夢にも見た、あの“海”の廃線が、私の眼前に大展開!!
吹き付ける雨の中、私はきっと土気色の顔色をしていたであろうが、心中は今日初めてトキめいていた。
かつて秋田のバイト時代に初めて手にした『鉄道廃線跡を歩く』(以下『歩く』)の風景に、ようやく自分の足で辿りついたという大きな感動があった。
その広がりは、写真で見たよりも幾分大きく感じられた。
とはいえ、一般的な鉄道といわれるものの平均的なスケールと較べれば、遙かに小さなミニミニ鉄道である。
全長何「キロ」という風に測るような規模では到底無く、ここに見えているものが、そのほとんど全てだと思われる。
すなわち、海の上を走る部分が全てである。
もう少し正確に言えば、海面と言うよりは荒磯に架された橋なのであるが、とにかくこれほど海に近く、海と一体になった鉄道風景は珍しい。
しかもそれが元来“海の世界”である本土より遙かなる離島にあるということが、とにかく印象的であったのだ。
今からこれを独り占めに出来るなんて……
雨も、よかったかな。
6:27 《現在地》
この特異の廃線風景は島の観光資源と見なされており、立派な案内板が設置されていた。
神津島村観光商工課が推敲した文章を、その貴重な写真とともに全文転載しよう。
名組湾とトロッコの跡
正面の岩肌の高い山を神戸山と呼び、山全体が抗火石で形成されている。昭和十七年頃、建築材料等に利用するため、当時、島外資本による日産化学工業株式会社により、この地に採石運搬の施設が建設された。
当時は、道路も無かったので、目印に山の上の支柱が建っている場所より、この名組湾まで索道を張り、採石された石が降ろされた。
そして更にこの湾の先にある、ボンブと呼ばれる所までトロッコに乗せて運び、運搬船に荷積みされた。
その後、時代の変遷により石の需要も減り、昭和三十年代に積み出しは閉鎖された。当時、最盛期には、この付近に仮屋もあって、多くの人が働いていた。現在は、神戸山まで車道が通じて、平成十二年の春まで採石が行われていた。採石された石は、今まで住宅や道路の石垣など貴重な天然石として島内で消費されてきた。
昭和六十年代初めに、ようやくこの名組湾にも車道が通じ便利になりレクリエーション施設・赤崎の木橋遊歩道・ダイビングポイントなども整備され、多くの人が訪れるようになった。
今では残されているトロッコ橋や、附近に散在している採石・トロッコの車軸などが、当時を思い出す名残となっている。
又、トロッコ橋の沖合にかかる夕焼けと神戸山は、四季を通して印象的な情景を見せてくれる。
平成十五年八月 神津島村観光商工課
上記解説文を少しだけ補足すると、神戸(かんべ)山で採掘されていた「抗火石」というのは火山性軽石の一種で、新島がその特産地として著名である。
かつては抗火石で船体を作った石造船が存在したほど比重が軽く、その名の通り耐火性も高いため、島内の建材需要のほか、戦前には軍需産業を中心に本土でも大きな需要があった。
また廃止は昭和39年とあるが、『歩く』によれば昭和20年代後半には需要減少から既に開店休業状態だったとのことである。
続いて右の地図は、採石場があった神戸山と積出施設があった名組湾の位置関係を示している。
ただし索道はほとんど痕跡を留めていないため、おおよその推定位置である。
(神戸山上の採石場跡は、この日の探索では訪れられなかったが、後日に訪問しているのでレポートする予定だ)
また積出軌道についても道路と重なっている部分は完全に消失しており、廃線跡が現存するのは磯に架かる「トロッコ橋」が中心となっている。
そしてこれよりお待ちかね。
トロッコ橋の探索を開始したい!
