今回のターゲット、早川森林軌道について解説しよう。
早川森林軌道は、山梨県林務部がかつて運用していた、いわば山梨県営の森林鉄道である。
我が国の森林管理の基本法である森林法において、森林は大きく国有林と民有林に二分される。
そしていわゆる森林鉄道の大半が、国有林経営を目的とした国有林森林鉄道であった。
民有林での林業を目的とした森林鉄道も、民間企業や個人、森林組合などが管理する路線として各地に存在したが、多くは国有林森林鉄道の払い下げであったり、そうでなくとも小規模な路線が多かった。
だが、全国の都道府県の中で、山梨県だけが特異に多くの民有林森林鉄道を有していた。
『全国森林鉄道』巻末リストより
都道府県有林や市町村有林は、民有林に含まれる。
そして、山梨県には際立って県有林が多い。(代わりに国有林は全国で一番少なく県土の1%しかない)
これは明治44年に、県内の御料林(皇室財産である山林)の大部分を、相次ぐ水害への復興財源として、明治天皇が県へ下賜したことに由来しており、山梨県では県土の3分の1にも及ぶ広大な山林を恩賜林(おんしりん)と呼んで、今日まで大切に育んでいる。
そしてこの広大な恩賜林を管理すべく山梨県は林務部県有林課を設置し、その下部組織として国有林の営林署に相当する6つの林務事務所を設置した。そのうち5つの林務事務所が独自の軌道を開設し、運材に用いていた。
これらの総称が山梨県営軌道であり、『全国森林鉄道』(西裕之著/2001年)巻末のリスト(右図)には本線支線を合わせて24の路線が掲載されている。
このうち廃線ファンや林鉄ファンに比較的よく知られているのは、塩山林務事務所が管轄していた三塩森林軌道と、その奥部を構成していた西沢森林軌道だろう。
他の路線の知名度は高くなかったと思うが、今回取り上げる早川森林軌道が、1本の路線の長さとしては最長を誇った。
右図の赤枠で囲ったところに記載があるが、延長は39.0kmと記載されている。言うまでもなく、リスト中のナンバーワンだ。
『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』より
右図は、昭和11(1936)年に発行された『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』に掲載された「山梨県恩賜林之位置図」の一部である。図の緑網の部分が恩賜林で、奥地や高山が占めている。そして、早川に沿って鉄道の記号が描かれているのが分かるだろう。
これが広義に捉えた早川森林軌道の姿だが、厳密には異なる路線であって(後述する)、今回探索する区間(奈良田以奥)には、まだ伸びていない。
早川森林軌道は、これまでの「山さ行がねが」の中でも、度々、少しずつ、登場している。
(路線名は「早川林用軌道」と呼ばれることもあり、当サイトも主にこれも用いてきたが、本稿では、より一般的と思われる「早川森林軌道」の呼称で統一する。)
当サイトの全レポート地図で早川の一帯を見てもらえると良いが、早川流域のレポートがいくつもある。そしてその多くで、「現在の県道より古い、早川沿いで最初に通じた車道」というような扱いで、軌道が存在したことを語っていると思う。
例えば、早川流域での最初の探索となった2011年1月2日の探索(そしてこれは今回の偵察探索の前日である)を描いたこのレポートでも、「工事用軌道」という名目で、軌道跡の存在や貴重なレールの発見を言及している。(それは右図の赤枠の辺りのレポートだ)
ただ、奈良田より下流に関しては、廃線跡として残っている部分はほとんどない。
なぜなら、早川森林軌道の跡地が、(奈良田より下流の)県道の元になっているからだ。
県道になったあとでさらに新道へ切り替わっている部分も多いが、そんなところに残っているのは旧県道(あるいは廃道)であり、純粋な廃線跡として残されている部分はほとんどないのである。
次の図で、大正時代から昭和20年代までを駆け足で生きた早川森林軌道の複雑な経過を解説したい。
@ 大正13(1924)年 | |
---|---|
A 昭和16(1941)年 | |
B 昭和18(1943)年 | |
C 昭和20(1945)年 | |
D 昭和28(1953)年 | |
E 昭和38(1963)年 | |
F 現在 |
