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2023/10/28 14:17
トラブルはあったが、神路駅跡地のある天塩川の右岸に上陸することに成功した。
「現在地」である上陸地点から、目指す駅跡までの距離は、直線距離なら約450m、昭和31(1956)年の地形図に描かれていた当時の道を辿っても約600mの至近である。
仮に陸路による到達を目指していた場合、どんなに上手くやっても最寄り舗装路から3時間は掛かりそうな距離まで、自転車デポから約70分、カヤックを漕ぎ出した時点からだと僅か30分足らずで辿り着いたことに、この水上作戦の際だった優位性が感じられるのであり、「してやった」という気持ちがした。
なお、ここからしばらくはこの昭和31年地形図をベースにレポートを進める。(チェンジ後の画像の)地理院地図だと、往時を偲ぶ縁がなさ過ぎる。
地図上に於いて歴然とした地続きの地上でありながら、鉄道を除く“他の道路”と繋がることがなかった特異な道路の風景を、この目に焼き付けたいと思う。
もっとも、厳密に言えば昭和38年の数ヶ月の間だけ、神路大橋によって天下の一級国道と接続していたのだが、それが地形図に反映されることはなかった。
14:20
最小限の荷物だけを身につけてから、岸に引き上げた舟を離れ、駅跡へ向かう。
30mほど上流に神路大橋の残骸である高塔がそそり立っており、その正面の陸上には、橋に通じていた道の跡が残っているはずだ。
まずはそこを目指すことにする。
(チェンジ後の画像)だがしかし!
猛烈に密生した笹藪が、川岸から見上げる急な斜面を隙間なく覆い尽くしているために、移動には非常に大きな労力を必要とした。
14:24
稀に見る密生度で、下ろした足を地面につけることすら大変だった。
いつもは“腐っても道の跡”を歩くことが多いのだが、ここは真に道でない場所だからだろうか。本当に物凄いのである。
当然ながら、進行のペースは極度に遅くなった。
濡れた身体は舟の上でだいぶ冷えて寒さを感じていたが、日光で暖められた笹藪の中で行われた最強レベルの高強度運動は、一瞬で身体をぽかぽかにしてくれた。その一面だけは良かったが、このような藪がずっと続く可能性を考えてしまうと、恐ろしく憂鬱であり、恐怖さえ感じた。
(チェンジ後の画像)
10mそこらの移動に5分近くも費やして、ようやく川べりの斜面を登り切った。そうして、振り返ると水面が見下ろせる高台に達したが、相変わらず周囲の笹藪は凄まじい。
上陸地点として、目立つ橋跡の塔のそばを選んだのは、今さらながら、ファインプレイだったと思う。
もしそれがないと、この何の変哲もない藪の下のごくごく狭い岸辺に停めた舟へ二度と戻ってこられなくなりそうな怖さがあった。
自然の地形か、はたまた人造のものかは分からないが、攀じ登った川岸の高台は、堤防のような配置になっており、かつて集落や農地があった陸側の平地へは、少し下って行くようになっていた。
そのため、深い笹藪にもかかわらず、いくらかの見通しが得られた。
幸いにして、川岸を埋め尽くした凶悪な笹藪は、前方の平地を悉く覆っているわけではなく、もう少し進むと与しやすそうな枯れ草の藪となり、さらに50mくらい先より奥は、一面のカラマツ林のようであった。
そのことを確認して、少し安心した。
ただ、今のところ、人工物らしいものは一切視界に入っていない。
まずは、昭和31年地形図にあった“道”を見つけたい。
14:26 《現在地》
道の跡、あった!
