廃線レポート
玉川森林鉄道 その12
2005.3.10
玉川9号隧道
2003.11.19 14:36
藪の向こうに見えた穴は、山行が史上稀に見る、奇異な姿をしていた。
当サイトをご覧の皆様が、隧道(トンネル)というものに感じておられる魅力の大半は、その深さからくる探険性や神秘性であるかと想像する。
そのような点からは、この隧道の魅力というのは薄いだろう。
だがしかし、人や物が通ったという、根元的で機能としての隧道と捉えたとき、えもいわれぬ迫力を醸し出して見える。
わざわざこの程度の土被りを残してまで、敢えて隧道として竣工したことに驚き、崩壊を重ねた結果か、巨大で歪な断面になってしまったこと、そして、なお今に残っていたことに、涙さえするのである。
私は、久々に、隧道の味を噛みしめた気がした。
長いだけ、深いだけ、怖いだけが、…隧道ではないのだ。
重力に身を任せ、内壁の剥離崩壊を繰り返す、乾いた洞内。
これほどの短さでは、地中特有の冷気など無いかと思われたが、そんなことはなく、染み出してくるような冷たさが、ある。
カラカラと、乾いた音を立てて崩れる、足下の岩塊。
洞上に残った僅かな山肌は、やせており、まるで山水画のような風情がある。
少ない養分を求めて張り巡らされた蔦のような根が、わずかに地山の強度に貢献しているのかも知れない。
どこからどのようなアングルで撮影しても、絵になる隧道だと思った。
このような隠された名隧道が、国道の喧噪(というほどでもないが休日を除いては)のすぐ谷底に、今なお隠されていたのである。
しかし、国道は垂直に近い斜面の上方にあって、そこから近づくことは困難でもある。
知られざるべくして知られざる物件だったのだと、思う。
ますます、好きになった。
惚れたね。俺は。
8号隧道もそうだったが、この9号隧道もまた、片方の坑口の先は、路盤が現存していない。
おそらくは、国道工事の時に残土が落とされて埋められたのか、そのようなガサツな工事がなかったとしても、隧道が穿つ尖端部をさけて落ちる落石や雪崩が、長年かけて軌道敷きを斜面と一体化させてしまったのだとも考えられる。
私は、ここでも軌道敷きを一旦放棄し、僅か5mほど下方を流れる玉川の河原へと降りることにした。
そして振り返って撮影。
もはや、軌道の隧道とは思えぬほど自然に還った姿の、北側坑口である。
それにしても、旧軌道の隧道は、使用期間もそう長くない上に、昭和30年代の廃棄という、荒廃に十分すぎる用件を備えており、実際にほとんど原形をとどめぬ遺構が多いことが特徴だ。
一度これまでを整理する意味で、旧軌道の遺構として数えられるものを、列挙してみる。
下流から。(
マークにリンク張ってます)
●
田沢地区・新旧分岐点
●
猛烈な藪と突破して耳除地区
●
町道と併走するが、途中の
2号隧道
は崩壊閉塞。
●
鎧畑ダムによる水没区間。ダム水位が下がると、数本の隧道が湖岸に見えることもある。しかし、最も長く深い位置にある
3号隧道
は、目撃例無し。
4.5.6号各隧道
(らしきもの)が見えた。
●
国道の玉川大橋付近で汀線より離脱。付近には
7号隧道
があり。
●
(今回レポ)玉川大橋よりも上流には、順に
8.9号隧道
がある。
<現在地>
ここまで旧軌道は、分岐点から約10km。
稀に見る長大な付け替え線であった。
しかし、それも今、終わりは近い。
玉川ダムへの接近… 新旧分岐点
2003.11.19 14:44
玉川の河床の景色。
あと2kmほど先には、決して狭いようには見えない谷を丸ごと通せんぼする、大きな大きなダムが見える。
これは巨大な二つの人造湖に挟まれて僅か数キロ残された、玉川のせせらぎである。
しかし、その景色は、おおよそ河口(雄物川水系玉川)から200kmを越えた地点とは思えぬほど、広々としている。
源流とは行かないが、ここはもう中流よりも遙かに、それに近い場所なのに。
そんな風に見える原因は、谷の広さばかりではない。
