廃線レポート 宗谷本線 神路駅跡 到達作戦 第1回

公開日 2024.10.25
探索日 2023.10.28
所在地 北海道中川郡中川町

 “EXPLORER K2” 出動!


今回の作戦を説明する。

まず、神路駅跡到達のための“足”として、自前のカヤックを利用することにした。
シンプルに陸路だけで到達しようとすると、前回の導入でも少し触れたが、どうやっても踏切のない場所で線路を横断しなければならなくなるし、何より単純に遠すぎる。

右の画像「陸路での到達性」を見て欲しいが、地理院地図上に描かれている車道の終点として、駅跡に最寄りの「A」地点(駅跡まで0.8km)は、佐久地区から11kmも山道を走らなければ辿り着けず、しかもかなりの高低差がある。あまり高低差がない川沿いの経路として、佐久から線路沿いに9km進んだ車道の終点「B」地点もあるが、ここからだと駅跡まで3kmも道なき道を行かねばならない。いずれにしても、最後は線路沿いを長く歩かねばならない。

だが、チェンジ後の画像「水路での到達性」のように、国道がある対岸から上手くカヤックを利用することで、2km程度の水行(しかも川の流れに沿って下る)と僅かな歩行で駅跡に達せる見込があった。
せっかくカヤックがあるのに、これを利用しない手はない!

とはいえ、これが万能にラクな方法たり得ないことも、経験から想像できた。水行には水行の難しい要素があるのだ。
具体的な難しさは本編で見てもらうが、端的に言って、カヤックというのは一般的なイメージほどポンポンと簡単に出したり引っ込めたり出来るほど身軽ではない。
流れの早い河川では、行動は基本的に一方通行で、川を下り始めたら最後、どこかへ上陸するまで戻ることは出来ない。それに、離岸や上陸に使える場所も限られる。そしてもちろん、陸上にはない沈没溺水という危険がある。


 神路集落への伝統的な交通手段は……


今回、計画の段階で神路への到達手段を検討するべく、神路集落が現役だった時代の“行き方”に言及した記録や古い地形図を探ったが、鉄道以外の陸路によって往来していたという内容は発見できなかった。

右図は、大正12(1923)年と明治31(1898)年の地形図の比較である。
前者には、右岸には鉄道と「神路駅」と「神路集落」があり、左岸には細い道と「幌萌」の開拓地が描かれているが、左岸の道路は幌萌の下流で点線の「小径」となり、その先は「渡船」によって右岸に移って延びている。明らかに、現在の国道40号のような車が行き交うような道ではないことが分かる。

これが明治31年の地形図になると、まるっきり無人の世界である。
道もなければ家もなく、全くの原始境である。
一応、「カムイルエサニ」→「神居山」など、いまに通じる地名があるから、アイヌの人たちには知られていたのだろうが…。

『北海道道路史 III 路線史編』によると、明治時代、開拓使による開発は名寄盆地から天塩平野(さらに稚内)へ向けて北上したが、名寄盆地と天塩平野の間は天塩川が約6里にわたって天塩山地を峡谷となって流れ下る難所であり、初めて左岸に道らしいものが通じたのは明治41(1908)年であるという。路線名を仮定県道天塩線といった。
しかし実態は、「音威子府〜佐久間は山間の崖道で馬を通すこともできず、物資輸送はすべて川船によらねばならなかった」という。

さらに、大正時代には右岸に鉄道の建設が進められ、大正11(1922)年に音威子府から誉平(中川町)まで通じた(このときに神路駅も開業した)ことで、大正9年に地方費道旭川稚内線となっていた左岸道路の整備は進まず、昭和10年ごろにはほとんど通行不能の状態であったというが、戦後に道路交通がようやく重要視され、昭和27(1952)年に一級国道40号が指定。昭和29年から改良工事が進められ、同32年に(一部未舗装ながら)ようやく左岸伝いを車で通り抜けられるようになった。

このような経過であったから、右岸の神路集落への交通手段としては、初期は川船が唯一のものであり、鉄道開通後はそれが第一手段となった。
左岸の幌萌との間には明治41年の仮定県道開通時点で私設の渡船場があり、これは大正2(1913)年から官設渡船場になっていたという。

したがって、鉄道なき今となっては、水行による神路への到達は、伝統に立ち返った最も正統的な手段を採ったものといえるだろう。
だいたいにおいて、カヤックの使用は裏技的手段のように考えがちだが、今回は違うのである。
まあ、だからといって、何かのお膳立てがされているわけではなかったが……。





2023/10/28 13:11 《現在地》

現地探索の前に長々と語ってしまったが、今度こそ本編だ。

が、船出のためにはまだ準備がいる。
やって来た場所は、カヤック探索の終了時に着岸すべき予定地点。
昭和40(1965)年までは幌萌集落があった左岸の川べりである。

