廃線レポート 木戸川森林鉄道 第2次探索 (女平〜木戸ダム) 中編

公開日 2023.01.17
探索日 2019.01.22
所在地 福島県楢葉町

 木戸川上流への道を拓いた、旧芝坂隧道


2019/1/22 15:40

現在は自転車に跨がって県道を第2駐車場から下流方向へ移動中。
出発直後に大滝橋を渡り、その先でも九竜橋、曙橋、親不知橋など、山腹の出入を短絡する大きな橋が続々と現われる。これらの橋で木戸川との間隔をほぼ一定に保った直線的な快走路を実現している。渓谷沿いとは思えないほど解放的な車窓がここにはある。

言うまでもないが、これらの全ての橋に対して橋を渡らない山腹の旧道があり、その旧道のラインは大体が林鉄に由来したものだと思う。
それらをこれから探索するが、まず一旦全てを素通りし、今回の探索区間の端を目指すことにした。(探索スタート直後に前回紹介した廃隧道を見つけて探索したのはイレギュラーで、当初計画はこのように動くつもりだった。探索区間の途中から探索をはじめるというのは、レポが分かりにくくなるからね…苦笑)




15:46 《現在地》

第2駐車場から1.6km進むと、初めてトンネルが現われる。
平成7(1995)年竣工、全長283m、新芝坂トンネルだ。(手前の橋は七色橋という)

竣工年から予想できると思うが、トンネルは木戸ダムの工事用道路として整備されており、工事終了後に県道となった。
そしてこの名前から分かるように「新」が付かない旧の「芝坂隧道」が存在し、現存もしている。画像の右の辺りにぼんやりと黒く見える部分がそれだ。

チェンジ後の画像は平成18(2006)年12月の同ポジ写真となる。今ほど樹木が育っていなかったので、旧隧道がよく見えていた。典型的な新旧トンネル横並びの風景だ。



この芝坂というトンネル名は、トンネルのこちら側を占める国有林の名前である。木戸川林鉄が昭和8(1933)年に竣工した時点の終点もこの近くにあったが、翌年にはさらに5km奥地まで伸び、現在の木戸ダムより上流に達した。

旧隧道に通じる旧林道(&軌道跡)は、直前の七色橋の袂より入る。
そこには取って付けた感じの「通行止」の標識があるが、旧道の路肩にはなぜか擬木コンクリートの転落防止柵が“新設”されていて、修景の気配が感じられる。でも廃道なのである。




これが芝坂隧道だ。
いかにも林道由来らしい、全く飾り気がないコンクリート坑門のトンネルで、1台ずつなら大型車も通れる断面サイズがある。

ここに最初の隧道を開通させたのは木戸川林鉄だが、いまの姿は昭和8年の開通当初のものではなく、昭和36年の林鉄廃止後まもなく林道化された際に、大々的な拡幅整備を受けている。そのため、木戸川林鉄を取り扱っている『鉄道廃線跡を歩く』や『トワイライトゾ〜ンマニュアル vol.6』などの文献も、ここを林鉄の遺構としては紹介していない。だが、空間の継承ということまで遺構という言葉の意味を拡幅すれば、最も目立つ“遺構”だといえるだろう。



それはそうと、この断面の形、【さっきの廃隧道】と少し似ている。

間違いなく林鉄時代のものではないのだが、似ている。
これは全くの偶然なのか、それとも拡幅改良されてこの姿になる前の林鉄時代の隧道が、先ほどの隧道と同じ断面をしていて、それが念頭にあったから似たような断面になったのか。
この隧道を単体で見ても、そこまで個性的な断面だとは思わないのだが、前回の隧道を知った後だと、関係の有無が気になるところ。

この隧道は、木戸川林鉄にいくつもあった隧道の中で最も下流に位置している。そして単にそれだけではなく、人里と国有林を隔てる象徴的な意味も感じられる、まさに木戸川山岳地帯の玄関口ともいうべき隧道である。それだけに、林鉄時代の写真が残っていても良さそうなのだが、まだ見たことがない。




