になる。
そして、その中で我々は初めての発見をする。
この写真に写っている、円形の凹み。
くっきり真ん丸の円は、その縁がコンクリートで囲まれていて、まるで温泉場の浴槽のようである。
なんだこれは?
固まっていた私に対し、細田氏の反応が早かった。
「店長! これ、転車台だスよ。」
なるほど!
転車台とは、よく鉄道の機関庫とかにある、鉄道車輌を回転させて前後を入れ替える台のことである。
林鉄も鉄道の仲間であるから転車台があっても不思議はなく、実際に他の林鉄で金属製の蓋のような転車台が発見されたケースもあるようだ。
だが、ここにあるのは転車台の台ではなく、その基礎の方である。
台は金属製であっただろうから、何かに転用されてしまったのかも知れない。
コンクリートの枠の内側に溜まっているのは、大量の腐葉土であった。
何十年分もの落ち葉が濃密な土に変じて、深さ20cmくらいも堆積している。
その底にも、しっかりとコンクリートの床面があり、足でなぞった限りでは平面のようだった。
スコップと30分もあれば土は除去できそうだったが、我々には準備も時間もなく、少し表面に穴を開けただけでこの場を立ち去った。
直径2mほどに過ぎない転車台は、林鉄の可愛らしいスケールを良く示す、とても貴重な発見であったといえる。
また、この地点が林鉄の本線と支線の分岐地点にあたる操車場的な役割を果たす場所であったことも、裏付けられた。
転車台のある広場から南側、大滝又沢に面する路肩には低い石垣が積まれていた。
大滝又支線内には一つも石垣がなかったことを思うに、支線と本線とでは規格に明瞭な違いがあったのかも知れない。
比較的踏跡もはっきりしており、歩きやすい軌道跡である。
そして100mほど進むと、大滝又沢と中芝沢の出合に望む尾根を浅い掘り割りで回り込んだ。
掘り割りの向こうに開けた空間は、県道(旧河北林道)が通じている中芝沢だ。
私の頭の中で、岩見三内森林軌道のラインが一本の線として出来上がりつつあった。
左カーブの掘り割りを過ぎると、大滝又沢よりも明らかに水量豊富な中芝沢が右に沿うようになる。
沢の対岸には、軌道より5mほど上の位置に県道が通っているのが見える。
そして、いくらも行かないうちに行く手に大きな砂防ダムが現れた。
路盤はダムを築造する際に削り取られてしまったのか、ここで一時消失する。
やむを得ず、ダムに備え付けられた梯子を使ってダム上流の河床に降りた。
ここを下ると嫌でもダムの高さが意識され、ちょっと怖い。
大量の砂利が堆積し、まるで浅瀬のようになった河床。
一旦消失してしまった路盤だが、その続きがこの埋め立てられた川に、またしても“四本柱”として現れた。
ここで軌道は中芝沢を渡り、現在は県道が通る左岸へ“戻って”いたようだ。
これより上流のさほど遠くない地点に軌道の終点はあったようだが、その地点は車道と重なっており明瞭ではない。
ここまでの探索によって、起点終点共に未解明であった大滝又支線の全容が判明しただけでなく、これまで車道と重なっていると思われていた岩見三内森林軌道本線が、大滝付近では別の経路を通じていたということが分かった。
今回の探索によって、岩見三内森林軌道の終点付近は、赤線のように通行していたこと判明した。
現在の県道が青い破線のように通行しているのに対し大幅に迂回しているが、これは勾配を緩和する目的があったためと思われる。
県道の破線部分は約1.5kmで高低差90mを数え、これは到底林鉄が対処できるものではない。
本来、「大滝」によって河川勾配が特別に急な部分であったために、軌道は赤倉沢と大滝又沢を上手に利用して迂回をはかったのである。
その結果として二本の隧道と多数の橋が生まれたわけで、もしこれらが全て現存していれば、ここは我々にとって大変な“楽園”であったろう。
(←)
岩見三内森林軌道跡の大部分を再利用している、県道河辺阿仁線(旧河北林道)。
この道は当サイトで以前レポートしているが、この辺りに来たときはすでに真っ暗で、レポートたり得ていない(笑)。
(→)
軌道の大幅な迂回を余儀なくした、大滝。
写真は、県道の路肩から撮影したもので、主流が二股になって落ちる高さは20m以上ありそうだ。
持って生まれた勾配に対する非力さゆえ、森林鉄道は精一杯にアタマと手間を使って、滝の上に眠る美林にアクセスしていたのである。
こういう苦労の垣間見れるところも、私が林鉄を愛する要因の一つだ。
調査完了。