廃線レポート 上信鉱業専用軽便線(未成線) 第3回

公開日 2015.5.02
探索日 2015.4.08
所在地 群馬県長野原町〜嬬恋村

長野原町羽根尾から嬬恋村へ 


2015/4/8 7:57 《現在地》

遅沢川橋梁という巨大な遺構の発見に気をよくした私は、一向に回復する様子の見えない小雪模様の中ではあったが、さらなる発見への期待を胸に前進を再開する。
まずは先ほど自転車を止めておいたこの高圧鉄塔がある場所だが、遅沢川橋梁からまっすぐ続く専用線路盤の進路上にある。

鉄塔工事で地形は変化しているであろうが、計画ルートは矢印のように西進していたものと思われる。
左右とも斜面なので、ほとんど選択の余地はないといえる。

だが、鉄塔の脇にある羽根尾発電所への進入路を渡って先へ進もうにも、そこにはとても大きな障害物が待ち受けていた。



そこにあるのは羽根尾発電所の施設だった。

写真はちょうど専用線の推定ルートが発電所に突き当たる突端から進行方向を撮影しているが、このように大きく掘り込まれた発電所の敷地に進路を阻まれる。
右側に見える巨大なコンクリートの塊は発電用の鉄管水路を格納しているもので、チェンジ後の画像はその鉄管水路をJR吾妻線線路付近から俯瞰で撮影したもの。

これらの写真から言えることは、専用線が先へ進むためにはこの鉄管水路を跨ぐ橋を架ける必要があるということだ。
だが、現地には橋台や橋脚の形跡は見あたらない。
羽根尾発電所の運転開始は大正14(1925)年であり、戦時中に建設されようとしていた専用線よりもだいぶ古いにもかかわらずである。

ここでは工事が行われなかったのか、行われたが後に取り壊されたのか、わからない。



今回はこの発電所から先、羽根尾駅がある羽根尾集落付近にかけての路盤は未確認である。
悪天候と発電所という大きな障害物のため、この区間は念入りに調査せず遠望にてラインの有無を探した程度なので、もっと条件の良いときにつぶさに探せば何か見つけられる可能性がある。

いずれにせよ、地形的な制約と、これまでの専用線の傾向から見て、羽根尾集落付近でも計画ルートは出来るだけ市街地や耕作地を避け、河岸段丘の斜面に沿っていたと推測される。
チェンジ後の画像(地図)に点線で示したようなルートを想定している。




これは上のチェンジ後の画像上の★印の地点から、吾妻川方向を撮影したもの。

このように羽根尾付近の地形は、集落がある上段と、耕地になっていう下段という二段の河岸段丘があり、おそらく専用線は両者を隔てる段丘斜面に沿うものであったと思う。
ただし今回の簡単な調査では、この区域内に具体的な遺構は一切見つけられなかった。




8:23 《現在地》

収穫を得られなかった羽根尾集落付近での調査を早々に切り上げ、嬬恋村との境界である赤川へ向かうべく国道144号を西へ進むと、羽根尾集落の終わりと同時に道路沿いの平地が無くなり、向かって左は崖を介して吾妻川に面し、右はJR吾妻線のロックシェッドを兼ねた巨大なコンクリート擁壁を介して、急峻な山壁と接するようになる。
ここに至っては専用線が取り得るルートの自由度も皆無となり、仮にかつて路盤が作られていたとしても現在の2車線ある国道の用地に奪われたか、吾妻線に呑み込まれてしまったと考えられる。

事実、この区間にも現存するいかなる遺構も見出せなかった。




8:31 赤川橋通過。

長野原町と嬬恋村の境を流れる赤川を橋で渡る。
周りを確認したが、ここにも特に未成線の遺構らしいものは見あたらなかった。
ここは専用線の起点だった長野原駅(現:長野原草津口駅)からは約5.5kmの地点で、計画延長11kmのだいたい中間である。
この先の専用線は、嬬恋村の中心部に近い芦生田にあった草軽電鉄嬬恋駅まで、後半戦の旅路となるが、読者さまの情報はまだ3件も残っているから楽しみだ。
次の【情報2: 半出来付近の橋台他】まで、あと1km少々と思われる。

