道路レポート 国道229号旧道 蝦夷親不知 第2回

所在地 北海道せたな町
探索日 2018.04.27
公開日 2020.08.06

突入! 美しき廃門の誘う地へ


2018/4/27 12:55 《現在地》

虻羅トンネルを通り抜けて100mほど北上した地点にいる。
目的地を少し通り過ぎているが、ここに“窓岩”という奇岩があって、海上のそれを眺めるための駐車スペースがある。自転車をそこに止めて歩くことにした。

ここから見える視界の果ての切り立ったシルエットは、約10km先にある茂津多岬である。
昭和50年頃まで、国道はその手前で行き止まりになっていた。
今から振り返って突入しようとしているのは、国道がまだ行き止まりだった時代、昭和47(1972)年まで、国道として使われていた道である。




これから突入するのは、この旧道だ。

虻羅集落側から見るよりは、だいぶ穏便な景色だと思う。…これでも。
私も5日間ずっと北海道の海崖と戯れたので、内地の感覚よりは少しだけスケールアップに慣れてきている。

虻羅側と違って、この島歌側からの景色は、拒絶よりも誘惑の度合いが強かった。
オブローダーを喜ばせることに特化した景色だった。こうやって現道からあからさまに“旧隧道”が見えることが稀だとはいわないが、途中に海を挟んでいるため意外な遠望になっているのが面白く、蠱惑的だった。
それに、どんなに短い隧道なのか!
貫通した向こう側の空が見えるのが新鮮だ。
隧道というより、石の門みたいだ。



もちろん、これを眺めて終わりにするつもりはないが、
初っ端から険しいですな!!

先に虻羅側の景色を遠望して、「自転車は無理!」だと部分的白旗を揚げたわけだが、その場面が無かったとしても、これを見た時点で、同じ結論に至っただろう。虻羅側からも崩れかけのロックシェッド(覆道)がいくつか見えたが、こちら側にもそれがある。
しかし、完全に崩壊し尽くしている! 残骸の山だ。

というか……、そもそもミスマッチだぞこれは…。
掘りっぱなしの完全なる素掘り隧道と、金属製ロックシェッドの取り合わせ。
そもそも、舗装はされていたのか? 砂利道とロックシェッドという取り合わせもなかなか見ないものだし、それにガードレールとか落石防止ネットなんかも全然見当たらない気がするんだが……。
もしや、ロックシェッドに全ての護りを委ねちゃった感じか…? それで大丈夫なのか? いや大丈夫じゃないよね。(早くも断言)




13:00 《現在地》

準備は万端。それでは参ろう!
虻羅トンネル北口がそのまま旧道の分岐地点だったようだが、現道のガードレールが邪魔をしていて、最初の一歩から“路外”感しかない。

今までいろいろな旧国道を探索したが、分岐時点でここまで痕跡が乏しいというのは珍しい。“明治国道”とかで戦前に切り替えられた旧道なら分かるが、昭和47年まで現役で、ロックシェッドなんていう現代的なものがゴロゴロしている道なのに。
一瞬、故意による廃道化工事(緑化工事)を受けたのかとも考えたが、ここから見えている奥の方の状況は、あらゆる作為を否定していた。

ガードレールの奥で旧道の進路を邪魔するように、1本の錆び付いた標識柱が立っていた。
肝心の標識板が見当たらないが、十中八九、「通行止」の標識だろう。
十分自然に還ったと見做されれば、標識の更新も忘れられるのだろう。




あと、この看板があった。
ヒグマ出没中と書かれた看板が。

茂津多岬を含む狩場山一帯は、道南で最もヒグマの濃いところと言われているせいか、警戒の標識類も多い印象があった。
廃道探索で出くわした話がどのくらいあるかは知らないが、怖いので、内地の探索での普段の熊避け装備(熊鈴+熊避けスプレー)に加えて、自動ブザー吹聴装置(電子工作が得意な友人のHAMAMI氏が発明した、バイクのホーンを任意秒ごとに自動吹聴する携帯装置)を装備している。
その効果の程度は不明であるが、2017年の実戦配備以降、装備中に(内地の探索も含めて)一度も熊に会っていない。(非常に大きな音なので探索の風情は崩れるし、人前で使うと驚かせてしまうことになる。たまに自分でも驚くくらいだ)



突入するとすぐに、背丈に迫るほどの猛烈なススキの枯れ藪。
刈り払いというほどではない仄かな踏み跡を感じるが、釣り人か、“同業者”か。
目の前にあんな上等な“餌”を吊り下げられれば、魚みたいに釣られて入った同志もいなければおかしい話だ。