【山手を見る】と、かつて開墾されていたことが窺える広い草地が山の方まで広がっている。
国道が草地と森の境目を横切っており、20mくらいの高度差がある。
国道からここまで砂利道が通じていて、自動車で川べりまで下りて来られる場所だった。

で、写真は撮り忘れたが、目論見通りにここの川岸は上陸がしやすそうだった。
それで水行の終点は、この場所に決定。安全に上陸できる場所の目途がなければ、闇雲に漕ぎ出すことは出来ないのである。
このとき、すぐそばの車道の終点に【自転車をデポ】することも忘れなかった。(上陸後は、この自転車で出発地点に戻る予定)

後の準備をしたので、今度は車で離岸地点へ向かうぞ。



13:24 《現在地》

予め航空写真やグーグルストリートビューで当りを付けておいた離岸予定地点へやって来た。

この辺りの国道40号を通ったことがある人なら分かると思うが、一帯は集落や脇道の全くない非常に流れの早い道路で、車を停めておけるような場所は少ない。
車が停められ、かつ近くにカヤックが出航できそうな岸がある場所となると、探すのはなかなか大変で、そのうえ目的地から遠すぎない場所となると、選択肢はほとんどなかったと思う。

条件に合いそうな唯一の場所に車を停めた後、普段の探索道具に加えて大きな手提げ袋に詰め込んだカヤック一式を持ち、最寄りの岸へ歩き出す。
川まで100mないくらいだが、そもそも荷物が大きく重く嵩張りすぎるので、これで長距離の移動は無理である。



13:28

早くも汗ばみながら、見えてきた。
河畔林のむこうに広い川の流れが。
理想は、玉石の転がる広い河原が、流れの緩い水面と接している状況だ。
この季節の川は基本的に水量が少ないと思うので、好条件に期待したいところ。


さあ、どう?   緊張の一瞬である。




13:29

ぬわっ!

…………ちょっと水量が思ったより多いし、水勢も強い。



天気はいいんだが、昨日も、一昨日も、雨の降る時間があったせいだろうか。
渦巻くような流れの強さに、気圧される。
しかし、他の条件の良い場所は知らないのである。時間的にも、あんまり遠くから出航する余裕はない。

水量は多いが、護岸のためのブロック(いわゆるテトラポット)が岸に沿って多数設置されているので、水の勢いが弱い出航に都合の良い場所を見つけることは出来そうだ。
とりあえず、カヤックを膨らませることにする。


――10分後。



13:40

一式の準備が出来た。
ライフジャケットも装備ヨシ!

しかし、今回のように一人の場合、一番難しいのがこの後の作業だ。
流れのある川に舟を浮べ、流れ出す前に乗り込んで、漕ぎ出す必要がある。
最悪、無人のカヤックだけが流れ去ると、下流で無人のそれが発見された際、遭難事件を疑われて大変なことになるだろう。
重要なのは、乗り込んで漕ぎ出すまでの間、安全に浮かんでいられる流れの緩い場所を見つけること。
なお、くれぐれも護岸ブロックの下へ潜り込む流れには気をつけないと。強く吸引されると、脱出できなくなる恐れがある。










13:53

無事に荷物と一緒に乗艇し、下流へ向けて漕ぎ出すことに成功した。



… … … … え?


なんでカメラのレンズが水滴だらけなのかって?! 

えへへへへ…


い、いいじゃないか! ちゃんと動いているから!汗




いざ、神路へ向けて出航!





 川さ行がねが 〜天塩川錦水編〜


2023/10/28 13:55 《現在地》

私は陸を離れた。

水上における私の相棒として、これまで幾度も旅を供にしたカヤックの中に体育座りに収まって、ぽつねんと天塩川に流されている。
常に漕ぎ続けなければならない海と違い、しっかりとした流れのある川は、自動的に私を下流へ運んでくれる。そのため、今はひと息つける状況だ。進路をキープするための最小限の操作をしながら、流れに身を任せている。それだけで、平坦な道を歩行するよりも早い速度が出ている。自転車で緩い坂道を下るようなラクさである。

周りの景色に目を向ける前に、自身の状況を振り返る必要がある。
恥ずかしながら、この舟に乗り込んで陸を離れようとする過程で、私は全身ずぶ濡れになっていた。(「 悪 戦 苦 闘 」の中身である)
乗艇の過程でバランスを崩して落水し、ライフジャケットで浮かばされながら陸へ戻ったのである。
本当に首より下は全て水に浸かった。濡らしてはいけない筆頭である首に提げた一眼レフカメラ(発売以来ずっと愛用しているPENTAX KP(同じ機種を3台買換えた3台目、防じん防滴ではあるが防水ではない)も、数秒間は水の中にあった。
レンズの内側まで水が入ったために、先ほどから撮った写真に水滴が写り込んでいるのである(だから拭き取れない)。 幸い、撮影自体は出来ているが……。