崩れかけた工事用フェンスで雑に封鎖されている入口より中を覗くと、出口の小さな光が闇の中に浮かんでいた。新トンネルは滑らかにカーブしているが、こちらはいかにも古い直線の隧道である。正確な全長は記録がなく分からない。だが、地図上での計測では170m程度である。

対して、同じ位置にあった林鉄時代の隧道については、「福島の森林鉄道WEB史料室」の記述から、昭和8年の開通当初に全長252.3mだったと考えられる。現状とは結構な差があるので、林道化時に長さの短縮も行われた可能性が高い。

この隧道内部については、平成18(2006)年12月の木戸川林鉄第1次探索時に探索しており、今回大きな変化はなさそうだったので奥まで行かなかった。でも読者諸兄は反対側まで見たいと思うので、次の写真から少しのあいだ、平成18年の探索写真をご覧いただこう。当時まだダムの工事中だったが既に新トンネルが使われていて、旧隧道は封鎖されていた。



西口から少し入ったあたりの写真だ。
サイズ感は1.5倍くらい違うが、高さの大半を占める垂直な側壁の上に天井のアーチが乗っている縦長のスタイルは、前回の廃隧道を思い出させる。
ただ、こちらの天井は欠円アーチというほど扁平でない。このような形をした縦長の断面は、クレーン付き運材トラックの通行を念頭に置いた自動車道の林道ではたまに目にする。

洞床は砂利敷きで、ダム工事以前の木戸川林道の路面状況を継承していると思う。
平成7年まで連日多数のダム工事用車両が行き交っていたのであり、廃止された今でも車の轍があまり風化せず鮮明に残っていた。崩れたりもしていないので、現役さながらの風景だ。

チェンジ後の画像は西口から50mほど進んだところである。この辺りまで進むと、コンクリートが吹付けられた素掘りの断面に変わっている。サイズ感は変化なし。
洞内は直線だが、西口から東口に向かって緩やかに下る勾配があった。照明の類は全くなく、反射材もないので、洞奥はライトを点けないと壁の位置も分からないほど暗かった。

やがて東口が近づいてくると、再び内壁はコンクリートの覆工を得た。だが、勾配に対して水捌けが追いついていないらしく、最後の方は水深20cm程度で広い範囲が水没していた。



《現在地》

洞内を通過して東口へ。
坑口前には頑丈そうな谷積の石垣で守られた長い切り通しが伸びている。これは徐々に浅くなりながら50m以上続いており、林鉄時代はこの一部も隧道だったのだと思う。林道化時に開削して明り区間にしたために、隧道が短くなったのだろう。切り通し内は水捌けが悪く、泥濘んでいた。

チェンジ後の画像は、少し離れた所から振り返った隧道東口。
工事用フェンスで塞がれていたが、おとな一人が通れる【隙間】はあった。
西口同様、小さな扁額があるくらいで飾り気の乏しい坑門だったが、控えめな工事用銘板を見つけた。




これが東口の坑門に取り付けられていた工事用銘板……というのかなこれ。坑門によく設置されている竣工年や全長などのデータが記録されたプレート類を工事用銘板というのだが、このプレートに書かれているのは、施工者に関する情報だけだ。

「施工者 広野町 山田組」

この場所は楢葉町なので、なぜ隣の広野町が出てくるのかと思ったが、施工者である山田組が広野町に所在しているという意味だろう。施工者だけで発注者は書かれてはいないが、木戸川林鉄、そして木戸川林道を生み出した、富岡営林署に違いない。



坑口から50m以上離れたところに、通行止のバリケードが設置されていた。
坑門にも、25m離れた位置にも、それぞれバリケードがあった。
隧道自体は、水が少し溜まっているくらいで、崩れもなく比較的良好な状況に見えたが、隣に完全上位互換の新トンネルがある以上、もう使われることはないのだろう。

バリケードの傍らには、国有林林道特有のアイテムである「落石注意」という文字が書かれた(オリジナル)警戒標識が残っていた。他に錆びきった「徐行」の規制標識(こちらは本式のもの)と「郭公山鳥獣保護区」の古ぼけた案内板もあった。




