神津島の石材積出軌道 後編

公開日 2013.12.31
探索日 2013.04.02
所在地 東京都神津島村

橋を渡って終点を目指す!




それでは、奥に見えている「ボンブ」(終点)まで路盤を辿ってみます。

…風が強いのが、だいぶ気掛かりではあるけれど…。



で、いざ相対してまず感じたことは、人が渡るには適さない橋桁上面の不思議な形状のことであった。

往時の写真には枕木とレールが敷いてあるので、この桁の形状は人が渡ることを想定していない。
しかし、それであるとしても、なぜこういう形状を選んだのかは興味深い。
一般の鉄道はもちろん、規模が似通っている森林鉄道の橋梁を見回しても、こういう凸形の上面を有する梁は見た憶えが無いのである。
また、コンクリートの風合いを見る限り、この凸形の部分だけは後から盛ったように見えるが、なぜそうする必要があったのだろうか。

これはおそらく、海水によるレールや犬釘の腐食対策ではなかったかと思う。
梁の上に海水が溜まる余地を出来るだけ減らし、風通しも良くすることで、出来る限り塩害を避けようとしたのではないだろうか。
しかしこのような立地に鉄道を敷くノウハウは誰も持っていなかったために、このどこか後補を思わせる構造となったと想像する。




立地の特異性から来る特殊構造は嬉しい発見であり、興奮する出来事でもあるが、その渡りにくいことと言ったら……
もし橋の高さが今の倍あったなら、渡ることを相当に躊躇っただろうと思う。

だが、これまでこの遺構に挑んだ前任者たちも、それぞれ風波の状況は違えどこの試練を乗り越えたであろう事を思い、私も頑張ることにした。

とにかく怖いのは、海からの突風であった。
ときおり追い払うような突風がぶつかってくるのだが、その瞬時の予兆を見逃してはいけない。
一瞬ふわっと風が弱まってから、ぐわーっと来るのが常であった。
だから、「ふわ」としたら重心を低くして身構え、出来るだけ主桁と主桁を結ぶ横梁の上で待機するように心がけた。
また救いだと思ったのは、進行方向的に横風ではなく、完全な向かい風であることだった。
ここでの横風は、泣きたくなる…。




《現在地》

慎重に慎重に渡橋を押し進めること約2分で、例の“中島”のような大岩が目前に迫った。
間もなくホッと出来る。早くホッとしたい!

しかしそれにしても、良い眺めである。

梁の上の邪魔な凸部も、風景の上では大いに旨味を加えていることを見逃せない。
この凸部、いかにもレールのように見えるのだ。
そして横梁は枕木に見える。

そのため、まるで石(コンクリ)だけで作られた異世界の鉄道(石道?)のような、不思議な風景が展開していた。

鉄道やその廃線を好む人ならば半ば反射的に興奮してしまう記号的な形態を、レールが失われた後も保存し続けている点は、この遺構の大きな魅力である。
そしてここが廃線界の一聖地一極致たる所以であろう。




1号橋梁を無事突破し、インターバルの中間島に到着。

もとよりこの路線は半分くらいが磯に架された2本の桟橋であったが、起点側の陸上区間が道路によって埋め立てられてしまったため、現存する廃線跡の大半部は橋の上である。
したがって、地上にしつらえられた路盤の旧状を想像する上で、このわずか5mほどの中島の上の路盤も見逃せない素材といえる。

現状から想像出来ることは、まず、この路盤には一般の鉄道に見られるようなバラストが敷かれていなかった事だ。
岩場を荒削りに削った路盤の上に、例のコンクリートの凸部を埋め込むことでレベル(平坦)を取り、その上に枕木とレールを設置していたように思われる。
人が乗車する鉄道ではないが、走行時には相当激しい震動が起きたかも知れない。
また、凸部には釘のような金属の突起跡が所々見られるので、これで枕木を固定していたことが窺える。
つまり現代風に言えば、一種のスラブ軌道であったと言える。

こんな特異な立地に至って普通の路盤では面白くないというわけではないが、やはり随分と特殊な構造を持たされていたようだ。
嬉しくなるぜ。




キター!ここだ!