早川沿いに存在した期間762mmナローゲージ鉄道の最大版図は、富士川合流地点に近い早川橋から、早川およびその上流部呼称である野呂川を遡って、白鳳渓谷を遙か下に見る終点の深沢へ達する、総延長50kmを超える非常に長大なものだった。支線の記録はなく、現在の身延町から早川町を通過して南アルプス市(旧芦安村)に達する長い長い一本道だった。早川橋(海抜240m)と深沢尾根(海抜1460m)の高低差の大きさも特筆すべき点だ。ただし、全線が同時に存在したことはなく、次に述べるような経過で区間や路線名が変化している。
早川流域に敷設された最初の軌道は、この川の豊富な水量と大きな落差に目を付けた東京電灯株式会社が、発電所工事のための資材運搬と、木材の流送補償目的で、早川橋から新倉まで敷設した全長20kmの工事用軌道であった。これは大正11年に着工され、13年に完成している。軌間762mmで、動力は馬だった。《図@》
『早川町誌』より
この軌道は、工事終了後の昭和3年に、地元が設立した早川沿岸軌道組合に譲渡されると、トロ馬車と呼ばれ、沿岸住民の足として活躍した。だが輸送量の増大とともにすぐに自動車道への改築が目論まれ、昭和8年に山梨県に移譲されると、速やかに車道化され県営早川林道となった。
同時に、終点の新倉から上流へ向けて延伸工事が進められ、そこに車道化した区間からの撤去レールが敷設された。昭和12年に西山温泉、16年に終点の奈良田まで開通し、県営早川林用軌道(=早川森林軌道)と呼ばれた。《図A》
軌道は沿線の木材や木炭などの林産物輸送に活躍したほか、沿線住民の日常の足としても利用され、また湯治場として西山温泉が大きな賑わいを見せたのもこの時期だ。旅客専用のトロ馬車も運行されていた。
『早川町誌』より
昭和18年、奈良田からさらに上流へ向けて、観音経を経て、終点の深沢尾根まで、おおよそ20kmの延伸工事が完了した。《図B》
当時、新倉〜深沢間の全長が約39kmと記録されており、これが早川森林軌道としての最長期だった。
だが、奈良田以奥は極めて短命に終わり、昭和20年に廃止されたという。《図C》
残された新倉〜奈良田間も、昭和28年に軌道が撤去されて自動車道となり、早川森林軌道はここに全廃となった。《図D》
昭和29年から野呂川総合開発計画が山梨県の主導でスタートし、芦安と奈良田からそれぞれ広河原へ通じる道路が昭和38年に開通した。《図E》
以上が、「早川町誌」の記述から簡単にまとめた軌道の歴史である。
なんといっても驚くべきは、今回探索を目論んでいる奈良田以奥の非常な短命ぶりだろう。
町誌によれば、僅か2年で廃止されたことになっている。歴代の地形図に一度も描かれていないのも納得だが、2年はさすがにひどい……。戦時中の開通だったことも印象的だし…。どことなく、千頭林鉄の大根沢以奥の経緯に通じるものを感じる。
次は、今回の本題である「奈良田以奥」に焦点を当てて、この区間の建設や廃止にまつわる記録を紹介しよう。
町誌には、年表的な簡潔さで開設年や廃止年が書かれているが、詳細については別の資料を探す必要があった。
『山梨縣恩賜縣有財産沿革誌』より
風景協会刊『風景』の昭和18年11月号に、奈良田以奥の林道開通を伝える記事がある。
この本文を読んでもらう前に、添えられている水墨画のようなイラストを見て欲しい(→)。
絵に描いたような絶壁の道路風景だ! 俺が考えた最強の道かよ!
普通なら誇張を疑いたくなるほど“絵的”に過ぎる景色だが、これが少しの誇張も含んでいないことは、観音経へ行けば分かることだ。
まあ、絵のなかの人物みたいに歩けるかどうかは、また別の問題だが………。
早川林道 ―絵と文― 望月春江
山梨県南アルプス山麓野呂川奥地一帯の恩賜県有林は昔から斧を入れた事がない大深林で、天然の古木は倒れたままに朽ちているといわれ、それは全くすばらしいものであった。其の面積1万2883ヘクタール、総蓄積174万5千立方米、之が開発を眼ざして林道設置の工事に着手したのが昭和14年3月難工事全く言語に絶するものあり、幾度か中止のやむなきに至った。しかし全県民のひるまざる熱誠と近村住民の涙ぐましき努力とにより遂に本年6月目出度竣工を見るに至った。総工費80万円、車道は早川右岸より三里村新倉まで2万米、軌道新倉より芦安村芦倉まで5万4千米、中でも奥地である表観音・裏観音・猿なかせ等は最難所として幾多の犠牲者をも出している。風光は実に壮快凄絶にして身の毛のよだつ処の沙汰ではない。
本村に対する国家の要求が今日程切なのは我国開闢以来ない事であり、此無尽蔵の宝庫から此林道を通じて供出さるる木材こそ実に意義深いものというべく、今日に備えて必死挺身して来た甲州人士の意気は激賞してあまりあると言い得よう。
これによって、戦時中の大工事の大要を知る事が出来る。
すなわち、着工は昭和14年3月、何度か中断を挟みながら、昭和18年6月に竣工。総工費80万円。
