2019/10/28 9:56 《現在地》
なんなのこれ?!
なんでこんなに細いの?
私もこれまで千本以上は林鉄の橋脚を見てきたと思うが、コンクリート造りでここまで細いものは初めて見る。
細い、いや、「薄い」と言った方がより正しいか。
とにかく厚みが少ない。ここから見た感じ、50cmもないはずだ。下手したら30cmくらいしかないようにも見える。
これで高さが人の背丈ほどであれば、違和感も少なかっただろうが、こんなに薄っぺらなくせに高いのである。
木造よりも高く作れることが、コンクリート橋脚の一つの利点であるが、普通のずんぐりとしたコンクリート橋脚と変わらないくらいの立派な高さがある!
この高さと太さのアンバランスのせいで、なんともひょろひょろとした華奢な印象になっている。
友人のミリンダ細田氏など、私が送りつけたこの橋脚の画像に対して、「起ち上がった蛭みたいで気持ち悪い!」と嫌悪感を露わにしたほどだ。おそらく彼がイメージした蛭というのは、コウガイビル(一応検索注意)のことだろう。
林道の路面からも橋脚は間近であったが、もっとこの奇異を近くで見たい! 触れたい! という気持ちになり、私は無理矢理路肩の急斜面を下った。
上から見た感じでも、橋脚が立っている辺りはけっこうな急斜面だったが、実際に足を踏み入れるとそれ以上に急に感じられ、崖っぽい感じだった。
それでも慎重に下って行くと、妙に急だった理由が判明。
上からは存在を検知できなかった玉石練り積みの石垣が、橋脚の周囲に埋め込まれていたのである。これでは下りにくい訳である。
これも林道になってからの構造物ではなく、林鉄時代からのものであろう。
こういうものがあってこそ、こんなに華奢な橋脚でも倒れずにやって行けているのかも知れない。
さあ、やって参りました!
史上最薄橋脚とのふれあいタイム!
手を当てているのは、サイズを測るためだ。
うっかりメジャーを持ってくるのを忘れてきたので、このアナログな測り方になってしまった。
気になる(腕での)実測値は厚み約40cmである。
遠目には、蹴り倒せそうだとか思ったが、さすがに触れる距離に来てみると、それなりの厚みがある。
でも、コンクリート橋脚の厚さじゃない!!(笑)
ちなみに、幅の方は計らなかったが、1m程度であろう。
長方形の柱としての断面積は、0.4平方メートルしかないことに。
そのくせ、こんなにひょろ高い!
上部ほどコンクリートの表面が剥離して痩せているので、厚み30cmくらいになっている部分もありそうだ。
それでも折れてしまわずに済んでいるのは、中に格子状の鉄筋が仕込まれているせいである。
鉄筋はいわゆる丸形鉄筋で、今日使われている異形鉄筋ではない。これだけで、概ね戦前の造営物だと分かる。
これが未知の支線ではなく、滝ノ沢支線本体の遺物だと仮定した場合、この辺りは昭和3(1928)年開設区間内となるが、
この橋脚はその当時からのものだろうか。或いは最初は木造橋脚で、後に改築されたものかもしれないが、
先代橋の遺物らしいものは、全く見当たらなかった。
橋脚からさらに下って、谷底の水際からも撮影した。
砂防ダムが作り出した白い水のヴェールと、橋脚の黒いシルエットの対比が、祝福するような紅葉の鮮やかさに映えていて、とても美しい景色だった。
そう。
決して気持ち悪いばかりではなく、この橋は、構造物として、美しいかもしれない。
地震大国であるわが国にある橋脚は、例えばフランス辺りにある橋脚と比べると、驚くほど太いものになっていて、そのことで構造物としての美観を制約されているという話を、聞いたことがある。
それは、今日わが国に作られる橋脚の構造には、鉄道でも道路でも、地震に抵抗しうる厳格な構造基準が存在しているせいでもある。
だが、林鉄にそのようなものがあっただろうか。
戦後は林野庁通達という形で徐々に整備されていった形跡はあるが、戦前までは各地で自由にデザインしていたのではないかと思う。