……ほんのりと。
写真は橋のあった場所を振り返って撮影している。
私が乗り越えてきた笹藪の高台(堤防?)の向こう側に橋の遺構である塔があるが、高台に隠されて見えない。
また、高台を越えていく道形も見当らないのだが、吊橋に必須の構造である主索を固定する錘(アンカレイジ)とみられる巨大なコンクリートの躯体が、左右の地面に埋め込まれているのを見つけた。
地味ではあるが、吊橋の明確な遺構である。
この場所が橋の一端であり、ここから道が始まっていたことは間違いないようだ。
激藪で一時はどうなるかと思ったが、これで明確な進路を手にすることができた。
14:30
橋を後にして、集落と駅へ通じる唯一の道を歩き出す。
道は東へ真っ直ぐ延びていたようだ。
周囲一面はなにかのキク科植物の枯草の原っぱで、舗装のような道の内外の区別をつけられるものはないが、前方のカラマツ林に一筋の切れ間が見える。
まっすぐ道が延びていた名残だと思う。
なお、私が辿る集落までの経路は、かつて橋が健在であったほんの僅かな期間、対岸の国道より神路へ向かった旅人の経路をなぞるものだ。
実際にどれくらいの人がこうやって(鉄道以外で)集落を訪れたかは記録がなく不明だが、先日当サイトのコメント欄に次のような印象的なエピソードが投稿されていたので共有したい。
この神路への吊り橋が架かっていた数か月の間に、旅人がつり橋を渡り神路集落を訪れ、偶然出会った女性とのちに結婚したそうです。
この橋がなければ一緒になることはなかった数奇な運命ですね。
この内容の典拠や事実関係は未確認だが、あっても良い話であり、“道”というものが人の一生を大きく動かす喩えとして、なかなか感激した。
14:32
間もなく道はカラマツ林へ入った。
カラマツはとても高くなり易い木だが、ここでもその特徴を遺憾なく発揮している。
ちょうど直線の道路部分だけ木が生えていないので、山の方まで見通せるのが愉快である。
このように印象的な姿へと生長したカラマツ林だが、これが橋から集落を目指した旅人がみた風景かといえば、ノーである。
『中川町史』の(何度も引用している)【神路大橋の古写真】には全くみられない存在なのだ。
【古い航空写真】を見ても一目瞭然だが、集落健在の当時、この辺りは耕作地として利用されていた。
具体的には、『町史』によると、馬鈴薯、いなきび、ビートなどを産していたという。当地は日本における稲作の北限を僅かに越えており、大規模な稲作が行われることはなかった。
当地にカラマツが植えられたのは、集落が無人化した昭和40年以降のことであり、『町史』には、「天塩川右岸の農地は佐久農協の所有地となって植林され
」たとある。
植林当時としては、神路駅を利用して手入れをし、伐採時も鉄道での出材を考えていたと思うが、実際は昭和52年の仮乗降場への格下げや、同60年の廃駅化によって、現在の山林管理は極めて困難になっているものと想像できる。
実際、この森へ最近に人が通って気配は全く感じられなかった。
それでも健気に木は育ち続けているが…。
そして、このように人の出入りが極端に少ない森であるためなのか、当地はヒグマとの遭遇に特に警戒を要すべき場所のように語る人がいる。
ここがどのくらいヒグマに出会いるかは不明であるが、それはそれとして、今回私は(道内の探索では大抵持ち歩いている)自作の熊避けブザー装置を持ち込まなかったため(水没して壊すのが怖かった)、それ以外の対策(クマ鈴、スマホでの大音響BGM、熊避けスプレー携行)だけを行っていた。
普段どれだけ装備を充実させているときでもおっかないとは思っているが、今回はそんな話しを聞いていたせいもあって、余計ビクビクしながら歩かねばならなかった。
14:36 《現在地》
上陸地点から200mほど東へ進むと、そこが昭和31年地形図に描かれている“十字路”の地点であった。
同地形図では、東西方向の徒歩道と南北方向の車道が十字路となっている。
そして神路大橋から駅へ向かう場合、この十字路を右折する必要がある。
なお、直進した場合は100mほどで線路にぶつかり、そこにも神路集落の構成員である数軒の民家が描かれていた。
十字路があることは、実際に辿り着いてみるとすぐに分かった。
道形が直接見えたというよりは、カラマツ林の中の視線の通り方から、それと分かったのである。
道自体は相当分かりにくい。
また、鉄道もだいぶ近づいているが、今のところ見えないし、気配も感じられない。
冬の準備を始めた森の中、集落も、駅も、じっと息を潜めているような印象だ。
右折により、駅前まで推定約400mとなった。
