2010/6/6 15:52
奥入瀬渓流を出発してから約2時間半、最大の探索目標であった「峠の隧道」の探索が終わった。
引き続いては惣辺川沿いに舞台を移した雲井林業軌道跡の“後半戦”の探索を行っていくわけだが、スタートが午後からだったこともあり、既に時刻が夕方の入口に差し掛かっている。
比較的日の長い6月とはいえ明るいのは午後6時半くらいまでだし、山の中の夕暮れは地上よりも早いのだから、あまり時間に余裕がないことは理解していた。
もしこれが単独行だったり、地形的により険しいことが見込まれる場所であったら、計画を翻して引き返す判断をした可能性がある。
しかも、このときはメンバーの全員が大きな考え違いを冒していた。
これはレポート第2回に注記した内容の復習になるが、峠の隧道を越えた「現在地」を、我々は実際よりも1km近く惣辺川の上流、すなわち終点寄りに計算していたのである。
20万分の1という極めて小縮尺の地勢図のルートを盲進していたこと、GPSを装備していなかったこと、路盤を辿る事に熱中しすぎて周りが見えていなかったことなどが失敗の原因として挙げられる。
我々のこの錯誤がもたらした結果は、幸いにして、さほど重大なことにはならず、むしろ探索後もずっと気付かないままであったわけだが、おそらく世の中にある遭難の相当数が「現在地」の大幅な錯誤に起因しているだろうことからして、この失敗を我々は深く反省しなければならないし、皆さまは反面教師として頂きたいのである。
といったところで、“後半戦”のレポートスタート。
つうか、“後半戦”といいながら、実際にはデポ地まで歩くべき距離の3分の2である約4kmも残ってたわけで……苦笑するしかねぇ!
15:55
まずは峠道との合流地点である。
ここまではさっきも歩いた場所なので、ここから先の終点方向が初めて足を踏み入れる区間である。
右の写真は、この合流地点付近の路肩から覗き込んだ谷底で、今回の探索ではじめて惣辺川の水面を見た。
まだ30mくらいは高低差があり、予想していた以上の高低差に危険を感じた。流れの方は穏やかなようで、音は静かだったが。
うへぇ、激藪……。
分岐を越えてまもなく、強い藪が現れ出す。
峠までの区間には明確に存在していた踏み跡が、惣辺川の谷に入ると、急に不鮮明になってしまった。
こうなると、むしろなぜ峠までの踏み跡が鮮明であったのか不思議である。
案外踏み跡の大部分は釣師のもので、彼らが早々と入渓してしまうと、中途半端な高さにある路盤跡は見棄てられた存在になってしまったのかもしれない。
正直ウンザリしたが、こうなってしまったものはもう仕方ない。…諦めよう。
その直後、今度は砂地が露出した崩壊斜面に行く手を阻まれた。
路盤は完全に切断されてしまっており、砂地という不安定な斜面を横断するスリリングな場面となった。
もちろん、簡単に迂回できないからこその、正面突破である。
…“重戦車”ちぃ氏、この辺りから早くもバテを見せはじめる…。
(彼の名誉のために書いておくが、彼の力はこんなものではない。)
地味だが、ここで久々に枕木を目撃した(起点を出発した直後に見て以来だ)。
うん、本当に地味ね。(苦笑)
でも、犬釘が4本全て刺さっていたので、これ幸いと軌間の実測を行った。
(変化後の画像の矢印の位置に2本の犬釘があった)
結果、約76cmという数字が得られ、一般的な林鉄の軌間である762mmと同じ軌間であった事が確かめられた。
民間の林鉄とはいえ、この辺りは国有林の基準に一致していたようである。車両の入手性とか、そうする理由があったのだろう。
16:20 《現在地》
隧道の東口跡を出発してから30分が経過した時点で、我々はこれまでにない大きな切り通しを前にしていた。
