廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第4回

公開日 2016.10.01
探索日 2013.01.31
所在地 千葉県君津市

“トロッコ谷”の深奥へ


2013/1/31 9:52

四つん這いになりながら、苦労して3m×2段のナメ滝を越えた。
左の写真は、1段目を越えたところで振り返って撮影したものだ。

前回紹介したとおり、この直前のシーンで私はようやく、この“トロッコ谷”に存在したトロッコ路盤の正体を掴んだ。
それは、谷底の水上に設けられた、連続する木造桟橋であったのだ。

もっとも、全ての区間が橋だったわけではなく、地形によっては土盛りの築堤なども利用していただろうが、これまで踏破した谷の入口から約700mの区間で発見された路盤の痕跡は、木造桟橋を支える橋脚を固定するために岩盤に穿たれた多数の孔だけである。築堤や、岩場を削り取って作った路盤など、他の林鉄ならば当然に残っていそうなものが、まるで見あたらない。

この写真の範囲内にも、橋脚孔がいくつか見つかっている。熱心に探せばもっとありそうだが、とりあえずチェンジ後の画像で赤く塗った部分がそれらの在処だ。
その配置から考えて、トロッコはこのナメ滝を、緩やかに傾斜した相当長い桟橋を架けて上から越えていたのだろう。

これほどの大規模構造物が想定されながら、橋脚孔しか残っていないのも、川の流れに常に晒されていた状況を思えば、やむを得ないのか。
それに、このトロッコが実際いつ頃に使われていたのかも、この時点では全く判明していなかった。明治大正、それとも戦前、或いは戦後か。そんな大雑把なレベルでも分からなかった。




滝を越えるとすぐに二股。
本流は左で、ヘアピンカーブのように曲がっている。
対して右の支流は、直前のナメ滝を延長したような厳しい渓相である。
私はここも本流をチョイスした。

探索を行った1月という時期は、おそらく年間で最も房総の川が水を減らす時期だろう。
この日のこの谷の水量も「ちょろちょろ」で、もう少し進んだら完全に水涸れになってしまうのではないかと思われるほど。
雰囲気としては、私が好きで良く行く離島の谷川を彷彿とさせる。
だが水は少なくとも、それが長い時間をかけて削った谷の深さは侮りがたく、そこに房総らしい山河の風貌があった。




激しく蛇行する本流の谷底を更に進むと、初めて見るはずなのに見覚えのある感じがする“凹み”(矢印の位置)が、前方の谷上に現れた。

実はこの凹み、滝を越える前の今から10分くらい前に、谷底から見上げて一瞬だけ“切り通し”を疑った凹み(写真)の“裏側”にあたる。
つまり、10分ほどかけて私が歩いてきた約150mの行程は、この厚み10mも無い岩盤の表裏を巡ることに終始していたことが判明した。

これは房総の谷の特徴である蛇行の激しさを示す象徴的場面であり、谷沿いに房総の山を交通する事の非効率を物語っている。
それでもトロッコの路盤が谷底を離れず付き従ったのは、単純に工事量の問題もあっただろうが、この蛇行と引き替えに得られる勾配の緩やかさが、トロッコという交通手段には適していたからかもしれない。

なお、地形図もこの一連の蛇行を正しく表現していない。
GPSのログから判明した正確な川の位置は、右図の通りである。



10:06 《現在地》

この写真は実際に“凹み”によじ登って、両側にある谷を同時に撮影した。
左と右とでは、かなりの高低差があることが分かると思う。
遠い将来、この凹みが決潰すれば、大きな滝が誕生しそうだ。

この景色を、単なる河川地形として眺めれば、余り興味をそそられない人もいるだろうが、

これそのものが、トロッコの軌道跡でもあることを忘れるなかれ。

往時はこの位置から、両側の谷底に据え付けられた長い木造桟橋と、その上に梯子のように敷かれた軌道が、一望、
いや、二望のもとにあったはずなのだ。そう考えれば、これはかなり興味深い光景ではないか。
現役時代の風景、どなたか写真など撮っていなかったものだろうか……。






同じ位置からもう一枚。
今度は下流側の谷を見下ろして撮影した。

私の立っているこの凹みがトロッコの路盤ではないかという最初の想像が、いかに荒唐無稽であったか分かると思う。
対岸は余りに遠く、そして険しい。
この谷の地形は、蛇行を橋で跨ぎながら進行するには、その蛇行があまりに多すぎる。
だからこそ、路盤は谷底にあった。

