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2026/3/16 9:54
祝! 軌道跡(らしきもの)発見!!
上図の赤点線が推定される軌道の位置であったが、赤実線の位置に、“らしき道形”を今発見した。
読者諸兄におかれましては、レポートが始まった以上、発見も到達も出来ずに終わるということを微塵も心配していなかったかもしれないが(いつかこの“悪しき不文律”を破壊するレポートを書きたいとはずっと思っているのだが、その勇気がまだ出ない)、現場の私としては、結構苦しい心境に陥っていた(そろそろ見つけられなければ今回は撤退しようと思っていた)ので、これは本当に嬉しかった。
結論から言うと、最初に軌道跡を探し始めた場所がズレていたのだ。
最初から旧三縄発電所を所在地を把握した上で、その対岸から探し始めたら良かったのだ。
とはいえ、旧三縄発電所の存在に気付いたのが“今”なので、事前の作戦立ての段階で認識のズレがあった。
でもまあいいとしよう。今回は気づきが間に合ったから。
発見した軌道跡らしき路盤の位置は上図の通りで、河床からは20mほど高く、先ほどまで辿っていた市道からは50mも低い場所だ。
市道と軌道跡を結ぶ地図にはない道(おそらく茶畑か何かの作業路)を見つけられたおかげで、苦労せずに下ってくることができた。
なお、これは今から約35分前の10:19に、先ほどの地図に★印で示した位置にある大岩の上から上流方向を撮影した写真だが、ちゃっかり旧三縄発電所の煉瓦造りの重厚な建造物が写っていた。
こんなに見えているのに気付いていなかったというね……(軌道跡があるとされる左岸ばかり見ていた)。
で、実際に軌道跡らしき道を発見した「現在地」の位置も、おおよそではあるが示した。
直線距離で300mくらい離れていたのである。
障害物がなければ「すぐそこ」の距離だが、この地形だと川岸を通ってたどり着くことは、やはり困難であったかもしれない。
一方、これが「現在地」から撮影した、下流側の眺めである。
足元に軌道跡らしき道があり、その進行方向には急傾斜地が見えている。
このまま300mほど川縁を進めば、35分前に攀じ登った尾根(ピンクの線の位置)にぶつかるはずだが、なぜかその時には遭遇していない。
ということはつまり、軌道の終点(起点?)が、この300mの間にあるということだろうか。
そしてこれが注目すべき、軌道跡らしき道の実況写真。
右の川側にカーブした石垣が続いていることはすぐに気付いたが、その数秒後に、山側にも低い石垣があって、つまりは両側が石垣の築堤路であることが判明した。
これにより、道幅が軌道跡らしい狭さであることも発覚!
“らしい”とは言いながら、もはや私の中では確定レベルで軌道跡だと思うに至った!
こんな水平で狭い道が、旧地形図に軌道が描かれている場所にピンポイントにあって、無関係で堪るものか!
ここから下流方向へ進行開始!
10:54
軌道跡を歩き始めて50mほどで樹林帯に入った。
写真はその入口にある築堤で、前写真の築堤から続いている。
小さな沢筋を横断しているが、水は流れておらず、水を通す穴も開いていなかった。
引き続き水面との比高は20mくらいあり、眼下も直ちに川という状況ではない。
さらに10mほど進んだ地点。
ごく低い切り通しで、岩場を直線的に抜いている。
刈払いなどが行われている様子はないのだが、もともと下草の少ない地形のようで、とても綺麗に道形が残っている。
ここが軌道跡であるなら、かつてはバラストに枕木、そしてレールが敷かれていたのであろうが、残念ながら残っていない。
(チェンジ後の画像)
切り通しの川側に、1本のコンクリート標柱が立っていた。
道路沿いで良く目にする用地杭よりは少し大ぶりだ。
標柱の四面のうち、道側の面には「送電」という文字が刻まれていた。
この標柱は用地杭である可能性が高いと思うので、「送電」は会社名(の略称)であろうか?
軌道が敷設された当時であれば、四国水力電気というのが社名であったはずで、「送電」と略すのは不自然だ。
「送電」の社名が当たりそうな社名としては、昭和14(1939)年に設立された日本発送電株式会社が該当する。
昭和戦前において四国有数の電力会社へと成長していた四国水力電気であったが、戦時中の電力国家管理政策に基づき、昭和17年頃までに、全国各地の主要な電力会社共々、日本発送電に吸収されている。そして終戦後の昭和26(1951)年に同社も解散し、四国エリアを管轄する四国電力が設立されたという経過であるから、標柱は日本発送電時代のものである可能性が高いと思う。
その時代であれば、軌道も現役であった可能性が高いだろう。
なお、裏面の川側にも文字があり、「第 号」と刻まれていた。
空白の部分に番号を書き入れる用意があったが、その数字は消えていた。
10:56
さらに50mほど、鮮明なる道形を辿り進むと、またしても何か見えてきた!
