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2021/1/18 15:46 《現在地(全体図)》/《現在地(拡大図)》
今回の探索における最大ターゲットである横吹第二隧道の探索を終えたが、探索はこの地点を折り返しとしてまだ続く。
冒頭に説明した通り、ここには2世代の廃止旧線が平行して存在しており、先に旧旧線を終えたので、次は旧線の廃線跡を帰路としてスタート地点へ戻る計画だ。これは、本編第1回に【国道から見上げた】“初鹿野の鉄橋”の跡地を横断してみようという、メジャーな廃線跡ながら地味に前代未聞かもしれない野心的な帰路だった。
というわけで、現在地は旧旧線の潜り終えた横吹第二隧道東京側坑口前である。
坑口前にいる限りは、このように視界を遮るフェンスと落葉の積もった舗装路くらいしか見えないが、ここからほんのちょっと移動すると、一気に4世代分の鉄道線路と、さらに道路が絡み合う、複雑怪奇な場面となるので、読者の皆さまにおかれましても、落ち着いてレポートに付いてきて欲しい。
まずは振り返って、終えたばかりの坑口を見ましょう。
おおっ! なんか外観が全然違う!
【甲府側坑口】はオーソドックスな煉瓦造りのしっとりとした佇まいであったが、こちらは近隣の笹子隧道を彷彿とさせるような総石造りによる厳格な印象を与える姿だった。
同じトンネルの両側の坑口の形状が異なることは、立地条件が異なれば珍しいことではないが、全く材質が違うというのは、珍しい気がする。
チェンジ後の画像は、少し引いて坑門全体を撮影した。
あまり目立たないが、両側には付け柱が設けられていて、なかなかに畏まっている。
とはいえ、崖地に近い土地の狭さを反映してか、坑門全体のサイズ感はコンパクトだ。
坑門直上は土被りもほとんどなさそうで、しかも斜面沿いという、いかにも偏圧を強く受けそうに見える立地であった。
そして、旧旧線のすぐ谷側に隣接して、旧線が存在した。
崩壊の兆候を見せていた旧旧線の代わりとして大正6(1917)年に開通し、平成9(1997)年まで長らく使われた旧線である。
旧旧線の坑門の隣には旧線の橋台があった。桁は撤去されているが、資料によると前沢橋梁という橋だったそうだ。
まるで複線みたいな位置関係だが、あくまでも新旧線の関係であり、同時に使われていない。
帰りはこの旧線を辿るが、その前に現在線との合流地点を見に行こう。
ごちゃぁ…
廃線跡しかなければ、ここまではややこしくはならなかっただろうが、そこに道路が立体的に枝分かれしながら入り込んできているから、ワケが分からない感じに。
枝分かれする道の行先はいろいろだが、大局的に見れば国道とここを結んでいる道だ。国道からここまでは特に封鎖もされていないので、誰でも上がってこられるはずだ。
チェンジ後の画像に旧旧線と旧線の位置を色分けして表示したので見て欲しいが、廃止の早い旧旧線は道路に空間をすっかり奪われて、路盤の形さえ残っていない状況だ。
これは前の写真と同じ立ち位置から、谷側を向いて撮影した。
目の前は旧線の前沢橋梁跡地であり、石造り一部コンクリート改修済みの大きな橋台が残る。
橋の下を道路が潜っている形だが、旧線の現役時代からこの道はあった。
ちなみに向こうの山に見えているのは高速道路だ。
谷底近くを甲州街道(国道20号)が通る日川峡谷の両岸高所に相対して、中央本線と中央高速が共に笹子の長大トンネル目指して駆け上る。
この辺りの交通の輻輳感は、列島の“中央”を貫く大動脈の凄みを感じさせて、私は大好きである。
道路敷や空地となっている旧線および旧旧線跡地の奥に、複線となっている現在線が見えた。
数枚の写真を撮っているうちに、タンク車を連ねた上りの貨物列車がトンネルに挟まれた一瞬の明り区間を駆け抜ける場面を捉えた。
廃線跡の哀愁なんてものを欠片も受け取らずに首都へ驀進する姿は、今も生き続ける鉄道のあるべき姿で、とても頼もしかった。
@ 旧線の単線時代 | ![]() |
---|---|
A 上り線新設による複線化 | |
B 下り線の新線更新 |
少々複雑な4世代の線路更新については冒頭でも説明しているが、全ての世代が一箇所に集まる現在地周辺の変化について、航空写真で復習してみよう。
上に掲載した3枚の航空写真において、建設時期が異なる4世代の線路を色分けしている。
まず、旧旧線が使われていた時代には航空写真は撮られていない。
なので、@昭和23(1948)年版は、旧旧線に代わる旧線が単線で使われていた時代のものだ。