チェンジ後の画像に書き加えた赤●は、先ほど見つけた橋脚跡の大まかな位置である。
そこから矢印のようなルートで路盤が存在していたと推測された。




“凹み”から再び河床に降りて先へ進む。

この写真は、凹みから30mほど進んだ所で振り返って撮影したものだが、ここにも川底の岩盤に鑿痕がくっきり見える幾つもの孔があった。

このように谷底に桟橋が存在した痕跡は、この先でも所々で目撃したのだが、あくまでも“所々”という頻度である。常にあるわけでは無かった。

つまり、路盤が全て桟橋だったわけではないということだろうが、ではどのような手段で谷底を通行していたかのは、基本的に分かっていない。(初歩的だが、大きな謎だ)



その後しばらく大きな展開はなく、上の写真のところから15分くらい進んだのが、右の写真の場面だ。

ここは大きな倒木ですぐ下流が堰き止められているため、かなりの量の砂利が堆積していたのだが、その砂利の中に出所不明の“人工物”が混ざっているのを見つけた。


それは、陶管の一部らしき陶器の破片だ。
おそらく元の陶管の直径は20cmくらいだ。

この陶管というのは、だいぶ時代を感じさせるアイテムだ。
コンクリートのヒューム管がこれと取って代わるのは、戦後だいぶ経ってからだったはず。

また、未だ素性の知れないところのある路盤の実態を解き明かすヒントでもありそうだ。
おそらく、谷底の路盤の木造桟橋以外の部分は、簡易な土盛りの築堤で構成されていて、その築堤が谷の水流と交差する地点に、このような陶管が埋め込まれていたのでは無かっただろうか。
そういう築堤らしいものが、ここまで一箇所も残っていないというのは、少し不可解だが…。



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10:27 《現在地》

陶管を見つけた地点のすぐ先で、これまでとは風景の趣が変わった。
これまではずっと切り立った岩場に両岸を圧せられていたが、その威圧がなりを潜め、水際に、おそらく植林されたものであろう杉林が現れたのだ。

林鉄跡を辿れば、その先に杉の植林地が現れるのは普通のことだが、この路線について言えば、入口から1kmほど辿ってきて初めて目にした気がする。
しかしその林相は余りにも貧弱だった。枯死した倒木や、全く刈り払われない下枝が、まるで荊棘のように地上を埋め尽くし、見るに堪えない。

そしてこの貧相な杉林の中に、再び怪しい“凹み”を発見した。
前に見た凹みはおそらく違っていたが、今度の凹みこそは、川から上がったトロッコが設けた、切り通しの跡かもしれない。
そんな疑いを持った私は、杉林をかいくぐって、そこへ登ってみた。




これは、かなり怪しい。

前に見た凹みは、自然の地形としても不自然では無かったが、今度の凹みには人為が感じられる。凹みの両側が随分と切り立っていて、こんな地形がここに自然と形成されるとは思えない。
おそらくこれは、トロッコ跡の切り通しで間違いないと思う。

これまでに目にしたトロッコの痕跡は、発見順に、流れてきたらしき廃レール、河床の岩場に穿たれた多数の橋脚孔、そしてこの切り通しである。
はっきり言ってしまえば地味だ。もっと遺構が豊富に残る林鉄跡は、ごまんとある。
だが、むしろこの遺構の乏しさが、一般に知られざるトロッコ跡の神秘性を高めるようで魅力的に感じられたというのは、流石に贔屓目過ぎるだろうか。




切り通しを抜けると、小刻みに蛇行する本流が行く手を遮ったが、その対岸に細長い平場が続いているのが見えた(←)。

そして対岸に行ってみると(→)、そこには普通な感じの路盤跡があった。
こういう他の林鉄跡では最も普通に見られるような廃線跡の風景を、1kmも遡ってきたところでようやく目にする事が出来た。

とはいえ、平場があると言うだけで、それ以上の何かはない。レールとか、枕木とか、或いは橋脚孔以外の橋の跡とか、そんなトロッコの実景により近付くような遺構は、なかなか現れてはくれない。




もし仮に、序盤であの廃レールを見つけていなければ、ここをトロッコ跡だとは思わなかったかもしれない。そのくらい、廃線跡としての目に見える痕跡が乏しい。
私がよく探索している林鉄跡は、廃止の時期が昭和30年代後半から40年代のものが多いので、それらと較べて明らかに痕跡の薄れているこの路線は、より早い時期に廃止された可能性が高いだろう。

