廃線レポート 豆相人車鉄道・熱海鉄道 大黒崎周辺 第3回

公開日 2016.4.11
探索日 2016.2.21
所在地 静岡県熱海市

惑わしの凹地と、その界隈


2016/2/21 11:51 《現在地》

国道と有料道路に挟まれた落差100mの海崖の中腹に、人車鉄道の路盤跡を発見した。
発見&到達の直後ではあるが、私は既に、これこそ探し求めていたものであると確信していた。

例えば、ここが集落や耕地のもっと近辺であったならば、こうした平場を見つけても、“他の何か”かもしれないという疑いを簡単には消し去れなかったと思うが、ここでは地形の厳しさという悪条件(土地を活用しにくい)が、調査活動上で有利に働いた。

なお、この写真は路盤に降り立った“最初の地点”から、熱海方向(南側)を撮影している。
この撮影の直後、真っ直ぐこの方向へ探索の足を進めたのであるが、反対の小田原方向(北側)へ戻って探索をしなかった理由は、次の写真(↓)だ。




“最初の地点”こと緩やかな尾根の先端部の北側は著しく傾斜が急であり、しかもそこを横断していなければならない路盤は、ほとんど跡形も無く崩壊していた。
眼下の高低差は極めて大きく、木々の隙間から見える彼方の舗装道路と青すぎる海は、恐怖の対象であった。

この状況でも、目に届く範囲に次の平場が見えていたとしたら、もう少しは頑張ってみる気にもなっただろうが…。

最初こそ、想像以上に形をよく留めた路盤に優しく出迎えられた私だが、その僅か数メートル隣の“現実”を目にしたことで、事前の机上調査で散々教えられた、「関東大震災で壊滅的被害を受けて、そのまま廃止された」という、あらゆる廃線の中でも有数の厳しさからは目を背けられないことを理解した。
これはやはり、一筋縄ではいかなさそうだぞ。



路盤跡探索の開始直後、南に20mばかり進んだ所から“最初の地点”を振り返ったのが、この写真だ。

まじまじと、眺める。 そして、

とてもいい! と思った。

さんざん使い古された表現だが、「今にもカーブの向こうから車両が現れそう」なカーブ風景だった。
ガタガタと音をたてながら、ひょっこりと、しかし自身の正当性を微塵も疑わない力強さを伴って、人の押す、あるいは小さな蒸気機関車が引く列車が現れる場面を、簡単に幻視できた。

おそらく、豆相人車鉄道や熱海鉄道の廃線跡で、外の用途に転用されずに純然たる遺構として残っている場所は、全長約25kmという長途の中にあって、この一連の区間だけだと思われる。
それだけに、私はとても勢いづいていた。





“最初の地点”から30mくらい離れると、地形はゆったりしはじめた。
地形図を見ても、この辺りの等高線の密度は急峻な一帯のなかで例外的に疎らだが、その通りの地形である。
だが、緩やかならば歩きやすかろうというのは安易な考えで、廃止後1世紀を経ようという路盤跡は、もはや山野そのもの。すなわち、植物の繁栄に呑み込まれていた。

そして今、前方にふた通りの“可能性”(矢印)が見て取れる。

右は、これまでと同様の浅い掘り割りが続いているから、これが本命である。
対して、やや左に逸れながら崖沿いに進むルートも十分あり得るように思われた。むしろ海沿いを進むという原則から見れば、より自然な気もする。

まずは、本命の右を選ぶ。




11:52 《現在地》

“正面”を選ぶと、このようなところへ入り込む。

幅2m程度の狭い掘り割りが10m以上真っ直ぐ続いており、普通に考えれば、これこそが路盤跡だと判断して終了するところだが、

この先の展開は、少しきならず予想外であって、以後の私を悩ませることになった。

具体的にどうなっていたのかは、次の写真をご覧頂きたい。




妙に広い凹地に突き当たった ?!

