2019/1/22 16:07 《現在地》
続いて、第1駐車場と第2駐車場の間にある九竜(くりゅう)橋の旧道へ入る。
九竜橋は、木戸ダムの資料に拠れば平成12(2000)年1月の竣工であるが、銘板は平成11(1999)年12月完成になっている。
さて、ここまでの流れには逆らわず、ここにも山肌伝いの旧道がある。そして旧道が末期は林道、初期は森林鉄道であったことも、これまでと同様だ。
入口がガードレールで無造作に塞がれているのも、これまでどーり。
では、例によって自転車を持ち上げながら、突入。
そろそろ林道化で破壊されなかった林鉄の遺構を見つけたいな。
既に西日が山の陰に隠されてしまった谷の中は薄暗く、早く先へ進めと急かされる気分がした。しかし、前二つの橋の旧道(親不知橋、曙橋)と比べると、著しく荒廃していた。単純に、落石が多発しているせいでそう見える。実際に旧道になった時期は前二つよりも2年から3年は新しいのだが。
そんな訳で、今回のミニ旧道は序盤の状況はだいぶ悪い。
自転車を持ち歩くのは明らかに面倒な状態だったが、流れ的にこのまま突破してしまいたく、振り返らなかった。
旧道の路肩越しに見る九竜橋の雄姿、あるいは夕姿。
ここまでの橋では一番大きな橋であろう。
曰くありげな橋名だが、由来は分からない。
もしも木戸ダムが計画されなかったら、このように高規格な道が工事用道路として作られることにはならなかっただろうし、ダムの完成を見越して、もとは木戸川の約5km北側を流れる井出川沿いに竜田駅と川内村下川内を結んでいた(旧井出川林道である)県道250号下川内竜田停車場線が、木戸川沿いに移されることにはならなかっただろう。旧木戸川林道も林道のままあったに違いない。
廃レールを支柱としたガードロープがここにもあった。
森林鉄道で用いられていたレールは、全国の国有林森林鉄道の総延長が8000km(現在の高速自動車国道の総延長が約9000km)を越えていた昭和30年頃には需要が供給を上回り、廃止された路線から他の路線への流用が、各営林局の管轄内で営林署の間を跨いで広く行われていたために、不要なレールはほぼ存在しなかった。
だが、昭和40年頃になると一挙に林鉄の廃止が進んだために不要レールが大量に余り、一部は民間に払い下げられたが、多くは営林署が行うさまざまな土木工事に資材として投入されたのであった。
なお、廃止された林鉄跡に敷かれたままのレールが滅多に残っていないのは、レールは高価な国有の財産として計上されていて、廃止時に回収されることが原則だったからだ。そのため時期を問わず、廃止された林鉄のレールは、特殊な事情が無い限り撤去されている。
廃止からさほど時間が経過していないわりに荒れていた本区間旧道だったが、谷の奥に達したので折り返す。
前の曙橋区間の旧道には見事な曲線の林道橋が残っていたが、今度はそういうものもなく、水の涸れた沢を簡単なグレーチングで跨ぐだけだった。林鉄時代はどうしていたのか分からないが、橋の跡はないので林道に上書きされてしまったのだろう。
残念ながら、今区間も空振りだ。もはや林鉄探索じゃなくなってるな……苦笑。
廃線レポート的には、「何もなかった」という一文で省略してもよかった区間かもしれないが、個人的にこの辺りの旧林道の風景が好きなので、敢えて略さなかった次第。
うわ。
ちょっとめんどくせぇ……。
折り返してから県道へ戻るまでの約100m強の区間は、日当りのせいか、何が理由なのか分からないが、鞭のように撓る面倒な灌木に愛されていて、ここを自転車で進むのはちょいとダルかった。何回も顔面を叩かれて痛かった。
いかにも遺構が無さそうな場面なこともあって、これは萎える展開。さっさと抜けて、次へ、つぎ!
