廃線レポート 中津川発電所工事用電気軌道 反里口〜穴藤 第3回

公開日 2021.08.07
探索日 2020.05.09
所在地 新潟県津南町

 反里口から1km地点、第一隧道(仮称)の内部へ進む



6:37 《現在地》

第一隧道(仮称)の北口は、反里口集落から約1km離れた中津川右岸の斜面中腹に、ひっそりと開口していた。

これは全天球画像だが、坑口前には複線どころか複々々線を敷けそうなくらい広くなっていて、
もちろんそれは自然の地形ではあり得なかった。人工的に造成された広い平地である。
工事中に飯場でも置いていたのか、それとも工事列車の交換所の跡か。
除草など行われているはずもないのに、広場は不思議と藪に覆われずに残っていた。

なお、広場は谷側に眺望が開けていて、中津川の白い河原と対岸の山肌をよく見渡せた。



広場の縁に立から下を覗くと、見覚えのある【谷底の分岐地点】と、傍らに留置されている【モノレール車両】が見えた。

これで町道から隧道へ至る最短ルートが特定された。
分岐の山側にあるシダが茂る緩斜面を、シダの領域から外れないように上り続ければ、この坑口前広場に到達できたのである。
分かってしまえば簡単だが、下からこの広場は見えないし、道がないシダの斜面を闇雲に登っていくなんてことは考えなかった。(モノレールを辿っても軌道跡には来られないので注意)




広場から急激に幅を絞られ、同時に緩やかに左へカーブしながら山へツッコんでいく坑口。コンクリートや煉瓦を使った坑門は見当らず、地山掘りっぱなしの坑口だったようだ。
苔生した低い石垣が、坑口前の切り通しの片翼を辛うじて守っていた。

坑口のサイズ感としては、大きすぎず小さすぎず、見慣れた林鉄程度という印象だ。
もっとも、本来の断面の8割は土砂で塞がれている。残った開口部を守る構造は何もない。本当に良く埋れずに残っていたものだ。



坑口前の土砂の山の頂上から振り返る、起点方向の軌道跡風景。

この景色だけを見たら、廃止から100年近い月日が経過しているとは感じないだろう。
広場はこんなにも良く形を留めていたが、ここへ来る道はなく、最近人が訪れて何かをした痕跡もない(実際はpop氏が昨秋に訪れているが)。
100年前とおそらく変わらぬ少し遠い川の音が辺りを包んでいた。

これより、pop氏によって託された、隧道への突入を、敢行する。




開口部より見下ろす洞内。
とりあえず【半年前の写真】と変わってなさそう。水が溜まっているというような、一目瞭然の状況悪化がないことに、まず安堵した。

pop氏は、この坑口の印象について、「羽虫が多い」ことと、「水蒸気が多く、風も感じられなかった(ので、閉塞しているのかもしれません)」という3つを書かれていたが、とりあえず即座に1番目を首肯。季節が秋と春とで違っても、ここは羽虫たちの楽園らしい。

そして、pop氏が内部閉塞を心配する根拠とされた、水蒸気が籠もるような無風については、今日は外気との温度差の関係からか水蒸気は見えないが、確かに風は感じられなかった。
もし無風であれば、それは閉塞を疑わせる強い兆候といえるが、そもそも今日は風があまり吹いていないので、なんとも言えない。

まあ、仮に閉塞確定であっても入らない選択肢はないので、いざ突入!




クセェー!!!

第一声が、隧道に対してとても失礼な言葉になってしまったことは謝罪したい。

だが、これはちょっとキツイ臭いだ。
何の匂いであるかは、経験から知っている。
これは、コウモリたちの糞臭だ。
この隧道、間違いなく奴らに占拠されているぞ……!

