酒田臨港開発線  ファイナル

公開日 2006.04.19



出現! 巨大食糧倉庫

 レールは緩やかなカーブを描きながら続いている。
あたりは鉄道とはおおよそアンマッチな景色である。
そして、入口から100mほど進むと、いよいよ政府米の倉庫として大正14年に建てられたという巨大な建物の全貌が明らかとなる。



 倉庫の手前にある煉瓦造りの危険物保管庫。
注意書きには、PCB含有品を保管しているので絶対に近付くなというようなことが書かれている。
光を嫌う薬品を多く貯蔵しているのか、全ての窓や扉が目張りされており、建物だけを見るとなかなか文化的だが、近付く事も憚られるムードだ。
このすぐ裏は現役の官舎なので、その意味からも、この危険物庫に近付くのは得策ではないだろう。



 この胸の高鳴り、あなたにも聞こえるだろうか。

 東京ドームへ一度も言ったことのない私が言うのもおかしいが、敷地面積は東京ドームにほぼ匹敵する。
酒田市の古くからの港である本港地区の下町を、分断するように横たわる広大な未使用地である。
塀に囲まれたその敷地の中には、ご覧の建物が6棟も並んでいる。
いざというときに国民を食わせていくために国が用意した、非常時の備えだったが、この国に平和が長く続くようになると、次第にその意義は薄れ、平成になって早々と役目を終えたものだ。

 6棟は3棟ずつ連なって平行しており、引き込み線が2列の間に通されている。

それぞれの列の先頭の建物の壁に、「東」と「西」の赤い大文字を見つけた。


 もし、これが60年前だったら、おそらく無断でここに立つ私にはスパイ容疑が掛けられて即刻拘束されたに違いない。

 私はこの巨大で虚飾を廃した、まさに質実剛健と呼ぶに相応しい倉庫群を見ていると、この国が体験した未曾有の戦争の災禍を連想してしまう。

 もちろん戦後も長く利用された建物であって、それだけで語られるべきものではないけれども、とにかくここは街の中にぽっかりと開いたタイムホールのような場所である。
見渡す限りの敷地に動くものは何一つ無く、また、植物が繁茂しているでも無く、野生の動物たちが遊ぶでも無い。
なにか、日本の歴史のある部分を切り取って保管しつづけている、そんな倉庫のようである。



 倉庫へ近付くにはさらにもう一度有刺鉄線の抵抗を受けねばならない。
これを制すると、やっと、倉庫の建物を直に触れることが出来る。

 こうしてその間近に立って、余りにも浮世離れしている光景に鳥肌が立った。

 市内には、米の倉庫といえばもう一箇所、遙かに有名な場所があるのをご存じだろうか?
それは、明治26年に酒田米穀取引所として建てられた通称「山居倉庫」である。
三角屋根の和風倉庫が軒を連ねる景色は、大きく生長した欅並木と相まってわびさびを感じさせるもので、現在は酒田市観光物産館などとして利用されてもいる、観光の名所である。これは近代化遺産としても、文化財の指定を受けている。

 その一世代後に建てられた遙かに巨大で近代的な倉庫は、本来の役目を終えた後は殆ど無名で、廃墟の様相を呈している。



 もっと言うと、現在これを管理している市でも、この広大かつ巨大な建築物を持て余しているようだ。
廃止後に何度か競売に掛けたが、買い手が付かなかったという。
市民から利活用のアイディアを募集したところ、山居倉庫を意識してか、物産館にしてはどうかと言った意見も少なくなかったそうだが、実現の目処は立っていない。

その新聞記事では、他にも色々な「市民からの提案」が紹介されていた。
面白そうなものをいくつか引っ張ってみよう。

 ……どうにも、提案者の中にはかなり濃い「同業者」がいるような気がしてならない(笑)。



 埃がたまった廊下。
意外なことに、私以外の足跡やゴミの投げ捨てなどが皆無で、ここへ立ち入るような物好きが少ないことを、そう言った状況から理解させられる。
嬉しくもあり、また、不安でもある。



 そう言えば、敷地内には鋪装された部分がかなり少ない。
輸送の主役は、あくまでもこの、引き込まれた鉄道だったのだろう。


 「たばこのむな」
 

 古風な言い回しに時代を感じさせる。
ここにも、人が働いていたのだと言うことを感じられて、少しだけ緊張が解れた気がした。



 無数にあるシャッターの開閉装置も、もはや使い物にならなくなっている。
今の子どもたちはそれほど興味も無さそうだが、私たちの子ども時代にはボタンやらスイッチやらというものには異様な憧れがあって、おそらく当時流行ったロボットアニメなどに影響されているのだろうが、とにかくこんなものを見つけた日には一日中奇声を発しながら触っていたに違いない。

 もちろん、決め台詞は、「ぽちっとな」

(…ではなくて、本当はもっとリアルな…いま考えると恥ずかしくてとてもここには書けないような、キャラになりきったような掛け声で遊んでましたとも、はい。)



 巨大な倉庫内では、随所に配置されたサイレンで仕事が進められていたのだろうか。
(写真左)

 廊下部分と線路の通る前庭とを隔てるシャッター。
倉庫自体には頑丈な鉄の扉があるので、ちょっと過剰な装備に思えたが、ここは国の生命線である食糧を扱った倉庫であるからして、これもまた国防上必要な備えだったのだろうか。

 このシャッターは殆どは上げられていたが、所々降りている部分もあった。
シャッターの上げ下げには滑車に直接つながれたチェーンで行っていたようで、こんなところにも時代を感じる。



戦時の傷跡


 この酒田倉庫には、太平洋戦争の傷跡が今も残っている。
そう言ったら、あなたは信じるだろうか。

 爆撃跡か、不発弾か?