現県道に九竜橋の西側袂で復帰し、そこから350mばかり上流へ進むと、次なる橋と旧道の入口が現われる。
平成11(1999)年竣工の大滝橋だが、この区間は、探索のスタート直後に起きた予想外の発見から、既に探索を終えてしまっている。
この区間の旧道は150mくらいの非常に短いもので、事前の印象として何かを期待できる感じの場所ではなかったのだが、意表を突いて、林鉄の遺構である隧道が非常に気付きづらい形で現存していた。
16:21 《現在地》
というわけで、大滝橋の旧道をスルーして、スタート地点であり車を停めてある第2駐車場へ、約50分ぶりに帰還した。
結局、第2駐車場よりも下流側の区間では、林道の旧道は多数あったものの、林鉄時代の遺構遭遇は、大滝橋そばでの隧道1本だけだった。
だが、探索はまだ終わらない。
第2駐車場を突っ切って、今度は木戸ダムまでの旧道区間を探索する。
写真の道が、木戸ダム直下へ通じる旧木戸川林道を継承する道だ。現在はおそらくダム管理道路である。まだ奥に観光用の駐車場があるので常時解放されている。
旧道へ入るも林道時代のままというわけではなく、しっかりと舗装されていて、全体的にダム周辺の景観整備の影響を受けている。
利用されることがあるのかと心配なるほど手厚く多くの駐車場が存在しているが、さすがにこんな夕暮れに散策しているのは私だけである。全く車や人の気配を感じない。
この旧道は林鉄の線形を継承していることもあり、ほぼ水平に進んでいくが、ダムよりも上に行く必要がある付替県道はどんどん上っていくので、やがて大きな高度差になる。
写真は分岐してまもなく、夫婦橋という橋をくぐる場面だ。この先で旧道も小さな沢を渡る。
16:23 《現在地》
使われていない旧橋を発見!
薄暗くなってきていて写真だと判別が難しいが、いかにも古い林道橋っぽいプレートガーダーに鉄筋コンクリートの床板を乗せた道路橋だ。
これで林鉄由来のプレートガーダーだったら鼻血ものだったが、残念ながら(?)作りが道路用だ。でも少し変わった立地にあるので楽しい。
ダム工事用道路に由来するダム管理用道路は、ゆったりとした大回りのカーブで沢を渡っているが、旧橋はカーブの内側をショートカットするように、せせこましく橋を架けて渡っている。
“近道”ではあるのだが、だからなんだと言わんばかりに黙殺されている。必要なのは、工事用車両が安心して通れる、スムースな線形と広い道幅だったのだろう。
本橋にはガードレールの四隅に4枚の銘板が揃っていて、それぞれ、「大滝橋」 「おおたきはし」 「富岡営林署」 「昭和40年12月竣工」を表示していた。
大滝橋という同名の橋が現県道にあるが、この直上にある橋ではないところがややこしい。直上にあるのは夫婦橋だ。
また、竣工年が分かっている旧林道の構造物として、既に紹介した「いつつわはし(五輪橋?)」があったが、あちらは昭和39年竣工だった。おおよそ1年で1.4km上流へ林道は延びていた。
チェンジ後の画像は、この旧大滝橋の橋台部分に設置されている高欄だ。
橋の上は普通のガードレールを使っているが、橋台部分には廃レールをふんだんに用いたこんな高欄が設けられていた。林鉄廃止からまだ日が浅いこの時期の林道工事では、ほんと貪欲に隙あらば建設資材として廃レールを捻じ込もうとしてきているのを感じる。下手したら床板内の鉄骨も廃レールじゃないか。
しかし、どことなく花壇を思わせるオシャレなデザイン。いまこれを作ったら、古すぎるセンスとか言われそうではあるが(笑)。
目立ってはいるが、現道から全て見えすぎることもあり、
わざわざガードレールを乗り越えて踏み込む物好きは少なさそうな、
そんな感じを受けるミニミニ廃橋だ。想定外の出現であった。
旧橋を短時間で堪能し、隣にあるダム管理用道路の路上より、立体的に配置された3世代の道をワンショットで捉えたいな(成果はこの写真)と、ちょっとだけ路外に逸脱しながら撮影を試みていたら、見つけた。
まあ、こんなことはしなくても、見つければ見つけたかも知れないが、見つけたぞ、久々の……
純なる林鉄の遺構!
3世代の道が密集しながらも別々のルートで渡っているこの名知らぬ沢(もしかしたら大滝沢というのか?)だが、この地に道を切り開いた記念すべき第1世代にあたる森林鉄道時代の橋が、後の3世代から少しだけ上流に離れた位置に、明瞭な遺構を遺していた!