「広い」と「凹地」の両方が、「予想外」だった。

幅2m程度の「狭い」掘り割りを抜けた先に、突如、このような「広い」平地が現れ、しかもそれは、周囲をかなり高い段差に囲われた「凹地」であったのだ。

地形図を見る限り、この辺りの地形は山から海へと落ちる単純な斜面で、このような広い凹地が存在するというのは、とても不自然だ。

そして不自然ということは、人工的な地形が疑われるわけだが、果たして人車鉄道や軽便鉄道を敷設するのに、このような大規模な地形改造が必要になるだうかという、大きな疑問が生まれる。



写真は、この凹地の海側に連なる小山状の地形。

築堤や築山のような形をしているが、もしそうであれば、構成している土砂も小さな岩の欠片であるはずだ。
だが、実際には表面の所々に黒い大きな岩盤が露出しており、その正体は、地山である。
おそらく凹地を削り出した際に、削られずそのまま残され部分だ。

それよりも問題は、このまま進んでも、行き止まりが予想されることだ。
凹地は三方を固い地山の壁に囲まれた袋小路のように見て取られ、このままだと、直前の一本道である掘り割りも含め、「路盤跡ではない」と判断すべきことになるだろう。

…そんな未来は、もはや揺るがないと思われた。




が、

再び直前の予測を裏切る展開が、待っていた。

遠目には、このまま袋小路で終わると見えていた凹地だが、実際に奥の方まで行ってみると、

小さな出口が、存在していた。

それがこの写真の切り通しである。

こうして、通り抜けが可能であると判明したことで、ここが路盤跡であるという期待度も、だいぶ“復活”したのだが、なおも「大きな疑問」が残ったままだった。



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これは、切り通しの前で撮影した360°パノラマ写真である。
矢印が進行方向となる。周囲の凹地の広がりを感じていただきたい。
路盤築造のためだけに開削されたとは考えにくい規模というのが、分かるだろう。

凹地周囲の岩盤が露出している事と、この海岸一帯は江戸時代から石材を産出していたという史実を根拠に、
この謎の凹地地形の正体は、石切場である可能性が高いと、私は考えている。



石切場跡とみられる凹地の山側の壁は、このように高く切り立っている。

この上部の斜面を国道が通過しているが、高低差があるため見通す事は出来ない。

果たしていつ頃まで稼働していたのだろう。樹木の育ち方から見ても、近い過去ではないだろうが。


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先ほど書いた「大きな疑問」というのは、

果たしてこのクランク状の線形を、鉄道が受容するだろうか?

…というものだ。

ちなみに、奥の白線は、海側の路肩位置を示している。その向こうは急傾斜に落ちている。
したがって、この小さな切り通しを線路が通っていたとすれば、必ずクランク状の線形になってしまう。

凹地が純粋な自然地形であればまだしも、わざわざ開削した人工の地形であるだけに、こんな悪線形を選ぶことの不自然さは際立っている。
そもそも、人車はさておき、軽便鉄道の場合、このような線形を曲がりきれるものだろうか?
単に石切場の出入口なのかもしれない。

なお、廃線跡に関する疑念や疑問が急速に膨らんでいく中、純粋に嬉しい発見もあった。写真の矢印のところが、妙に「キリッ」として見えるが、そこには…




石垣キター!!

目地をモルタルなどで補強しない、空積みと呼ばれる最も原始的な石垣だ。

原始的というだけあって、築造された時代はいくらでも遡れてしまい。
昭和、大正、明治どころか、江戸時代以前の可能性もある。
だからこれだけではまだ情報量も少ないが、少なくともこの場所で過去1人以上の人間が汗水を垂らしたこと、そして、そのような難儀な行為をする動機が存在したは、はっきりした。

で、ここで少しだけ話を先回りするが、この石切場跡らしき凹地を取り巻く一帯は、概ね右図のような配置になっていた。

なぜ先に明かすかというと、発見した順序で逐一紹介をしようにも、余計な障害物が多過ぎて、写真からそれぞれの位置関係を伝える事が極めて難しいからだ。
なので説明の便宜のため、先に配置を紹介したというわけだ。