さっき入口で見た「当時のトロッコ用線路」と同じ構図を探していたが、それは間違いなくここである。

実質的な廃止から半世紀以上が経っているはずだが、岩の形はほとんど変わっていない。
流れ出た溶岩が海水で無理やり冷やされて出来たのか、まるで蠢くような模様を見せる岩場は、相当侵蝕に強いようだ。
当時この場所で働いた大勢の人たちと、同じ岩の模様を眺めているのだと思うと、感慨深いものがあった。

なお、『鉄道廃線跡を歩く7』は平成10年に調査されたようだが、当時の画像を見ると、橋の上には数本の枕木が残っていた。
廃止後にレールだけ撤去し、枕木はそのままにされていたのだろうか。そして残念ながら、現在は1本も見あたらない。



2号橋梁に挑戦開始!

だが、色々な意味で1号橋梁よりも難度が高かった。

まずは、桁の上の凸部が風化のため所々欠けており、平均台のようにその上だけを安定して歩くことが出来なくなったことが挙げられる。
そのため、凸部の左右に僅かに残った桁の上面を踏むことになるが、桁の上で凸部が微妙に左右に振れているため、凸部の左右のどちらに足を置くかが一定しない。
完全無風状態であればこの足運びに専念出来るのだろうが、今の私には海からの突風に対処するというタスクもあり…、嫌らしいこと嫌らしいこと。

さらには、前回も述べた通り、2号橋梁は1号よりも高さがあり、徐々に海面の入り込みも出てくる。
万が一墜落してしまった場合の残念さ、危険さは、1号橋梁の比ではない。

…まあ、橋の長さ自体はこちらの方が短いのであるが…。




慎重、かつ速やかに2号橋梁を前進中。

現在地はその中間を過ぎたあたりで、いよいよ終点の“ボンブ島”(←勝手に命名)が間近に迫って来た。

この辺りまで来ると、視界の中に海面の占める割合が増えてきて、橋の高さ、風の強さ、そして足元の橋梁の老朽ぶりという、あらゆる悪条件が重複してくる。

進むほどに難易度がアップするというのは面白いのだが、風だけは本当に突発的事故を誘発して怖いので、この雨に打たれた顔面の土気色が死人のそれに変わらぬうちに、早く安全な陸地へと辿りつきたかった。
目前の小さな小さな陸でさえも、恋しくてたまらなくなってきた。




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6:37 《現在地》

渡橋(往路)完了! ぃゃふぅ〜!!

橋の上に最初の一歩を踏み出してからおおよそ5分で約200mの桟橋渡橋を完了し、
名組湾の西沖へ少しだけ突出して盛り上がった、岩だらけの小島というか岩の山に辿りついた。


それでは早速、終点へ続く路盤をご覧いただくことにしよう!




ジャン!


ここでもまた、「バラストなんて軟弱なものは海の鉄道には使えん!」…とばかり、

バラストのような形に少し盛ったコンクリートの中に枕木を埋め込むという“荒業”に出た!

これを荒業、修羅業と呼ばずして何と呼ぼう。 これこそが、太平洋の荒海に適応した究極線路の姿というのか?!!



どうやら路盤に大量のコンクリートを「ダバーッ」と垂らして適当に盛り上げた後、
乾く前に枕木の部分だけ掘り、枕木を並べてからその隙間をモルタルで埋めたようだ。

こうでもしないと、高波がある度に線路が枕木ごと浮き上がり、海に持っていかれてしまったのだろう。
まさに苦肉の策を感じさせる、男の特殊構造路盤である。

しかし、どう考えてもこの状況でのレールの消耗(腐食)は早い。
枕木に残されていた犬釘も相当に腐食が進んでいた。




そして、ここに来て初めて存在を知った、極めて小さな3本目の橋梁の出現!

橋の長さは1m程度で、渡っているのは岩山の亀裂に過ぎないが、この下には細い細い海面が入り込んでいた。

いずれボンブのある岩山は、ここで二つの島に分断されるであろう。


続きましては、掘り割りの出現である!

橋に築堤に掘り割りまで、隧道以外の様々な構造物が、この僅か200m少々の路盤にひしめく。

この掘り割りなどは規模こそ可愛らしいものであるが、堅い溶岩塊をここまで掘り抜くのは、機械の乏しい当時(昭和17年)としては大変な作業であったろう。

また、さすがにバラスト無しの掘り割りで水捌けまで考慮することは出来なかったらしく、路盤内には小さな水溜まりの連続したものが慌ただしく小さな波紋を広げていた。




そして!



ボンブ到達!

(↑でも、ボンブって何だ?)

