海岸沿いの各枝線をしらみつぶしに探索しているうちに、スタート地点の酒田港駅へ戻る線路を辿りはじめていた。
大浜埠頭と酒田港駅を繋ぐ線路の様子を、まずはご覧頂こう。(右地図の青い部分)
そして、その後はいよいよ、この地での最終探索が待っている。
大浜埠頭の東ソー工場引き込み線から戻った。
出入り口の前にある交差点から酒田港駅方向を見たのが左の写真。
単線のレールが一直線に伸びている。
左の白い工場は、酒田港では東ソーの次に大規模な工場である、花王工場だ。
数百メートルの長い直線が続いているがこの間のレールは複線になり、また単線になりを数回繰り返す行き違いや留置を考慮した余裕のある設計となっている。
その両側はそれぞれ大規模な化学工場で、色の少ない単調な景色が続く。
花王工場の正門。
果たしてその内部はどうなっているのか想像の付かないもの凄くのっぽなプラントが道を見下ろしており、まるで昭和の下町の民家のような落ち着いた佇まいの守衛室や、その前にある門扉の支柱のレトロさなどとの対比が珍妙である。
ちょっと花王について調べてみたが、その前身となる長瀬商店の操業は明治20年、東京での出発であったが、大正14年に初めて花王石鹸の社名が登場し、酒田工場は昭和15年の稼働開始、同社の東京工場に続く二つ目の大規模工場であったらしい。
花王工場に現在線路は引き込まれていないが、なるほど歴史のある工場なのである。
さらに進むと線路の向こう側にゴルフの打ちっ放し練習場が現れはじめ、いよいよ市井が近付いていることを感じさせる。
その近くに東ソー工場の社内の公園地へ続く道路が線路をまたぐ踏切がある。
だが、この踏切は、奇妙である。
この酒田臨港開発線の踏切としては珍しい、警報機も遮断機も共にある第一種踏切でありながら、肝心の道路の側に通せんぼするようにガードレールが設置されており、入ることも出ることも出来ない正真正銘「開かずの踏切」となっているのだ。
道路自体は廃止されてはおらず、東ソー工場の社員以外でも進入できるように反対側の入口ではなっているのだが、どうやら通り抜けされることを嫌ったらしい。
線路は立派な複々線となっているが、現在は通る列車も稀であろう。
そのとき、この無意味な踏切装置が動くのかどうか、見てみたい気がする。なんとなくだが、警報機も遮断機もまだ真新しいように見えるのだ。
この先、道路と線路はそれぞれ下町の民家の中に別々に消えていく。
線路は単線で民家の軒先を地割りしながら酒田港駅付近のJR貨物酒田港線との合流地点までほぼ真っ直ぐ続いている。
この辺りは結構頻繁に入れ違いのために列車が進入するのか、レールも輝いていた。
私は線路脇に道路が無いので残念に思い、もうめぼしい探索は終わったものと考えながら、のんびりと酒田港駅へと市道を走っているところだった。 “シベリヤ鉄道”と並んで、私に大きな印象を与えた「もう一つの場所」との出会いは、そんな気を抜いた場面へ唐突に訪れたのである。
背の低い下町の景色の中にあって、道の右側だけ、全然景色が周囲に噛みあっていない。
頑丈そうなコンクリートの壁と嫌らしい有刺鉄線。
その向こうに見えるのは、明らかに普通の建物ではない、見たこともないような長い長い煉瓦の建物。
私は、道ゆく主婦や学生たちに怪しく見られる事を覚悟しつつも、思わずその扉の隙間から、じっとりとその柵の向こうを覗いた。
山形食糧事務所酒田政府倉庫
竣功 大正13年(1926)
結局、この巨大建築物についてめぼしい情報も得られずに帰宅したのだが、ネットで調べてみると、僅かだがこの建物についての記載を見つけた。
その内容をまとめると、以下の通り。
政府米の保管倉庫として大正13年に建設されたが、自主流通米の増大などによりその用途を次第に失い、平成4年に廃止された。
現在はまったく使われてはおらず、東京ドームに匹敵する3.8haの敷地に、一棟1740平方メートルの倉庫が6棟建ち並んでいる。
私の胸は激しく高鳴った。