……が、いま見える範囲には、1匹も見当らない。
これほどの臭いを洞口にまで漂わせるとなると、いったいどれほど巨大なコロニー(集団)だろう。
嵐の前の静けさという言葉が、現状には相応しい気がする。
正直、コウモリが好きではないので、もうこの段階で気が重い…、マジクセェよ……。




第一印象はとにかくこの強烈な臭いだったが、隧道の様子もなかなか気持ちが悪い。
壁が緑色をしているのは、外光が届く範囲に苔が繁殖しているせいだが、苔は光と水だけでは生きていけず養分が必要だ。つまりこの隧道の壁には養分がある。土っぽい壁ということだ。

この隧道が掘られている地質は、おそらく礫岩である。
猛烈に古くなったコンクリートのような質感の岩石だ。おそらくは、この高さが中津川の河床であった大昔に、川が堆積させたものだろう。
礫岩は堅牢ではないから掘鑿はしやすいが、同時に崩れやすいことがデメリットである。
根本的に、素掘り隧道が長持ちしやすい地質ではない。
壁の様子を見ただけで、先行きへの不安が2つに増えた。




思ったよりも、内部の天井が高いな。

中に入ってすぐにそう感じた。
鼻をしかめたくなる強烈な悪臭は続いているが、冷静に隧道を観察する。

私がこの中津川発電所工事用電気軌道の隧道に入るのは、これで2本目。
1本目は、ここから20km近くも上流へ行った切明地区、この軌道の終点目前にあった隧道である。(2012年に探索したレポートはこちら
遠く離れているとはいえ、ほぼ同時期に同じ路線に作られた隧道だから、比較検討をすべき第一の対象といえる。

しかし、切明の隧道は私をして、「この隧道は生きている」と言わしめたほどの、とても冷静に観察しがたい異常な内部環境を持った隧道であったため、構造的な部分の印象はあまり残っていない。
それで今回、改めて当時のレポートを見直して両者の断面サイズを比較してみたが、間違いなくこの隧道の方が天井が高い。幅は同じっぽい。

そもそも、この軌道に存在した全ての隧道は、これまで私が各地で目にしてきた多数の素掘り隧道にはない珍しい“利用実態”があった。
それが何かといえば、電気軌道だったということ。
電気軌道、あるいは電気鉄道(電車)も同じだが、これらは車両側の集電装置、たとえば車体上部にあるパンタグラフが、軌道上に架線された電気線と接触しながら走行している。
この方式の電気軌道の隧道は、天井に架線を張るスペースが必要なので、他の軌道に比べて天井は高くなると考えられる。

もしも天井の高さが電気軌道ならではの特徴だったとしたら、それを単なる「天井が高い」という印象で終わらすには惜しい。ぜひ検証を加えたい部分である。




『津南町史編纂資料 第10集』より

切明の隧道と反里口の隧道は、同じ電気軌道の隧道であるのに明らかに天井の高さが違う。
この原因も、電気軌道であることと関係がありそうだ。

右の2枚の画像は、『津南町史編纂資料 第10集』に掲載されていた貴重な古写真で、主力とされていた10トン電気機関車が写っている。
それぞれの車体の上部に伸びる斜めの棒は、トロリーポールという架線集電装置なのだが、両者の車体と架線の高さがまるで違っていることに気付く。

同書の解説によると、左は釜落し〜穴藤間、右は穴藤〜切明間で使われていた10トン機関車で、穴藤を境に軌道の建築限界が違っていたというのである。
反里口の隧道は左の高背の機関車が、切明の隧道は右の低背の機関車が運行されていた。
だからこそ、2つの隧道の天井の高さが違っていたと考えられるのだ。



『津南町史編纂資料 第10集』より

この画像は、第一発電所の建設資材である巨大なパーツが、台車ごと釜落しのインクラインを引き上げられているシーンである。
このような巨大な部品が、起点から穴藤の第一発電所建設予定地までは、頻繁に輸送されていた。
それゆえ、穴藤以奥の区間よりも建築限界を大きく取る必要があったのだと考えられる。

軌間762mmのナローゲージといえば、輸送力もたかが知れていると思いがちだが、人間の創意工夫は凄いもので、こんなひょろひょろな線路だけで今日まで通用する巨大な発電所を作り出したのである。
現在までの調べでは、残念ながら反里口の隧道の現役写真は発見されていないが、どういう機関車がどういう荷物を輸送していたかという実相を、ここに掲載した写真から知ることが出来る。


さあ、機関車の奏音が消えた闇の世界へ話を戻そう。


動画をご覧いただきたい。
写真だといまいち伝わりづらい天井の高さや、壁の脆そうな様子が感じられると思う。
私の静かな熱も。
臭いが伝わらないのが残念だけど、そうじゃなきゃ苦情の嵐になるだろう。
ほんと、外見的には不潔感はないんだけどね。



動画だとサラっと流しているが、内壁の低い位置に見つけた黄色の塗料で書かれた文字。
おそらく、「↑50m」と書いてある。あるいは「50/m」。
ちょうど入口から50mくらいの位置なので、坑口からの距離表示である可能性が高いが……

大正時代に黄色い塗料があったのか?