これだけを見ればまるで峠の頂上のようだが、周辺の地形はそれとは全く違っていた。
初めこそ眼下に見下ろしていた惣辺川だが、この30分の間に高低差がどんどん減少し、今では軌道跡もその広大な河谷の低地に置かれていた。
この切り通しは、そんな河谷内の起伏を越えるためのものだった。
探索中の我々は現在地を相変わらず錯誤しており、実際より1km程度上流の位置にいるものと推測していたが、今から考えると上にある《現在地》の地図の場所にいたのだと思う。
現地の我々にこのことを教えてあげたら、どんな顔しただろうな。
いよいよ路盤との高低差がなくなった惣辺川を間近に眺めるようになったが、その第一印象は、とにかく緑の色が濃いことだった。
普段良く見る渓流の景色を思い浮かべてもらいたいが、岸辺の緑と水流の黒の間に岩や砂利からなる白い色が挟まると思う。だが、ここはまるで増水している時の川のように水際まで植物が茂っていて、その緑が水面にも映り込むものだから、景色全体が緑っぽいのである。
これは偶々そのような場所を最初に見たというわけではなく、ずっとそんな感じだったから、これは個性と言って良いだろう。
そして私が知るこれとよく似た景色の場所をひとつ挙げるとすれば、それは奥入瀬渓流である。
尾根をひとつ挟んだ隣にある川なのだから当然と言われればその通りだが、あの全国的に有名な奥入瀬渓流があれほど有名になったのは、単純に景色の良さだけではなくて、その上流がやはり有名な十和田湖に続いている事や、昔から交通の便に恵まれていたことなどもあったことの証左だと私は思った。
惣辺川が奥入瀬川と違うのは、人も車も全く見あたらない事である。
そんな原始境のようなこの谷でも、かつてのある時期までは、我々の持つ機械の力が幅をきかせていたのである。
雲井林業軌道は機関車を導入していたというから、エンジンの唸りも高らかに排煙を撒き散らす鉄の巨体が、この森を驀進していたはずなのだ。
だが、その唯一の痕跡である路盤跡は既に濃密な緑に覆い隠され、意識していなければ容易に踏み外すくらいに霞んでいた。
写真の左側の たつき君 がいる場所が築堤になった路盤跡で、右の細田氏のいる場所は川の隣の氾濫原的な場所だが、どこを選んでも緑の海である。こんな場所が随所にあった。
16:30 《現在地》
東口出発から40分歩いた所で、枕木に取り付けられていた犬釘以外で初めての“金属製品”を見つけた。
それは、お手製の水汲場らしき細工がなされたドラム缶だ。
軌道跡の山側に流れ込んでくる小さな谷に備え付けられていた。
これ自体は軌道と直接関係ないかも知れないが、この地で働いていた人たちが残した遺物だと考えて良いだろう。
この場所までドラムカンを持ち込む労力を考えれば、伊達や酔狂ではあり得ない。きっと軌道が活用されたのだと思う。
そのすぐ先にも、ドラム缶を見つけた。
今度は何気ない感じで路盤に転がされていて、ただそれだけなのだが、ここに来て急に連続して現れ始めた人跡に、なんというか…… ゾクッときた。
時刻は4時半を過ぎており、西日が山に遮られ谷底には届かなくなった、そんな残光の時間。
傍らには相変わらず音も立てず流れず川があり、それ以外は見わたす限り緑の山。
そしてそんな場所でひょっこり現れだした、いなくなった大勢の人たちが残したもの。
今回は仲間が3人もいるので心強いけれど、これは地味に結構“くる”シチュエーションだと思った。
命の危機が余り感じられないからこそ、そういう方面で想像力を働かせるだけの“余裕”があったとも思うのだけれどね。
そうそう、この場所ではドラム缶の他に印象的なのがもう一つあったんだった。
写真の右側に写っているものが、個人的にはとてもよく印象に残っている。 それは――
山のように巨大な切り株!
