2013/1/31 14:13
“トロッコ谷”の探索を終えた私は、夕方まではまだだいぶ時間があったので、“トロッコ谷”から一山越えた西側の谷へとやって来た。
この谷も地形図には名前が書かれていないが、谷に沿って元清澄山へ登る田代林道という道が通じており、途中に田代という地名があるので、釣師などには田代川と呼ばれているようだ。
本編も、以後この谷を田代川と称する。
なお、この先の探索は当初から予定していたものではない。
これは“トロッコ谷”の探索で“トンネル”を発見出来なかった私が、再起を期すべく謀ったリベンジマッチ、或いは「悪あがき」に近い行動だった。
ここへやって来た最大の目的は、トロッコ谷に最も近い集落である田代地区の住民から、件のトロッコやトンネルについて、新たな情報を得ることにあった。
正直、自力だけではトロッコの素性を解き明かすことも、広大な山域のどこかにあるというトンネルを見つけ出すことも難しいと痛感した。そのうえで、3年前の杜撰な聞き取りを反省し、真摯な態度でもう一度、チャンスを得たいと思ったのだ。
そして私はこの地に辿りついてすぐに、田代林道の入口に架かる田代橋と小坪井橋という現代的な二本の橋の上で、私と出会うために何者かが用意していたかのような一人の証言者を得たのだった。
3年前の証言者が、この山域に精通した屈強な猟師だったのに対し、此度の証言者は、とても賢い犬を連れた小柄なおばあちゃまだった。
突然の私の質問攻めにも嫌な顔一つせず、身振り手振りを交えながら詳細に答えてくださった。その間、吠えもせず待っていてくれた犬にも感謝したい。
そして、肝心の証言内容だが、衝撃的の一言に尽きた。
以下、箇条書きで列挙する。刮目せよ。
やはり、トンネルは実在したのか!!
このレポートを読んでいる皆さまは、私がこうやって長々とレポートを書いている以上、流石にトンネル情報がガセだったなどというオチはないと無意識に思っていたことだろう。やむを得ない事ではあるが、この点に私の感覚との大きな較差がある。
私がトロッコトンネルの存在を真に確信出来たのは、一件では無く、二件目の証言を得た、この時だった。
歓喜した。だが、同時に強い落胆も押し寄せてきた。
僅か数時間前に後ろ髪を引かれながら離れた谷で、私はやはりトンネルを見逃していたというのか。
それを信じたくないという気持ちがあった。
だが、さしあたっての最大の問題は、トンネルの場所が相変わらず分からないということだ。
目の前の可愛らしいおばあちゃまに、あの険しいトロッコ谷のポイント・エックスまで案内して貰うことは流石に出来ない。そもそも、詳しい場所はご存知でないだろう。あくまでも、直接の体験者は他界したご主人である。
……そんな風に考えていただけに、次に古老が口にした言葉に私は思わず耳を疑った。
証言には、続きがあった。
「トンネルは、この橋のすぐ近くにあったのよ。」
ナンダッテー?!!
私が古老と出会った場所は、田代林道が田代川の蛇行を串刺しにする為に架けた2本の橋のうち、上流側にある小坪井橋の上だった。
興奮を隠しきれない私に対して、彼女は橋の下を指差しながら教えてくれた。
「この橋の下に昔の林道が見えるでしょ。そこを下流に進んでいくと―― 」
(ここで一同は、橋の下流に面した側へ移動)
!
うわ! なんか水がジャブジャブ出ている場所が見えるけど?!!