……という素朴な疑問が。
よく見ると、赤っぽい塗料も見えるし、この石の文字は、後年書き加えられたものでは……?

こんな荒れた隧道ではあるが、せっかく作ったのである。大正末に電気軌道が廃止された日を最後に、それっきり放置された訳ではないのだろう。
pop氏からのメールにも、「大叔父自身は昭和の生まれのはずなので、実際に電車が走っているのは見たことはないはずですが、トンネルは通ったことがあると言っていたような気がします。」とあった。

切明の隧道は、昭和30年代まで自動車が通る道路として使われていた。
この反里口の隧道も、車道とまではいかなくても、徒歩道としては長く使われたのだと思う。
昭和26年の地形図も、この隧道へ引き込まる徒歩道を描いていたではないか。
岩の塗料は、そうした後半生の密やかな痕跡だと思った。





動画を撮り終えた直後、


異様な光景が現れた。




奇妙な断面。




まさかのスラブ軌道…?




“魔窟”の系譜未だ途切れず。



 不思議な断面と洞床のヒミツ


6:47 (入洞7分経過) 《現在地》

異様な光景に、息を呑んだ。

なんだこの奇妙な断面?

初めて見るものを上手く表現できないが、天井のアーチと側壁部分が明瞭に区別された、不思議な断面をしている。
素掘りの割りに凹凸の少ない綺麗な曲面を描くアーチに対し、側壁には等間隔に柱を立てたような規則的な凹凸がある。

アーチと側壁の接線(起拱線=スプリングライン)がかなり高い位置にあるために、両側の壁の凹凸も高く伸びており、それがより身に迫ったような圧迫感を与えてくる。同時に、規則的な配列が視線を奥へ呼び込む没頭感が強い。
中国の本来の意味の“隧道”(古墳の地下通路のこと)に、無言で兵馬俑が整列しているシーンを連想し、鳥肌が立った。これはコウモリや虫や幽霊よりも私が苦手とする連想だ。何か意識外のトラウマがあるのかも知れない。



この“壁の異変”とほぼ同じタイミングで気付いたのが、“洞床の異変”である。

洞床にコンクリートが打設されていて、まるで舗装路……、いや、ここが軌道跡であることを前提にするならば、直結軌道のように見えた。(直結軌道とは道床コンクリート上に小型のコンクリート枕木を介してレールを敷設するもので、道床コンクリート上にコンクリート枕木の代わりに軌道スラブと呼ばれるコンクリート板を介してレールを敷設するものをスラブ軌道という。)
おそらくこの洞床の舗装は入洞時から続いていたようだ、天井からの落石に隠されてここまで気付かなかった。

バラストや木の枕木を用いないコンクリート道床の軌道は現代の鉄道において珍しいものではないが、森林鉄道を含めた狭軌道での採用例を私は知らない。
果たしてこのコンクリートは軌道時代に由来するものなのか、それとも(おそらくあったと推定される)軌道廃止後の生活道路時代(pop氏のご祖父が“雪中トンネル”と呼んで通行したとされる)の改造によるものなのか。

わざわざ直結軌道を用いる理由は思いつかないし、レールや枕木を固定していた形跡もない。したがって後者かと言えば、トンネル外は未舗装なのにここだけ舗装するのも過剰整備の印象がある。
とりあえず、正体不明の謎めいたコンクリート舗装だ。



入洞から既に7分を経過。
意識的にゆっくり進んでいたつもりはないのだが、悪臭に気圧されたか、思いのほか時間がかかっていて、この時点で進んだのはこれだけだった。写真は振り返り見た坑口(北口)の様子である。
まだ北口から80mくらいしか進んでいないだろう。

ここまで写真からは気付きづらかった(動画では口にしていた)と思うが、洞内は入洞直後より緩やかな右カーブを続けていた。
そのため、間もなく振り返っても入口の見えない領域に入る。
一層深い闇に耐える覚悟が必要だ。




待避坑発見!