なお、カメラが濡れたことに比べれば遙かに(私にとっては)小事だったが、体育座りの私も、普段の探索着のままでびしょ濡れだった。
長靴を履いているが、脱いでひっくり返せば大量の水が吐き出されるだろう。それをしていないのは、舟の上で自由に動けないから。
この状況、さすがに、寒さを感じた。当日の現地の気温を調べてみると、11〜13℃くらいであり、濡れた身体のまま川風に吹かれ、発熱するような運動も出来ない水上では、寒くて当然だった。

そんなこんなで、間違っても順風満帆とはいえない船出だった。
一度の落水に諦めず再挑戦したことで、格好悪くも無理矢理に掴み取ったような船出だった。



次は周囲の状況だが、天塩川の流れの速さと力強さ、水の多さが、頼もしさを越えて、少し恐ろしい。
けっして濁流というわけではないし、水面も激しく波立っている訳ではない。早瀬というほど流れも早くはなくて、どちらかといえばトロトロと流れているのだが、いわゆる減水期である10月末でもこの水量があることに、全国第4位の流長を誇る大河川の力を感じた。(天塩川の本流の長さは256kmで全国第4位)
川沿いに鉄道が整備されるまで、即ち大正の後半まで、この川は木材流送を初めとする物資輸送の主要な交通路だったことも肯ける流れの確かさだ。

現在地は河口から80kmくらいの中流域だが、この前後20数kmが、源流部を除けば本河川最大の峡谷地帯である。
上流の名寄盆地と下流の天塩平野をつなぐ流れは、列島の脊梁山脈の一部を構成する天塩山地を東西に横断する先行谷であり、この峡谷の中間地点である音威子府村と中川町の村町境(≒私の出航地点附近)の最も近くにあった集落が、中山町の神路であった。現在は、音威子府村の筬島(おさしま)駅附近から中川町の佐久駅附近まで、約17kmにわたって無人地帯である。

川の右岸に国道40号、左岸に宗谷本線が備わっているが、水の上から見えるのは前者だけである。
いまのところ、後者の姿は川岸の森に阻まれて全く見えない。
この先、川が大きく右に曲がっており、目指す神路への上陸地点は、曲がった先をまだ少し行ってからの右岸である。
上手く上陸できる場所があることを願うばかりだ。



14:00 《現在地》

バタバタとした漕ぎ出しから8分ほどで川の大きなカーブを曲がって(約600m移動した)、その先の長い見通しを得るに至った。
相変わらず、広い川幅(100〜150m)いっぱいに滔々と水が流れていて、黙っていてもどんどん進む。進まされる。
上陸すべき地点を、早めに見定めて行動していきたい。(うっかり川を下りすぎると、戻るのはほぼ無理だ)

目指す神路駅跡、そして神路集落跡、さらに神路大橋の跡地といったものが、この視界の範囲の右岸に眠っているはず……。

目を凝らして、よ〜く見ると……

(チェンジ後の画像) あれは……!




おおおっ!!!

右岸に未知の人工物が!!

川岸にキッと立ち尽くす高い台形塔のシルエットは、どこからどう見ても、吊橋の橋塔だ。

すなわち、完成7ヶ月で失われた“幻の橋”神路大橋の遺物であろう!

何かしらの痕跡はあると思っていたが、こんな(川の上からなら)目立つ塔が残っているのは知らなかった。
今のところ右岸にしか塔は見えず、対になる左岸は確認が出来ない。
見れば見るほど格好いい姿で、惚れ惚れする。世界の中心で何をか叫んでいるような、そんな孤高の色気がある。



全天球カメラで写した水上での1枚。

普段は、藪とか、木とか、岩とか、とにかく障害物の多いところにいることが多いから、こういう水上探索の開放感は別格だ。
それに、陸の上では常に“道”の存在を強く意識して、それを探して正しく辿ろうとする緊張感があるのだが、道ではない、道のない水の上は、その部分でも解放されている。
もちろん、“死”の上に薄皮1枚を隔てているだけという別種の緊張感はあるんだけど、それを差し引いても、穏やかな水の上は、陸では道に縛られすぎる私に、蠱惑的なほどの開放感の与えてくれる空間だ。

黙っていても目的地の近くへ運んでくれる、美しい錦秋の大河。
カメラの濡れと、身体の濡れという2大失点がなければ、ここはもっと天に昇るような気持ちよさだったと思う。