ただし、記載の距離には明らかな誤りがあり、新倉から芦倉(終点)まで54kmというのは、実際は既に車道化済みであった20kmを含めた数字である。
そして、戦時中の物資供出を念頭に置いた緊急的な工事でもあったらしいことが、全体に滲み出ている。
しかしなんと言っても特筆したいのが、途中のこの一文だ。
「風光は実に壮快凄絶にして身の毛のよだつ処の沙汰ではない。」
これ…、他人事なら全然いいんだけど、開通直後でも既に身の毛がよだつ処の沙汰ではなかった道を、廃止から半世紀以上も過ぎてから自分で探索するのは……。
ともかく、昭和8年に新倉よりスタートした山梨県による早川森林軌道の建設の目的は、当初から早川上流部の野呂川流域に広がる恩賜県有林の開発にあった。
大戦が始まると、この未利用奥地林からの木材供出を急ぐべく、最も困難な奈良田以奥の峡谷に突貫工事で挑み、昭和18年に完成を見た。
だが、長くは保たなかった。
東京営林局刊『東京林友 第19巻第2号』(昭和41年7月号)の特集記事、「南アルプスと野呂川けい谷」に、この苦闘に満ちた軌道の結末が述べられている。
森林軌道を敷設して、早川方面から、この地域の森林資源の開発に着手しましたが、沿線の立木約3万石を伐採搬出したのみで、ぜい弱な地盤と、相次ぐ災害のため、軌道のいたるところに大被害を受けて、この復旧に困難をきわめ、ついに廃道として放置しなければならなくなってしまいました。この廃道は今でもその形跡が観音経トンネル付近から深沢にかけて切れ切れに散見されますが、当時の困難を極めた開発事業の苦労が偲ばれます。したがって、この地域の森林資源は、下流の一部を炭材として利用したのみで、嶮岨な地形と搬出困難のため、全く天然林のまま近年まで死蔵されてきたのであります。
ここに廃止年は明記されていないが、早川町誌には、昭和20年に奈良田〜深沢間の軌道を廃止して軌条を撤去したと、ただ1行書かれている。
戦争遂行のために、無理を圧して軌道を敷設したのだろうが、現実的には全く継続的な利用に堪えないものだったのだろう。
軌道が極めて短期間で廃止された原因は、開設直後から大きな崩壊が相次ぎ、復旧が困難であったためだとはっきり書かれている。
それでも辛うじて運び出された3万石(=8340㎥)の木材は、総蓄積として先の記事に数字が出ていた174万㎥に対して、わずか0.5%に過ぎない。
苦労して開設した軌道だったのだろうが、間違いなく、大失敗だったな……。まったく気の毒ではあるが…。
以上が、山梨県営早川森林軌道の全体史と、その奈良田以奥区間の余りにも短命すぎた顛末である。
早川森林軌道に関する既知の探索情報について 2022/8/15 追記
早川森林軌道について紹介している文献自体が多くないが、その廃線跡の現状を取り上げた記録はさらに少ない。
それでも、今回私が探索を計画するきっかけは、そうした文献の一つであったので、紹介しておきたい。
廃線探索のバイブルといえば、皆様はなにを連想されるだろう。
私の場合、宮脇俊三氏の『鉄道廃線跡を歩く』シリーズ(全10巻)だ。
そして平成10(1998)年6月に刊行されたシリーズ第5作『鉄道廃線跡を歩くV』に、「東京電力早川発電工事用軌道」として、この路線が取り上げられている。
刊行当時私はまだ10代で、秋田在住のチャリ馬鹿少年であったが、これはリアルタイムで読んだ記憶がある。
ただ、廃線跡の風景が紹介されているのは奈良田より下流に限定されており、それより上流部の風景を知る機会とはならなかった。
だから、その段階では、この路線に特別な印象を持たなかった。
さて、廃線探索の“裏”バイブルというものがもしあるとしたら、皆様はなにを連想されるだろう。
私は間違いなく、『トワイライトゾ〜ンマニュアル』シリーズを想う。
“裏”などというのは完全に個人の感想であるが、1992年から2009年にわたって16作を重ねたこの本は、良い意味で極めて雑多、この本以外では読んだ事のない廃線の情報がゴロゴロしていたお宝本だ。
森林鉄道関係でも、竹内昭氏などの優れた先達による先進性の高いレポートが満載で、私がこのシリーズを知り、収集し始めたのは2005年頃からだったが、ネットショップや古書店などでバックナンバーを手に入れる度に嬉しくて仕方がなかった事をよく覚えている。(全て集めるのにとても苦労した記憶も)
『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』