こんなナリをしていても、ここが確かに鉄道用のトンネルであったことを物語るアイテム。
こんなナリをしていて、わざわざ待避所かよという気がしないでもない。
こんなナリの素掘り工事用軌道隧道に、これが必要かと。

でも、隠せぬ真面目さを感じる。
これだけの工事力を有した信越電力の監督はきっと厳格であり、その下請けは鉄道トンネルのあるべきものをちゃんと踏まえてこれを作った。そんな気がする。




不思議な姿をした隧道だ。

天井の高さや、側壁の凹凸もそうだが、地質自体も珍しい。本当に河原の砂利の中みたい。
崩れて洞床に散らばっている丸石なんて、どこから見ても河原に転がっているものと同じだが、
これが実際に河原で丸く削られたのは何万年もの過去だろう。それから長い長い時間を
地中に埋れて過ごし、たまたますぐ近くに隧道が掘られたから、再び地面に転がったのだ。

踏むと、河原の石と同じ音を立て、同じ感触があった。

誰かに見られる前提のない、地球の裏方作業を見ている気分がした。



それにしても………、

なんなんだろうね、この壁の凹凸って。

入洞直後には見られなかったので、このトンネルに必須の構造というわけではないと思う。以前見た切明の隧道にもなかった。
しかし、規則的パターンが地層の模様と無関係に現れている以上、何かの意図があるのは間違いないはず。 兵馬俑………まさかな。

この凹凸のパターンからは、側壁に埋め込まれるような柱状構造物のあったことを推測しうる。
そして、素掘り隧道で柱といえば当然、支保工が連想される。
あまり地盤が良くなさそうなことも踏まえれば、この隧道に木製の支保工があったとしても不思議はないが、柱を側壁に埋め込むという施工方法は、ちょっと見覚えがない。

この隧道ならではの事情が、なにかあったのか……?



一つ考えたのは、天井と側壁を別々に掘鑿したことによって、断面の不連続が生じたとする説だ。

というか、天井アーチ部と側壁を別々に掘鑿すること自体は、当時のこのくらいの断面サイズの隧道では常識であり、この隧道に限らない一般的な事情である。

右図は、いわゆる頂設導坑方式(別名、日本式掘鑿法)による掘鑿の模式図である。
普通はアーチと側壁を連続した曲線とするところを、敢えて揃えていないところに大きな謎がある。

やはりここで思いつくのは、掘鑿する土砂量を最小限にしたい思惑から、支保工の柱とツラを合わせる位置で側壁の掘鑿を終えたという説だ。
これは合理的な気がする(その割に他では見たことがないが)。
またこれに本隧道特有の事情を加味するなら、支保工が架線柱の役目を与えられた必須のものだったという説も考えられる。
あらかじめ“支保工架線柱”の存在を考慮して、この断面としたのかもしれない(入口付近はそうなっていなかったが)。



これは想像で描いた、架線柱を兼ねた支保工だ。
このような支柱が、半ば両側の側壁に埋め込まれるような形で、立ち並んでいたのかもしれない。
1枚でも当時の隧道内を撮影した写真が見つかれば、おそらく謎は解決するが、未発見。

なお、支保工の残骸が全く残っていないのは、廃隧道としては不思議な気もするが、
工事用軌道としての利用が終わった時点で、撤去回収されたとすれば、辻褄は合う。
木材とて朽ちさせるのは惜しい資材であり、枕木やレールと一緒に回収されても不思議はない。




この辺りの洞床は、崩れた石があまり散らばっておらず綺麗だ。
切明の隧道には自動車の轍が深く刻まれていたが、この隧道にはまったくない。
最後まで自動車の通行がなかったことは間違いがなさそう。



6:54 (入洞14分経過)

北口より150m程度進んだかと思う。
もう振り返っても入口の光は見えないし、また行く手に依然として出口は見えない。
この隧道の全長は正直分からないが、旧地形図だと300m以上はあるように見えた。
ようやく中間部に近づいたくらいの感じだろうか。
長さが分からない隧道は、やはり恐さがある。

なんだろう?

洞床の未舗装の部分に、凹みか穴が空いている?

もしや支保工を突き刺していた穴だろうか?
近づいてみる。




なん、だと?

空洞がある?!