ということで、これが廃線跡入口の光景。
道路沿いの案内板から左の海を見れば、このような場所が広がっている。
実は道とこの風景の間に、場違いなバーベキュー台の風景があるが、それはカットした(笑)。
奥の橋へ続く築堤の路盤上に、等間隔でコンクリートの小さな台座が並んでいる。
往時はこの上に枕木を1本ずつ敷き並べ、更にその上にレールが敷かれていたのであろう。
また、この段階で既に終点の「ボンブ」というらしい場所?施設?が写っている。岩陰に頭を出している柱がそれ(そこ)である。
このように短い積出軌道には当然機関車の入線は行われず、動力は全て手押しに拠っていたという。
遂に
青い海へとのびる風化した不気味なコンクリート橋
(↑ これは『歩く』の記事にあった、特に印象的な本物件のキャッチコピー)
が私に探索されようとしているッ!
…………。
よし!
この雨なら誰にも邪魔をされそうにないし、そもそも「立入禁止」でさえなかったというのは、意外な幸運。
これならば慌てて渡りに行く必要も無いだろう。
そうだ、ここはまず、外濠から埋めるんだ。
というわけで、いわゆる勿体ぶりをすることにした。
まずは橋の外観を抑えるべく、橋台から磯に下りてみたのが左右の写真。
←
橋台の背後に聳えるのが神戸山。
橋台はコンクリートの土台上に石垣の築堤を載せた独特の作りで、綺麗な波紋が見える石垣は抗火石のようであった。
→
トレッスル橋のような特徴的末広がり&多段式の橋脚構造。
これが本橋最大の特徴であるから、後ほどより細かく観察したい。まずはご挨拶だけ。
橋の本体から20mくらいの間隔を空けて、それと平行するように磯を進むと、橋が一度大岩に乗り上げて短い地上区間を挟んでいるのを。
トロッコ橋は2本からなっていたのである。
また、橋はまるで自然の造形物であるかのように、周囲の岩場と色合いや風合いの同化が進んでいた。
これは単に雨に濡れて色調が失われている為ではなく、島の石を元に作られたコンクリートゆえではないかと思われる。
ここからでもその風化のとびきり味わい深い造形が十分見て取れ、我慢しないと、忽ち近付きたくなるのだった。
なお、今は足元に海水は見えないが、辺りの草木の全く育たぬ様子を見る限り、汐の満ち引きや波の次第によっては容易く洗われると考えられる。
また足元に波は無くとも、周り三方は間近に海であるから、その潮騒は辺りの空間を完全に満たしていた。そして、雨が少しけ塩味を帯びていた。
こんな路盤は見たことが無かった。
大小の岩塊が気ままに転がる荒磯場。
その海面すれすれの所を線路が跨いでいる風景が、まずレアだ。
普通の鉄道ならば、躊躇いなく埋め立ててしまうような低さである。
そのうえ単に橋で通過するのではなく、岩塊より大きな岩山は敢えて乗り上げ、それをとびきり頑丈な橋脚のように活用していているのも、「上手いな」と感心した。
スケールは全く異なるが、敢えて似ているものを挙げるとすれば、小島を跳び石伝いに架け渡して大海を横断してしまう瀬戸大橋のイメージである。
もっとも、この線路は海の汀(みぎわ)が終点であり、形の上では行き止まりである。
しかしそれが船舶との連絡所であることを考えれば、決して輸送の終点ではなく、海の向こうのどこかへと通じる入口であった。
実はこの探索では、雨のため、いつものカメラを使っていない。
画質的にはかなり劣る防水機能付きの予備の小型コンデジで撮影しているが、そのややざらついた画質が、荒涼とした風景を切り取るにはむしろ都合がよかった。
ファインダー越しに見る風景にうっとりとしながら、時間の過ぎることもひととき忘れて、思い付くあらゆる角度から橋の写真を撮りまくった。
このアングルがタマラナイ。
海抜ほとんど0メートルの積出軌道から、269mの神戸山を仰瞰している。
両者が直に接しており、間に遠景と近景の間の眺めが存在しないため、高低差が数字以上に強調されて見えた。
そして自然と視線は、絶海の孤島の中のさらなる絶境であろう山上の世界へと走った。
