2015/11/13 11:08
ネコバリ岩の付近にて、軌道跡は一度だけ現代の道路網と交わったが、そこを過ぎるとすぐにまた元通りの静かな廃道になる。
既にこの2.7kmの一連の区間も残り1kmほどとなり、後半戦に突入しているが、周辺の風景はこれまでと変わらず、路盤に残された林鉄の遺物も同様の推移である。
すなわち、築堤、掘り割り、撤去枕木の山、廃レールの電信柱、開渠を跨ぐ長さ1m未満の橋などが、点々と現れては過ぎ去っていく。
一つだけこれまでと違う点を挙げるとしたら、路盤と水面との高低差が俄然小さくなり、手を伸ばせば届きそうなほどになっていることか。
上の写真のところは、川に沿った路盤が、まるで堤防のように見える築堤となって、まっすぐ走っている。
その長さが目を惹いたので、少し離れた斜面から見下ろして撮影したのが、右の写真である。
川と軌道跡の組合せは、珍しいどころか最もありきたりなシチュエーションだが、洪水を警戒して流れから出来るだけ離れるのではなく、敢えてその近くに築堤の路盤を設けたのは、実際に森を護る堤防としての役割も期待したのかも知れない。
また実際にも効用を発揮しているようで、川べりの低地には立派な大木が多く育っていた。
それに対し、現在の林道が周辺の川沿いを長い高巻きで迂回しているのはどうしてなのだろう。単純に道路と鉄道の設計思想の違いなのかもしれないが、興味を感じた。
「綺麗な場所だなぁ。」
何を今さらである。
こんな当たり前のことを述べるために山に入ったわけでは無い。
しかし、私はこのとき同行者があって、独りでは無いことを良いことに、彼に向かって同じことを何度も口にた。
呆れられたているかも知れないと思うほどに、その自覚もあったが、止められなかった。
「本当に綺麗な所だなぁ。来て良かったなぁ。」
私にとっての馴染みの森は、10年ぶりの再会であることとはほとんど無関係に、私に和みを与えていた。
今日はじめてここへ来たはずの同行者も、私と同じように幸せそうな顔をしていたのだから、ここにはきっとそういう力があった。
こんな日にこんな軌道跡を歩けるのは、幸せだった。
またしても、鮮明に見覚えのある風景が現れた。
なぜ似たような場面がたくさんある中で、ここに今までよりも濃い記憶を感じたのかは思い出せなかったが、予感はあった。
片側が切れ落ちた岩場の道は、序盤で目にした木製桟橋の在処と、よく似たシチュエーションだ。
たしかこの景色の先には、この区間最後となる“第3の木橋”が、待っているのではなかったろうか?
…どきどき…
果たして、予感は的中。あった!
橋 の跡になってしまっていたが…。
残念ながら、記憶に残っていたこの3本目の木橋も、寄る年波と厳しい風雪によって腰を折られ、明るいせせらぎにその身を横たえていた。
10年前のこの橋は、先ほど見た2本目とよく似ていた。
形も規模もそっくりだったし、案外と健在そうに見えていたのだが、何が両者の10年後を分けたのかは分からない。<>
一つ言えることは、特段の理由など無くても、木橋が落ちてしまって当然な時間が経過しているということだろうか。
当然の落胆はあったが、今回再訪しなければいつまでも存在しない橋を、あるものとして語るという過ちを犯し続けたのだから、これもオブローダーとしての真理に一層近付いたのだと納得する。
…しかないぜ!(涙)
それから少し進むと、“ネコバリ岩みたいな岩”がこちら岸に現れた。
本物のネコバリ岩ほど奇怪な根張りはしていないが、そのかわり岩の大きさはもっと大きく、それに見合っただけの多くの木々が、すくすくと育っているのを認める。
その木々は、まるで放置されていたジャガイモから生えだした新芽のようだった。
つまり、 「 岩 = ジャガイモ 」。
…なぜなんだ? なぜこの地にある大岩は、どれも立派に木々を育て上げられるのだろう? ジャガイモみたいに栄養が詰まってるのか?!
軌道跡とは関係ない疑問ではあるが、この疑問は今回10年前以上に根強く私を悩ませた。(そして未解決)
そしてこの“ネコバリ岩みたいな岩”の隣を通る路盤にも、橋があった跡地がある。
しかしここは10年前から既に落橋していて、橋は残骸も残されていない。
そのかわりというわけではないが、ここには10年前から、ある“奇妙なもの”が残されている。
これである。(→)
とはいえ、もうこの姿では、仮に“見たことがある人”であっても、その正体を図りかねるであろう。
こんな谷底に転がされたままではやむを得ないのだが、10年前に較べれば遙かに原形を失いつつあった。
今から10年後に来ても、きっと見つけられなそうだ。
10年前のこれ(←)。
こいつの正体、お分かり頂けたであろうか?
