これが駐車場からも少し見えていた、峨瓏大滝だ。
落差12mと案内板にはあった。
江戸時代の紀行家菅江真澄も訪れている、古くからよく知られた名瀑だ。
地形の観点から見ると、これは典型的な懸谷地形にある滝である。
懸谷とは、本流と支流の河床の高さが、両者の浸食のスピード差から大きくなった場合、支流が特別に急流となって本流へ落ちていく状態である。そのため、滝が作られやすい。
わが国の代表的な懸谷は黒部峡谷であり、そのイメージから誰もが了解するだろうが、懸谷は狭くて深い谷となるので、そこを道が遡ろうとするのは、一般的に容易なことではないわけだ。
滝ノ沢支線は、典型的な懸谷地形をなしている、このから始まる“峨瓏峡”という険阻をどうやって攻略していたのか。その解明と体験が、今回の探索の目的だった。
ところで、「峨瓏」(がろう)という、あまり地名では見ることがない漢字を組み合わせた難しい名に、以前から興味を感じている。
前出の菅江真澄は、『しげき山本』(享和2(1802)年)としてまとめられた旅の中でここを訪れ、滝の名前を記さず、「滝ノ沢という村がある。ここの不動尊のほとりにも、すばらしく良い滝がある」というようなことを書いている。
現地の案内板には、滝の名の由来が次のように書いてあった。
「峨瓏とは、山が険しくそびえ立っていて、その流れは急流などを意味することから、今は亡き先人たちは奥山に入り絶壁の景観のすばらしい所を「○○峨瓏」と呼んでいたという。(青森県境の釣瓶落峠を釣瓶落峨瓏)
」
『秋田地名研究年報 第21号』(秋田地名研究会/平成17年)には、「ガロウ」「ガロー」「賀老」などの地名は、北海道の道南の川や滝に多く名付けられていることからアイヌ語由来説があることや、多くが鉱山の近くに存在する地名であること、語源として登山用語として今も使われている「ゴーロ」との関連性などが示唆されているが、確定はしていないようだ。
ただ、秋田県広報ライブラリーで「峨瓏峡」を検索しても、登場するのは昭和50年代からなので、この字で呼ばれるようになったのは、近年のことなのだろうと私は思う。
峨瓏大滝前の駐車場を自転車で出発して、目の前の県道317号を左折すると、このような景色である。
藤琴川の広々とした河谷平野の両岸に、集落が点在しているのが見える。この穏やかさ、大きな滝を背にして眺めた景色とは思えないだろう。
すぐ先の此岸にあるのは滝の沢集落で、遠目の対岸に見えるのは寺屋布(てらやしき)という集落だ。
県道はこの左岸を通っているが、藤琴林鉄の本線は対岸の寺屋布を通っていた。そして目指す滝ノ沢支線は、寺屋布で本線と分かれて、すぐに藤琴川を横断し、滝の沢集落の山手を通って高度を稼ぎつつ、向かって左の滝の沢へ入り込んでいた。支流へ入る前に高度を稼ぐ必要があったのは、その入口にある峨瓏大滝より上に行かねばならなかったからに他ならない。
現在の滝の沢林道は、谷に入るまでのルートが林鉄時代とは異なっていて、このすぐ先で【左折する】ようになっている。
私もそこから軌道跡へアプローチする。
8:39 《現在地》
舗装された滝の沢林道を200mほど登っていくと山際に突き当たり、そこにある切り返すようなカーブの突端附近で、軌道跡と合流する。
林鉄が400mくらいかけて登った高さを、林道はその半分の距離で、あっという間にこなしたのである。
最序盤から、林鉄と林道の山地適応性の差を見せつけられる展開だ。
ちなみにここから起点までの軌道跡は帰り道に探索したので、このレポートの最後に、簡単に紹介しようと思う。
支線軌道跡との合流地点付近から見下ろす、藤琴川本流の広い谷。
眼下に滝の沢集落、対岸には本線を継承した町道のガードレールが見える。
支流へ延びる林鉄の支線が、本流と本線に別れを告げる場面は珍しいものではないが、このように高度感を持って分かれていくのは、少し新鮮だ。
9:42 《現在地》
さらに100mばかり進むと、トンネルが現われる。
平成5年度完成の銘板を持つ、わずか全長20mの峨瓏峡隧道である。
これが貫いている突角のような尾根の下を峨瓏大滝が落ちており、ここから姿は見えないものの、常に瀑音は聞こえている。
冒頭に紹介した古い地形図でも、林鉄はここに短いトンネルを描いていたが、現在ある林道のトンネルが、それを改築したものである。
以前もここまでは来たことがあり、林鉄時代の旧隧道を探し回ったが、存在しないという結論に至っている。
滝ノ沢支線の最大の遺構と目されていたトンネルが“空振り”に終わったことで、これより奥は単純に林道化されてしまっているものと判断し、踏み込まなかったのである。
今回初めて、“峡門”の如し峨瓏峡隧道の奥へと足を踏み入れる。
かつて滝ノ沢支線に出入りするトロッコが連日潜り抜けた、その空間を共有しているトンネルであるが、
現代風の姿に変化してしまった状況がまざまざとしているだけに、いま一つ興奮できないというのが、偽らざる本心だ。
なお、内壁には落水防止のためのコルゲート板が巻かれている。
この板が内側に湾曲し始めているのが目に付くが、通行規制などは行われていない。
内壁の崩壊というよりは、単純に板と内壁の間に隙間が出来てしまっているのだろうが、いずれ修理が必要になるだろう。
たった20mのトンネルを抜けると、そこは谷底だった。
路肩の下を覗くと、連瀑になって落ちていく滝の落ち口があった。
スタート地点とは反対側から同じ滝を見ているわけで、距離的には至近なのだが、もし背後のトンネルが塞がれてしまえば、ここから下界へ生還することは難しいと思える険阻さだ。
こうして滝ノ沢支線、そして現代の滝の沢林道は、峨瓏峡中の道となった。
起点からここまでの距離は、林鉄なら800m、林道なら400mほどである。
トンネルと出た途端、それまで舗装されていた路面は未舗装になった。
とはいえ、乗用車でも普通に走れるフラットな未舗装路だ。
軌道跡とはいえ、これでは枕木やレールが残っているはずもなかった。
峨瓏峡隧道を振り返る。
未舗装路との取り合わせだと、軌道跡っぽい感じが高まる。
平成5年に現在の姿になったようで、それまでは林鉄のままの素掘り隧道だった可能性が高い。
出来ればその頃までに訪れたかったものである。
さて、前進再開、からの――
風景どーん!