林鉄の橋の跡は、谷の中に立つ2本のコンクリート橋脚と、両岸の石積橋台だった。
この組み合わせ、まだ木戸ダムが建設中だった2006年の上流部探索で、
もう本当に飽くほど目にした。同じ路線なんだから当然のように同じデザイン。
特に特徴的なのが、この門型の形状をしたコンクリート橋脚だった。
本当は直接手で触れるところまで近づいてやりたかったが、
写真は画像処理で明るくしているのであって、その必要があるくらい
薄暗くなってきていたので、時間内にゴールまで探索すべく、断念した。
これで、ちょっと無理矢理だが4世代の道を1枚のフレームに収めた。
@は、昭和9(1934)年にこの区間が整備された、木戸川林鉄の橋。
Aは、昭和40(1965)年に架けられた、木戸川林道の大滝橋。
Bは、平成初期に建設された工事用道路で、橋ではなく築堤で渡っている。
Cは、平成11(1999)年に架けられた、県道(付替県道)の夫婦橋である。
上流部の遺構の豊富さを知っている私にすれば、なんとも地味な遺構だが、
木戸ダムより下流部は林鉄の遺構が少なく、その意味では貴重な存在である。
さあ、この調子でラストスパートと行こうじゃないか!
久々に林鉄の遺構に出会えた、旧大滝橋がある谷を後にする。
現県道の夫婦橋をくぐってまもなく、ほぼ90度左へ曲がるカーブが現われた。
明らかに時期尚早。ここで曲がっては、尾根の先端に達していない。
当然その先に待っている景色は――
2019/1/22 16:30 《現在地》
“隧道”
……それを思わせるほどの深い深い切り通しだった。
…………
……
って、おい!
ここって本当に隧道の跡っぽくないか?
この切り通しとしては少しばかり度を超して、深く切り込まれていることもそうだし、切り通しの中が真っ直ぐなのもそう。
さらに言えば、前後が走行性のとても悪いブラインドの急カーブなのも、いかにも古い隧道の出入口の風景だ。
そして直接的に一番怪しいと思うのが、この切り通しの片側の壁だけ、あまり高くないコンクリートの側壁(しかも古びた)があることだ。
この切り通しの両側はほとんどが素掘りで、そこに落石防止ネットが張られている状態なのだが、向かって左側の壁にだけ、ちょうど隧道ならば垂直な側壁があると思える高さのコンクリート壁があった。
この怪しさは、切り通しの上流側出口を振り返って見ると、決定的なものとなった。
そこには、見れば見るほど坑門の名残と思えるような、道路に対して立ち塞がる向きに面取された垂直の壁が、ここまでの側壁の“出口”として存在していた。
この奇妙なコンクリートの側壁が両側にないのは、隧道を撤去して切り通し化した際に、山側の側壁を遺したまま川側に拡幅したからではなかろうか。
林鉄の隧道は幅2m少々に過ぎないはずで、林道には少々足りない。現在の道幅は4mくらいある。拡幅を兼ねて隧道を撤去した可能性が高い。
とまあ、おそらく林鉄探索者が100人いれば80人は隧道跡だと言い出しそうなこの場面だが、残念ながら状況証拠的に濃厚と思うものの、隧道だった証拠はない。
切り通しの長さが50mくらいあるので、地形図に描かれて良い規模だと思うが、林鉄が描かれていた昭和28(1953)年版の地形図は、例によって頼りにならない。
女平付近で明らかに現実と異なる位置にこの林鉄が描かれているという話を以前の回でしているが、この辺りでもあだ同様なのだ。地形図は「大滝神社」よも川側を林鉄が通っているように書いているが、大滝神社は川岸にあって、林鉄はそれより遙か上部の今いるこの高さを通っていた。こんなに不正確では、隧道を正しく描いているわけもなかった。
対して、林道化した後の平成12(2000)年の地形図では、既に切り通しだったのだから、当然隧道が描かれていたりはしない。
せっかくの隧道跡、それも側壁の一部とはいえ林鉄時代の構造物を一部現存させている貴重な遺構だと思うが、『鉄道廃線跡を歩く』や『トワイライトゾ〜ンマニュアル6』も、やはり証拠がないせいかこの遺構には言及がなく、なんとも歯がゆいところだ。
しかしまあ私は隧道跡だと信じているので、今回の最大の成果である最初に見つけた隧道跡に次いで、今回2本目の隧道発見とさせて貰うぞ。