『鉄道廃線跡を歩くV』の約5ヶ月後、平成10(1998)年11月に刊行された『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』に、真に驚くべき探索レポートが掲載された。
それは竹内昭氏が書かれた「続・関東周辺林鉄行脚」という記事で、一連の「林鉄行脚」シリーズの1作だ。私にとっては、このシリーズを読むことが、『トワイライトゾ〜ンマニュアル』を集める最大の目的にもなっていたわけだが、同記事に「野呂川林用軌道」という名で掲載されていたのが、早川森林軌道の奈良田以奥の中でも核心部であろう、観音経から終点深沢にかけての実踏レポートだったのだ。
そしてそこに掲載されていたのが、皆様に先回りして1枚だけご覧いただいた【観音経の絶壁と坑門】を写した、モノクロの写真だった。
私が同記事を読んだのはたしか2005年で、ちょうど森吉林鉄との度重なる死闘を制した頃だったと思うが、東北の嫋やかな山並みとは余りにも印象を異にする、峻険を絵に描いたような南アルプスに挑む林鉄のレベチ(レベル違い)な破天荒ぶりに、頭をぶん殴られた感じがした。
そして、いつか行きたいという自然な思いを抱きつつ、2007年の関東移住から、2010年には同じ南アルプスにある千頭林鉄の踏破を体験し、遂に満を持した気分で……しかしまずは偵察をと……挑んだのが、いまご覧いただいている2011年1月3日の探索であった。
『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』より
当時、ネット上の探索記録もリサーチしている。
だが、強烈極まる廃線跡風景の割に、この路線の奈良田以奥を紹介する記録は稀だった。
登山の途中で「見えた」という記録は少なくなかったが、軌道跡を歩いてみたという記録は本当に稀だった。
ただ皆無ではなく、とある(今も読む事が出来る。そして後に著者との直接のやり取りを経験する)サイトのレポートが燦然と存在した。
そのレポートも、探索のきっかけとしては『トワイライトゾ〜ンマニュアル7』を挙げていて、私と同じ衝撃を受けていた探索者の存在にシンパシーを感じた。
彼(いずれご登場いただく)も観音経に挑み、そして、『トワイラ〜』より確実に深く侵入していた。
その時は、彼の胆力、技量、行動力、その全てが羨ましいと思った。
ただ、彼のレポートの途中で、同行した仲間が滑落しかかって探索を終了された所の記述は、本当に怖かった。 ……それこそ我がことのように。
今回の私の探索に繋がる、最後のピースを埋めていこう。
右の画像は、『トワイラ〜』に掲載されていた地図である。
『トワイラ〜』の探索は、この図に太い実線で描かれている区間が対象だった。
具体的には、観音経(アザミ沢)から深沢の終点までで、この区間は軌道跡の大部分が南アルプス林道に転用されているので、林道を歩くことでいろいろな遺構を見つける事が出来るのである。
一方、図に太い破線で描かれている部分は、著者(竹内氏)が軌道跡の存在を推測しつつも、実踏はなされなかった区間である。
奈良田の北の外れの道路脇にはなんとなく土場跡らしい広場も残っています。ただこの土場から先、林道が早川の右岸に渡って(注:奈良田橋のこと)軌道跡がはじまるはずの沢がいきなり土石流で崩落してしまっており、その先アザミ沢までは道がないのでどうなっているのかは確認できませんでした。当時の地図によれば、軌道はドノコヤ沢までは河床近くを行き、その先からどんどん山の中腹へ登っていたようです。たぶんこの区間もあちらこちら崩れながらも道床が残っているのではないでしょうか。残念ながら対岸の林道(注:現在の県道南アルプス公園線のこと)からも森が深くて判りません。
再び軌道跡が現われるのは南アルプス林道観音経トンネル北口すぐ左で、軌道のトンネルがぽっかりと口を開け、中には何と軌道そのものが残されています。その先は断崖絶壁のオーバーハングで近づけないものの(注:これが例の断崖絶壁の坑門写真の場面)、素掘りのトンネルと道床が延々と続いているのが遠望出来ます。
『トワイラ〜』の未探索区間の長さは、
この地図にある点線の長さから推測して、約12kmある。
これこそが、私の踏査目標だ。
(ここまでの「偵察」で皆様にご覧いただいた区間も、右図に示した。それはたった0.5kmに過ぎない。)
なお、前掲した“あるサイト”に掲載された探索は、右図のアザミ沢からカレイ沢の間で行われていた。
そこもまた、私の探索の対象に入る。
あの千頭林鉄と同じ南アルプスで、
昭和18年から2年しか使われず、
以来60年以上も放置されている林鉄跡とか、
身の毛のよだつ処の沙汰ではないが
……まだ、偵察の途中であったな。
探索再開だ。