バリケードから50mほどで、女平集落の最も上手にある民家の前で、現県道と合流する。
チェンジ後の画像は隧道方向を振り返って撮影した。

以上が、平成18年12月に探索した旧芝坂隧道の様子である。
木戸川林鉄にとっては、この隧道の貫通によって初めて国有林に到達し出材を開始できたというエポックメイキングな存在だった。
さらに、前作の机上調査編で取り上げた、木戸川林鉄より前に計画された木戸川軌道や双葉軌道においても、この辺りに隧道を掘る計画を有していたように見受けられる。
木戸川流域の林業史に器械運材の夜明を告げる、そういう重大な意義を持った隧道だったのである。



2019年1月22日の旧芝坂隧道西口へとレポートの時空を戻した。

ここで折り返し、第2駐車場を目指しながら、途中にある全ての旧道を探索するぞ。

果たして、林道化に伴う破壊と上書きを逃れた林鉄時代の遺構は存在するのだろうか。



 親不知橋と曙橋、それぞれの旧道


15:50 《現在地》

旧芝坂隧道の西口を背に進行方向を撮影した。
目の前にあるバリケードとか、右の現トンネルの坑門とかは、林鉄時代にはもちろんなかったものだが、道の向こうに聳える夕日を背にしたモミの木や、遠くの稜線のシルエットは変わっていないだろう。

RPGの最初の村のように平穏な女平の出口にある、暗い隧道ダンジョンをくぐると、目の前に突如として木戸川の本性を現わした険しく深い谷が、村のそばとは思えないほどの高度感をもって見渡される。このような劇的な場面転換は当地特有の魅力だ。『トワイライトゾ〜ンマニュアル vol.6』は、「トンネルを抜けて木戸川沿いに出ると、川面までは100mはあろうかという大変な絶壁の上に出ます」と書いてあり、その魅力をよく伝えている。

チェンジ後の画像は、付近の路肩から眺めた木戸川の風景だ。
最寄りの谷底との高度差は約100mあり、これは木戸川林鉄の全線を通じて最も大きな数字である。
このさき上流へ進むにつれて徐々に高度差は小さくなるものの、当分は大きな比高を保持して進むため、至るところでこのような眺めを得ることが出来る。これは林鉄時代も変わらない車窓の魅力だっただろう。



15:51 《現在地》

旧芝坂隧道から第2駐車場までの区間の現県道には、七色橋、親不知橋、曙橋、九竜橋、大滝橋という大小5つの橋がある。そしてこれらの橋一つ一つに、木戸ダム建設以前に使われていた木戸川林道の跡が残っている。逆にこれらの橋以外の部分は、旧道を上書きする位置に現道があるため、見るべき遺構はない。

さらにこの区間の木戸川林道は、木戸川森林鉄道の廃止後に敷かれていたレールを撤去し、運材トラックが走れるように拡幅・補強して誕生した道であるから、林鉄跡をなぞることは旧林道をなぞることである。
言い換えれば、この区間で林鉄の遺構を見つけることは、木戸川林道とダム工事用道路(現県道)という2回分の大規模改築を逃れたものを探すことであり、非常に難しいといえるのだ。

今回はラッキーな気付きによって、早くも大滝橋の旧道区間にて林鉄時代の隧道跡1本を見つけているが、さらなる発見を求め、次なる旧道区間に挑む。



七色橋(平成8年2月竣工)脇の旧道に旧芝坂隧道があり、そこから現県道200m進むと、親不知橋(平成8年8月竣工)の脇に旧道がある。
入口はガードレールで無造作に閉ざされていて、二度と解放するつもりは無いのだろう。しかし脇が甘いので、自転車のまま突入が可能だ。

入ると直ちに、オブローダーとしての原点回帰を感じさせる居心地の良い廃林道が現われた。路面は未舗装、ガードレールはなく、法面もコンクリート吹き付けではなく素掘り、路肩はコンクリートブロックではなく苔生した谷積の石垣。どこからどう見ても、手間と年季がたくさん入った古い林道……その跡だった。加えて、周囲が人工林ではなく、変化に富んだ天然林っぽいことも、景色に魅力を加えている。