なんて偉そうに書いてはみたが、実は私も10年前には皆目分からなかったし、それをやっと知ったのは(偶然にも)今年の春のこと。
群馬県上野村のある場所で、これと同じものを見て【写真】、そして正体を知ったのだ。
これは、“昔の電話ボックス”なのだと。
なんでも、この古いタイプの電話ボックスは昭和29(1954)年に登場し、全国各地に設置されたが、昭和44(1969)年に現在主流の四面ガラス張りのものが登場すると、ほぼ全て置き換えられて姿を消したらしい。
ではなぜこの場所にあるのかという問題だが、これが落ちている谷の30mほど上を林道が通っているので、不法に投棄されたものではないかと想像している。
珍しいものを眺めつつ進むと、再び思わず眼を細めたくなるような美しい軌道跡が始まるのだが、その幸せに身を委ねる時間は、残念ながらごく短い。
2.7km前に別れた道、県道15号あるいは杉沢林道と呼ばれる現代の道路が、しばらくあった軌道上斜面の定位置から意を決したように下ってきて、あっという間にその進路を奪い去ってしまうのだった。
この部分に温和な合流や分岐はなく、道路側から軌道跡の存在を伺うことは出来ない。蹂躙である。
11:42 《現在地》
久々に再開した道路は、県道らしからぬ(不通県道らしい)砂利道になっていたが、
ほんの50mほど先に予め停めておいたワルクトレイルを見つけて、ホッとした。
10年ぶりの軌道探索は、これにて一件落着。
さて、無事に終わったが、まだ昼前だ。さすがに帰宅には早い。天気も良い。
なんで、もう一箇所二箇所、懐かしの場所を覗いてみようかな!
11:59 《現在地》
隧道です!
前の探索の終点から軌道跡と重なっている杉沢林道を自動車で走ること約1.1km、そこに忽然と現れる1本の廃隧道。
これこそが、杉沢森林鉄道唯一の隧道の跡である。
杉沢林道の愛好者である私はもちろんその存在を知っていたし、少なくとも2回は立ち入った記憶があるが、最後に入ったのはもう10年どころではない昔で、恐らく「山行が」を開設(2000年)以降は入っていない。
同行する柴犬氏も入ったことはないとのことだったので、今回、非常に久々に立ち入ってみることにした。もちろん徒歩で。
この隧道がある場所は、馬場目川の流れに突き出した岩山である。現在の林道は護岸をしっかり固めて川沿いを通っているが、林鉄時代は敢えて隧道で貫通する道を選んでいた。
隧道を通して向こう側の景色が見えるとおり、内部はちゃんと貫通している。
そして、ここまでは記憶通りだったが、この先に間近で見た隧道の風景は、少なからず驚きを与えるものだった。
驚きの「その1」である。
今回改めて見てみると、この隧道の坑門の厳つさは、マジで半端なかった。
坑道が穿たれている岩盤は妙に滑らかで、濡れて黒光りする表面には、極めて緻密で隙間のない多角形の模様が浮かび上がっていた。
まるで古城に見られる精緻な石垣(亀甲積)のようだが、こんな辺鄙な林鉄の隧道に、わざわざ異常に手間がかかる手法で坑門を作ったのだろうか。
そんなことはなく、この坑門のように見える岩盤は、自然のものである。
しかし、このような地質があるということを予め知らなければ(あるいは知っていても、このような場所に隧道を見たことが無ければ)、かなりの驚きがあると思う。
恥ずかしながら、私も以前の記憶が薄れていて、今回は新鮮に驚いた(苦笑)。
この精緻な石垣を思わせる坑門が完全に天然の造形物であることは、このように横から眺めると、より論の余地が無くなる。
人工的な石垣で、こんなにオーバーハングして積まれているものを見たことが無いからである。
明らかに、この露頭は天然の岩盤である。
もっとも、隧道を掘削した際に、ある程度は面を整えたことくらいは、あったかも知れないが。
ともかく、この多角形模様(亀裂)が浮かび上がった岩盤に、隧道は穿たれている。
このように、岩盤に一定の法則性を持って生じる亀裂を、節理という。
確か、学校の地学の授業でも“柱状節理”なんて言葉を習った気がするが、これがその実物である。
マグマの冷却によって生じる柱状節理は、日本中に点在しているので「そこそこ珍しい」という程度のレアさだが、そこに素掘の隧道が掘られたときには、天然では決して見られない独特な景観を現出させる。これは極めてレアな現象となる。
過去の代表的な例としては、同じ秋田県にある「柱石洞門」が挙げられよう。
というわけで、内部へGOだ!