舗装だと思っていたコンクリート板の下に、隧道と別の空洞がある?!

コンクリート板の縁からは古びた丸形鉄筋(異形鉄筋ではないので戦前の製造品だろう)が何本も露出しており、このコンクリートが単なる舗装路面ではないことを物語っていた。
下に存在する何らかの空洞の“蓋”として、コンクリート板が必要だったらしい。

直結軌道説、歩道舗装説、どちらもここでリタイアです。




路面下空洞の正体は、いったい?!

(まさか、禁断のバグった裏ワールド?!)

予備のマグライトを穴に突っ込むと、空洞の底に光が届いた。

でも、穴が小さすぎてカメラが入らず、内部を撮影するのは無理である。

ぐぬぬ……







いや、無理じゃないかも?!




全天球カメラ “Theta S” を穴へ挿入!

そのまま、

撮影開始!




なんだこれ。


光がないので、何が何やらよく分からない写りになっているが、

何枚も撮影した画像を参考に脳内で補完すると、

次の画像のような“床下構造”が、判明した。




隧道の路盤の下には、人が屈んで通れるくらいの広さの空洞が存在している。

その形状は台形を逆さにしたようなもので、側面と底にコンクリートが打設されている。

この形状からして、空洞の正体は、九分九厘、

水路。


しかし、単なる排水溝ではないはず。 サイズが立派すぎるし、蓋も頑丈すぎる。

この工事用軌道隧道は、何らかの水路を兼ねていたのではないか?


水路とは言ったが、中津川発電所の発電用導水路ではないはずだ。
中津川第二発電所の導水路は、建設当初から中津川の左岸に存在しており、
最新の地理院地図にもそのように描かれている。

それとは別の何らかの水路……灌漑用くらいしか思いつかない……が、
隧道建設当初、あるいは廃止後に、ここに目を付け、
敷設スペースとして利用した可能性が高いのではないか。
歩道として再利用されたといいう話があったが、水路としても使われたのでは?




普通ならすぐに気付かれそうな“床下空間”の存在を、ここまで隠してきた隧道。
蓋のコンクリート板に、普通ならありそうな継ぎ目が全然見当らないせいで、偶然の“小穴”を覗くまで、ただの舗装と信じていた。
実際は道幅の半分は水路だったというのに。

この隧道、闇だけでなく、“謎”も深い。
あの小さな入口の奥に、こんな広い空間が現存していたことがそもそも驚きだが、内部の諸相も、ありきたりを超越していやがる。
大正時代などという、私には全く実感を持てない、しかし確実に存在した時空が、鮮度の落ちまくる不良品の真空パックに包まれて、私の嗜食を待ち受けていた。
大好物だ、うまいうまいうまいと言いながら、私はそれを食べ続けている。

が、そんな私の嗜食欲をも萎えさせる糞臭マウンテンが、ついにその姿を見せる。
お食事中の人は、ごめんなさい。次の画像、一応閲覧注意。



反里口の地中に聳える、黒いマッターホルン。
クサいクサいと言われながら、今まで姿を現わさなかったその元凶マウンテン。
古くから有能な有機肥料として知られ高額で取引されることもあるバッドグアノ100%の有能マウンテンだが、ハンパなくクサい。

しかし、これほどのマウンテンを持ちながら、直上の天井にいるべき者たちがいない。
いるのは、散り散りに飛翔するものが少々。

だが、奥では間違いなく、膨大な数が逃げ場を失って、乱舞していると思う。
なぜなら、滝の音がする。
この滝の音の正体が、滝ではないことを私は知っている。
大量のコウモリたちが叫ぶ、本来人の耳には聞こえない音域の超音波が、洞内に充満し、ノイズのように聞こえる現象だと思う。
デジカメでは録音できないこの滝の音を、私は各地のコウモリ隧道で聞いてきた。水気の少ない隧道でこの音を聞けば、確実にコウモリの大乱舞を見ることになる。

大量遭遇に備えよ!



