※ このレポートは長期連載記事であり、完結までに他のレポートの更新を多く挟む予定ですので、あらかじめご了承ください。
2011/1/3 14:34 《現在地》
偵察探索の続き。
路盤の途絶地点からの撤退を余儀なくされた私は、軌道跡へ登るときに利用した“小谷”を使って、早川本流との出合へ下りてきた。
このまま早川を徒渉すれば、車を停めてきたスタート地点であるが、まだ戻らない。
早川の河原へ出た直後に上流方向を撮影したのが、この写真だ。
“小谷”の入口に門柱のように立っている崖の向こう側の高い斜面上に、直前の撤退地点が隠れている。
ここからでも、撤退地点を越えた先の軌道跡のラインが断続的に見える。
越えられなかった「大決壊」を、下から見てみよう。
大決壊は、こんな感じだ。
川べりの急斜面の一画が、櫛の歯が欠けるように抜け落ちていて、谷底から20〜30mの高さにあった軌道跡は、地面ごと喪失していた。
この早川の谷沿いには、糸魚川静岡構造線という、日本列島の地学的成り立ちに深く関わる重要な断層帯が走っており、周辺には強い力によって粉砕された地盤(破砕帯)が点在していることが知られている。破砕帯のような脆い部分が、早川の浸食によって足元を崩され、積み木を落とすように、軌道跡を巻き込んだ大きな決壊になっているのかもしれない。
そんな理由でも考えなければ納得しかねるというほど、周囲には多くの崩壊地があった。
軌道跡の高さまでは達していないものも含めて、櫛の歯を欠けたような欠壊が幾筋も川べりの斜面を縦に割っていた。
それは壮観であると同時に、軌道跡を辿ろうとする者には強い拒絶の声を発する光景だった。
これはもう、どこから手を付けて良いものか…。
眼前の広漠たる景色を前に、茫然と、そんな弱気な感想を持ってしまった。
早川の砂利河原は愉快なほど見通しが良く、600mくらい先の蛇行の入口まで見通せたが、
軌道跡が眠っている山壁はと言えば、先の小谷のような登攀に適する“弱点”が見えなかった。
ただ河原を歩いて進むのは容易いが、それをしても、肝心の軌道跡は次第に高く遠ざかるだけだろうな…。
「とてもお前の手には負えないから、大人しく帰れ」
……そう言われている気がしてしまった。
この日の偵察探索について、事前に考えていた到達目標地点を、ここで告白したい。
上に掲載した平成17(2005)年版の地形図(探索当時の最新の地形図だった)には、
「現在地」の1.6kmくらい上流、ドノコヤ沢の近くに、早川を渡る小さな「橋」が描かれていた。
(なお、この橋も、そこから通じる徒歩道も、最新の地理院地図からは全て抹消されている)
今日の偵察の踏破目標地点は、この「橋」のある道だった。
そこまで行っても、奈良田橋〜観音経という最終的な踏破目標(推定約11km)の7分の1程度でしかないが、
それでも「本探索」の負担は確実に減らせるし、この「橋」を使って軌道跡へアプローチ出来るかどうかを
事前に確かめておくことは、本探査で少しでも奥地を目指すために、とても重要な準備だと思っていた。
だから、この「橋」(以後、「ドノコヤの橋」と仮称する)までは、どうしても辿り着きたいと思っていた。
14:41 《現在地》
だからこそ、“見える”のが、悩ましかった。
私はいま、早川の坦々たる河原を、「ドノコヤの橋」を目指して歩いている。
しかし、軌道跡が眠っている斜面を見上げると、そこには断続的なラインが見えた。
谷底からそこへ行く道は見えないが、強引によじ登って行ける場所くらいはありそうだった。
しかし、ここで頑張って登った先で、すぐまた大崩壊があって進めなくなったら、
そのことで限られた時間と体力を大幅に消耗してしまうに違いない。
そんなことをしていたら、「橋」までは辿り着けくなるおそれが高くなる。
見える軌道跡…しかも辿り着けそうなそれを実踏しない選択には、ジレンマがあった。
だが、いま優先すべきは「橋」への前進だと自分に言い聞かせながら進んだ。
下からラインが見えるうちは、もし隧道なんかがあれば、さすがに見逃さないだろうしな。
もしこのあと、帰路で時間に余裕があったら、その時に探索してみたいと思う。
上の写真を撮った辺りで、軌道跡があるのとは逆の右岸を見ると、そこが広河内川という大きな支流の合流地点であった。
岸の一画に砦のような無骨な姿を突出させているのは、本編の冒頭に登場した奈良田第一発電所であり、それが背負う山を貫いて、「開かずの…」と表現したくなるほど時期と車を選んで通行させる、開運隧道が存在する。