同年代の道路でも見たことがないような奇異の姿をしたコンクリート橋脚は、公共交通機関や公道とは異なる、あくまで事業目的のための木材輸送装置でしかない林鉄に許された、自由な発想の賜物ではなかったかという気がする。
しかも、未だ転倒せず立っているのだから、設計者は仕事に成功している。
谷底から、再び這い上がって、林道へ。
その際、砂防ダムの壁面に取り付けられた、建造銘板が目に留まった。
砂防ダムは、昭和55年度に作られたものだった。
滝ノ沢支線の完全廃止より10年以上も後のものであり、橋が使われていた時代には存在しなかった。
風渡る深い峡谷を、軽やかに渡っていく、とび職人のような橋の姿が、目に浮かんだ。
10:07
林道へ戻ってきたが、橋の行き先を探るという大切な仕事が残っている。
奇妙な橋の正体を探る作業は、橋のすぐ上にある砂防ダムの上で行った。
見晴らしのきく堤上から、周囲の地形をつぶさに観察した結果、橋を渡った先の路盤は、上流方向へ90度屈折して、砂防ダムの対岸へ来ていると判断した。
砂防ダムの対岸に、うっすらとだが、路盤を思わせるラインが見えた。
相当に風化している様子であり、かつ一望可能であることから、歩いてみるまでもないと判断したので踏み込まなかったが、険しい地形的に進路選択の自由度が極めて少ないこともあり、これを渡橋先の路盤跡と判断して良いと思う。
林道と対岸“謎”路盤の位置関係を、砂防ダム上から見る。
この先すぐに、路盤は砂防ダムの分厚い堆積物に埋没してしまい、行方不明となる。
この路盤に上流へ進む気があるならば、また自力で地上へ這い出してくるはずだが、ここで一旦目視での追跡が不可能になったので、私も林道に戻って前進することにした。
砂防ダムを過ぎた途端、林道は、それまでの急坂が嘘のように緩やかになった。
微妙に上ってはいるが、軌道跡に相応しいと思えるような勾配だ。
私の脳内で、謎が深まっていく。
対岸へ消えてしまった“謎”の路盤は、これとは別の支線だったのか?
それとも、1本の路線が川を何度も渡りながら上流を目指しているのだろうか?
“謎”の路盤の行き先さえ追跡できれば、解決できたはずの問題なのだが、タイミング悪く砂防ダムに邪魔をされてしまい、真相は膨大な堆土の下になってしまった。やるせない。
10:10
100mほどで、砂防ダムに原因する広河原の上端へ到達。
ここからまた谷が狭まり、本来の峡谷風景が戻ってくるはずだ。
結局、広河原の中には、“謎”路盤が再び谷を渡って林道へ合流してくる痕跡は見当たらなかった。
かといって、対岸の全体に斜面は切り立っていて、支線がどこかへ抜け出していくような余地も、明らかに皆無だった。
“謎”路盤は、砂防ダムの土中に消えてしまったとしか言いようがない状況だった。
状況を地図上に整理すると、こんな感じ。
はっきりしていることは、砂防ダムの直前に橋の跡があり、渡った先の路盤は左折して砂防ダム対岸に続いていたことだけである。
これが、今回の探索で初めて発見した滝ノ沢支線の遺構であったが、いきなり謎めいている。
どこかへ別の支線が逃げ出していくような地形的余地がないので、右図に点線で示したように、対岸へ行った路盤は短距離で再び橋を渡って林道がある右岸へ戻ってきたと考えたが、肝心の地形が砂防ダムによって変化しているので、決定しがたいものがあった。
しかし、ここで抱えてしまった“謎”の答えは、
意外にも、このすぐあとに、間接的な形で、
解決の糸口を掴むことになるのだった。
したがって、この時点で、“答え”が分かった人は、私より鋭いといえる。
一応、答えに結びつくだけの“証拠”は、これまでのレポートで提示している。
つまり、私はそれを目にしていたことになるが、この段階では答えに行き着かなかった。
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