しかしその一方、本来ここにあったはずの旧国道の路面らしい気配は全く感じ取れなかった。
単に路面に草が茂っただけでは間違いなくなかった。




足元の眺めは移り変わっているが、背後にあるものは貼り絵みたいに変わらない。“石門”が潜られるまで決して奥を見せまいという、そんな意思めいたものを感じる展開だ。

ススキ藪が途切れると、クレバスみたいな雨裂がぱっくりと口を開けているところにぶつかった。道幅の大半が切断されているが、山側を迂回可能だ。切れた斜面に舗装の断面が埋れていないかと探したが、見当たらなかった。最後まで未舗装だった可能性が高い。




無名の岬を回り込む方向へ進んでいるので、一歩ごとに海の眺めは広がっていった。
茂津多岬が世界の果てに聳えているが、そこまでの海岸線のところどころに家が見える。
“蝦夷親不知”と茂津多岬に挟まれたこの10kmの海岸線にも、小さな集落が昔からいくつもあった。
明治35年まではこの区域だけで瀬棚郡島歌村を構成しており、以後は瀬棚町(現せたな町)の一部である。
この海岸線の住人にとっても茂津多岬は越えがたく、ここの道が唯一の陸路だった時代は長かった。
もちろん、今日のように海が荒れてさえいなければ、舟が最良の足だったらしいが。




道がないのに隧道だけが健在なような、奇妙な風景だ。

道があったはずの地面がことごとく斜めになっているのは、何かの呪いでも受けているのか。
どのような頻度と規模で落石や土砂崩れが起きているのか、想像するに余りある現状だ。

近づいてきた虚ろな石門の向こう側は、冬の名残のような日本海の奔騰が荒む。
風で吹き上げられた潮気が舞っている。そのせいで晴れが晴れに見えない空だ。

現地ではこのことに思い至らなかったが、隧道右下の“片洞門”のように見える部分は、
もしかしたら隧道開通以前の旧々道の名残であったかも知れないといま思う。



そして、いよいよ――




グラシャラボロスー!!!

(ただの語感で言った。深い意味はない)

隧道前に辿り着いたが、そこには

スクラップと化した覆道の残骸!




常に潮気を浴び続けるという、鉄材にとって最悪な環境下に、
最低でも50年は置かれていたのだから、こうなるのも仕方がないのだろう。

かつては10トン以上の衝撃を受け止める強度を与えられていたはずの覆道は、
トラス橋桁のように太い部材で頑丈に作られていたはずだが、今や見る影も無く
痩せ細り、もしかしたら最後は自重で斃れたのではと思えるほどだった。




13:05 《現在地》

覆道の残骸を踏み越えて、石門の如き廃隧道へ突入する。

写真の私の足元は、かつて覆道の屋根に乗っていた崩土だが、今は路面の代わりになってしまっている。
本来の路面は残骸の下で見ることが出来ない。

そして驚いたことに、素掘りの隧道を反対側にも、こちらと全く同じ状態で崩れ倒れた覆道が見えたのである
屋根にさほど大量の崩土が載っている様子もなく、やはり柱が腐食して自重を支えきれなくなったのが崩壊の主たる原因だと思われる。
この状況にまで老朽化した覆道を目にするのは、たぶん初めてじゃないか。

ところで、隧道があれば当然に気になるのは、その名前と、竣工年や長さなどの各種データだ。
目測の数字を上げても良いが、それよりも正確と思える数字が、馴染み『道路トンネル大鑑』(昭和43年・土木界通信社刊)巻末のトンネルリストに掲載されているので転載しよう。

島歌隧道
 全長7.0m 車道幅員3.1m 限界高3.0m 竣工昭和2年度
『道路トンネル大鑑』より


全長10mにも満たない指折りの短距離隧道であって、高さや幅の数字も現状と一致していると思う。
竣工年は昭和2(1927)年度とのことだが、前回の冒頭に紹介した大正6(1917)年の地形図にもここに道が描かれており、隧道は描かれていのだが、短すぎるせいかもしれない。
いずれ遅くとも昭和2年には掘られていたわけで、この区間が徒歩道から初めて車道になった時期を示唆していると考えている。

それにしても、惚れ惚れするような美しい隧道だった。

前後に無骨な覆道が接続していた現役終盤にはこういう景色ではなかったはずで、むしろ完成直後の景色に戻っている。
最短の隧道で地形の急所を貫くような、清楚で合理的な姿をしている。
そしてそんな外見もさることながら、名前も綺麗だ。
この隧道があるあたりがかつて(明治35年以前)の虻羅村と島歌村の境であった(今は大字界)から、こういう命名になったと思う。

島唄だといやなフグを思い出すが、島唄ならいい…


これで入門だ! いざ旧道深部へ!