ダムの放水は余程凄まじいと見えて、河床には氾濫源が無く、全体が水路の予備的な場所になっているのだ。
そして、ときにそこを流れるのは、玉川特有の酸性水。
植生の河川侵入は、おそらく他のどの河川よりも、少ない。
さらに遡ると、河床の景色は変化する。
おおよそ荒涼とした河原が続くかと思われたのに、ゴロゴロと転がる岩石の表面が、絨毯のような緑色の植物に覆われているのだ。
それは、河原の右岸側に選択的に密生しており、当然足を踏み入れることになる。
すると、踏み心地はまさに、高級な絨毯そのもの。
やんわりとした触感が、なんとなくグロテスクだ。
酸性水の影響か、岩の上下で全く色の異なるものがあることにも、注目して頂きたい。
写真右前方、ダム手前に見える橋は、旧国道の玉川大橋(現国道橋と同名)で、あそこが新旧軌道の合流点であった。
河原を埋め尽くす緑の絨毯の正体。
それは、コケの一種である。
その厚みは驚異的であり、その中心部にはそっくりそのまま岩石が覆い隠されていると思ったが、じつはこの丸々がコケと、それに内包された真っ茶で粘着性が非常に強い泥である。
この岩場が、酸性水環境に適応したコケの独壇場となっていた。
これもまた、ダムによる河川環境の変化によってもたらされた環境破壊なのか、酸性水によるものだけなのか、それは分からぬが、不思議で異様な光景である。
超密生コケ地帯は、数百メートルにわたり続く。
湿地のように玉川の余水が溜まった地帯に、行く手を阻まれる。
ここでは、一度葦原に侵入してしまい、進路を見失った。
引き続き、軌道跡などというものは、まるっきり消失したままである。
残存度としては、最低の状況が続く。
軌道探索と言うよりは、もはや単純に川を遡る行為になってきた。
それでも、右岸に旧軌道があったはずだと、そう信じて進む。
やや河床から離れた森に、たしかに点々と平場が続いてはいたが、痕跡はほとんど無い。
その途中、地中から冷気が漏れだしている、不思議な岩場があった。
見るに、国道の方から落ちてきている沢が伏流しており、水音は聞こえねども、これが天然の涼気をもたらしているのだと想像された。
一時は、開削された隧道の残骸がこの岩山かとも思ったが、地形的にそれはなさそうである。
さらに進む。
玉川はさらに遠ざかる。
目前には、軌道跡を横断するような銀色のパイプが見えてきた。
また、なぜか一本だけ、良く道路脇に設置されている雪国特有の道幅告知ポールが、軌道跡の上に立ち尽くしていた。
足下はシダ植物の密生しており、その下には、国道から投棄されたと思しきミニバイクやらママチャリの残骸が転がっていた。
ここもまた、国道の直下である。
その銀色のパイプは、国道が大アザミ橋で渡っている沢の水を流す水路だった。
やはり、一帯には大規模な地形の改変があったようで、人工水路によって排水されている。
旧軌道は、もう二度と人の通り道として利用することを想定されない片づけ方をされているようだ。
そして間もなく、久々の車道が合流してくる。
これは、旧国道と現在の国道とを、ダム工事中の一時バイパス連絡するために建設され、工事後もそのまま残された道である。
高い位置にある現道と、谷底の旧道を結ぶ、3つのつづら折りからなる、急な道だ。
まがりにも国道だった時代もあるだけに、十分な道幅がとられてはいるが。
旧軌道跡は草地になり、それから荒れ地となり、そしてこのアスファルトに飲み込まれ、終わる。
旧軌道は、正面の草むらの中の道から続いていた。
写真は振り返って撮影したもの。
奥の巨大なV脚ラーメン橋は大アザミ橋だ。
今日の探索予定をほぼ終えた私は、久々のアスファルトの感触にホッとしながら、今度は旧国道(=付け替え軌道跡を辿って玉川大橋に残した愛車の回収に向かうこととした。
今度は左岸を通って戻るのだ。
思いのほか、この「その12」が長くなってしまったので、レポートを一回延長します。
次回「その13」こそ、最終回。
お楽しみに。
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