常磐線の終点岩沼とその一つ前の駅である逢隈の間にある下郡隧道の攻略を予想外の驚きと共に終えた私は、今回予定していた残り10本の隧道も同様に攻略するべく、国道6号線に車を走らせた。
もとは砂丘地形の長閑な田園風景を暫く走ると、やがて県境を越え福島県新地町へ、そしてそのまま相馬市へと進んだ。
常磐線開業当時は中村町といった相馬市街にも立ち止まることなく、国道バイパスを幾つかの信号で過ぎると、再び沿道は緑の景色となる。
そして、それまで平坦だった周辺には小刻みなアップダウンが現れ始める。阿武隈丘陵地帯である。
目指す次なる常磐線旧隧道は、この大丘陵の中、鹿島駅(鹿島町)と原ノ町駅(原町市)の間にある。
終点岩沼から9駅目、約50kmもの長いアプローチを経て、やっと二つめの隧道へと接近する。
しかし、最終目的の金山隧道はさらにこの倍以上も遠いことになり、時間の猶予は全く無さそうである。
てきぱきと、探索を進めていこう。
鹿島〜原ノ町 間
旧 江垂隧道
12:12
二つめの隧道は、江垂隧道という。
鹿島〜原町間には少し離れた位置にもう一つ川子隧道もある。
この二つを今回は紹介していこう。
アプローチの方法には別に難しいところはなく、地図を見て大体この辺だと思ったあたりに車を停めて後は歩けばよい。
地図中の江垂踏切というのは4輪車が通れないので、この手前に車は停める。
それでも隧道までのアプローチは短いので、チャリを組み立てるまでもなく、徒歩で挑むことにした。
踏切手前から隧道までは、100mにも満たない。
国道から江垂踏切への道は未舗装で、途中に一軒だけ民家がある。
道は踏切に突き当たるが、ご覧の通り狭少のため4輪車は通れない。
一応遮断機も警報機も設置されているが、向かいの道にも民家などはなくそのまま里山へ分け入っている。
単線の線路を歩いて渡る。
渡るとそこはもう旧線跡である。
江垂隧道の付け替えのために生じた、現在線に平行する短い旧線跡が横切っている。
狭い道は真っ直ぐにも続いているが、僅かに轍があり、保線の人たちなどが山の裏側から車で来ることもあるようだ。
足元には「工」と刻まれた廃線跡ではお馴染みの標柱が、顔を出していた。
私は、現在線のトンネルがそこに見えている左へと折れた。
なんの苦労もなく、行く手にはポッカリと口を開ける江垂隧道に辿り着いた。
廃線跡の隧道探索でここまで苦労なく辿り着けることは珍しい。
保線のために最低限の管理がされているせいで藪化していないというのが大きい。
時間がおしている事を自覚していたので、このようなスピーディな展開は助かった。
江垂隧道の北側坑口は老朽化が著しく、表面の煉瓦の風化が目立つ。
意匠にも特に変わったところはなく、常磐線の旧隧道群の中では最もシンプルなデザインと言えるだろう。
北向きの掘り割りの奥に口を開けているだけあって周辺はひんやりと沈んでおり、大きな氷柱が幾筋も垂れていた。
江垂隧道は前回紹介した下郡隧道に遅れること一年、明治31年に中村(現:相馬)〜原ノ町間の延伸開業に合わせて開通した隧道で、やはり日本鉄道時代の遺構である。
しかし、下郡隧道で違和感を感じさせたような直立した隧道側面ではなく、一般的な馬蹄形の断面である。
坑門のアーチに見る煉瓦の巻厚は4枚で、これは一般的な厚みである。
笠石や帯石は省略されているが、おそらく後補と思われるコンクリートが、笠石の位置に横たわっている。
巨大なつららを見て分かるとおり、坑門には地下水が滲み出ているらしく、坑門の異常な風化の原因であろう。
この隧道には下郡隧道にあったような通行止めの処置は取られておらず、誰でも自由に入ることが出来る。
真っ直ぐな隧道は延長150mほど、内部の通り抜けも特に問題なくできる。
入ってすぐの所には、石油ストーブが二台ばかり棄てられており、この棄ててある部分は排水溝になっている。
下郡隧道では両側に溝があったが、この隧道は一方だけである。
中に入って真っ先に思ったことは、内壁が異常に汚れているということだ。
元々の煉瓦の赤い色は完全に形を潜め、灰色と黒の斑模様である。
壁に触れてみると、それは“灰”であった。
これまで色々な廃線隧道を潜ってきたが、これほどに酷く灰に塗れた隧道は見たことがない。
同年代の遺構である奥羽本線や東北本線の隧道と比較しても、その差は歴然である。
灰で汚れているというのは見てきたが、灰が壁に付着して厚みを成しているというのは、これまでにない。
堅く締まった洞床には、いまだに枕木の寝ていた跡が鮮明に残っていた。
また、ちょうど隧道の中程で、側溝に固定された木柱を発見。