ますます臭さが増してきた。
慣れている私でも、鼻が曲がりそうだ。
そして、糞臭を可視化した煙のような靄が、気むずかしく視界を遮り始めた。
残念だが、やはりこの奥は閉塞だろう。
コウモリが逃げ出せず“滝”を奏でている原因は、靄と同じところにあると思う。

相変わらず天井が気持ち悪いほど高い隧道も、この辺りの地質が特に悪いのか、崩れが目立つようになってきた。
本来の洞床は瓦礫に隠されて見えない。
突然崩落に巻き込まれて生き埋めになるなんてことは、現実的には起こりえないと信じているが、それでも息苦しい。




コウモリの密度が急速に増してきた。
写真だと分かりづらいが、この後にご覧いただく動画には、たくさん写っている。
そして写真中央、明らかに異質なオーラで、周囲の瓦礫を圧する黒い大源太山が……。

もうあの特徴的な凹凸があったかどうかも判然としないくらい壁は崩れまくっていて、古い隧道というよりは、掘りかけの隧道のようでもある。
とても100年を保った空洞にあるべき安定感が、感じられない…。




……なんだこれ?

今にも瓦礫に埋め尽くされそうな洞床に、小さなガラス瓶が落ちているのを見つけた。

この隧道に入ってから初めて見る、何者かの“落とし物”だった。
コカコーラの空き缶とかじゃないところが、やっぱり只者じゃないんだよなぁ…。
この立地であるから、地元悪童たちの秘密基地になったことくらいはありそうだが、残していったのはこの得体の知れない小瓶一つだけなのか?




ビンの裏には、燦然と輝くトライフォースの紋章が…。

この紋章、某ハイラル地方のものと思われがちだが、日本の伝統的な三つ鱗(みつうろこ)の紋所でもある。
このビンの由来がどちらかは分からないが、三つ鱗だとすると、この辺と関係があるのだろうか…?
情報をお待ちしております……。


……といったところで……





6:58 (入洞18分経過)

閉塞地点に到達!

魔窟、ついに終わる。

この閉塞が、落盤によるものか、人為的な埋め戻しによるものなのか、

動画の中ではどちらか分からないと述べているが、状況的に、前者であろう。

そして動画内で述べている通り、この位置が、本来は隧道の南口であったと思う。




閉塞の全景。

高い天井まで、水気を多く含んだ泥混じりの瓦礫の山がせり上がっている。
瓦礫の粒の大きさが、閉塞工事のためにわざわざ人が運ぶには不便と思えるほど大きいことも、自然落盤説の根拠だ。

この閉塞部の瓦礫に混じって、支保工とみられる朽ち木の柱が1本だけ残っていた。
この残骸から原形を想像することはどだい無理だが、もしこの位置にだけ最後まで支保工が残されていたとしたら、坑口付近が崩れやすいことを経験的に知っていたからだろう。ここまで一欠片も木材は見ていなかった。




閉塞壁の最奥部分。

河原の砂利のような瓦礫の斜面を、音を立てて大量の水が流れている。
この大量の水の出所を想像すると、やはり地上しか考えられない。
そのうえ、ひび割れた壁の一部には、植物の根が混入しており、ここが地表に近いことを物語っていた。

状況から見て、隧道南口は大量の水気を含んだ崩れやすい地形にあって、大崩壊を起こして坑口を完全に破壊してしまったのだろう。
隧道が落盤したという感じではなく、地上の崩壊に巻き込まれて、天井から押しつぶされたという感じがする。
天井が本来のアーチ型でないのは、強力な圧縮力に晒されたために層理に沿って破壊されたのだろう。



最終閉塞壁を背にして振り返る北口方向。
当然、全く光はない。

北口からここまで来るのに18分もかかっていた。
だが、実際に歩いた距離は……、よく分からない。
旧地形図の表記を信じ、またここが南口であると仮定すると、300〜400mはあっていいのだが、実感としては300mもなかった気がする。

長さを感じはした。
出口の見えないクサい闇を、長く歩いた感じがあった。
でも、慣れた長さの感覚は、そんなに騙されないと思う。
正直、長さは200mくらいだった感じがするが、とりあえずこれについては、南口を地上側から確認して結論を述べたい。





7:08 (入洞の28分後) 《現在地》

魔窟より、生還す!

戻りは、水路を兼ねていたとみられる隧道内の勾配がどうなっているかに注目してみたが、
特に上ったり下ったりはないように感じた。なので水路の前後の状況次第で、水はどちらにも流せそうだ。

地上に出たら、隧道南口の捜索を進めるぞ!
もし水路があったなら、その行方も探りたい。