常磐線 旧隧道群11連発 その7 金山隧道 <前編>

公開日 2006.02.20
探索日 2006.01.21



廃線界の重鎮へ… イバラの径

ちょっと寄り道して

15:19

 標題の通り、一つだけ寄り道をした。
時間的にそんなことをしている場合ではないことは重々承知しているのだが、そこに廃隧道があるかも知れないとなれば、捨て置くことは出来ない。
前回紹介した小高瀬隧道は、浪江〜双葉駅間にあったが、その次の駅間である双葉〜大野駅間にも、地図上には隧道が一つ描かれている。
しかし、この隧道については、様々な書籍やネット上の情報を見ても、旧隧道が存在するという話を聞かない。
もしかしたら、明治の隧道を現在もそのまま使い続けているのかも知れない。
それはそれで、とても気になる。

 そんなわけで、隧道の名前はちょっと分からないのだが、国道6号線が県道252号線とクロスする夫沢交差点の側に描かれている隧道へと、車を向けた。
すると間もなく鉄道のガードが現れ、おあつらえ向きの線路上へと上れる階段までも現れた。



 結論から言うと、明治の隧道も改修されて複線の一部として今も使われ続けていた。
右の写真の通り、その場所には二つの隧道が仲良く並んでいる。
どちらも見た感じ普通のコンクリート製の隧道で、どちらが旧隧道なのかは分からないが、いずれ周囲に使われていない隧道がある感じはしない。
開業当初から常磐線終点の岩沼駅から大野駅間には11の隧道があったようだが、現在はそのうちの10までが同数の新隧道に取って代わられ廃止されたと言うことになる。
唯一この隧道だけが、しっかりと改良され複線の一部として今も現役のようだ。



エンブレムへの道 アプローチング


 いざ、残るは金山隧道のみ!

 やっとそう言う段階になったのは、もう午後3時を大きく回った頃だった。
ここまでを整理すると上の地図の通りで、今回目標としていた常磐線の11本の廃隧道について、終点岩沼駅から最も近い下郡隧道を午前10時33分に攻略開始したのを皮切りに、約4時間半をかけて10本まで攻略を終えた。
途中で攻略が進むのとほぼ呼応するように行政界を何度も乗り越えた。
宮城県の南端で始まった探索は、既に福島県浜通地方の中央部まで南下していた。
これを国道6号線に換算すると、朝出発した仙台からは約120km、岩沼からでも90kmの南下である。

 残りは僅か1本となったわけだが、最後にして最大の隧道である金山隧道は10番目に攻略した小高瀬隧道からさらに3駅、約20kmの距離を置いている。
この移動にも時間を割く必要があった。


15:50

 そして、私が金山隧道に最寄りのコンビニへとたどり着いたのは、もう既に夕方といって良いだろう午後4時の直前だった。
ここは、双葉郡富岡町と同郡楢葉町の境にある丘陵地の上で、国道はゆったりとしたアップダウンでここを乗り越えているが、常磐線は潔くこの丘陵全体を長い隧道で貫通している。
それが、常磐線最長の隧道である金山隧道である。

 これから攻略せんとする、明治31年に開通したという初代の金山隧道でも、その延長は1646mもあって、当時日本有数の長大隧道であった。
昭和38年に老朽化を理由に切り替えられた現在線の同トンネルの延長はさらに長く1807mある。

 私は、もう仙台に置いてきた彼女との約束『午後6時に仙台駅に迎えに行く』を大幅に超過する覚悟を決めた。

 ちょうど隧道の真ん中直上付近と思われる所にあるコンビニの駐車場に車を置き、チャリを降ろした。
仙台側といわき側のどちらの坑口から接近するかを悩んだが、この隧道について語るときには絶対に欠かせない「動輪の紋章」が取り付けられた坑門はいわき側なので、“マニア道”といわれるようなアプローチルートもある程度確立されているものと想像して、いわき側からの接近を決めた。


15:53

 コンビニの駐車場を出て国道6号線を慌ただしく流れる車列の脇を、漕ぐ漕ぐ漕ぐ。

 久々にマジ漕ぎし、まずは坑門目指してこの丘陵を乗り越えて、下る。
辺りには思いのほかに広々とした景色が広がっていて、この地下に長い長い廃隧道が眠っているのだと思うと嬉しくもあり、怖くもあり、時間的な制約(夕暮れが近いという意味も含め)が無かったとしても、やはり嬉しいばかりではなかっただろうと思う。
 今まで私が体験した廃隧道の最長記録は釜石製鉄の専用線にあった山手東側隧道の2000m超だが、この金山隧道はそれに次ぐ規模であるから、その探索が一筋縄ではいかないだろう事は予想できた。



 国道が下りに転ずると、あとは早かった。
あっという間に線路と同じ高さに下ったのである。
その途中、ほんの僅かな区間であるが、左手の谷間に線路が見えた。
正確には、現在線の脇にあるコンクリートの法面である。
おそらく、手前の方に続いている谷間の荒れ地の中に旧線が眠っているのだが、それと分かるような目印は見えない。
この景色を見たときに、私は直感的に思った。