2023/10/28 14:38 《現在地》
ここは“十字路”を右折して、ほんの少し進んだところだ。
分かりにくいかも知れないが、写真中央に奥へ真っ直ぐ延びる道形がある。
右側はカラマツ林、左側は一段低くなっていて、寒々しい枯れ草の原野である。
このまま真っ直ぐ300mばかり進めば、昭和31年地形図には10軒以上の建物が描かれていた神路集落跡地へ辿り着けるはず。
最終目的地である神路駅跡も、そのすぐ先である。
これなら駅跡も近そうだ。 と、思ったのだが……
14:40
再び路上は猛烈な笹藪に包まれ、私の前進を阻害してきた。
上陸直後に突撃した笹藪とは笹の種類が違うのか、足が地面に着かないほどの密度ではなかったから、まだマシなものではあったが、藪の中では近くしか見えないため、近くのヒグマと突然エンカウントするのではないかという恐怖感は、藪の外より遙かに強くなった。
14:42
笹藪を突破すると、先ほどまで枯れ草の原っぱだった左の低地が、沼のような浅い水域に変わっていた。
水面上にもカラマツの木が多く立っているのだが、多くは枯死しているようで、葉は落ちていた。
その光景は、油絵を彷彿とさせる美しさがあったが、人が暮らした土地の面影からは、ますます遠ざかっている印象もあった。
虫も蛙もいないのか、周囲はひどく静まりかえっていて、私が出す音だけが静寂……止まった時を切り裂いていくようであった。
動き続ける私は、GPSの画面の中では着々実々と目的地へと近づいていたが、目に入る風景の変化は乏しいままだ。
上陸からここまでを振り返れば、橋の残骸という明確な遺構はあったものの、それ以外は、カラマツの森、枯れ草の原、沼地、笹藪くらいしか見ていない。
これらの土地の大半を耕すことで支配していた神路集落の存在、すなわち、人の暮らした痕跡に繋がるものは、まだ見つけていない。
とはいえ、こういう状況であると予期はしていた。
いくら事前情報を多く集めず探索することを好む私でも、情報提供者による情報や、鉄道車窓からの報告、ウィキペディアで読んだ内容、事前に調べた歴代の航空写真(本編導入回でも【紹介】している)などによって、「駅は取り壊されている」「集落跡に建物は残っていない」ことは、把握済みだった。
もちろん、奇跡的に事前情報から漏れた建物が……という可能性もゼロではないとほんの少しは期待していたが、基本的に、空撮に映る規模の遺構はないものと理解していたのである。
それでも、足を踏み入れる価値がある。
踏み入れてみたい!
そう思ったから、この探索を決行していた。
そのうえで、足を踏み入れなければ見いだせない小規模遺構や遺物の発見に、期待を持っていた。
14:44 《現在地》
初・遺物発見!
一本道の路上と思われるところに、見た目の異なる2つのボトルが転がっていた。
当地で目にする最初の“遺物”が、ありきたりなペットボトル飲料の空き容器でなかったことに、少なからず興奮した。
廃駅後の当地に足を踏み入れた人は、かなり少ないことが予想されるが、駅を離れた場所ほど、その傾向は強いと思われる。
その数少ない訪問者が、行儀悪くゴミを捨てていったのでない限り、ここで見つかる遺物は、昭和40年の集落撤退以前に住民が残したものか、昭和60年の駅廃止以前にわざわざ無人の駅に下りて周囲を散策した奇特な人物に由来するものと考えられるのである。
そしてそのいずれの場合も、ペットボトル飲料が残されることはないと考えられた。
だから、興奮した。
見つけたボトルの一つめは、表面が青く塗装された金属製で、キャップ部分に「TOKYO FUJIMARU」の刻印がされていた。
全く見覚えのないアイテムだったが、帰宅後に検索をかけてみると、色は違うが同じデザイン、形状のものがヒットした。
曰く、ボトルの正体はアルミ製の水筒で、それこそ手軽に携帯できるペットボトル飲料などが普及する以前に遠出の旅行者が携帯するアイテムだったようだ。しかも、このキャップ中央の丸い窪んだ部分には本来は小さな方位磁石が取り付けられていて、アウトドアでの活動をサポートしてくれる優れものだったらしい。
なお、製造年などは分からなかった。
このようなアイテムの特性や、発見場所がかつては駅に通じる路上であったことから、この落とし主は集落の住人ではなく、駅が存在した当時に当地を訪れた秘境好きの旅行者ではないかと想像した。
(チェンジ後の画像)もう一つのボトルは640ml瓶で、アルコール分37%のラベルが辛うじて残っていたので、ウイスキーの空き瓶と思われる。
ひとところにまとめて落ちていたので、先の水筒の持ち主が一緒に置き忘れていったのだろうか?