あの沢でも無さそうな場所から唐突に水が流れ出ている地点が、怪しい。
しかし、あの出水地点が隧道であったかについては、記憶が曖昧な様子であった。
その上で、以下のような極めて重大な証言を得た。
これを衝撃の事実と言わずして何と言う。
トロッコ谷の奥地にあるとばかり思っていたトンネルは、もっと全然下流の、トロッコ谷が笹川が合流する附近と、田代川の谷を結んでいたというのだ。
ここは従来少しも疑ってみなかった場所だが、言われてみれば確かにトンネルがあったら便利そうな地形である。
しかも、地図上から推定出来るトンネルの長さは250〜350mになり、第一の古老が証言した500mには及ばないものの、「長い」という意味では近い。
(それに、500mという数字にはそこまで信頼性は無いと思っている。というのも、彼ははじめ「幅2mくらいの長いトンネル」と言っていたのを、私がどのくらいの長さかと問うた時に初めて「500mくらい」と答えていたと思う。)
また、第一の古老の証言、「衛星管制センターから尾根を越えた先の谷」という立地条件にも矛盾しない。
…うむむむむ。急展開だ。
なお、チェンジ後の画像は、昭和27(1952)年の古地形図だ。
この地図にトロッコが描かれていないのは「導入」で述べた通りだが、第二の古老が証言するトンネルも、やはり描かれてはいない。
(ちょうどそこに点線が見えるが、これは全く別の土地利用の境を示す記号。またこれは余談だが、矢印の地点に笹川の河道トンネルがある。房総名物“川廻し”の痕跡であるが、現在は湖に沈んでいるようだ。)
私は古老にお礼を告げ、至急、指示された場所へ向かった!
14:27 《現在地》
小坪井橋の上で古老と別れた私は、“トロッコトンネル”があったと教えられた場所へ向かうべく、まずは旧林道の入口へとやって来た。
小坪井橋から田代林道を元清澄山方向に200mほど進んだ地点、古いコンクリート橋の前が、分岐地点だった。
この古いコンクリート橋の親柱に取り付けられた銘板が、私の目を引いた。
そのうちの1枚には、「明澄橋」と書かれていた。
また、別の1枚には、「昭和三十九年十一月竣工」とあった。
ここまでは何の変哲も無い内容だ。
強いて言えば、「明澄橋」という綺麗な字面の橋名の読みが気になるくらいか。
橋名の読みは、都合良く3枚目の銘板が教えてくれた。
読みは…
えっと…
うん、
めいすみばし
でいいのかな…。
何者の手によるかは不明だが、まるでメモ帳の書き損じを正すくらいの雑さで、銘板の文字が修正されていた。
元は「きよすみ」だったのが、「めいすみ」になっている。
個人的に橋の銘板は、邸宅の表札や山門の扁額と同様、神聖なものという思い込みがあるので、この修正方法は、いくら道が親しみ深い親(ちか)しいものだとしても、ちょっと「残念」に感じた。
むろん、悪戯書きならば論外だが。(なお、4枚目の銘板も竣工年表記だった)
なんて、道路へのあるべき接し方について偉そうな一家言を垂れた人間が、振り返るなり、正規の道路管理者が設けた「立入禁止」を、まるで見なかったように旧林道へと突き進むのである。まったく困ったワルニャン。ワルニャン言えば許されると思ってるし。
改めて、ここから先は旧林道の探索。
片倉ダムが完成して笹川湖が湛水をはじめるまでの田代林道が、この道だった。
ただし、片倉ダムの工事期間が昭和51(1976)年から平成12(2000)年までと随分長いので、道が切り替えられた正確な時期は分からない。
おそらく平成初年代であろうが。
…では、ワルニャ〜ン……。
入口が封鎖された旧道は、案の定、廃道だった。
路面は鋪装されており、それと冬という季節のおかげで、藪に苦しむ事こそ無かったが、着実と自然に還りつつあった。
そして、入ってすぐに橋が架かっていた。
直前に見た現道の明澄橋とそっくりのコンクリート橋で、どちらも蛇行する田代川を渡っている。
本橋にも4本の親柱と4枚の銘板が有ったが、1枚は破損して読めず、2枚には「昭和三十九年十一月竣工」の表記、さらに残る1枚には――
洞門橋。
…こ、このネーミングは?!