大正6年に廃止済の旧旧線の痕跡は、横吹第二隧道から延びるラインが微かに見えるが、当時から橋などの目立つ遺構はなかったようだ。
A昭和47(1972)年版になると、昭和43年の複線化によって登場した「上り線」が現われる。従来の線路は「下り線」となった。加えて、複線化工事の工事用道路なのか、国道から登ってくる九十九折りの道路が新登場した。この道路は「下り線」の前沢橋梁を潜って、さらに旧旧線の跡地を流用した。また、上り線と下り線が分れるところに建物の屋根が見える。これは@の時代からあるが、保線関係の詰所だろうか。
B平成27(2015)年版では、従来の「下り線」を置き換える新たな線路が「上り線」の隣に出現している。この工事によって、@とAにあった線路脇の建物がなくなっているほか、道路もさらに拡張されている様子が分かる。
以上の経過を見ると、旧旧線の遺構は隧道以外何も残っていないことが理解されると思う。
15:56 《現在地》
旧旧線の敷地を流用している道路を進むと、すぐにゲート付きのフェンスに突き当たった。
この奥は現在線であるため、立ち入り禁止になっている。
チェンジ後の画像はフェンス越しに現在線との合流地点を覗いてみたが、やはり古いものは残っていなさそうだ。
私はここで引き返した。
折り返して、ここからは旧線跡を探索していく。
まずは、この左の空地が旧線跡だ。
この部分にはバラストが少し残っていたが、枕木やレールは撤去されていた。
また、谷側に緑色の転落防止柵が残されていた。
バラストが残る旧線敷から、日川の谷を通して笹子峠の山陵を眺望した。
旧線時代の車窓から見えていた景色の再現といえるだろう。
このまま旧線を辿って行きたいが、さっそく最初の障害が立ちはだかる。
それは、渡るべき桁を撤去されてしまった前沢橋梁である。
元は2径間の上路PG橋で、第一径間を潜っていた道路は今も健在だ。
写真は東京側の橋台である。
ここからが廃線跡探索としての後半部の本番だ。
撤去された橋の跡を辿って、次の路盤を目指さねばならない。
良識ある『鉄道廃線跡を歩くVI』は遠望だけを紹介した区間であるが、私はやっぱり歩いてみたいぞ!
この場面、ぱっと見だと旧線の続きがどこにあるのか見えない。
前沢橋梁の1本の橋脚は既に撤去されており、甲府側の橋台は少し遠いので、斜面に隠されて見えにくいのである。
だが、このように草木の落ち着いたシーズンだと、ギリギリ奥に見える。
特に踏み跡は見当らないが、“矢印”のように斜面を進めば、甲府側橋台へタッチできそうだ。
かつては橋の下だった斜面を横断して行くと、太い倒木の先に、目指す橋台が待ち受けていた。
これで前沢橋梁跡を突破!
16:02 《現在地》
おおお!! 有名な廃線の危険な区域、本に載らない場所へと辿り着いた!
しかも、地形条件の厳しさを物語る明け透けすぎる片側の開けっぷりに大興奮!
まるで林鉄みたいに逃げ場のない崖っぷち!
初代横吹第二隧道の危機を理由に仕方なしで生み出された2代目の線路だけに、穏便な線形を選ぶ自由はなかったのだろう。
こんな危険な単線が、中央本線の“全て”だった時代は長かったが、鉄道の旅情を盛り上げることへの貢献ぶりは確かであったようで、ここを含む“初鹿野の鉄橋”という情景は、ある世代の鉄道ファンなら誰もがどこかで目にしたことがあるようなメジャーなものだった。
ここでは例によって読者様の力を借り、時を超えて甦る、かの有名なる情景を、ご覧いただこう。(↓)
ここには旧線上にある2本の鉄橋が見えている。手前にあるのが前沢橋梁で、奥が(これから挑む)横吹橋梁だ。
現在は失われている前沢橋梁の橋脚も写っており、道路の位置関係もよく分かる。
新旧の横吹第二隧道の位置関係も一目瞭然である。
この写真を撮影されたEiichi Hanawa様からいただいたコメントも紹介したい。
切り替えられて28年。ここを通ると、今でもこの斜面を見つめてしまいます。特急も、急行も速度を落として通過していた場所、背筋を伸ばして乗っていました。
この旧線を実際に利用された撮影者様のコメントも貴重だ。
その中に、列車がここを通るときには必ず速度を落としていたという内容があった。
これは利用者に素晴らしい車窓を楽しんで貰いたいというサービス精神の減速だっただろうか。
私にはそうは思えない。隣接する旧トンネル内で繰り広げられていた不良地盤との激しい格闘を既に知ってしまった私には、地盤をあまり刺激しないように優しく通過していたとしか思えない。特別な制限速度が設定されていたのではないだろうか。
素晴らしい写真とコメントのご提供、ありがとうございました!
次回は、禁忌の国道法面に挑む?!