 酒田港のこの一帯は終戦間際の昭和20年8月10日に空襲をうけ、死者行方不明者30人を出している。
だが、その被害がこの酒田倉庫にあるかどうかは、私には分からない。
もっと別の、余りにも鮮明に残る戦争の、戦時の傷跡があるのだ。

 建物の至る所の壁や柱が、黒く、まるで悪戯書きのようにペンキで塗られているのに気が付いただろうか。
これが実は、「雲形迷彩」というものだというのだ。



 このことは余り知られていないし、もしかしたら敢えて大っぴらには言っていないのかも知れないが、その気になってみると、実はこの倉庫群のどの壁、どの柱一本とっても、綺麗なものはない。全てに、ペンキの塗りたくったような文様が付いている。
何も知らない人が見れば、なにかの儀式にでも使われたのかと怖がるだろうが、実際にはもっともっと実際的で、現実の恐ろしい驚異を前にして描かれたものだ。

 戦時の迷彩模様が残ったままの、それが美しいならいざ知らずかなりグロテスクであるから、このような建物が観光地化するというのは難しかろう。
私が驚いたのは、戦後40年以上もの間、もはや不要になった迷彩模様に囲まれたまま使われていたという事実だ。
戦争の記憶は誰にとっても苦いものであるはずで、その象徴的な迷彩模様が、今もこうして残っているというのは、相当に珍しいし、もの凄く貴重なものだろう。
美しいものだけを礼賛するのは本当の観光でも、地域資源の利活用でも無かろうし、こうした負の遺産をどう活用していくか、酒田市政の腕の見せ所ではないだろうか。



 各棟はさらに中央部にご覧のような吹き抜けの通路があって、屋根以外は別れている。
写真では明るく見えるが、実際にはかなり暗くて、SF501を点灯させても踏み出すのに躊躇われる陰鬱さである。
さらにそんな中に上りの階段を見つけてしまったのだが……。
 



 触れただけで毒が体に入り込んできそうな、錆の塊となった有刺鉄線、手摺り、そして階段。
これを越えなければ、上に行くことは出来ない。
そこまでして上に行っても何があるのかも分からないが、分からないからこそ見てみたいという気持ち。
正直、踏み抜けてしまうほどに腐っている怖さも感じないではなかったが、誘惑に負けた私は、色々手を尽くして有刺鉄線をかいくぐり上ってみた。
絶対真似しないでね。



   階段を上り詰めると、左右の倉庫の屋根裏を結んでいる狭い鉄の橋に立てる。
心許ない手摺りには身を預けず、慎重に周囲を見回すと、今まで外からでは決して見えなかった倉庫の部分を間近に見ることができた。
全体像だけでなく、部分部分を見てもまたコンクリートの塊と形容して良かろう、これは大艦巨砲主義を地で行く建築物である。



 外に繋がる通路はこんな風に見える。
かなり高い。

 橋の両側は扉もない屋根裏への入口になっている。
どちらも入ってみたが、中はだだっ広くて、埃っぽくて、当然真っ暗で、



 それはそれは不気味な、まったく長居したくない空間であった。
真下にあるはずの庫室へ入る事も出来なかった。
もう、十分だろう。

 ここはどうにも息苦しいので、すぐに外へ戻った。



 棟と棟の間だはこのようになっている。
一棟の長さが100m以上もあるかと思う。
外壁は煉瓦製だが、煉瓦にありがちな瀟灑なイメージは、その白い色のせいか殆ど無い。
煉瓦とコンクリートを複合して作られている辺りはいかにも大正時代的だと言える。
あるいは、煉瓦は火災に強い特徴があり、この辺でも戦時を意識していたのかもしれない。

 この倉庫、ただ大きいだけではなく、当時の技術力の粋を結した低温貯蔵倉庫でもある。
先ほど見た巨大な屋根裏もまた外気温の影響を受けにくくするための空気の層として使われているし、天井の壁にはアスファルトなども使って多層になっているらしい。



 さて、探索もそろそろ終わりだ。
もと来た入口から戻ろう。

 最後に、人目に付きやすいから余り出たくはなかったのだが、倉庫に挟まれた庭から、外壁のそばに行ってみた。
平和な街並みとのギャップを感じていただけるだろうか。
大袈裟でなく、壁一枚を隔て、ここだけは時間が止まってしまっている。

 昭和のまま。







私の知らない日本の過去。

戦争のあった日のこと。


倉庫は、この地で全てを見てきた。


立ち並ぶ迷彩模様の倉庫は、

いまだ戦果の冷めやらぬ どこか異国の地のようであった。