!!!


やっべぇ……、日本記録更新してるくせぇ……。





“親不知”の必須条件  そして切通しへ…


2018/4/27 13:08 《現在地》

虻羅トンネル旧道を北側より攻略開始し、約130m地点にある長さ7mの島歌隧道を通り抜けたところにいる。
小さな隧道を潜ったことで、いままで山の裏側で見えなかった領域へ。
地図から消えた道だけが辿り着くこの領域に、地名がある。

クズレ、あるいは、蝦夷親不知

出発時に虻羅集落から遠望で眺めたこれらの地名の中に、実際に足を踏み入れると、どういう景色なのか――。
















海食崖の高さの日本記録というものが明確にされているのかは分からないが、象徴的によく登場するのを見る「高さ百メートルの崖」というものが、ここには確かに存在している。
草木のない垂直程度の傾斜を持つ岩の面が、根元から百メートル以上もそそり立っている。途中にテラスのようなところを持たない真にひとつの崖が。

しかしそこまでならば、ただの地形の話である。
それでは、“蝦夷親不知”を名乗るうえでの必須のものが足りていない。

全国に分布する“親不知”は全てが険しい地形にあるが、単にそれだけでないことに気付いているか。
これは、旅人が通り抜ける困難と直結していなければならない地名なのだ。
たとえ血のつながった者同士であっても、助け合う甘さが共倒れを誘う、あるいはその暇も与えられずに命を攫われる、それほどの心底に危険な難所に、“親不知”(おやしらず)という日本人の感傷に強く訴える非情で非日常な地名が成立する。それは本源的に現代の観光と結びついた地名ではない。

この大絶壁の直下を、古くから道が通り抜けたからこその“蝦夷親不知”! 景観と地名が究極に一致しているのが熱い!




倒れ伏した老兵の亡骸を、どうやっても踏みつけて進まねばならないことに申し訳ない気持ちがあったが、やむを得ない。
遠目には草原のように見えるところも、実は崩れた覆道の屋根の上だということが、しばしばあった。
おそらく、入口からここまでの旧道のうち、隧道の直前からこちら側は全て覆道に守られていた可能性が高い。
しかし、まともに立っている支柱は1本もなかった。

特にここは壊滅的な落石を浴びていた。
おそらく廃止後だとは思うが、元の道の位置が分からないほど地形が変わっていて、辛うじて瓦礫と一緒に瓦礫になっている覆道の残骸から推し量れるのみだった。

残骸から推定された道の位置は、垂崖の下に広がる崖錐斜面の下端が波に削られて壊され続けるギリギリの端であり、そこからどちらかに外れれば落石の直撃確率が上がるか、海に落ちるかしかないような場所だった。
路面と呼べるものがどこにもない廃道を、強烈なアドレナリンの作用にまかせて突き進んだ。




するとぉっ!



13:12 《現在地》

切通しだ! 石垣もあるぞ!

(現地では深く考えられなかったが、左上の凹んだところを通った時代もあった可能性がある?)

道は崖錐斜面をトラバースしながら徐々に高度を上げていた。

切通しに向かって登っていく線形自体は、ありふれたもの。

もはや懐かしささえ感じられる、いつもの旧道風景のよう――


だがしかし!




異次元サイズ感。

奥に見える切通しのスケールは、直前に見た隧道や覆道と変わらない、標準的な一車線道路のそれである。

そういうものが、高さ100mからの崖と僅かな間隔を空けて隣り合うという、私も初めて見る景色だった。

だから、これから近づいていけば分かるが、切通しの右に見える小さな(小さく見えるでしょ)岩山も――


あれ、小さくないからね?




もはや被写体が何なのかを写真からは読み取れないくらいのオーバーサイズ。

頭上の崖壁をなんとなく見上げて撮影したのだけど、スケール感がめちゃくちゃだ。

ふざけて撮った石片のようでもあるが、地理院地図はこの崖記号の直上に「写真測量による標高点」を表記しており、

そこに128mの海抜を併記している。視点からの比高は100mを越えているはずだ。




それでも、この垂壁が実は安定した存在ならば、それは見た目が怖いだけの無害な隣人だ。

しかし、北海道で幅をきかせているこのゴツゴツした火砕岩の壁は、悪鬼だ。

大小の岩角を絶えず落下させてくる、悪の機関砲そのものだ。

だからこの有様になる。覆道は自重で倒れたものもあるだろうが、道を埋め尽くした巨石は豊富。

勢いのまま海岸線まで落ちたとみられる巨大な転石も、ごまんとある。




とはいえ、当サイトの読者に余計な煽りは要らないだろう。
ここは見た目ほど難しくはない。
多くの人が最初に考えるだろう「落石の直撃を受ける」可能性は、この状況であっても、天文学的に低いはずだ。
それよりも遙かに現実的な危険は、自分で足を踏み外して落ちることだ。こちらは確率が低いとかそういう問題のものではなく、単純な技術である。