そして実はもう一つ、いま見た切り通しが林鉄時代には今以上に特別な場所(≒隧道)だった証しだと思えるものが、切り通しを出たちょうど目の前にあるこのカーブに残っていた。
この写真にそれが写っているのだが、気をつけていないと見過ごすかも知れない。敢えて目立たせるために矢印を入れたりはしなかったので、皆も見つけて欲しい。目立っているようで、案外目立たぬ存在だと思う。くすんだ色の風景に同化しているというか……。
答えはこれ。
道路……もともとは林鉄だった道を少しだけ見下ろす道路脇の高みに、ほんのり赤みを帯びた御影石の碑が安置されていた。
角もキレイに残っており、傾きもなく、古さをあまり感じないが、古い碑だ。
なお、碑の向こう側は切り立った崖で、木戸川へ30mも落ち込んでいる。
碑の道路に面する二面には、「殉職者追悼之碑」と「昭和九年十一月 江口忠一 建之」とあって、これは富岡営林署が女平から奥へ木戸川森林鉄道を敷設し、全長12kmあまりの路線として運行をはじめた年に建てられた慰霊碑だった。時期的にも、この林鉄の建設工事に関わる殉職者を弔ったものとみて間違いないだろう。建立者の江口忠一は工事を請け負った親方だろうか。
碑がある場所へ上って裏側を見ると、そこに殉職した2人の氏名が刻まれているのを見つけた。
「小山忠治 昭和八年十月十八日 死亡」「原四郎吉 昭和九年十月三日 死亡」。
昭和8年と9年の死亡事故がともにこの現場で起きた可能性もあるが、おそらくはそういうことではなく、一連の木戸川林鉄の工事(昭和8年〜9年に行われた)の殉職者をまとめて弔うために、工事が完了した後の昭和9年11月に、“ここ”に碑を建てたのだと思う。
“ここ”は、いまでは切り通しの出入口という立地以外に特別な印象はないカーブだが、当時これが隧道だったとしたら、今より遙かにこの路線の難工事を象徴するような場面だったと思う。
それでここに慰霊碑を建てたのだと私は想像している。
というわけで、この碑も林鉄の遺構に加えてヨシ! と思う。
案外珍しいんだ。林鉄工事に関わる慰霊碑。というか、林鉄の工事に関係する石碑全般がとても少ない。慰霊碑を発見して喜ぶとは、文章にするとサイコパスじみているが、貴重なものだと思う。
(→)
隧道跡の深い切り通しを過ぎると、軌道跡であり林道跡であり工事用道路としても使われ、今はダム下の駐車場へ向かう観光道路であるこの道は、その最も新しい要素以外をあまり感じさせない凡庸な姿となって、木戸川の渓谷を見下ろしながら進む。
そして広い場所に達すると、そこに入口の時点で予告していたこの道の目的地である「第三駐車場」と「第四駐車場」を見せた。
こんなに駐車場が必要なのか、誰か合理的な説明を出来る人はいるのか。観光地としてのこの場所を私は過小評価しているのかも知れない。賑わっているシーンをたまたま見たことがないから、こんな見当違いな事を言ってしまっているのかも。紅葉も終わった時期の夕暮れにひょっこり現われた人に閑古鳥の数を数えられては、どこの観光地だってお手上げだろうに。
しかしともかく、このように平場がみな駐車場で埋められている状況では、林鉄時代の何かが残っている期待は持てない。
そもそも駐車場となる直前まで、ダム工事関係のさまざまなプラントが溢れていた土地である。その状況から見れば、むしろ案外に多くの緑が残っているものと感心するべきだろう。
16:37 《現在地》
第4駐車場の先に車止めがあり、いよいよダム直下へ近づく最後の末端部分は一般車両の進入が禁止されている。
しかしこの道はダムに突っ込む最後の瞬間まで、旧林道もとい軌道跡の名残を見せる可能性があるので、可能な限り進むことにする。
ただ、私のヤルキとは裏腹に、いよいよ周りは暗くなってきていて、焦る。
この末端部分に、ダムの下流に残された旧林道由来の最後の橋がある。この写真の正面の橋だ。
橋の名は明神橋といい、竣工年は昭和41(1966)年9月である。前述した旧大滝橋の1年後に建設されており、林鉄が廃止された後で下流から順次林道化が進展した工事の流れが見て取れる。
で、わざわざこのように紹介しているのは、この明神橋の山側にも軌道跡が存在しているのを見つけたからだ。
おそらくこれが今日最後の区間、そしてダム下に残された最後の軌道跡である。
おおお〜! 軌道跡だ!