崩れた岩石が腰丈くらいに累々と重なり合った入口から内部を覗き込むと、出口は案外に間近に見える。
全長は30m程度であろう。小隧道ではあるが、その内部の風景には、通り一遍の素掘隧道とは異なる、柱状節理ならではの個性がある。
例えばこの写真だと、向かって左側の側壁の有り様は、明らかに節理の面である。
それ以外の部分も、多くは節理に従って掘削したのではないかと思われる平らな面の複合からなっているのが分かる。
ただし、洞内は泥が堆積しており、ぬかるんでいる。
登山靴くらいでも足を濡らさずに通行できるが、汚れるのは覚悟しなければならない。
また、コウモリはおらず、外の沢の音が洞内に届くことと、洞内に滴る水の音が聞こえるだけで、静かな環境である。
だが、この隧道の真骨頂は、次のシーンだ。
天井から壁から、すっごい節理が!
六角形の断面を持つ太い柱状節理が、前方の天井から、今抜けてきた後方に向けて、放射状に展開している。
その姿は、「宇宙戦艦ヤマト」の艦首に備え付けられた波動砲の砲身内を思わせた。
他に上手い喩えが思い浮かばなかった。ただただ、男心をくすぐった。
かっこいいと思った。
隧道は紛れもない人工物だが、壁面は節理の作用によって自然に顕れたものである。
自然の造形と、人が欲した隧道という造形。その両者を上手く折り合わせて、この隧道がこの姿で誕生したのだ。
それが偶然か、あるいは狙い通りだったかは分からないが、なかなか堅牢に仕上がったことは、坑門付近を除けばほとんど落石の残骸が無い事からも窺い知れる。
なお、林鉄が昭和47年に運行をやめてから、この隧道が林道として使われていた時期は無いように思う。
トラックが通るには狭すぎるのである。
であるならば、この隧道は廃止から40年余りを経て、この姿を保っていることになるわけだ。
ちなみに、最初にこの隧道が建設された時期については、いくつかの可能性が考えられるが、恐らくは昭和15年ごろに杉沢林鉄の前身の奥馬場目軌道の建設当時に遡ると思われる。遅くとも昭和20年代の地形図には、この隧道が描かれている。
ところで、先ほど柱状節理内の隧道として類例に挙げた“柱石洞門”は、これよりもさらに肌理の細かい柱状節理の岩盤を、節理とは直角に交わる方向で穿っていた。
対して、この隧道は柱状節理と平行に近い方向に穿たれており、そこに決定的な景観の違いが生じている。
私は今まで、この方向に節理を貫いた素掘の隧道を見た覚えはなく、大変に新鮮であった。
前回は、こんな印象を持った覚えはなかったのだが…。
振り返り見る、入口。
上の写真の天井に顕れた巨大な節理が、そのまま壁面をなぞって、地面の下に消えていくのが観察される。
何ともいえない独特な疾走感や爽快感のある景観になっている。
膨大な素掘隧道を見てきた私からしても、間違いなく珍しい風景だと思うのだが、これが“ネコバリ岩”みたいに名所として認知されている様子がないのは、“廃隧道”という日陰な存在ゆえなのか、単に未だ知られていないだけなのか。
Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA
↑2015/11/18に、「RICOH THETA S」で撮影。
この画像はマウス操作などで360°の方向にグリグリできます。
日光が射し込んでくる出口は、壁面の天然模様と相俟って、普段以上に神々しく感じられる。
まさに闇からの解放、きわめて爽快である。
そしてこの出口(南口)であるが、こちらも入口(北口)に輪をかけて、人工物っぽい(笑)。
内部の節理を存分に見た今ならば、全く疑いなく自然の造形だと理解しているはずなのに、間近に見るとやはり、石造アーチと見紛うばかりである。
なお、隧道前の浅い掘り割りは水と落ち葉が混合して深いぬかるみと化しており、うっかり突入するとハマるので、要注意である。簡単に脇へ迂回できるが。
そして最後は、隧道南口の近景と遠景である。
こちらから見ると、隧道の掘られた山は特別な地質を隠し持っているように見えないのだが、内部は驚きの様相であった。
おそらくだが、掘削にあたった作業員達も、掘り進めるうちに驚いたと思う。
あと、岩盤が固くて大変だったろうとも思う。大体の柱状節理は玄武岩で、これは非常に堅い岩質である。
遠景は、より平和である。
ここは谷間にあって異例なほど広いので、往時は複線の交換所や関連する林業施設などがあったのでは無いかと思われるが、痕跡があるわけでは無い。
しかしそんな雰囲気のある場所だ。
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