なお、これより上流には“普通の路盤”が続くのかと思えばそうならず、ものの100mほどで再び谷が狭まり、平場は窮まった。
この先は今まで通り、川の上に木桟を架けて進んでいくしか道がないのだった。
普通なら終点と思うような場面だが、この路線に普通の常識は通用しない。




実際、谷底に降りて進むとすぐに、見馴れた橋脚孔が点々と残っているのを発見した。

それからまたしばらくは、右写真のような回廊峡谷を辿ることになった。

既に出発からは4時間近くが経過した。
序盤こそスンナリいかなかったが、私は目論み通りにトロッコ跡を発見し、それを無事に辿る事が出来ている。
終点がどの辺にあるのかは分からないが、谷の規模からして、もうそんなに先も長くないと思う。

これまでに、古老の証言に登場したものと同一であるかは不明ながら、“廃レール”や“滝”を見つけている。
そんななか、“トンネル”だけが、まだ現れていない。
しかも、古老が言うような長大トンネルが現れそうな気配(というか地形的条件)は、進むにつれて薄れてきた感じがある。

そのことだけが気掛かりであった。



10:40 《現在地》

これが何度目だろうか。またしても谷が二股に分かれていた。

地形図を見る限り、向かって右側の谷が本流で、左は支流であるが、入口の幅はどちらも大差ない。
もうかなり源流域に近付いているようで、本流も支流も規模的に大きな差がなくなってきている感じがする。


(支流)← →(本流)

私はこの谷の源流を見るために入山したわけでは無い。私が見たいのは軌道跡であり、その先にあるとされる“トンネル”だ。
私がどちらの谷を選ぶかは、そこに軌道跡がある否かで判断される。

左の支流は、入口が凄く狭いうえに、10mほど先に大規模な崩壊地があり、潰えていた。
右の本流もかなり狭いが、こちらを選ぼう。先に進んで軌道跡が見つかれば、それで正解と判断出来る。



右の本流を少し進むと、回廊状の谷の終わりに、高さ5m以上の滝が待ち受けていた。
ひねるように流れ落ちていて、写真はその下半分しか写っていない。本流の滝は、2段のナメ滝以来だ。

直前の出合からここまで、トロッコ跡の痕跡は見つかっていなかった。
その状態で現れた大きな滝に、思わずルートミスの不安がよぎった。
だが、いざよじ登ってみると、滝の中段の岩場に、見覚えのある孔がぽっかりと開いていたのである!

路盤は、さらに奥へと続いているようだ!




滝の上段は、こんな感じである。

よくぞまあ、こんなところにトロッコを敷設したと思えるが、改めて冷静に考えてみれば、
廃レールを見たのは下流で一度きりなのだから、ここまでレールが敷かれていた保証はない。
間違いなく言えるのは、このあたりまで木桟を交えた道が続いていたということだけだろう。
心情的にはそう思いたくないが、レールが見あたらない以上、トロッコ跡と断定は出来ない。



滝を上り詰めると、今度は不思議なほど直線的な回廊が待っていた。
人工物を疑うレベルにまっすぐだが、状況的には、間違いなく自然の造形物だ。

こんなところを、本当にトロッコが通っていたのか。

答えを知った上での煽りでもなんでもなく、これは純粋な謎である。
そしてこれは少しだけネタバレ発言になってしまうが、この日の探索で、
私が最も上流で見つけた橋脚の孔は、さっきの滝の中段で見たものだ。
以後、これより上で同様の孔を見る事は無かった。



10:51 《現在地》

細い回廊を抜けると、これまでこの谷で見ることの無かった光景。
日が燦々と照る、明るい森に出た。
ここも杉の植林地のようだが、前に見たような貧相な規模ではなく、立派に生長した杉の大木が林立していた。

GPSの画面に表示された地形図で現在地を確認すると、この谷に描かれた水線が、もう間もなく跡絶えようとしていた。
その先にも谷はあるだろうが、それも1km少々で清澄山地の主稜線に上り詰めて、終わっている。
この主稜線は元清澄山と清澄山を結ぶ稜線であり、東京湾の水系と太平洋の水系を隔てる、房総半島の分水嶺である。