林鉄探索としては未だ実入りを得ていないが、風致の探索としては、既に80点台の満足度を叩き出した。
平和な郷里のすぐ隣に、このような風趣が惜しげもなく広がっている辺りに、藤里町が合併せず単独でやっていけると判断しただけの“資産”があるのだろう。
大滝のすぐ先には、ご覧の滝が待ち受けている。
これが下の案内板に出ていた白糸二段の滝だろう。
すばらしい景色だが、右端に見えているのは林道で、軌道跡である。
この林鉄は、すばらしい景色の中を潜り抜けていた。
やはりこれが、白糸二段の滝であった。
しかし、近づいて見ると、最初に見た時に予感したものより遙かに大きな滝だったので、驚いた。
連瀑になっている滝の途中で行合沢が合流しており、最初に見えた一番下の滝は合流地点よりも下だが、
2段目と3段目の滝は、最初は見えなかった行合沢の奥に、遙かに大きなスケールで存在していた。
懸谷地形のなんたるかを思い知らせるように、滝の沢へ入った途端、本流とは全く違う険しさが世界を支配している。
かつて運材に従事した人びとも、木こりたちも、この景色を眺めながら滝の沢の奥を目指したのだろう。
そう思うと、ことさらに目に焼き付けたくなるのが、オブローダーの心境だった。
軌道跡である林道は、白糸二段の滝の一番下の段の高さはどうにか乗り越えて、上流へ。
この辺りがすでに峨瓏峡として知られる景観の核心部だと思われ、両岸とも非常に鋭く切り立っている。
どのような策を弄しようとも、谷から這い上がることの出来そうにない、進むか戻るしかないというような地形だが、幅4mほどの林道は左岸の崖下を縫って奥へと延びていく。
林鉄時代の道幅はこの半分くらいしかなかったはずで、山側の法面を切り広げたのか、川側に新たな擁壁を設けて拡幅したのか、おそらく後者であろうと思う。
9:49 《現在地》
トンネルから約300m進むと、滝の沢を渡る橋が現われた。
大ぶる古びて見える橋で、四隅の親柱に取り付けられた銘板には、「滝の沢橋」「秋田営林局」「たきのさわはし」「昭和四十一年十二月竣工」と刻まれていた。
昭和41(1966)年竣工ということは、前説で紹介した【『全データ』の記録】
■昭和38年度、200mを廃道。(3950m)
■昭和41年度、560mを自動車道に編入、740mを廃道。(2650m)
■昭和42年度、622mを自動車道に編入。(2028m)
■昭和43年度、1448mを自動車道に編入、580mは改良による延長減で全線廃道。に照らすと、昭和41年度に自動車道化された560mの区間内に含まれているのだろうと推測できた。
周囲に林鉄時代の橋の跡がないかを探してみたが、橋脚、橋台共に見当たらず、全く同じ位置に再築されていると判断した。
右岸へ移って50mほど進むと、ちょっとした広場があった。
この狭い谷底で、自然に生じたのではないと思われる空間で、周囲の崖にも手が加わっているのか、
片洞門を思わせるような凹みがあるのが目を引いた。しかし、現状はただの空き地に過ぎない。
もう一つ目を引いたというか、気になったのは、この先の林道の勾配だ。
広場を過ぎて少し行くと、次第に勾配が加わってきて、かなりの急坂になっている。
林鉄には不似合いな急勾配と思えるのだが、地形的に九十九折で回避する余地があるようにも見えず、
“多少無理はあるが、無理矢理に登っていた”ということなのだろうか……と、解釈した。
問題の急勾配区間へ突入!
9:54 《現在地》
おおよそ10%前後もあるかと思える急坂を100mほど登ると、前方に砂防ダムが見えてきた。その瞬間、
「ああ、なるほどな」 と、私は思った。
林鉄時代にはなかった砂防ダムを乗り越えるべく、林道が嵩上げされ急勾配になることが、よくある。
これもその類だったと、そう合点がいったのである。
だが、
合点のいかないものを、見つけてしまった。 ……今の画像の中に。
もう一度、画像を見ていただきたい。
砂防ダムの手前に、“なにか”が、立っている。
まさか、これって……?
橋脚だ!
それも、林鉄の!
ついに見つけた、滝ノ沢支線の遺構ッ!
しかし、真に驚くべきは、
この橋脚のカタチだった。
細っそい
細そい!!!
正直、 きもちわるい!
過去見たことがないレベルで、異常に薄っぺらいコンクリート橋脚を発見した。
見たことがない構造だが、林鉄用であることは、ほぼ間違いないと思われる。
だが、この橋を渡った先は、どうなっているんだ?!
昭和28年の地形図には、こんな奇妙な線形は描かれていなかったはずだ。
地形図に描かれず、『全データ』にも記載されなかった、“幻の支線”だろうか?!
この異形な構造物の正体は、果たして?!