つまり、これ以上に早川を遡るということは、並走する唯一の道路が閉ざされた領域へ入るということになる。
今は「ドノコヤ沢の橋」を目指しているが、その橋へ通じている道は当然、封鎖区間内の県道である。「本探索」をいつやるにしても、ワルニャンは必須だろう。
チェンジ後の画像は、広河内川の奥に聳え立つ南アルプスの稜線(白峰山脈)だ。
ここから見える部分は広くないが、雲に隠された頂は2700mを越えており、現在地と1800m超の比高がある。
この圧倒的に高い黒い山脈が、ほんの数分前に私のいる早川一帯から今日の日光を取り上げてしまった。
同時に、この季節、この標高らしい強い寒気が、私の周りを急速に冷却しはじめたことを、ひしと感じた。
14:46
進むのは容易いが、歯がゆい気持ちが累積していく河原歩き。
そしていま、一度は決めた私の心を揺さぶる景色が現われた。
川べりの人工林(スギ林)。
最初に軌道跡へ辿り着いたところにあったのが、こんなスギ林だった。
それが初めて、川べりに現われたのだ。
ここからならば、楽に軌道跡へ登れるのではないか。
そんな期待を持たせてくる風景だった。
だから私は、また悩んでしまった。
軌道跡へ行くか、このまま大人しく河原を歩き続けるか。
奈良田集落の下流にある奈良田ダムの堰堤から、2.5kmも続いた広い河原の終わりが迫る。
道路は開運隧道で、川はこの先の峡谷によって、人界と余界を隔てている。そんな風景。
ここは門だ。ただし扉は閉じている。
門戸に挑む、我らが軌道を探してみる。
谷底から30mくらいの高さの峡壁に、一筋の“横棒”を見つけることができた。
まさしく、あそこ!
峡谷部に臨む両岸は、これまで以上に傾斜が強く、谷底から見上げる道の跡は、まるで高嶺の花だった。
……こんなに怪しい“横棒”を、憧れの目で見上げる輩は、少ないだろうが…。
14:50 《現在地》
よし決めた!
もう一度登ってみよう!
峡谷の入口に迫り、これまでは広い河原を悠々と使って流れていた水量が収斂し、
これ以上谷底を進むためには、前回より強烈な水流を横断しなければならない予感があった。
だが、その予感の真否を実際に確かめてみるよりも先に、もう一度路盤へ立ち、
高嶺の花を掴みたい!
……そう思った。
峡谷の入口で、軌道があった左岸側から2本の小谷が流入してきていた。
その1本目と2本目の間の小さな尾根は、植林らしきカラマツ林になっていて、
すぐ下流側のスギ人工林よりも見通しが利き、比較的緩やかな斜面ということが見えた。
ここを利用して、30mくらい高い位置にあるはずの軌道跡(見えない)を目指すぞ!
14:55 (登り始めて5分後)
カラマツ林を越えて登っていくと、一度は私の手を離れた“日差しの領域”が見えてきた。
そして、ちょうど日と影の境の辺りに一筋のラインを見る!
言うまでもなく、軌道跡に違いない!
14:58 (登り始めて10分後) 《現在地》
軌道跡へ再到達!
これは約30分前に前進を断念した【大決壊】から、おおよそ700m上流の軌道跡である。
今日最後の日差しを浴びられるほどの高さであることにまず注目。
写真は下流側で、当然廃道ではあるが、問題なく歩けそう。
進んでみたい衝動に駆られたが、前進に使える時間とのトレードオフと考えると、
下から見ていて状況が想像できた下流側よりも、未知の上流側を優先すべきと決断。
5分間休憩し、直登で乱れた息を整え終えた15:04、上流方向への前進を開始!
幸い、上流方向へも感じ良い秋色の道が延びていて、心が躍った。
偵察の最終目的地点まで、推定あと1km!
15:05
軌道跡を再出発した直後――
“MOWSON開店”のお時間です(笑)。
(……ほとんどの読者には意味不明だと思うが、私はコンビニのLAWSONで店長をしていた時期があり、その頃のレポートでは、廃道で古いゴミを見つける度に、こんなことをよく書いていた。笑)
そこにあったのは、見慣れない「ピーチジュース」の缶だった。
「LALLA」という文字が書かれた樽のイラストが印象的な缶。
製造者は、「ララ果汁工業株式会社」。
住所は、「山梨県勝沼町3283」。
(チェンジ後の画像)
驚いた!
この缶の飲み口は、ステイオンタブではないのは当然として、懐かしのプルタブですらない。缶の上面にも下面にも、飲み口がなかった!