現在地の標高は約200mで、笹川湖の水面よりは7〜80mも高い。“トロッコ谷”は入口から約1.3kmの流程で、これだけ上ったのである。
そしてこの谷の距離や高低差は、私が辿ってきたトロッコ跡と目される廃道のそれとも、ほぼ一致しているはずだ。



谷の両岸に広がる広大な植林地の地面には、多数の炭焼き窯の跡が残っていた。
正確に数えて歩いたわけではないが、両手で数え切れない数だ。
これだけ集中して存在するとなると、この一帯は木炭生産の拠点的施設であったと思われる。
周辺からここに製炭材をかき集めてきて、この場所で焼いて軽くしてから、まとめて下界へ運び出したのだろう。

となると、ここまで伸びてきたトロッコは木炭搬出用か?

なお、ここにある竈は、廃止から50年以上は経過していると思う。なぜなら、杉の一部が竈跡に直接植えられており、それがどう見ても樹齢50年を越えるような太さになっている。それも1本2本の話しではない。

我が国では戦後の昭和30年代にエネルギー革命が起こり、燃料の主役がそれまでの木炭から石油や天然ガスに切り替わった。 これは房総の山中でも同じ条件だったろうから、昭和30年代までに製炭施設や搬出施設を廃止し、その跡地に経済的価値のある杉を植林したと考えれば、これまで目にしてきたトロッコ跡の風化ぶりや、レールの極端な老朽ぶり、そして陶管の存在などとも時代的な辻褄が合う気がする。



多数の炭焼き窯があるこの地では、当然に多くの人が働いていたのだろう。そんな生活の痕跡と思えるガラス瓶が、幾つも発見された。

左の写真は、土に埋まっていた小さめのガラス瓶。
右の写真は、さらに小さなガラス瓶で、良く見ると表面に「あみ印」と刻印されていた。

帰宅後に調べてみると、あみ印食品工業という食品会社が実在しており、創業は1952(昭和27)年だという。
これは、炭焼き窯やトロッコの廃止が昭和30年代以前だろうという仮定と矛盾しないし、同時に、明治や大正というほど古い時代の廃止でもないと考える根拠になる。
総合すれば、昭和27〜35年頃に廃止された可能性が高いのではないだろうか。



11:00 (出発から約4時間、トロッコ谷に入って約1時間40分) 

トロッコの限界を感じさせる険しい滝の先で、「ここを目指して頑張りました!」と言わんばかりの巨大な製炭施設跡を見つけたことで、私の中にも弛緩した終戦のムードが流れた。

そしてそんなムードに促されるように、これまで私を誘導した微かな路盤の痕跡は、全く見えなくなった。
辿ってきた谷も水涸れとなり、その先ではどれが本流ともつかない無数の小谷が次々と合流していた。典型的な谷の源頭風景だった。

これより先には、もはやトロッコ跡を想定しうる平坦な谷は無い。さらに路盤を進めるならば、斜面に大規模な九十九折りを描かねばなるまいが、そんなものは見あたらない。

笹川湖バックウォーターより遡ること約1.7km、ここがトロッコ跡の終点だった。

(この後、未練がましく更に上流を少し探索したが、特に成果がなかったので省略する)





このように、仮称“トロッコ谷”には、谷底に簡単な工作物を置いて路盤として利用した、不思議な軌道跡が実在した。
右図は、今回の探索で判明(一部は推定)した、トロッコ谷軌道跡の全貌を示している。
名前も明らかでないこの路線を名付けるとしたら、水系の頂点にある山の名を頂いて、元清澄森林鉄道(仮称)というのがいいか。

現地探索により、古老の証言の大部分が裏付けられた。

だが、

“トンネル”だけは、見つからなかった。

探索の帰路では、来た道を戻りながら、往路以上に念入りに各支流の入口を確かめたのだが、分岐の痕跡を発見することは出来なかった。
実際にはレポートで紹介した以上に無数の支流が存在しており、厳密な悉皆調査は不可能に近いと思った。

私は、悔しかった。

いっそ、何も見つからなかったならば、古老の証言は虚構であったと結論して諦められたのだが、“トンネル”だけ見つからないというのは、本当に口惜しかった。
古老の証言を聞いた時、路盤さえ見つけられれば必ず自力にトンネルへ辿り着けると考えた、そんな自分の奢りを悔いた。


果たして私は、この探索で何か重大な見落としをしていたのだろうか。




13:18 本日のスタート地点に生還。

大きな心残りと謎を残しつつ、“トロッコ谷”での探索は終わった。