探索当時(2019年1月)で廃止から23年が経過していたが、ボロボロの姿になった林道時代の道路標識の多くが、まだ倒れずに残っていた。




わずか200m足らずしかない親不知橋の旧道が最も現道から離れる地点の風景だ。
小さな谷川を、ヒューム管のある石垣のカーブが跨いでいる。
林鉄時代には、かつて上流の探索で飽きるほど見た小木橋や石橋台がここにもあったかも知れないが、痕跡は見当らない。真っ当に整備された林道の道幅は、通常の林鉄の倍くらいもあるので、同じ位置に整備された場合、林鉄の痕跡は残りづらい。

なお、「福島の森林鉄道WEB史料室」に解説されている木戸川林鉄の距離の変遷より推測すると、昭和8年の開設当初の終点(木戸駅前の木戸川貯木場から7857m)は、ちょうどこの辺りになるが、翌年にはさらに5013m延伸されているので、特別に終点らしい施設は設けられなかったのではないだろうか。辺りにそれらしい痕跡もなかったし。




橋名が、交通の難所としては日本一著名であり、難所の代名詞として日本各地にご当地版が点在する「親不知おやしらず」を名乗るくらいだから、この一帯は名にし負う険阻の領域だったのだと思われるが、旧道はあっという間に折り返して現道へと戻っていく。

この名の由来となった難所は、おそらく谷底にある木戸川の風景を指しているのだと思う。林鉄が開設された昭和初期より前は、木戸川そのものを通路とした流材が大規模に営まれており、今日では近づく道もなくなった谷底が、この仕事に従事する人夫たちの命がけの仕事場だった。

実は私は、その“親不知らしき現場”を、見たことがある。
平成18(2006)年12月の探索時、旧版地形図だと軌道が谷底に描かれているという理由で、くじ氏とともに決死の覚悟でもって、この辺り路肩から崖を下りて谷底まで行ったことがある。
もちろんそこに軌道跡は無かったが(地形図の誤記の確定)、どんなに険しい谷であるかを身を以て味わった。





せっかくなので、私たちが命がけで撮影した、これぞ“木戸川版”親不知だろうという眺めを共有しておこう。(ここからしばし平成18年の探索写真)

(←)親不知橋近くの現道路肩から、小さな沢に沿って高低差100mの木戸川底を目指して下った。最初は樹林帯で穏やかだったが、残り50m以降は凶悪な連瀑の谷と化した。当時の我々は命知らずだったので、徒手空拳でこれを下った。

(→)谷底が見えたとき、そこに1本の廃レールを発見して猛烈に色めき立った。地形図通りの位置に軌道跡発見だ!! …と思ったからだ。

しかし、よく見るとレールの前後に軌道跡は存在せず、これは現県道の位置にあった林鉄の路盤から、何らかの事情で墜落してきたレールと結論づけた。ちなみに6kgレールだ。

これは現在(2023年1月)まで木戸川林鉄関連で発見した唯一のレールなので、なかなか貴重な1本とはいえるが、わざわざ見にいくようなものではないと思う。危険すぎる。



これが、降り立った辺りの木戸川の様子。

おそらく物語の中にある竜の潜める深潭とは、このような場所であろう。

全く底知れぬ流れであった。



両岸には、万古の威風を感じさせる大岩壁がそそり立ち、世界と谷底を隔てていた。
こんな景色が命がけの仕事場にあったなら、何か相応しい名を付けたくなるのが人情だろう。
流材が盛んに行われていた大正時代、誰もが本物の親不知(それは北陸の海にある)を見知るほど
旅行も写真も行き渡ったものではなかったから、川にある難所が親不知になったとしても不思議はない。

なお、岩壁にはこの写真のような大穴があって、すわ隧道かと色めき立ったが、天然物だった。



その後も執念深く30分以上も谷底で命がけの林鉄探しを継続したが、
結論として、この谷底に近い位置に道を通すことにはリアリティがなかった。
だから林鉄、そしてその後の全世代の道が、100mも上の山腹まで迂回したのだ。