洞門といえば、現代では落石覆い(ロックシェッド)や雪崩覆い(スノーシェッド)のような構造物に「●●洞門」と名付けられるケースが多いが、本来はトンネルの意味であった。
それも、隧道よりもさらに古くから使われてきた用語であり、有名な「青の洞門」のように、江戸時代のトンネルには洞門とよばれていたものが多い。おそらく隧道は明治以降に導入された言葉と思われる。
っていう蘊蓄はさておき、洞門橋とは何事であろうか。
見たところ橋自体は普通の橋で、目に付く範囲に洞門と呼べそうなものもないのだが、この先にあるという、古老の語る戦前のトロッコトンネルに由来したネーミングなのだろうか…。
やっべぇ…。 これは、マジであるかもしんねぇぞ、トンネル……。
先ほど小坪井橋の上から見下ろした旧林道を進行中。
早くも前方に小坪井橋の大きな姿が見えてきた。
路面状況はあまり良くないが、一応自転車で進んでいる。
路傍に1本の見馴れぬコンクリート柱が倒れていた。
おそらく電信柱だと思うが、現在一般的に使われているものとは違い四角柱だ(素材もザラザラしていて、現代の電信柱と違う)。
大正時代に建てられた我が国最古の電信柱と言われるものが函館にあるらしいが、それも四角柱だそうだ。この電信柱がいつのものかは分からないが、案外貴重なものだったりするかもしれない。
そして、田代川の対岸に“穴”を発見(←)。
トロッコ谷界隈でも大量に見た水路用の穴である。トロッコトンネルではない。
浅い川を直接渡って、穴を間近で撮影してみた(→)。
トロッコ谷で見たものと違うのは、これらの穴が現在も使われているらしい点だ。
コンクリート製の小さな開渠で田代川の水を取水し、水路隧道へ引き入れていた。
先ほどの「洞門橋」の名前は、ここから来ている可能性もある。
旧林道が小坪井橋の下を通過する。
ほんの10分前に、私があの橋の上から見た“水がジャブジャブと流れ出している場所”は、もう間近だ。
だって、ジャブジャブいう音が聞こえてきたもの。
前方にジャブジャブの音源が見えてきた。
そこに近づくにつれ、道と周囲の様子も変わってくる。
ここまでの森の渓谷風の景色から、好水性の植物が茂る、湖畔のそれへ。
やがて路上にまで植物と、その根床の土が覆い被さり、道は消えた。
ジャブジャブの前が、ちょうど笹川湖のバックウォーターであった。
14:37
ジャブジャブの正体見たり、やっぱり、穴。
そして残念ながら、この穴がトロッコトンネルであった可能性も、ない。
これは明らかに、もう見馴れ過ぎた水路トンネルの穴だ。
トロッコ用としては断面が小さすぎる。特に横幅が小さく、これではレールを敷くことは出来ない。
また、斜面に口を空けたこの穴を、第二の古老のご主人が荷物を背負って通行した道理が無い。
とはいえ、私にさほどの落胆は無かった。なぜなら、GPSが指し示す「現在地」は、
笹川の谷へ抜ける隧道を想定するには、いささか手前過ぎた。
トロッコトンネルがあるなら、それはもう少しだけ先であるはず。
まだ、諦める時ではない。
ジャブジャブ穴の前(対岸)を通過し、田代川の壮大な蛇行部に差し掛かる。
蛇行外側の水衝部が、まな板を立てたような岩壁になっているのが、ここからも見て取れる。
この蛇行部は、現在の林道に架かる田代橋と小坪井橋から見通せないブラックゾーンで、第二の古老の語るトロッコトンネルの擬定地点に他ならない!
しかし問題は、「林道からトンネルは見えた」と古老が言う時代と、だいぶ風景が変わってしまったことだろう。
いま私が立っている氾濫原のような原野は、かつての林道だ。
しかし、ダム湖のバックォーター付近の宿命として、相当に土砂が堆積している気配がある。
地形図には今も道が描かれているが、実際はご覧の有り様である。(この先に描かれている橋も実在しない)
湖と化した傍らの田代川も、本来の河底はもっと低かったと思う。
果たして、トロッコトンネルは現存するのか。
!!!
14:39
これは、もしや!
い、位置は……多分、ばっちりだ。
サイズは……、よく分からない…水面のせいで……。
…………
ざぶ、ざぶ、
近付けない! 深い!