そろそろ、何か遺構が見たい。



嬬恋村に入るなり、早速、 キターッ ぽい。

それまで吾妻線が占めていた国道山側の斜面が、吾妻線の長いトンネルによって解放されると、間もなく“それ”は現れた。

路盤跡だと断言出来るほど鮮明ではないものの、国道山側の石垣の上に続く平場の存在。
しかもその平場の山側には、国道のものと較べてより古びて見える別の石垣が、断続的に存在していたのである。
いちおう、単なる治山工事の痕跡という可能性も捨てきれないが…、私にはそうは見えなかった。

なお、【情報2】の地点にはまだ辿りついていないから、これまた事前情報にない遺構といえそうだ。



8:35 《現在地》

国道の山側に寄り添うように現れた平場の列は、その後も私の目を引き続けた。
途中、山側に上る町道に一旦掻き消されたものの、それが無くなると再び現れ、時には電信柱が設置されたりしていたが、本来はそのための用地ではなかったように思う。
意識していなければ気がつかない程度の地味な平場の列だが、未成線の痕跡と断言して良いと思う。




吾妻線が600mほどのトンネルでショートカットしている「へ」の字型の吾妻川の蛇行を、国道は素直に川に付き合っている。そしてその国道の一段上が、専用線の定位置だったようだ。途中、特に橋やトンネルを要するような場所も無いまま、素直に国道に沿って平場の列が続いていた。
試みに何度か上ってもみたが、ただの平場である。

しかし、嬬恋村内に入ってからの専用線は、急に痕跡が連続性を強めたような印象を受ける。
おそらくこのまま【情報2】の地点まで痕跡が続きそうだし、その先も【情報3】【情報4】と、さほど離れていない。
嬬恋村内での工事は事前情報の印象よりもさらに全体的に進められていて、その痕跡も豊富に存在するという可能性が高まってきた。
橋やトンネルのようなものと違って、あまり「遺構」として印象が残らないのだろうが、これだけ連続していれば立派であり、上信鉱業専用軽便線への印象も変わってくる気がする。
(むしろ、今まで未成線としてマイナーだったのが不思議なくらいの遺構の物量ではないか)



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【情報2: 半出来付近の橋脚他】 


8:43 《現在地》

更に進んでいくと、しばらくトンネルのため見えなくなっていた吾妻線が突然それまで専用線の定位置であった高さに表れたかと思うと、そのまま国道と吾妻川を大きな橋で跨いで、対岸へ消えていった。
写真はその橋を一旦通り過ぎた後に振り返って撮影しているが、この吾妻線による攪乱のためか、ここで一旦専用線の痕跡は消えている。

だが、この辺りから読者さまより寄せられた【情報2: 半出来付近の橋脚他】の擬定地点となる。
情報によれば、「橋台と橋脚、築堤が一部残って」いるらしいので、期待が大きい!



むむむ。

この法面のツートンに色分けがなされたような状況、いかにも不自然だな。
情報提供者も書いていた、「以前はトンネル付近まで路盤らしき形が残っていたのですが(中略)法面の工事で結構失われてしまったようです」というのは、まさにこれのことだろう。
吾妻線の線路をくぐる前からずっと見ていた専用線の定位置でもある。

法面の工事が行われるまでは、先ほどまでと同じように、ここにも平場が続いていたのだろう。
かなり地形が急な場所なので、石垣なども施工されていたかも知れない。当時の状況を詳しく知る人がいれば教えていただきたいものだ。
そしてその先に、半出来集落の家並みが見えてきた。



いたー!!

なんかこれは、思いっきり、あからさまだ。

今さら「未成線遺構を発見しました」と口にするのが恥ずかしいレベル。
でも、嬉しい。ここへ来なければ、私は見る事が出来なかったものなのだし、
これまで草の根から積み重ねてきた探索の帰結なのだから、当然嬉しい!!