沢山生えたシダがアクセントを加えていて、天然の芸術品のよう。
この特徴的な集合した幹は、おそらくカツラの木だったろうと思う。
カツラは巨大になりやすいようで、巨木は良く見るが、これほど大きな切り株は珍しい。
あまり木材としての利用価値が高くないのかもしれないと思っていたが、ここではしっかり伐採されていた。
私はここに、“いなくなった人たち”がこの地でかつて発散したエネルギーの大きさを垣間見た。
巨大切り株の目と鼻の先で、軌道跡が小川を横断する場面があった。
そしてそこには、橋が架かっていた。
見ての通りの、小さな小さな木橋が。
ここまで起点から3kmを超える距離を歩いてきたが、橋や橋の跡を見るのは初めてだった。
いかに小さくとも、軌道時代の遺産なのだと思うから、精一杯踏み心地を味わいながら渡った。
ちなみにこの小川は、我々が現地探索終了後まで信じていた隧道擬定地の東口辺りから流れてきているのだと思う。
つまり、実際に東口を出てからここに至るまでの45分間(1km)は、我々が想定より余計に歩かされた分である。
我々は45分歩いたこの時点で、車をデポしてある地点まで残り1.5kmほどに迫っていて、地勢図に描かれた軌道の終点は更に間近だと考えていたが、実際はデポ地点まで残り2.8kmほどもあった。
あ〜ん!(泣)
路盤が谷底に降り立った時点で、遠からずこうなるだろうとは思ってはいたが、ここで唐突の本流渡河を要求された。
むろん拒否権を持っていない我々なので、これまで温存してきた足の乾きを惜しみながらも、躊躇わず入水した。
この場所にはかつて橋が架かっていたのだろうが、橋台さえ残っていない。
これは民間軌道にしばしば見られる経済性重視の省エネ設計で、木橋だったのはもちろん、橋台さえ石組みやコンクリート造りにせず、簡易な木造で済ませた可能性が高いだろう。
読者諸兄に無駄な期待を抱かせることがないように予め話しをすると、「民間軌道、広い谷底、河床すれすれの路盤」という3要素の揃い踏みを感じた少し前の時点で、この軌道の上流部にめぼしい遺構を見つける事を、私はもう諦めていた。
経験上、この3つの要素が絡むと、橋と隧道は極めて期待薄となる。
これで路盤にレールでも残っていれば大金星だが、この軌道の場合は、これまでの経過からそれも期待できそうにない。
そんなわけだから、その後はさらに淡々と、そして黙々と歩き続ける時間が増えた。
めぼしい遺構が無いうえに、歩けども歩けども地形図にはあるはずの砂防ダムが現れないのだから、仕方がない(笑)。
それでも、現地の私は結構楽しんでいたし、とても気分が良かった憶えがあるのだ。
そりゃそうだよな。
こんな純美の森に人知れず眠る人跡を辿ることが、もし私を心地よくさせないとしたら、それはよほどのピンチだけだろう。 これはあの有名な“奥入瀬渓流”を独り占めしながら、自分の大好きな廃道探索をしたようなものなのだ。 |
その後に我々が何度川を横断したのか、はっきりした記憶が無い。
写真を見返してみても、同じような川と陸の写真が沢山あって区別が難しい。最低でも5回は渡ってるはずだ。
まあ、それくらいフランクな感じで何度も軌道跡は川と交差し、その都度我々は徒渉した。
途中一箇所だけ橋台が残っている橋があったが、それは案の定、太い丸太だった。木造橋台である。
左の写真はその橋台を上から、右は横から撮影したものだ。
17:04 【現在地はよく分からない】
東口を出て70分。
「妙に遠いな〜。」
そう感じてはいたが、確固たるものはなにもない。
どこかでルートをミスした可能性も考えたが、確信は出来ない。
明るいうちに林道まで出れないと、ちょっと困ったことになるかもしれない。
でもまあ深刻には考えていなかった。川を上流に向かっているのは間違いないし、
飽きるほど川の左右を行き来はしたが、軌道跡も足の下に続いていた。
万が一にも、この川が惣辺川ではないようなことがあったとしても、
いずれ我々が車をデポした林道と、どこかで交差するはず。
これまで軌道がある谷底周辺はどこも自然林だったが、17時10分頃からは杉の植林地が混ざりはじめた。
これには少なからずホッとした。
確実に林道に近付いていると思えたから。
しかし、植林地は現れても、軌道跡以外の道が現れるのは、まだ先の事のようだった。
そして我々はこの植林地の中で、一個の茶碗を見つけた。