でもこれは…、
延々と“ハズレ穴”を引き続けた末に見つけた今度の穴は……
今までの穴とは、様子が違う気がする。
喫水しているために、正直なところ、サイズはよく分からない。
特に高さは全然分からない。水面の視覚的な圧縮効果と、湖底に堆積した泥の、ダブルパンチだ。
だが横幅は、これまで見てきた穴に較べて広い気がする。いや、間違いなく広いはず。
近付いて実測したり、比較対象物と一緒に撮影出来ないのが残念だが、人一人がようやく通れるという、これまで見た穴の横幅とは違う。幅2mは無さそう(天井付近だからか)だが、1mは間違いなくあるだろう。
奥行きがどうなっているのかも、残念ながら、まるで分からない。
水が出入りしているようには見えないが、微細な流れは有るのかも知れない。
それにしても、この真っ暗な水没隧道を300mも進んだら、笹川湖に出られるのだろうか…。想像しただけでも震えが来る…。
私には潜水探索は流石に出来ないが、チャレンジするプロの潜水夫さんがいたら、ぜひご一報を。
それ以前に、笹川湖の水位が下がってくれれば私にもワンチャンはあるわけで、(2016年時点で)これまで10回は通りがかりの水位チェックをしているが、これよりも大幅に低くなっているのを見たことがない…。むしろ、これはかなり低い幸運な状況で巡り会えていた。
ダムさえ、なければ
悔しがってもどうにもならない。現実はここにしかない。
そして私は、この湖面に大部分沈んだ謎の穴が、二人の古老により語られ、
私が心の底から求めた長大トロッコトンネルの成れの果てであると、判断した。
当初の探索目的は、現実に即した形で、いまここに果たされたらしかった。
この後、未練がましく周辺を探索したが、他の穴が発見されるような事も無く、
トロッコ谷に続いて行われた田代川の探索は、これにて終了となった。
2013/1/31 15:17
田代川の探索で、遂にトロッコトンネルのものらしき水没坑口を発見した私は、その30分後、片倉ダムにほど近いヅウタ親水公園という場所にいた。
これまでのレポートで紹介した笹川湖の風景は、どれも房総の奥山にひっそりと静まりかえった秘境的な湖を現していたが、それとは別に、ファミリー向けの明るい行楽地という顔も持っている。
今いる場所はそんな笹川湖の表の顔ともいえる存在だ。
そろそろ日も傾きつつあるこの時分、この地では珍しい寒波の影響もあってか全く人気のない広い駐車場(→)。
今からここを出発し目指すのは、先ほど田代川で見た隧道の出口があると目される、“北側坑口擬定エリア”だ。
“擬定地”と特定が出来ず“擬定エリア”であるのは、地形図を見る限り候補地が複数あり、一点に絞り込む事が出来ないためである。
その上で最大の懸念は、仮に北口が擬定エリア内に現存するとしても、本日の水位でそれが水面上に僅かでも露出しているかという問題だった。
水系的には間違いなく上流である田代川に開いた南口が、湖面すれすれで50cmの猶予もなかった事を思えば、下流である笹川側の北口は、同じ湖面に完全に没しても不思議ではない。
この点については、隧道の勾配が皆無であるか、河川の勾配と逆行していることを期待するより無かった。
この探索は、実らぬ果実となるやもしれない。
それも、安穏と樹下に結実を待つのではなく、険しい土地に根を張る果樹の元へ自ら辿りつくところからはじめる。
そのうえで、ようやく結実を期待するのである。
辿り着けなければ、期待することに意味がない。
広い日陰に丸一日以上溶け残った薄雪の遊歩道をしばらく歩いて行くと(←)、広場の終わりと同時に物言わぬフェンスが待ち受けていた(→)。
予想していた事ではあるが、ここから先は自己責任以下の立ち回りを要求されるようだ。
擬定エリアの外縁までは、ここから湖畔沿いに推定300mの距離。おそらくこれが本日の最終探索。
整備された遊歩道や登山道ではないにせよ、せめて湖畔に何らかの管理歩道のようなものがあってくれれば良いな。
そんな私の願いは、フェンスを越えて10歩ほどで脆くも否定された。
湖畔には、まるで道らしいものが無かった。
それどころか、土の斜面は相当に急で、気の休まる場所が無い。
私は土をも噛む心持ちで、がむしゃらに擬定エリアへ向かった。
そして、この表情である。(→)
その、ワケは――
膝まで湖に浸かっての前進!
