廃線レポート 奥羽本線旧線 赤岩地区 その7

2005.1.16


 新旧合流地点 細田氏との合流
2004.11.20 11:14


 ここは、蝮沢(まむしざわ)橋梁。

明治32年竣工。
昭和35年廃棄。
向かいに見えるのは、第四号隧道である。
今私の立っている地点にて、初代線と2代目線とが分岐している。
そして、私の背後で、2代目線は即座に(新)5号隧道へ進入。
初代線は崖沿いを50mほど進んだ後、(初代)5号隧道へと進んでいる。

ここは、松川右岸、河床から40mの高さに位置する、孤高の廃線跡。

赤岩旧線群奥の院、その入り口である。






 

 今初めて内部の様子をお伝えする、2代目線の遺構。
これは、明治44年に竣工した2代目5号隧道である。
この向こうに、細田氏が待っている筈。
我々二人は、蝮沢橋梁に背を向け、新5号隧道へと進んだ。





 昭和35年までは現役だった2代目線。
昭和24年に2代目線は奥羽本線として電化しており、その際には各隧道も改築されている。
具体的には、架線を隧道内に設置するためのスペースが必要となり、洞床を掘り下げる工事が行われたとされる。

この新5号隧道もまた、その様な改築が行われたはずで、確かに僅かだが、初代線の各隧道よりも、断面に高さがある。
一方、隧道自体の設計に目立った違いはなく、幅は変わらないのに高さだけが少し高いという、状況になっている。

この隧道は、記録によれば延長164m。
長い隧道ではないが、内部はややカーブしており、出口は見えない。
風が流れており、閉塞を心配する必要はなかった。


 振り返ると、間近に4号隧道が見えている。
洞床には、バラストが薄く残されており、初代線の各隧道に比して、まだ充分に鉄道の通っていた空気を感じさせる。
特にコンクリートなどで補強された様子もなく、かといって煉瓦に綻びも見られない。
まだ充分に強度を保っている様子の、新5号隧道である。

細田氏とは、まだ遭遇しない。
無事に、2代目線まで登って来れていればよいのだが…。





 中程からは直線となり、米沢側坑口が現れる。

洞内は、煤の黒さが目立ち、永く使われていたことを感じさせてくれる。
初代線とは異なり、半世紀以上も幹線として利用された2代目線は、一応天寿を全うしたと言えるのではなかろうか。


 新5号隧道の米沢側坑口前にも、殆ど地上スペースはない。

ご覧の通り、出た先は松川右岸の断崖中腹であり、しかも10mほど先から長谷橋梁が始まる。
この橋梁は4連の長大桟橋で、残念ながら橋桁は遺存しない。

さて、細田氏の2代目線上陸地点は、ちょうどこの場所の筈。
この隧道坑門兼橋台である一画に、山腹を経由し到達するはずなのだが、まだ姿がない。
なにか、トラブルか。




 と思ったら、間もなく橋台の下の瓦礫っぽい斜面に細田氏が現れた。
無事だった。
こうして、約10分間の別行動は終わり、3人での探索が再開された。

では、改めて新5号隧道米沢側坑門の周りを観察していこう。

やはり、地形的な制約から、こじんまりとしたデザインの坑門だ。
坑門の表面積としては、初代2代目線合わせても、この赤岩一帯で最も狭いのではないかと思われる。
さらに、発見があった。




 坑口左に掲げられた、青色に塗られたベニヤ板。
そこには、おそらく隧道名(第一松川隧道)が記されていたに違いない。
しかし、残念ながら一文字すら残ってはいない。

また、板のすぐ下には、白くペンキで描かれた「5」の文字。
初代線にはあった金属製エンブレムは見あたらず、代わりにペンキの文字なのだろうか。

それにしても、坑門の色からして、初代線の各隧道とは、全く異なる。
真っ黒だ。


 また、坑門直上は非常に険しい断崖がどこまでも続いており、突貫工事で拵えられた2代目線だが、初代線に劣らぬ相当の難工事を感じさせる。

また、初代線同様、地山に目立った防災加工はなく、万一雪崩が列車通行中に起ころうものなら、40m下方の松川峡谷に多くの人名ごと列車を押し流したに違いない。
相当に危険な場所に見える。