なお、廃線跡探索としては最も重要な問題である、線路がどこに敷かれていたかという点についても、図示した2ルートのどちらとかの解決が付いていない。
石切場の廃止が、明治27(1894)年の人車鉄道開業時より古ければ、その跡地を活用して軌道を通したという可能性も出てくるが、その辺りの情報が不足している。
ただ、個人的な感想としては、線形的にも障害物的にも、敢えてここで海側を通らない理由は乏しい気がする。



切り通しを抜け出た地点(すぐ上に掲載した地図の「現在地」の位置)から、切り通しを振り返って撮影したのが、この写真だ。

石切場らしき場所を取り囲むように、高さ3〜5mほど(高さは場所により一定しない)の土堤ならぬ“岩堤”があり、それは本来の地山を削り残したもののようだというのは既に述べた通り。
その“岩堤”の一部に、どういう必要からかは分からないが、石垣が設えられていた。

写真では、石垣と地山の区別がほとんど付かないと思うが――




――このように、石垣の表面は(そして地山の表面も)一様に常緑のツタ植物に覆われているためである。

ゆえに、せっかく規模の大きな石垣遺構が存在するにもかかわらず、それを写真から伝える事は難しい。口惜しいことだと思った。




実際に壁を手で触れながら確認したところ、切り通しの北側には、右図の黄線で示したような石垣が存在していた。
(石垣に隣接して生えている木は、太さ50cmを越える大木だが、築造時点で既に生えていた可能性もある。)

石垣の面は途中で一度直角に折れ曲がり、奥行き5m横幅3mほどの二方を石垣に囲まれた一角を作り出していたのである。

さらに、矢印で示した辺りの地面には、先ほどの図で“穴”と表示したものが存在していた。




巨大な倒木が大蛇のように地面を這う一角に、四方を切石によって囲まれた、四角い小さな窪みがあった。

ここは本レポート(今回)の上から4枚目の写真の所で分岐した“海側ルート”の連なりにある場所だが、“穴”はこの“海側ルート”が廃線跡であると仮定した場合、それを邪魔しない位置に存在する。

(ここから“海側ルート”を辿ると、【写真】のような感じで少し藪は濃いが、地形的には特に障害物も高低差も無く、数十メートルで【分岐地点】に出た)




“穴”は、一辺が40cmほどの正方形で、中には大量の落ち葉と雨水が溜まっていた。
近くにあった木の棒を差し込んでみると、思いのほか深く、30cmくらいはある。
そのまま棒の先で水中をなぞってみたが、内部に横穴などはなさそうだった。単純な直方体の水槽である。

そして気になるこれの正体だが、おそらく便槽ではないだろうか。
馬などの水飲み場というのも考えたが、高さが低過ぎるだろう。
ここには、便所があった可能性が高い。




また、すぐ近くの地面に埋もれかけた、錆びたワイヤーを発見した。

これまで辺りで目にしたものは、石切場に切り通しに石垣に便槽にと、どれも年代の予測が出来ないものばかりだったが、このワイヤーだけは近世以前を否定している。

ワイヤーは地面から僅かに露出しているだけで正体は不明だが、ここで目にした一連のものを関連付けるとしたら、ここにはかつて石切場があって、石垣に囲まれた作業小屋(便所付き)があって、石材を運び出すための索道(ワイヤー)があったという仮説が成り立つ。

石切場の稼動開始時期については全く不明だが、廃止された最終の年代は、ワイヤーの腐朽具合から推測し、人車軌道や軽便鉄道よりもっと後の昭和の時代と推測された。もちろん、石切場と人車・軽便鉄道が同じ時代に稼動していた可能性は十分ある。



Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

このややこしい惑いの場のまとめとして、切り通し前で撮影した360°パノラマ写真を掲載する。

ここには人車鉄道と軽便鉄道だけでなく、何か別のものの遺構が混ざっていて、そのために複雑な状況になっていた。
正直、完全解明にはほど遠い理解度だが、本稿では「廃線跡は切り通しではなく海寄りルート」として進めたい。
ちなみに、この位置に人車・軽便両鉄道の“駅”が設置されていたという記録は無いようだ。



さて、ここを離れるとしよう。

今度はこの鬱蒼とした大木の森が、廃線跡探索の舞台になるようだ。