高巻き出来ればそうしたが、こんな地形である…(→)。
たかが膝丈の浸水と思うかも知れないが、遊泳場でもない薄暗い湖に浸かるというのは、その辺の川に入るより段違いに気が重い。
しかも、廃道でもなんでも、道を辿っている最中ならばまだいい。救いがある。ここは完全な山野であり、水に浸かれば余計に寄る辺のない気分になる。
せっかく、トロッコ谷の探索後に車で着替えて乾いた装備に戻っていたというのに、今日の最後の場面でまた濡れる。この冷たい湖で。
せめてもの救いは、こんな私の奇行を目にする視線が湖上にないことか。
この湖上は、釣りなのか行楽なのかよく分からないが、普段から賑わっているイメージがあった。
今は人の目がある安心よりも、気ままに探索出来ることのほうが、ありがたい。
それにしてもこの地味な湖、案外に多くの私の好物を呑み込んでいるらしい。
もう少しだけ早く、この地の宝を知ることが出来なかったものかと悔やまれるが、
湛水が始まった平成初年代当時、私は秋田に住んでいたので難しかった。
でも、カラーフィルムで水没前のトンネルを撮影した人がいても、不思議ではない…。
出発から35分後、どうにか私は目指す“擬定エリア”である、湖が南側に大きく湾入した区域の入口へ辿りついた。
ここまでの行程は、湖水に身体を浸したと思えば、一転して2〜30mの高台へよじ登るなど、まさに道なき道の無理矢理行脚で、僅か300mほどを進むのにこれだけの時間を要した。
そんな頑張りの末に辿りついた現場だったが、私を歓迎するムードにはなかった。
そう感じた理由の第一は、肝心の擬定エリアである水域一面に気色の悪い緑の藻が広がっていて、湖底の地形を全て覆い隠していたこと。
第二は、リアス式海岸を思わせる急峻な斜面が湖面まで続いていて、湖畔を間近に観察する余地が無いこと。
そして第三として、その急斜面に大量の自然倒木が散乱していて、思うように前進出来ないことにあった。
嫌な予感がした。
15:56 《現在地》
これ以上は地形的に危険過ぎる。
私はここで、擬定エリアへのさらなる進入を断念した。
断念地点は、擬定エリア内に複数ある谷のうち最も西寄りの谷の途中で、この谷の最奥部に坑口があった可能性もあるが、写真の位置からは1mも前進することが出来ず、最奥部を目視出来ず終わった。
そして擬定エリア内にはさらに二筋の谷があり、それらも坑口擬定地だが、少しも暴くことは出来なかった。
湖畔をゆく陸上ルートは、不可能という結論に至った。
残る手段は、尾根から下るルートと、湖面を利用するルートがあると思うが、残念ながら、どちらも既に時間切れだ。
悔しいが、今日はこれで終わりとしたい。 帰還開始!
(…もっとも、湖面以下に坑口があったとしたら、絶望なのだが…。)
16:30 《現在地》
本日の探索における “トロッコ谷編” “田代川編” に続く第3章と言うべき“笹川湖畔編”は、無惨な玉砕に終わった。
とりあえず今後の探索での可能性を一つ潰したことだけが成果で、単体ならレポート化せず終わる没シーンだった。
最後は、俗に(私が)言う「カッパが出たぞ〜!」状態にヅウタ親水公園の無人の駐車場を仕立て上げた後、
本日の探索行動を完全に終了し、翌日の探索地である南房総市へ向けて出発した。
結局、今日の探索を通して分かったことといえば、
この地にかつてトロッコが存在し、トンネルもあったということくらいで、
全く異なる2つの地点で同一のトンネルを捜索した事実が象徴するように、
路線の全体像などというものは、霧の向こう遙かに霞んでいて、解明する手掛かりも持たなかった。
以上が、起承転結の“承”。
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