 …以外に、接近するだけでも大変なのかも…。



 丘陵を下りきると小さな集落を横切って再び国道は上りに転ずるのだが、地図を確認して国道から脇道へ。
線路へ近づく方へと狭い生活道路を少し走ると薄暗い墓地があり、そこで鋪装が終わる。
おそらく公道としてはそこで行き止まりなのだが、さらにそこから保線用の砂利道が線路脇に続いている。
この道はそのまま旧線敷きを転用したもので、ここまでの展開はこれまでの多くの廃隧道と似ている。



 立ち止まって写真撮影するのが基本なのだが(なにぶん「現場監督」には手ぶれ補正機能のような上品なものは付いていない)、いよいよ時間の猶予が無いことと、なによりも線路からあまりに近い場所にいるということで、列車が来る前にさっさと通り過ぎてしまいたかった。

 長い長い金山隧道が貫通しているのは、真っ正面の山並みである。
こうしてみる限りは、とても1600mを越える隧道でなければ越えられないような難所のようには見えない。
しかしある意味では、ここで隧道の長さをけちって急勾配の線路を引いてしまっていれば、その後の常磐線の地位は歴史と異なったものとなっていたに違いない。
俗に言う“本線”ではない常磐線が、長い間、東北本線を補完する路線として多くの特急や貨物列車に利用されてきたのは、東北本線よりも勾配が緩やかだったことが大きいと言われる。
とくに非力だった蒸気機関車時代には、常磐線の価値は非常に高かったのである。



 真っ直ぐな線路に約400mほど並走して保線用道路が続いていたが、それは突如として消えてしまう。
景色的には、まだ隧道の坑口までは、少なく見積もっても500mはありそうだ。

 ここで再び私は悩んだ。
いま私が向かっている坑門は、いままで幾多の同好車達が挑み、そしてその多くは辿り着いていると思われる場所だ。
そして、語られ尽くした感さえある、あの“エンブレム”を賞賛している。
私は、出来れば人と違うことをしたい。
 それに、いままで隧道内部については(なぜか)殆ど語られた事がないのであるが、私はこの常(識)人であれば尻込みするだろう1600m超を貫通したいと野望を持って、当地へ来ていた。
しかし、時間的にもこの長さの隧道を歩いて往復するのはかなり厳しい。

 そんな二つの理由から、私はチャリによって金山隧道内部へと乗り込む事を考えていた。

 しかし、徒歩ならばいざ知らず、チャリ同伴で線路脇の狭いスペースを進む勇気は、私にはない…。
他に道は、無いのだろうか?



エンブレムへの道 奢れる者の末路


 低い築堤上に続いている単線の現在線を捨て、チャリに跨ったままの私は、その脇に広がるまだ若い鉄道防備林へと進んだ。

 背丈の倍ほどの高さの細い杉が規則正しく植えられており、道ではないのだが、ある程度真っ直ぐ進むことが出来るので、これで一挙に線路脇を通るリスクを回避できたと思った。

 「やはり、百戦錬磨の私の前に、自然と道はひらかれるのだ」
などと、恥ずかしい話だが、本当にそんなことを思いながらチャリを漕いでいた。
…実際には、私は“針穴の先”へとまっしぐらに進んでいたのだが…。



 脇を列車が駆けていく。
ちょうど自分は線路外を走っていて良かった。

 何もかもが、自分の思い通りに進んでいる感じがした。



 しかし、ここで一つ目の予定外の景色が現れた。

 道ではないが道の代わりに使えていた鉄道防備林は100mほどで壁に行き当たった。
その壁は、高さ3mほどの草むらの斜面で、その上にはまるで鼠返しのような反り返りさえ見せる猛烈な密度の笹藪があった。
それを見た瞬間、とても嫌な予感がした。
この密度の藪は、チャリはおろか、歩くことさえ難しいのではないかと、そう、予感した。

 これまで、多くの同好者がこの草地を踏んできたはずだ。
ならば、何処かに通りやすい道があるはずだ、少なくとも、百戦錬磨の私にとって拍子抜けだと思えるような、そんな容易な道が…。



 私はジトっと嫌な汗を感じた。
期待していたような道は、どうしても見つけられない。
時期は最も良いはずだった。
おそらく旧線跡そのものであろう築堤へと、チャリを引きずって上った私の目の前に広った景色は、私の自信…いや、それは奢りというべきか…を粉砕するものだった。

 正直、坑門に辿り着くまでの時間はほんの数分と見積もっていたので、こんな場所で手こずることは想定外だった。
しかしいま、現実に私は、その両足、両輪をひどい蔦に絡み取られ、まるで網のような枯れ藪に完全に嵌り込んでいたのである。
進むにも、退くにも、大変な労力が要る場所だった。