周囲は杉の植林地だが、かなりの急傾斜である。
そのせいか、生育状況があまり良くなく、手入れも行き届いていない感じ。
道のど真ん中にも気にせずに植林されている。
そんなシチュエーションに、何か大掛かりな構造物が設置されている気配が!
これはなんだ?
軌道の路盤上に、コンクリート製の大きな溝状をした構造物が埋め込まれている?!
その正体をこの時点で言い当てられた人は、本編冒頭の机上調査の内容を“私以上に”注意深く読んで下さった方かもしれない。
恥ずかしながら、(机上調査の当事者であった)私は、まだ全然ピンときていなかった。
そして、この“謎の構造物”の向こうにも、山側に2段の石垣を従えた路盤が継続しているように見えるが……
10:57
それも15mくらいで、スッパリ終わっていた。
結論として、ここが今回探索する軌道の下流端であった。
同地点からさらに【下流側を覗いて】
みても、そこには険しい岩場があって、切り開かれた痕跡はおろか、踏み跡一つなかった。
約40分前に攀じ登った尾根は、この先100m以上離れているから、ここまでの行程で軌道跡に出会わなかったのも道理であった。
チェンジ後の画像は、末端部から振り返って撮影。
ギリギリ複線を敷けるくらいの幅はあるものの、周囲は全体的に急斜面で平らな場所がなく、建物用地や土場らしき土地もない。
ついでに見晴らしもない。
いささか消化不良を起こしそうな、唐突かつ手狭な起点?終点?であったが、GPSで現在地を確認してみると、まさしく(地形図には描かれていない)旧三縄発電所の真っ正面(対岸)であり、『西祖谷山村史』の記述は全面的に正しかった。
とはいえ、500mも離れていない下流の川崎集落へ軌道が全く乗り入れず、このような目立たない川岸の一角で突然に終わっているというのは、やはり想定外であったし、これまでの膨大な林鉄探索の経験と比較しても、明らかに珍しいシチュエーションだと思った。
ほとんどの林鉄の下流側は、他の道路や鉄道との連絡を重視した立地にあるものなのだが……。
だが、この軌道の下流側が他の道路や鉄道と全く繋がっていないことには、もちろん理由があった。
それが、直前にあった“アレ”だ。(↓)
これ。
やっと、コレれがなんだったのかを理解したよ。
察しの悪い私でもね。
ここでもう一度だけ、『西祖谷山村史』の記述を引用しよう。
三縄村出合に設置した堰堤から下流の祖谷川左岸に木材を輸送する軌道を敷設して三縄発電所の放水路から到らしめ、ここからまた祖谷川によって運材することになった。
ワルニャン専用滑り台運材用シュート!
シュートとは滑り台のことで、特に運材用のものを我が国では古来“修羅(しゅら)”と呼んできた。
一般的に修羅は一時利用の仮設構造物で、木材を以て建造され、運材の終わりとともに撤去されたが、稀に長期間固定的に利用されるものもあり、そのような場面では耐久力のあるコンクリートで建設されることもあった……のだろう。おそらく。
ただ、実例は余り多くなかったのか、今のところ、コンクリート製修羅(シュート)の実在に触れた文献や写真は、未発見である。
今はっきりしているのは、それがここに実在していたという事実である。
貴重なものではないかと思っているが、学術レベルでの評価は私のテーマではないので、より詳しい研究資料の発見や今後の研究成果を待ちたい。
軌道の下流側末端の直前、“二本線”の部分に運材用シュートが設置されていた。
目測&地図読みだが、長さ(斜辺長)50m、高低差25mくらいで、平均勾配は30度強と推測した。
最下流部はやや傾斜が緩まり、最後は祖谷川の深い淵へと刎ね飛ばして落とすような造りである。
これは言うまでもなく、軌道運材と流送運材(管流し)を連絡する構造物だ。
三縄堰堤の建設によって祖谷川が堰き止められ、流送運材が出来なくなったことに対する補償として、堰堤を迂回する部分に軌道を開設したことは理に適っているが、積み卸しの手間を考えれば、運材全体のコストや手間は増大したのではないだろうか。
斜面を掘り込み、コンクリートで溝を固めたシュートの構造は、一見して水力発電施設には付き物である水路のようである。