14:04

そろそろ漕ぎ出しから1kmを下ってきた。
GPSの画面で小まめに現在地を確認しているが、そろそろ、駅と集落がある辺りに最も近い岸である。
そこが予定していた上陸地点なので、上陸のため近寄っていく。



14:05

う〜〜〜ん…

これはちょっと 上陸困難 だ……。

草や灌木が繁る切り立った水際には、舟を寄せても、そこから陸に上がれる足の置き場がない。
なんとか無理矢理に上陸しても、安定して舟を停泊し、後でその舟に乗り込むことも、とても難しいと想像できる。
やはり、舟を完全に陸の上に揚げ、流失の危険がない状況を確保してから、陸上の探索へ移りたいのである。
ここでは、それが出来そうにない。

ここが駅跡に最寄りの岸辺であったが、条件が悪いので、さらに下流を目指すことにした。
具体的には――



――神路大橋跡地からの上陸を目指すことにした。

先ほどから見えている塔がある橋跡はここからさらに300〜400m下流であるが、岸辺に目立つ人工物があるので目印として良いし、地形的にも、ここよりは上陸に恵まれている期待が持てた。

それに、(チェンジ後の画像)昭和31(1956)年の地形図を見ると、後に橋が架けられた地点附近と、駅を結ぶ“道”が描かれているので、廃道探索の目的にも適っている。
短命に過ぎ、地形図に一度も描かれる機会が無かった神路大橋の位置は今まで明確でなかったが、水上からの遺構発見により、橋と集落および駅の位置関係が分かったのであるから、これら全てを繋ぐ廃道についても、この機会に探索すべきであろう!



14:07

数分後、舟はいよいよ神路大橋の遺構であるコンクリート塔に大接近!
『中川町史』に掲載されていた【古写真】だと、この塔は陸側の築堤の路面と直接接していたようだが、現状ではすっかり岸から孤立している。浸食のためだろう。

また、塔の目前の水中にも、なにかコンクリートの物体が沈没している。
物体の正体はまだ分からないが、そのために川の流れが複雑に攪乱されている様子が見て取れた。
上陸に適した地点が存在する期待は、より高まった。



神路大橋の跡地に独り立つ塔の残骸。

水面から見上げた天辺までの高さは、8mくらいだろうか。
ケーソンのような四角い土台の上に直立するこの塔から、対岸へ向けて橋が架かっていた。
本来は、塔の上にさらに鋼鉄製の橋門が立っていて、そこに主索が張られていたが、橋門部分は喪失している。
ここは激しく水勢を受ける立地に見え、実際に岸の土壌は激しく浸蝕されているが、それでも塔が転倒沈没はおろか目立って傾斜もしていないのは立派である。

本橋が完成からわずか7ヶ月で廃止された原因は、強い風による橋の動揺のため、主索から吊索が外れて橋全体が墜落したことが原因らしい。
そのため、塔は破壊を免れたのであろう。
橋の喪失に、塔の過失が全くなかったとしたら、ますます悲しい遺物と思える。




14:13

塔の下を回り込んで下流へ入ると、そこの岸辺に、少し湾入して流れの淀んだ部分を見つけた。
しかも、岸に灌木がなく、代わりにガレた川砂利の斜面が露出している。
ほんの少しだけ遠浅なので、上陸および舟揚げに適した地形だ。

ここだ! 

ここを上陸地とする!!



14:15

静かに舟を岸に寄せ、転覆に注意しながら不安定な舟の上でバランスを保ちながら起ち上がって、陸際の水へ静かに下りる。
まずは成功。
25分ぶりに陸地を踏んだ。
手探りゆえ少々不格好にはなったが、どうにかこうにか神路の岸への上陸に成功したぞ!

記念に写真を……


“パシャパシャパシャ”


ん?!

なんで3回シャッターが切れたのか?!

もう一度……



“パシャパシャパシャ”




こりゃあかん!

明らかに基盤に水が入って、挙動がおかしくなっている!
これ以上カメラを動作させると、致命的な故障になる可能性が大だ。
悲しいが、復活への望みを繋ぐためにも、ここでメインカメラは使用を中止しよう。
電池を抜いてから、カメラをザックに仕舞う。

探索中に、メインカメラを喪失したのは、いつ以来だろう。
最近は、よほど気をつけていたし、そもそも水濡れに強い機種を選んできたから、あまりないトラブルだ。(昔は良くあった)
悲しいが、我がミス故だから、仕方ない。

というわけで――




サブカメラを兼ねるスマホ“TORQUE G06”で撮影を継続する。
一眼レフカメラや最近のハイエンドスマホに比べれば画質は悪いが、落水で完全に水中に漬かっていたのにピンピンしているこのカメラは、私の記録活動の最後の砦である。
ここから頼むぞ!
神路での記録は、お前のシャッターに掛かっている!







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