以上、まぼろしの景観と化している感のある、
“木戸川版”親不知と思われる辺りからのレポートでした。





15:55 

県道、林道、軌道跡にいる限りは、いささか名前負けの感を受けるかも知れない親不知の旧道探索は4分間で終了。ガードレールで塞がれた出口から、県道へ復帰。
次の旧道へ移動する。



15:56 《現在地》

次はこいつ、100mばかり先で現われた曙橋(平成9年11月竣工)脇の旧道へ入る。
工事中は3号橋と仮称されていた本橋は、1号(七色)2号(親不知)よりもだいぶ大きな橋だ。深い谷を高々と跨ぐ赤い方杖ラーメンは見応えがある。




やはりガードレールで無造作に塞がれた旧道の様子だが、前の区間とそっくりだ。
だがよく見ると、見慣れぬものが一つあった。

(チェンジ後の画像)
それは、路肩に設置されたこのような転落防止柵だ。
いわゆるガードロープなのだが、いかにも林鉄跡の林道らしく、支柱の代わりに廃レールが使われていた。ケーブルもきっと集材機用のヤツだろう。
地味〜だが、一応は林鉄絡みの遺構といえるだろう。




おおおっ! これは格好いい橋!

林鉄の遺構ではないが、狭い谷を横断する4径間連続橋で、コンクリートの床板がスムースにカーブしていた。橋脚の位置でカクッとしない曲線橋は、廃橋ではあまり見ない珍しいもの。林鉄時代の橋にはない“新しさ”を持っている。

気になる竣工年だが、親柱に取り付けられた3枚の銘板の【1枚】によって、昭和39(1964)年と判明した。
林鉄の廃止が昭和36年だから、廃止後まもなく林道化工事が行われたのだろう。
ギリギリ昭和30年代の橋とみれば、スムースなカーブを描く曲線の床板はとても珍しい。これは完成当時、富岡営林署の自慢の橋だったんじゃないか。

なお、地形を見る限り林鉄時代の橋も同じ位置にあったと思うが、痕跡は見当らなかった。



良い味出てるじゃん、この眺め。



まだ紹介していない2枚の銘板の内容は、「富岡営林署」と「いつつわはし」だった。

気になるのは、橋名の読みであろう、「いつつわはし」だ。
現道の橋は曙橋だったのだが、旧橋は全く別の名前だった。
では、「いつつわ」ってなんだろうか? 地名?
本来なら、4枚目の銘板がこれの漢字表記だったと思うのだが、失われていて確認できない。

だがこれ、たぶん「五輪(いつつわ)橋」と書くんだと思う。なぜなら、昭和39(1964)年は、東京オリンピックの開催年だから。
東京五輪の橋に誕生した営林署自慢の新鋭橋だから、記念の気持ちを込めて、単純な地名や沢名ではなく五輪橋と名付けたのではないかと、愛を以て想像している。




矢印の位置に反対を向いて立っていたのは、日本各地の国有林林道でしばしば目にする国有林オリジナル標識の一つ、待避地点予告標識だった。
道路標識というにはいささか洗練が足りない、ただ文字で内容を伝えているだけという土臭さが、前に紹介した「落石注意」と同じく、仕事場の標識という感じがして個人的に好きだ。
ちなみに、この標識柱も廃レールだったぞ。銀の塗料で塗装されていた。




16:05 《現在地》

いつつわ橋で谷を折り返し、100mほどで再び現道へ合流。
今回の旧道も長さは250m程度で短い。そしてまたしても林鉄の直接的な遺構はなかった。
どの区間も、廃林道としては良い雰囲気だけど、やはり林鉄の遺構はないんだなぁ。

曙橋から県道を200mばかり進むと、第1駐車場がある。
第2駐車場とこの第1駐車場の間には、川沿いの遊歩道が作られている。が、林鉄とは関係ないので探索しない。
次は、九竜橋の旧道区間へ行くぞ。そろそろ林鉄の遺構が見たいなー。