運材との関わりを認識しなければ、水路と誤認されそうな感じがする。
この手の構造物を作設することは、電力会社側としてはお手の物であったと思う。
ここからどのように木材を落としていたのだろうか。
工事用軌道や鉱山用軌道の分野では、グランビー鉱車のように荷台を転倒して荷をシュートする貨車が古くから存在しているが、運材用トロッコではそのようなものを見聞きした憶えがない。
やはり人間が丸太を1本ずつ鳶口のような道具で運材台車からシュートへ挽き落としていたのだろうか。
シュートの入口がカーブしているので、長い丸太は引っ掛かって仕舞いそうだし、コンクリートと木材の摩擦を考えると、なかなか一筋縄では行かなそうな気がする。
ただ、この落し口付近はかなり傾斜が強くついており、冗談でも人間が入り込んでみようとは思えない感じだ(滑り落ちるに違いない)。
シュート内部にオイルを撒いて滑りをよくするくらいの工夫は出来そうだが、それって相当川が汚れる気が……。気にしないか昔は。
11:02
近くの斜面を経由してシュートの中ほどまで降りると、過去の洪水の影響か樹木が皆無となり、視界が晴れた。
そして、ほぼ真っ正面の対岸に、クラシカルインダストリアルの魅惑を纏った旧三縄発電所の廃墟が鎮座していた。
廃墟ファンにはそれなりに知られた構造物のようだが、対岸からのアングルは初公開かもしれない。もし訪れている人がいたら、軌道跡も一緒に見ているはず。
シュートから放たれた丸太は、この写真左下の青い淵へと落ち込む造りであったが、敢えてこの場所(三縄発電所の対岸)を選んでいることにも納得の理由があった。
写真だと分かりづらいが、発電所の建物の下に発電所の放水口が見える。
上流の三縄堰堤によって祖谷川の水量の大半が導水路へ導かれ、その落差を使って三縄発電所のタービンが回された。
タービンを回し終えた水は、直下の放水口から祖谷川へと戻される。
堰堤と放水口の間に軌道を敷設したのは、この区間の祖谷川に水量がなく、流材が不可能だからである。
ここに、流材の一部分だけを肩代わりするという珍しい軌道の真実味があった。
堰堤と放水口の間を結ぶことだけが仕事であり、近くにある集落や他の道路との接続など全く考慮しなかったのである。
これは一般的な森林軌道とは大きく異なる設計思想であったといえる。
なんとなく人目につくような軌道跡ではなかったのだ。
今回の軌道、規模こそ小さいかも知れないが、林業遺産としてのニッチな希少性は、かなりのものかも!!

徳島県立文書館が公開している古写真ギャラリーに、旧三縄発電所を撮した写真が数枚収録されていた。
右写真はその中の一枚で、アングルが私が対岸から撮影した写真とそっくりである。
建物の直下に膨大な水を吐き出す放水路が写っており、この水によって流送運材の続きを行っていたわけだ。
流送の従事者たちは、この巨爆の直下で作業を行うこともあっただろうが、放水時は恐ろしい迫力であったろう。
旧三縄発電所に触れたついでに、その運用者である四国水力電気自らが編纂した『四水三十年史』(昭和3(1928)年発行)にある本発電所の解説文を一部紹介するので、時代の風に思いを馳せて…。
明治44年5月10日、三縄水力発電所建設の工事を開始し、関係官民を現地に招待して地鎮祭並に起工式を挙行した。
古来禽聲水韻(鳥の声、水の音)の外聞く事の無った祖谷川沿岸の幽境は此日よりして現代科学の試練場と化したのである。
起工以来数回の洪水に見舞われたる外種々の困難に逢い尋常ならざる辛苦を嘗め、1年6ヶ月の歳月を費やして大正元年10月23日落成し、官庁の検査を了え、翌11月10日より一般に供給を開始した。之れ実に当社事業上に一時代を画したもので頗る重大なる意義を有するに依って、会社は此の日を以て開業記念日と定めた。
以上が、電力王福澤桃介を社長取締役に迎えた翌年に実行した、四国水電飛躍の一歩となった旧三縄発電所建設の記録である。
同社記録に軌道に関する記述は見当たらないが、この大工事の影で、地元林業者との調整をなす軌道工事も並行して行われたものであろう。