案内板に書かれていた、「目印に山の上の支柱が建っている場所」というのは見つける事が出来なかったが、採石場は間違いなく山上の平坦地であり、索道が結んだ高低差はこの山の海抜に匹敵したに違いない。
今は支柱の一本も残されていないのが、とても残念であった。
陸から伸びるトロッコ橋は、その橋台から50mほどの位置に小島のような岩山に乗り上げて一旦橋であることを終えている。
2枚上の写真がそれである。
ここでは岩山を境にして、陸側の橋を1号橋梁、海側の橋を2号橋梁と呼ぶ事にするが、上の写真が1号橋梁で、左の写真が2号橋梁である。
このように少し遠目から見た限りでは、このふたつの橋には長さの他は特に違いがないように見えるし、確かに特徴的な格子構造も共通しているのであるが、2号橋梁はその一部で海面を横断しているという違いがある。
それに、同じような磯場を横断していても、2号橋梁はより海に近いため地面が低く、結果的に橋が高い。
そのため、橋としてはより迫力があって好ましい。
なお、2号橋梁の海面横断部分は僅かなので、今日の潮位ならば岩場伝いに終点が待ち受ける大きな岩場へ行けない事は無かったが…
終点への到達は橋を渡って果たしたいので、今は我慢!
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それでは、橋を実際に渡る前に、橋梁のヘルスチェックだ。
丈余の岩波を掻き分けて、これまでは距離を一定に保ってきた橋本体(2号橋梁)へと一気に接近する!
そしてそこで、十余年前の誌面からは知り得なかった極めて衝撃的な現実を知る事に!!
一部の橋脚が、なんと地面から離れているではないか!!
なのに、落ちてはいない!(←これ重要)
この状況でも倒伏せずに保っているというのは、相当衝撃的なことである。
通常は橋脚が1本でも失われれば、橋は即座に落ちるか、そう長くは保たないものである。
だが、この橋の昭和17年という竣工時期においてはまだ珍しかった“構造”が、一部橋脚の喪失を乗り越えて、橋を保たせしめたのだろう。
本橋の形式とは、ラーメンである。
すなわち、橋脚が全ての橋桁とがっちりと剛結合している構造である。
同じ長さの橋を架ける場合にはトラスやアーチ形式と較べて多くの部材を必要とするが、橋全体が一つの巨大な塊であるため、頑丈に作ってさえおけば、少々のダメージでは落橋し難い。
戦後に急造した市街地を跨ぐ高架橋の類がラーメンを採用する場合が多いのも、このメリットが重要視されているからであろうし、逆にラーメン形式のコンクリート橋と言うだけで市街地の陸橋を彷彿とするくらいである。
そういえば、新幹線の陸橋も大抵そうだ。
翻って、この神津島にこの形式という、アンマッチ。
だが、太平洋の外海に直接洗われ続けるなどという、拷問に等しい極厳の環境においては、部材の節約などよりも強度が優先されねば意味をなさない。
また、単に頑丈なだけならば築堤でもよいのだろうが、時には波にくぐって貰う柔軟さも持ち合わせなければ、耐えられないと判断したのであろう。
そうして完成から半世紀を優に耐えた現在、当初設計の正しさを自明としている。
…しているが、
確かに… 不気味なコンクリート橋 ではある。
ここまで削られているのに、全く傾いてもいないというのは、不死身というか、むしろゾンビじみているというか……。
しかし何度も言うように、戦前のコンクリートラーメン橋として、貴重な存在である事は間違いない。
また、かつての大規模木造橋梁を思い起こさせる多段構造(格子構造)も、地にしっかりと足を降ろしたハの字型の開脚構造も、全てが安定感を担保する。
耐え続けるには、当然訳がある。
これは移設保存出来るような構造ではないので、この場所で倒壊するまで立ち尽くすのだろうが、ここまで保ったのなら、そう簡単に終わってほしくはない。
ずっと不死身で頑張って貰いたいものだ。
さあ、橋はまだ私の体重くらいで崩れそうにはない。
安心して渡って、汀の終点を目指すぞ!!
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