最初はゴミだと思ったのだが、近づいてよく見てみると これが…。
なんとこれが距離標。
なぜこんなに目立つのに今まで本などで紹介されなかったのかと不思議に思ったが、そう言えば『鉄道廃線跡を歩く』シリーズは基本的に隧道内部はNGだったんだと思い出す。
まあ、さしあたって騒ぎ立てるような発見ではないのだろうが、この日の探索で隧道外の旧線部分を含めても距離標を発見できたのはここだけだったので、それなりに珍しいのではないだろうか。
書かれている距離は「292」kmで、時刻表で調べてみると、これは現在の起点である日暮里駅からの距離に一致する。
それも当然で、日暮里駅が開業し全通したのは明治38年と、隧道の誕生とそう変わらぬ大昔のことである。
南側の坑口に近づくと、見慣れない景色に息を呑んだ。
旧線跡に覆い被さるような竹林がそこにあった。
竹が殆ど自生していない北東北の人間にとっては、この景色は鮮烈に見える。
ふと、「常磐ハワイアンセンター」という言葉を思い出した。
私がまだ小学生で横浜や川崎で暮らしていた頃、家族旅行で何度も行った覚えが微かだがある。
常磐というと、子供心には南国だと思っていたが、実は横浜などよりも全然北にあったのだな…。
そこから気になって調べてみると、いまはもう「スパリゾートハワイアンズ」に名前が変わっていた。
そう言えば、この「常磐」と言う地名自体が、死語というか、消え去りつつある地名のようだ。
以前は常磐ハワイアンセンターのあった町は常磐市と言ったが、気が付けばそこはいわき市になっている。
常磐線という路線名も、ともすれば「ダサい」のかもしれない。
なんだかわびさびを感じさせる南側坑口の姿。
現在線の坑門も右に並んでいるが、竹林に覆われたこの一角だけは異質な空間に見える。
ともすれば、廃線跡というよりも、長い時を人と共に歩んできた街道筋のような印象を持った。
帰ってから地図を見ていた気づいたが、この江垂隧道が潜り抜けている丘の上には、中舘古城跡と真野古墳群という遺跡がある。
特に真野古墳群は古墳時代(1300〜1700年前)の大規模な遺跡で、国指定の史跡にもなっている。
非科学的と言えばそれまでだが、人が命を多く重ねてきた土地というものにはそれなりの風情というか、独特の匂いのようなものがあるのだと、最近は思うようになってきた。
江垂隧道南口は保存状態がよい。
コンクリートなどによる補修の跡もなく、控えめな笠石の造形を見ることができる。
見上げる竹林に、西洋風な煉瓦の遺構というのは目新しく、貫通探索を終えたら速攻で次へと思っていたにもかかわらず、思わず魅入っていた。
この後、さらに華美で優雅な様々な坑門の意匠を目にすることになるのだが、周囲の景観との調和も含め、個人的にはこの江垂隧道南口がナンバーワンである。
川子隧道
12:36
続いては江垂隧道の2.4kmほど南方にある川子地区の川子隧道である。
鹿島町と原町(はらのまち)市の境界を成す小さな尾根をくぐっており、やはり昭和42年に他の隧道と同じく電化のために廃止されている。
この隧道はこれまでの隧道よりもややアプローチがややこしく、国道6号線のバイパスよりは、かつての国道であり陸前浜街道の名残である県道120号線(浪江鹿島線)からの方が近い。
いずれにしても、地図を見ながら慎重に接近すれば、いずれは到着できるような場所だ。
私も国道からの入口で一度、尾根の上の新しそうな道からの下り口で一度と、合計二度道間違いをしたが、すぐに気が付いて辿り着くことが出来た。
例によって旧線は保線用の車道になっているようで、車のままでも隧道まで入れそうだったが、線路脇を走るのは遠慮しておいた。
線路脇の旧線跡に降りると、すぐに新旧並んだ川子隧道が見えてきた。
なお、今度は江垂隧道とは逆に、南側から北側へと向かっている。
冬枯れのススキ藪の乾いた匂いを感じながら、少し早足で隧道を目指した。
穏やかな日の光を全面に浴びて輝く川子隧道の南口。
江垂隧道と同様にシンプルな造形で、両脇にも開けている(両脇の壁を翼壁というが、翼壁が非常に広い)ために余計に間延びした印象を受ける。
間延びというと悪い印象に聞こえてしまうが、見ていて心休まるというか、煉瓦隧道にありがちな「不気味さ」や「気持ち悪さ」を全く感じさせない、希有な物件である。
これもまた、印象に残る。好きかと問われれば間違いなく、「好き」な隧道だ。
シンプルではあるが、江垂隧道にない意匠が一つだけある。
向かって右側の翼壁に刻まれた、煉瓦一枚分の深みの凹部の存在である。
果たしてこれがなんなのか。
『鉄道廃線跡を歩く \』でも特に触れられてはいないのだが、自然に崩壊してで来た物ではない。