 一方、振り返ればそこは長谷橋梁跡。

桟橋とは言え、かなりの高さがあり、ここを突破して2代目6号隧道に往くことは相当に困難と思われた。
だが、6号隧道もまた、4号隧道同様、現在線に洞内で衝突していると言われ、此方側の坑門以外には外部との接続はないと思われる。
今回の探索を全うするには、いずれ、この断崖もこなさねばならぬようである…。

まずは、
まずは4号隧道を先に、な。

この崖は、心底やばそうだ。


 対岸の様子。
ちょうど見えているのは、初代6号隧道と松川橋梁の間の平坦地。
東赤岩仮乗降場が設置されていた場所だ。
木々に覆われ、何ら初代線の痕跡を見いだすことは叶わなかった。

見渡す限り、山また山。
こんな場所に幾筋も鉄道が通っているのだから、恐れ入る。




 橋台から見下ろした松川岸辺の森。
というか、崖。

細田氏は、一人この崖を黙々とこなし、ここへ登ってきたのである。
やはり、容易ではない。



 貴重な写真拝借シリーズ。

これは、明治44年頃の写真で、初代線が休止され、急ピッチで2代目線が建造されている最中の鳥瞰写真。
松川下流上空から、撮影したようである。

現在地は、「2代目5号隧道」の地点。
長谷橋梁の長さが、際だつ。
いまや、この写真に写っているもので現役の物は何一つ無いのが、面白い。



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 再び蝮沢橋梁 
2004.11.20 11:29


 今度は3人で新5号隧道を潜った。
そして、新旧分岐地点へ。
これが、そのベストショットだ。

もちろん左が新5号隧道で、右奥が初代5号隧道である。
分岐とは言っても、同時に軌道が敷かれていた時期は無いと思われる。

新5号隧道の坑門は煉瓦製の駆体でおおよそ10mほど岩体から延長されており、見た目は隧道の一部そのものだが、落石覆い的な役割を持っている。



 松川対岸がよく見渡せる場所だが、高い位置にガードレールが見えた。

あれは、来る時に通った太平集落と福島市を結ぶ車道である。
お互い、大変なところを通っている。



 一方眼下には、やはり40mの断崖絶壁。

蒼蒼とした淵が、緊張感のある景色を作り出している。

問題は、この目の前の蝮沢橋梁だ。

これを突破せねば、やはり4号隧道には辿り着けぬのだが、ひとたび足を滑らせれば、この斜面に消えることになる。
大げさでなく、間違いない。


小さな橋だが、この蝮のヤツは、鋭い牙と、死に至る毒を、もっている。





 蝮沢という沢なのだろう。
とてもじゃないが、生き物など居そうもない、崖と苔だけの沢だ。

蝮沢橋梁には、赤い煉瓦の橋台が両岸とも残っているが、肝心の橋桁はすっかり消えている。

慎重に、黒い岩肌に張り付き、濡れた苔に戦々恐々としながら、一歩一歩、私とくじ氏は、この崖に命を刻んだ。




 さて折り返し地点。

この斜面を登れば、いよいよ4号隧道に到達できる。

しかし例によって、最後が難しいものだ。

落ち葉で見えにくくなった岩場の凹凸、手がかりとして重宝するも、同時に進路を邪魔する木々、濡れた岩場の怖さ…。

やっと橋台に体重を預けるまで、かなり恐かった。
私的には、松川橋梁の登攀よりも、恐怖を感じたと言うことを、付け加えておく。



 遂にやってきた4号隧道。

この奥には、新幹線が通う現在線があるのか?
それとも、閉塞しているのか?

赤岩廃線群奥の院。

いよいよご開帳。


 次回、極まる?!








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