しかし、出会ったその日は柵の向こうに見るのが精一杯であった。
四方には道路が通っているが、どこも住宅街で、車通り人通りがあり、そんななかで不用意に柵を乗り越えて進入すれば、通報されかねない。
後ろ髪を引かれながらも、私はその場をあとにしたのだった。
1週間後のやはり土曜日。
私は再びこの地へ。目的は当然内部潜入。勝算は……まだない。
この日は、潜入可能ポイントを把握するために、まずは長大な塀の周囲をしらみつぶしにチェックすることからはじめた。
この写真は南側の塀の様子。
民家が連なっており、ここからの侵入もリスキーすぎる。
敷地は東西に細長く、正面入口は酒田港駅に向いた東にある。
引き込み線の通用口もまた、正面入口とは別であるが、やはり東側にあることが分かった。
結局は東側意外に人目に付かず侵入することは難しいように思われた。
写真の踏切は、東側の引き込み口の前にあるもので、以前はこの2つの中間に引き込み線のレールが通り、踏切があった。
手前のレールは酒田臨港開発線の大浜埠頭方面へ続いており、奥のレールはJR貨物酒田港線の酒田駅方面へ続くレールだ。
東側は正面入口のある側で、普通ならばもっとも警備の厳しい潜入の難しい部分だと思うが、それは廃墟には当てはまらない。
正面には踏切や線路が多数あって、民家と入口は少し離れているので人目が少ないのだ。
だがこの引き込み口も、背の高い有刺鉄線が邪魔をしており、早速私のビクついた心をチクチクと刺した。(え?警戒しすぎじゃないかって? いえいえ、市街地では人の目が気になるものですよ。山奥のゲートのようには気軽にはいきません。)
これを乗り越えて侵入したとなると…… 、叱られたときの言い訳は難しそうである……。
私の目が、泳いだ。
どちらに決断するにしても、急がねばならない。
この鉄の扉の前で思案している姿だって、道ゆく人たちから見れば十分に怪しいはずだから。
……だめでした。
他より人目が少ないとはいえ、そこは下町の夕暮れ時。
背後の踏切には人の気配が途切れたと思えば次の人が現れる始末。
ギブアップです。
諦めきれない私は、さらに入りやすそうな場所を求め、とりあえずへと移動を再開。
そしてそばにすぐに正門は見つかったが……。
大正のかおり漂う、重厚な正門。
廃止されているせいか、この施設の名称などが分かるような銘板は取り付けられていない。
柱の上には薄紫と白の門灯が取り付けられ、いまにもステッキをついた燕尾服の役人が現れそうなムードである。
ここも人通りは少ないが、柵が高いし、敷地に隣接する農林省の出先機関の建物(右に見えている、こっちは現役)から近すぎるので、こちらも侵入には適さないと判断。
ちなみに、正面入口前の踏切の名前はそのものずばり、「農林省踏切」。
名前からすると東京官庁街のど真ん中辺りにあっても良さそうだが、遮断機さえない車通りも稀な寂しい踏切である。
で、結局私は内部へ潜入を果たした。
皆様は真似しないように。
足元には、引き込み線のレール。
倉庫群の前庭となる芝生と松の庭園を枕木も敷かずに(或いは埋もれているのか)、緩いカーブを描きながら倉庫へと続いている。
今も手入れが成されているのか、松林は青々と茂り、松枯れ病でいまや息も絶え絶えの庄内海岸のそれとは大きく異なる。
既に周りを取り囲む柵が見えないほどに敷地は広大であり、平穏な市井の空気からは一線を画した、厳粛なムードに包まれている。
間もなく眼前に現れるであろう巨大倉庫を前にして、私は身を低くして小走りにそのレールの上を駆けた。
頭の中には、蜂起をたくらむ青年将校か、反逆のスパイのイメージがちらついた……。
見えてきた。
日本の、一番激しく、一番苦しかった時代を、
その最前で見つめてきた、食糧倉庫の姿だ。
私は、なお走りながらも、胸襟を正さずにはいられなかった。
(つづく)
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