 振り返るとそこは、現在線からは緩やかに離れ旧隧道へと進路を改めた旧線の築堤の先端部分である。

 苦労してでもチャリを隧道まで連れて行ければ、内部探索の強力な助けとなる可能性が高い。
しかし、帰り道でもこの藪を通らねばならない可能性も高く(反対側の坑門の位置や様子は不明なので)、あまり通行に苦労するのなら、チャリを断念するのが最も効率的である。

 そうアタマでは分かっていても、私の悪い癖で、一度チャリで踏み込んだからには、これを捨てるのは悔しかった。
負けを認めてしまうような気がした。
一般に知られたような廃線跡で、後れを取るような気がした。



 そうこうしているうちにも、時間だけはどんどんと進んでいた。
実は既に築堤のずうっと先には、白い点のように目指す坑口の動輪のエンブレムが見えていたが、そこまでの距離は思うように縮まらなかった。
歩くだけでも大変なのだが、チャリを押し進むのはとにかく無駄な労力をひたすらに強いた。
1m進むともうツタやら何やらがベダルに絡みつき、50cm以上は戻ってそれを解いてやらねばならなかった。

 私は、遂に額から垂れる汗とサウナのような全身の熱さに耐えかね、着用していた厚手のジャンバーを地面に脱ぎ捨てた。
この時点で、帰り道でも引き返してくることが、前提条件となった。



 まずそばに見えてきたのは、現在線の金山トンネルである。
そして、その左の沢地の最も奥に、旧隧道の坑口の上端と、坑門に広く目立つエンブレムとが見えてきた。

 あそこまでチャリで行ければ!


 そう奮い立たせた直後…



  ヴァー…


  も、もう…



   K.O!

 日本語で言うと、

  ノックアウト!

 チャリでの進行は、悔しいけれども、断念!
いよいよマニア道と言われているようなものも完全に潰え、背丈と同じくらいの高さの全く見通すことの出来ない凄まじい笹藪が、築堤上を完全に覆い隠していた。
とてもじゃないが、幾ら時間があってもチャリを押し進めることは出来ないし、試してみたが、歩いて入ることさえ出来なかった。

 もう、線路脇を歩くしかない。



 惨めだが、当初の計画を曲げ、チャリを放棄。

 着衣ばかりか、相棒までも捨て、私はどんどん細身になって独りになって、

 私は、
 闇へと、 近づいていった…。



エンブレムへの道 奢れる者への報い

16:13

 チャリを捨て、単身で築堤から現在線へと、体重で蔓延るツタを押し切り駆け下った。

 そこは、いよいよ金山トンネルの間近であり、国道からも見えていたコンクリの法面は高く聳えていた。



 味も素っ気もない金山トンネル。
その竣功は昭和38年と、道路トンネルの世界ではそこそこの古株と言えるが、鉄道の世界ではボリュームゾーンというか、至って普通の古さだ。
旧隧道よりは両側坑口がそれぞれ100mほど長いが、全体では緩い右カーブとなっているなど、線形はおそらく共通しているのだろう。
 なお、今回これまでに紹介した10隧道は全て、昭和42年に一挙に電化に伴って廃止された隧道だったが、この金山隧道については、その4年前に老朽化を理由に廃止されている。
なにか、急を要するような老朽化が起きていたのだろうか。
 それを含め、内部探索はもう、間もなくだ。
いよいよ隧道へと心が逸る私に、落とし穴が口を大きく開けて待っていた。



 私は、現在線の線路から左にそれて旧隧道へと藪漕ぎを開始した矢先、振り上げた太ももに刺すような激しい痛みを感じた。

 いや、それは実際に、野バラの巨大な棘が、ブッスリと太ももに突き刺さった痛みであった。
痛みに慌ててももを見ると、そこには今もげたばかりの野バラの刺が、肉とズボンに刺さったままにあった。
私は、「くそっ」と独りごちてそれをおもむろに抜き捨て、イライラしていたのでそこを顧みずそのまま先を急いだが、まもなく太ももの辺りに、じんわりと温かい物を感じた。
見ると、血がジーンズ越しに滲んでいた。
さすがに、いままで刺さったどの棘よりもジンジンと痛んだ。
とはいえ、どうすることも出来ないので、自分の不注意と、驕った罰だと諦めて、痛みを無視して進んだ。



 いよいよ藪越しに大きく見えてきた金山隧道。
その坑口の位置は、現在トンネルとほぼ同じ高さにあり、私がチャリやジャンバーを捨ててこなければならなかった築堤だと思ったものは、実は旧線の築堤などではなく、その後に何らかの事情によって盛られたものではないかと思われる。
そう考えないと、あの高さは不自然である。



 あー きた。


 え?
いつもより感動が薄いんじゃないかって?
メジャー物件だからひねくれているのかって?

 そんなことはない。
ただ単純に、あるはずのものがあるべき場所にあった。
それを確認したという“作業”に、さしたる驚きや感動はない。


 むしろ、私が期待しているのは、この優美な口の奥。
未だ誰も報告しなかった、金山隧道の、その深遠の姿である。



 そして、満を持していよいよ、

 次回からお伝えしよう…。