坑口の天辺まで行っていれば水路かと考えるところだが、そうはなっていない。
溝の上端部分は右の写真(反対側の坑口の物だが)の様になっており、水路のような物が通っている様子はない。
しかし、単純な意匠と考えるには、左右対称でないなど不自然である。
皆様のお知恵をお借りしたい。
なお、この隧道も側壁が下郡隧道同様に垂直になっている。
坑口上のアーチと側壁との接点部分には大きな亀裂が走っており、強度に不安がある。
まるでスターウォーズのオープニングの星の動きのよう(?)。
坑口付近に生えた氷柱を真下から見ると、こんな面白い写真が撮れたが、よく見ると円形の滲みが沢山写り込んでいる。
これはもちろん、滴る水を全身で、特に顔面で受け止めながら撮影したことを示す、貴重な証拠だ。
それと、念のために大きな氷柱の真下には行かないように気を付けて撮影している。
顔面に氷柱が降ってきてこんなところで流血しても、ネタにはなるが、
ネタにはなるなー。
すっぱりと真っ直ぐな側壁。
この隧道が竣功した明治31年は、官営鉄道(後の国鉄)において初めて隧道断面の規格が制定されたのだが、施工上やむを得ないような事情があったとも思えないこの平凡な川子隧道(と下郡隧道)にて、なぜ強度に劣る断面が採用されたのかは不明である。
ともかく、見た目における通常の断面(馬蹄形)とこの蒲鉾形との相違は明白であり、隧道の印象を大きく左右させているように思う。
蒲鉾形では断面積が大きい分だけ、やはり開放的な印象となる。
しかし、側壁が平板のため、締まりがない様な印象も同時に与える。
隧道内部は乾ききっており、両側に用意された細い側溝にも枯れ葉だけが詰まっていた。
バラストとおぼしき砂利が残る隧道を早足気味に歩く。
やはりこの隧道も相当に灰まみれである。
そして、この灰まみれという点は、常磐線で見た各隧道に共通する特徴である。
ではなぜ、同年代の他の路線の隧道よりも明らかに多くの灰が堆積しているのだろう。(ここでは東北圏内ということで、東北本線や奥羽本線と比較している)
これについても皆様のお知恵をお借りしたいと思っているのだが、一つには、この常磐線を行き来していた蒸気機関車に原因があるのではないかと思っている。
電化まで常磐線内にて主に特急列車の牽引に使われていた「C62」は、国内旅客用では最大の蒸気機関車で、その煤煙の量も相応であったという。
常磐線では東北線よりも電化が遅れたために、このC62の活躍は国内の主要な鉄道では最も遅くまで続いた。
それともう一つは、この常磐線で一般的に使われていた石炭は常磐炭といって、同地方で大量に採掘されたためこの名があるが、これは代表的な国内の石炭の中では最もカロリーや純度が低い石炭であって、「無煙炭」などと言われる物とは対照的にかなり大量に黒煙を上げて燃えたという。
常磐炭は戦中戦後には広く他の地方でも使われたが、決して好まれる物ではなかったと言う。
さらに言うなら、常磐線の各隧道が蒸気機関車を通わせた年数が単純に長い(明治31年前後〜昭和42年、約69年間)事も関係があるに違いない。
待避坑に置かれた膨大な量の一升瓶。
ドブロク隠しの現場! かと思ったが、空だった。
しかしまた、なんでこんな場所に放置したのだろう。
不思議だ。
いかにも廃線跡らしい雑木林の小径へと続く坑口。
先の方の森の切れ目に白っぽい列車の走り来るのを見た。
そしてすぐに短い警笛が間近に聞こえ、ほぼ同時に鈍い地鳴りが始まると、それは数秒ほど続いていた。
やがて治まって、今度は背後の遠い入口から列車の走行音が、やけにのんびりした感じに届いてきたが、それもすぐに小さくなって消えた。
川子隧道の北側坑口は、金属製のフレームによって坑門自体の前傾を防ぐ補強が成されている。
そこには、南側のそれに感じたような和やかさは薄く、同じ隧道でも双面の表情は大きく異なっている。
共通しているのは、やはり現在線側の翼壁にだけ刻まれた溝である。
もしこれが単なる意匠でしかなく、美的センスに訴える物なのだとすれば、両方の坑口の溝の位置は、坑門に向かって右側や、あるいはその逆という風に統一される様に思う。
明治の人々の建築に対する美的感覚は左右対称を好んだと思われるが、それが不可能だとしても、今度は隧道全体としての対称形を指向すると思うのだ。
考えすぎなのかも知れないが、やはり意匠ではない何らかの実益があるのだろうか。この溝には。
せいぜい雨樋くらいしか思い当たらないのだが…?
またしても謎を孕みつつ、やっとこさここまででクリアした隧道は三本。
隧道 のこり8本。