だがよく見ると、上面に小さな穴が二つ開いているのに気付く。
これは当時、わざわざ缶切りで上面に二つ穴を開けて、それから口を付けて呑んでいた名残りである(片方の穴は空気穴)。
日本製缶協会のサイトによれば、プルタブ式がジュース缶に導入されたのは、昭和44(1969)年頃からだそうだ。
つまり、昭和40年代前半までに製造された缶である可能性が極めて高い! たしか森吉林鉄跡でもこういう空き缶を見た記憶があるが、随分久々だ。
この缶の持ち主は、どんな理由でここを訪れ、ピーチジュースに舌鼓を打ってから、空き缶を棄てていったんだろう。やはり登山者かな。どこまで行ったんだろうな…。
ブリキ製の上面と下面は真っ黒に錆び付いていたが、スチール製の側面はカラーのペイントが色鮮やかに残っていて、屋外に無造作に転がっていたことを考えれば、驚異的な保存状態の良さだった。
しかもこの缶、ヤフオクなんかを検索しても全くのノーヒット。もしかしたら、地球最後の現存する「LALLAピーチジュース缶」かも知れないぞ。
さらに調べてみると、ララ果汁工業株式会社は、健在!
最近は、「山梨県甲州市勝沼町勝沼3283」に社屋を構えておられるようで、合併によって自治体名は変わっているが、番地は変わってない!
ただ残念ながら、同社は既に「ピーチジュース」の販売はしていないようで、勝沼らしく、葡萄ジュースを製造しているようだ。
このジュースについて想い出がある方、ご一報ください。
15:08 《現在地》
軌道跡はこの先で小さな谷を横断する。
大した谷ではない。簡単に横断できる。
それは良いが、今回も橋桁は残っていないし、橋台すらない。
昭和20年に廃止された軌道跡に、木橋なんかが架かったまま残っているとは最初から思わないが、橋台すらないというのは行きすぎで、環境が悪すぎたんだろうな。谷は全て、土石流の巣なんだろうと思う。
ん……… これはっ!
レールだぁーー!!!
ここが軌道跡だというのは重々承知しているが、昭和20年の廃止といわれるこの古き路盤に、一欠片とはいえ、レールが残っているとは思わなかったぞ。
現役当時に谷の底に墜落して、回収できなくなったレールとかならまだしも、ここはそんな場所じゃないし。
ここまで、レールも枕木も、気配も感じなかったが、急にレールが現われた。
しかも、近くで見ると、案外にしっかりとしている。もっと錆びてよれよれで、フランジに穴くらい空いてたって不思議はないが、なんか綺麗…?
レールのサイズ的には、よく見る6kgレールだろうな。
……本当にこれ、当時のレールかな……?
漠然と感じたこの疑問は、予期せぬ、“難解な疑惑”の入口になるのだった……。
15:09
レール1本が意味深に残された小谷を渡ると、再びのスギ林へ。
ワクワクしながら路盤へ復帰すると、そこにレールは……、 なかった。
まあ…、そうだよね。 さすがにね……。
いまいるのは、例の狭い峡谷へ突入する前の、最後の平穏なんだと思う。
このまま、気付いたらなんとなく難所を越えていた、なんてことは、ないんだろうなぁ……。
15:12
ひゅー…
スギ林が終わったんだが、途端に、肌に泡立つ雰囲気が出て来た。
なんか、迫真という言葉が、脳裏をよぎる。
恐るべき、先細りの印象だ…。
ゾクゾクゾクゾク。
15:13
いつ崩れたのかも知れぬ大きな岩が、路盤を塞いでいた。
ケモノしか、こんなところには来ていないと思うのでこう書くが、
“ケモノ道”らしい、幅30cmのトレースが、路盤すぐ下の土の斜面に付いていた。
そこを通るのは、技術的には、ほとんど難しくない。
でも精神的には、もう少しだけ難しい。
なぜなら
半端なく高くて
怖い!
身の毛が、少し……。
左に見える、これまでの広い河原の世界。
右に見える、ここからの狭い峡谷の世界。
両者を切り離す開運隧道の名に似合わぬ冷酷さ。
その全てが、私の脚下に収まった。
ここまでの全てが、この1枚の範囲に収まっている。
奥の奈良田橋の辺りで、軌道跡と県道は、左岸と右岸に袂を分かったが、
それは永遠の決別となった。もう二度と再会することはない。あとはもう
ひたすら落差を増していくだけ。最後(終点深沢)には300mを超える差になる。
まだ両者の離反は始まったばかりだが、私にはもう、対岸の県道は遠い世界に思われた。
地図上では慥かに近くにあるのだが、実際はもっと遙かに遠く感じられた。
狭いケモノ道を、少し フワフワッ としながら越えると……
15:14
やべえ。
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