手押しの軌道ではそんな物も必要なかったのであろうが、
特に線路の車止めのような構造物もなく、
ボンブの土台に直接突き当たって終点となっていたようだ。
また、向かって左側の余地には、ごく短い分岐線の痕跡があった。

この終点の実況については、間近の岩山によじ登って撮影した、次の動画で確認していただきたい!



← ここに映し出されているものが、石材積出軌道の現存する全範囲である。

海の近くに聳える神戸山で切り出した石材を、索道で海岸まで降ろす所までは良かったが、そこからどうやって“市場”へ送り出すかで悩んだだろう。

今のように集落まで車道が通じていたら索道も軌道も必要なかったのだが、もちろんそんなものは無かった。
わずか数キロの所にあり、それなりに設備の整った神津島港から搬出出来れば良かったが、当時はそこまでの陸路さえなかった。
だから島内での陸送は極力減らし、山を下ったら即座に船積みをすべく、こんな荒磯に無理やり桟橋を設置したのであろう。

また、これが更に大規模な事業として長く継続していれば、この辺りの海岸線もきっと埋め立てられ、どこにでもあるようなコンクリートの桟橋に置き換えられていたであろう。
しかし抗火石の宿命からか、そこまで事業は成長することもなく、島の歴史に小さな1ページを刻んだくらいで潰えてしまった。
その結果が、この荒磯にネコの髭よろしく伸びた、か細くも逞しくもある、小さな鉄路だったのだ。




立ち尽くす、ボンブ。

地上から2mくらいまでは太い円錐形のコンクリート柱であり、その上にさらに高さ3m程度の円錐形金属柱が直立している。
また、頂上の部分がL字に屈曲し、その先端にワイヤを通した孔が空いている。

この柱がどのように使われていたかは、前出の案内板写真が教えてくれる。(↓)




そして、この写真で船が浮かんでいる海面というのは、次の写真のような場所である。

ボンブの縁、真下の海を覗いてみた。


めっちゃ深い!!

  ゆ ・ え ・ に、

Deep Blue!!!

私は子供の頃に、こう覚えた気がするんだが、あれは間違えだったのか?
海が青いのは、お空の青を映しているからだって。
そういえば、日の届かない鍾乳洞の地底湖も青いし、深くて綺麗な水はやっぱり青いのか?

…よく分からないが、とにかくめっちゃ深くて綺麗な海が目の前にはあった。

しかしそうは言っても、ここに船を係留して積み込みの作業をするのは怖ろしい。




ボンブ脇には、小さな貨物船が1隻横に付けれるだけの海域しか無く、

その向こうは荒磯に波濤砕ける船乗りの地獄であった。

…危険な仕事場だったな……。



…さて、

これ以上風が強くなる前に、もっと大きな陸地へ帰ろう。

帰りは、廃線跡の全線を通して踏破動画を撮影したので、ご覧頂こう。

↓↓↓




そしてこの少し長い動画の終盤で、私は往路に気付かなかった発見をしている。

橋台附近の地べた(この場所)に落ちている、1本の車軸を発見したのである。

↓ ↓ ↓



錆び付いてはいるが、両輪とも欠けのない立派な車軸。
この場所で使われていた手押しトロッコの一部に違いない。

そして、こんなものを見付けてしまったら、
(あまり時間に余裕は無いというのに…)
急遽、どうしてもやりたいことが出来た。




そして、やった。




↑ どやぁっ!


橋台の下にあった車軸を、路盤の上まで持ち上げるのは本当に骨の折れる仕事だった。

重いのなんのって、うっかり腰を壊すかと思ったほどだ。




しかし苦労して蘇らせた眺めは、至って満足。

そして、これほど軌間を計るチャンスがあったのに、ウッカリ忘れていた体たらくも見逃せない。
おそらく、610mmではないかと思うが、正確な数字をご存じの方がいたらご一報いただきたい。

ともかくこれにて積出軌道の全線を探索し終えた。
残りは神戸山の山上に眠る採石場跡と索道だが、この日は行くことが出来ず。
しかし11月に再訪しているので、遠からずレポートを補完する予定である。

また、私が路盤に上げた車軸だが、もとあった場所へ戻す事も考えたが、
より旧態に近いのは路盤上であろうと言うことで、そのままにして現地を離れている。
再び動かされていなければ、現在もそのままになっているはずだ。