皆さまの中に、これらを神路に置き忘れてしまった心当たりのある人はいませんか?
14:48
初・遺物の発見に気を良くした私だったが、そこから先はまた、背丈に勝る凶悪な笹藪によって行く手を阻まれてしまった。
しかも、今度の笹藪の濃さは上陸直後のものに近く、ほぼ最悪クラスのものであった。
あっという間に五感の全てを藪によって支配され、しかも地形が平坦であるため、もともと薄地であった直線道路の痕跡は瞬く間に見失った。
道が見えなくなったので、直進できているかという判断も怪しくなり、頼みの綱であるGPSによる方位と現在地の確認を小まめに行いながら辛抱強く前進した。
そんな、前の見えない状況で……
………………
…………
……
こっ この音は?!
(↓ この動画は音が重要です。音量を確認してください ↓)
監獄の森の黙(しじま)を破壊して、
驀進する鉄道の音が間近に迫る!
そして、素通り。
神路の暮らしの拠り所であった鉄道だったが、駅がなければ使われぬ。
姿を見せず、汽笛も上げず、全速で過ぎ去った列車の音は、神路の今を象徴していた。
14:45 《現在地》
宗谷本線の列車が南から北へ走り抜ける音を聞いたが、見えると思われた列車自体は笹藪に隠されて全く見えなかった。
だが、聞こえた音の大きさは、線路の間近さを物語っていた。
GPSを確かめると、私は駅跡まで100mくらいの至近距離にいたのである。
そしてこの距離は、線路までの最短距離にほぼ等しかった。
だが、最終目的地である駅跡に近づいているにも関わらず、まったく周囲の見通しを得られていない現状には辟易せざるを得なかった。
見通しがないのは、少し前から道の内の外も悉く均一に地表を全く覆い隠してしまっている猛烈な笹藪のせいである。
これは同じ場所で撮影した全天球画像である。
全方位が背丈を越える激藪で、全く見通しがない。
これほどまでに人の立ち入りを拒絶する空間であるのだが、その実ここは……、この場所こそは……
かつて、神路集落の中心地といえる場所だった。
昭和23(1948)年の航空写真を見ると、黄色く着色したところに道が見えるが、「現在地」は、ちょうど駅前から来る通りの曲り角の辺りだ。
そして、この曲り角の周りに、大小の建物が結構な密集度で建ち並んでいたことが見て取れる。
これらの建物は、神路の住民の住居や作業小屋、倉庫、公会堂、日本通運の営業所などであり、少し離れた南側には小さな校庭を持つ小学校もあった。
だが、(チェンジ後の画像)昭和52(1977)年版では、既に集落に属する建物は一軒も確認できない。
昭和42年に最後の住民が撤退した集落跡地は、道を含めて一面が藪の緑に置き換わり、耕地跡の広い範囲には植林が行われている。
この撮影年の5月25日に、神路駅は神路信号所へ降格したが、それでも一般の時刻表に載らない仮乗降場の扱いで辛うじて旅客扱いは続けていた。
住民はなくなったが、信号場に勤める国鉄職員が毎日、音威子府駅から列車で通勤していた。この頃は駅舎以外に駅関連の建物がいくつも残っていた。
いたずらに広い土地に、集落はなく、外へ通じる道もなく、ただ駅だけがある。
そんな不思議な状況は、最後の住民の撤退から昭和60年3月14日の信号場廃止まで、18年近くの永きにわたって続いたのであった。
凄まじい藪のため、道は全く見失っている。
というか、起伏も方角も、視覚からは何も分からなくなってしまっている。
先ほど聞いた列車の音と、手元のGPSだけが、進むべき方向の目印である。
この藪の下の地面より、僅かな住居の跡と生活の遺物を見つけ出すことは、奇跡的な偶然に頼る以外には、もう無理であった。
奇跡に頼ってこれ以上藪の中の移動に時間を費やすことは、時間だけでなく体力の過剰な消耗によって遭難の危険を高める行為になる。
あまりの藪の深さと見通しの悪さに真剣な恐怖を感じたから、私は集落内での寄り道を一切中止して、最終目的地である駅を最短に目指すことにした。
そして、遂に――
14:53 神路駅跡へ到達……できた?!