3分の1ほど欠けていたが、この手のものの特徴として、妙に艶めかしい色合いをしていた。
ドラム缶発見以降、しばらく薄れていた“人の息吹”を久々に感じる場面であったが、沢山見つけたわけでは無いので、ここに飯場や集落のようなものがあったのかどうかは分からない。
17:30 【現在地はよく分からない】
杉の植林地が現れだしてから20分経ったが、基本的に植林地は左岸を占めており、軌道跡もおそらく左岸と思われる。
ただ、これは積極的に軌道が対岸へ向かう理由を感じないというだけで、地形的にはどちらの岸も通行できそうである。
どうしてこんな事を書いたかというと、実は植林地が始まってから軌道跡を確信出来る明確な痕跡を何も見ていない。
最後に確信出来たのは川を渡るところにあった木製の橋台で、それとなく続いている平場をずっと歩いてはいるが、明確な遺構が無い。
仮に少しずれたところを歩いていても、この谷の内部に大がかりな遺構があれば必ず気づけるだろうから、気にせず進もう。
…いや、これはちょっと様子がおかしいかもしれない。
上の写真の少し先で植林地が途切れて、また元のような自然林になったのだが、川の流れがこれまで以上に奔放に谷底を支配しており、軌道跡があったとしたら既にズタズタに寸断されているだろうし、もしかしたら、既に終点を迎えている可能性がある。
あの広い植林地は、終点(=主要な伐採地)として相応しい感じがする。
そして、それから10分ほど上流に向かうと――
17:43 【現在地は後述】
キター!
って、「キター」のが遺構でなくて皆さまには申し訳ないが、
これは我々がずっと待ち望んでいた地形図上の大きな目印だった砂防ダム!
デポ地の林道から800mほど下流の砂防ダムに、ようやく辿りついたようだ。
これにより、しばらく不明になっていた「現在地」が、推測出来るようになった。
これが久々に確認出来た「現在地」である。
地形図には惣辺川に二つ砂防ダムが描かれているが、ここはそのうち下流側のダムだ。これから林道に出会うまでにもう一つ砂防ダムがあると思われる。
ここで注目したいのは、例の地勢図に描かれている軌道の終点が、概ねこの砂防ダム辺りだということだ。
現地探索によって確認された軌道跡は、植林地以北において比較的明瞭であったが、植林地内ではいまいち鮮明ではなくなった。しかし存在を否定する要素も特にない。
しかし、植林地を抜けると途端に川が奔放になり、完全に道を見失った状態がここまで続いた。我々は単に歩ける場所を選んで跋渉してきたまでである。
以上をまとめると、植林地の南端である右図中の赤線の末端辺りが、実際の軌道の終点であったのかもしれない。
この場所は、地勢図の軌道の終点とは「誤差の範囲」といえるくらい近接してもいる。
砂防ダムはかなり大がかりなものだが、右岸の山が緩やかなので簡単に乗り越える事が出来た。
写真は、砂防ダムを越えた直後の川沿いの景色だが、このように膨大な堆積物で平坦化しており、仮にここまで軌道跡が続いていたとしても、完全に埋没しているはずである。
しかも、この平坦面は次の砂防ダムの下まで続いていて、この地での軌道跡探索は終わったことを理解した。
なお、堤上の看板によれば、このダムの正式名は惣辺川砂防堰堤といい、昭和47年度の竣工だという。軌道廃止時期は事前の情報になかったが、さすがにこの年なら廃止後だろう。
18:22 《現在地》
砂防ダムが現れた後は、現在地を把握できた安堵もあって、休み休み歩いたせいで少し余計に時間がかかったが、なんとか暗くなる前にデポ地近くの林道に辿り着けた。
東口を出発してから2時間半。起点から数えると約5.5km+α(峠付近で色々探した移動分)の山越え行程に、だいたい半日を要した。
全般に危険箇所は少ないが、とにかく山深いことにかけては折り紙付きといえるだろう。
成果としては峠の隧道が主なものであり、他は終点さえ曖昧なほど地味に終始したが、新オーストリア式工法の痕跡を留めた未成隧道は日本初の発見かもしれず、そのうえいつまで見られるか分からないという状況である。これには大いに血を滾らせさせてもらった!
最後は、疲労困憊したちぃさんで〆。
この偶然に連写となった2コマの写真が、まるで電源が切れたロボットみたいで和むと話題になった。
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