しかし、本当にあからさまだな(笑)。
みんなあるの知っていたのに黙ってたんだね?
つか、私自身この道は何度も通っているのに気付いてなかった節穴目乙…orz



いや〜。お目当てのもの(築堤、橋台、橋脚)たちが気持ちよく並んでる。

遅沢川橋梁以来の橋の遺構だが、こちらは箱庭的なサイズというか、手頃な感じだ。
国道沿いで集落のただ中にあるという立地も手頃で、本当に愛らしいと思う。
だが、刻まれた歴史の重みは遅沢川の橋に全く劣らない、業の橋でもある。

それにしても、地名だからつっこんでも仕方がないが、
これがある集落名の「半出来」というのは、未成線の所在地としてどうなんだ。



8:45 《現在地》

この下を流れている川は、地形図によると、オツムギ川という名前である。
紡ぐという言葉に関わりがあるのだろうが、カタカナであることも含めて、変わった名の川だ。
ともかく通例により、本橋の仮名を オツムギ川橋梁 としたい。

オツムギ川橋梁を隣の国道の橋上(銘板など無く橋名不明)から眺めると、2本の橋脚の上の方が見えるだけで、しかも2本が近接して並んでいるために、本当に小川の橋という印象を受けるであろう。
だが、その印象は本橋の全てではないのである。




深っ!

オツムギ川は、その控えめな川幅の割に深い谷の底を流れており、河心を挟んで相対する橋脚も案外に高いことを知る。
これは馬鹿に出来ない迫力がある。

上部に行くほど細くなる端正な石造橋脚は、まさに遅沢川で見たものとそっくりで、上端部がコンクリートで施工されている点も共通する。
そして径間長が5mにも満たない程度なので、上路PG桁よりさらに短径間向けで単純な構造の I ビーム桁参考画像←大井川鉄道の現役Iビーム桁橋)を架ける予定だったかも知れない。

それにしても、この橋桁の高さは、現状の地形に対してやや過剰な印象を受ける。
もう少し径間を伸ばしても、橋脚の位置を河心から遠ざければ、それは今も半分くらいの高さのもので足りたのではないか。
或いは、現在の地形は後年の河川改修や宅地化の影響を受けていて、本来もっと谷幅が広かったのかもしれない。
それとも、戦時中の工事であるから、桁に要する金属の節約のために、敢えて極限まで径間を短くすることを選んだのか。




まさに、堅牢という言葉がぴったりなオツムギ川橋梁の橋脚群。
橋脚の上部に僅かな段差があるが、これは地震などで桁材がずれないための工夫と見られる。実は遅沢川橋梁のP2にもこれがあった。
この専用線の施工は、当時から既に著名な建設業者であった富山県の佐藤工業、いわゆる「トンネルの佐藤」の手によるものらしいが、橋も丁寧な造りである。
石材を用いたのが良かったのか、戦時中の突貫工事にありがちな綻んだ印象がない。

なお、対岸には此岸にあるような橋台や築堤が見られない。
それがあるべき場所には新しい鋪装の町道が通じており、壊されてしまったのかも知れない。
未成線なので、最初から未施工だった可能性もあるが。




さて、続いては橋台を見てみよう。
築堤の突端(写真の矢印の位置)に、あまり目立たないが、空積みの石垣とコンクリートからなる橋台が存在する。

…のだが、いかにも現状ではここに橋台を置く理由がわからない。
あまりにも地面が近いのである。これならばP1の位置まで築堤にしても全く問題がないであろう。
やはりオツムギ川左岸の地形は、だいぶ埋め立てられたのだと推測する。
埋め立ての目的は単純で、近くに建つ民家への進入路になっているのだ。




これは橋台に連なる築堤である。

だが、築堤もわずか5mほどの長さを残して撤去されており、今後の推移に予断が許さない状況だ。
橋台共々、消滅してしまいかねない雰囲気がある。

それと少々不思議なのは、築堤の断面に、明瞭な地層が現れていたことだ。
しかも斜めになっていて、人間が一から盛り立てた築堤とはとても思えない。
となるとこれは形こそ“築堤”だが、実際には地山から切り取ったものなのだろうか。
あまり築堤の断面を見る機会は多くないので見当違いな事を言っているかも知れない…。



余計なお世話シリーズ、第2弾。

遅沢川で描いたのが案外に好評だった気がしたので、調子に乗って、
オツムギ川橋梁を3径間 I ビーム桁橋として妄想描出してみた。
妄想は俺たちのみんなが持ってるフリースペースだぜ!



次回は、
【情報3: 半出来温泉付近のアーチ橋】 だ!