ダムより上流に行ければ飽きるほど歩ける軌道跡だが、敢えて下流で探すとすれば、ここ一択かも知れない。
まあだからといって、珍しい遺構でもなければ、ことさら取り上げられるようなものではないのだろう。ただ、ある、というだけではな……。
見慣れた感じの軌道跡は、明神橋が架かっている谷を大きく回り込んでいる。
途中にかなり古そうな砂防ダムがあるのだが(写真右に見えている)、このダムよりも上流まで行く。
そして入口から100mくらい進んだところで、やっと橋で谷を渡る。その奥はもの凄く急な滝のような谷になっていて、これ以上は回り込めないという位置で渡っている。
この橋は、ほとんど橋台しか残っていない。
河床はすぐ下流にある砂防ダムの堆積のため、かなり上がっているとみられるので、本来はもっと高い橋だったと思われる。
長さが結構あるので、4径間は下らない橋だったと思われるが、簡単には消滅しないはずのコンクリートの橋脚が、たった1本だけ、異様な姿になって残っていた。
それが今回の探索での最後の発見だった。
たかが壊れたコンクリート橋脚の残骸1本だが、異様な姿をしており、妙に印象に残った。
わざわざ谷底に下りて近づいて撮影した、異様な橋脚の姿。
もとはこの路線でよく見る門形の橋脚だったと思われるが、ちょうど幅の中央で断ち割られたかのように、右半身だけが起立していた。
左半身は、おそらく左にごろんと転がっているコンクリート塊がそれだろう。
珍しく門形橋脚の中身が露出しており、断面からは飴細工のように曲がったレールが、コンクリートという肉体の厚みを思えば少なすぎるただ1本の鉄骨として仕込まれていた。林鉄の現役時代にも不要になったレールを鉄骨の代わりにすることがあったのだと分かる。
それにしても、今は落ち着いていそうなこの谷も、かつて林鉄の橋脚をこれほど激しく損傷する激しい癇癪を起こしたことがあるようだ。それで砂防ダムが作られたのかも知れない。
また、この橋の跡まで来ると、谷の上流の驚くべき高みを跨ぐ橋の姿を見ることが出来る。
これは約900m手前の第2駐車場で別れた現県道(付替県道)の明神大橋だ。
木戸ダムによる水没を免れるための道が、もうあんな高くまで去ってしまった。
まるでダム本体を見上げるような高度差である。すなわち、ダムはもう近い。
対岸の橋台へ上ってそのまま軌道跡を100mほど進むと、明神橋の反対側の袂に辿り着く。
そして舗装された道をまだ上流へ向けて進み始めると、まもなく
それまでの景色の連続性を全て断ち切るような唐突さ、
有無を言わせぬ存在感を以て、空を背景とする“壁”が見えてきた。
16:45 《現在地》
そしてその“壁”は、あっという間に谷の全てを覆い隠す大きさととなり、
木戸ダムの威容が、足元に息づいていた全世代の道を絶っていた。
ダムの壁から奥は当然水没しているが、ちょうど2006年の探索で最初に木戸川に谷底へ着いた辺り、
すなわち乙次郎集落から木戸川に流れ込む支流の出合い辺りが、ダム湖の上流端になっている。
そこまでの距離はおおよそ1.7kmで、当該区間の軌道跡はほぼ全て水没してしまっている。
この水没区間を水没前に探索出来なかったのはとても残念だが、
実はこの翌年に、探索に挑戦しているので、また改めて紹介したいと思う。
今回の探索は、まだまだ全国に手付かずの軌道跡がごまんとある中で、
あえて遺構の存在があまり期待できない、道路として整備されてしまった区間で
軌道跡の痕跡を探るという、なかなかマゾいチャレンジであった。
成果はまああった。あと、重箱の隅を突くように探す行為自体が楽しかった。
当初期待していた以上は、間違いなく成果があったよ。
当初期待していたとおりだったら、レポートにならなかっただろうから(苦笑)。
それではまた、次の探索でお会いしましょう。
あ、そうそう、レポートを最後まで読んでくれたあなたに、これも読んで欲しい。