そしてここまで、転落を意識するような場面はなかった。
それは道の周囲が巨大な崖錐だからだろう。
崖錐というのは長い間の風化によって自然に形成された安息角の斜面であるから、転落しづらい地形といえる。

問題になるのは、崖錐に人工物を無理やり挿入すると、周囲が切り立ってくることだ。
上の写真のところなどはまさしくそれで、路肩にコンクリートの擁壁が僅かに見えているが、この高さは既に危ない。
しかも、シェッドの残骸が邪魔をしているときている。

それでやむなく、本当は触れたくないのだが、覆道の残骸と崖の隙間に身を潜らせる必要があった。
崩れかけた人工物の下に潜るのは、落石の直撃より遙かにリスキーだと感じる。
ここは今回の探索で初めて怖さを感じた場面だった。




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

ここは全天球画像の力も発揮されやすい現場である。

なにせ、私の身体は普段のサイズのままだが、圧倒的に景色が大きい。

そのスケール感こそ、この廃道の最も突出した特徴といえるだろう。



同じ構造の覆道が大量に連なっていたようだ。いずれも島歌隧道と同じで1車線の幅しかない。

わが国に覆道という道路防災施設が整備されるようになった時期は案外遅く、昭和30年代の終わり頃から本格化した。特に金属製は間違いなく戦後のものだ。
この道は昭和40年代の終わりに早くも廃止されているわけで、現役期間は悲しいほど短かったと思われる。

そもそも、全国的にまだまだ覆道が珍しかった時代に、これだけ大量の覆道が、ここに集中的に整備されていたということになる。
しかも、当時から国道だったとはいえ、ここから3kmほど北にある美谷漁港で行き止まりだったのに、これだけ覆道が整備されていた。
(そして、国道が茂津多岬の先まで通じた昭和50年には、この区間は既に廃止されていたという…)

このように整備が急がれた理由は、ひとつしか考えられない。それほどまで、危険性が認識されていたということだろう。



さっきから押しつぶされた覆道の屋根を見ながら歩いているが、現代に建造されている覆道と較べると、屋根の構造が極めて薄い。
鉄骨に支えられている天井板は、鋼鉄製の波板のようなもので、厚みは1センチもない。

この程度の厚みでは、落石が容易く貫通するのではないかと訝しく思ったが、あることに気が付いた。
ほとんどの屋根の上に、同じくらいの厚みで土が乗っているのだ。
なるほどなと思った。屋根にわざと土を敷くことで、緩衝材にしていたのである。

岩を受けるに土を使う。安価で理に適った構造である。
しかも土の下の鋼板も変形しながら粘り強く耐える材質だから、貫通されることもなかったようだ。少なくともここまでは貫通された部分を見ない。



いま越えてきたところは大きな落石の跡地のようで、新たな崖錐によって道の痕跡は消えていたが、おそらく道は矢印のように登っていたのだろう。

いちおう書いておくが、この高さ100mの崖は道路を開削するために切り開かれたものではない。これは自然に生じた海崖であり、やはり自然に出来た崖下の崖錐斜面を、昔の人は道として便利に使った。
その伝統を受け継いで、車が通れるように拡幅したり、いろいろ整備したのが、昭和47年までここにあった旧国道だったはず。

同じような海崖であっても、下に崖錐斜面を持たない場合も多くあり、そうなると道路の開通はずっと大仕事となる。
すなわち、茂津多岬や雷電海岸、積丹半島西海岸など、いずれもこのパターンで、戦後しばらくまで海岸線に道が付かなかった。
崖錐が残るか残らないかは、海の浸食力の大小が大きく原因しているのだろうが、そういう意味でここは“人に優しい”。




いや、「優しい」 ってことはないな。

ここはちょっとヤバい。路肩だけじゃなく、ほぼ全部道が落ちていた。
だいぶ登ってきたので、落ちたらただでは済まない落差がある。
しかも、枯れススキが斜面を覆っているせいで滑りやすいし、どこから崖なのかも分かりづらい。

ここを越えれば、“切通し”に達せられそう。




越えた!

最初に見たときにはあんなに【小さかった】切通しが、ぐんと大きくなってきた。

島歌隧道が最初の門だとするならば、切通しは第二の門だ。見える領域を厳然と区切っている。
あの先に何があるのかを想像すると、もうワクワクが止まらない。
大絶壁が現われて以来、本当に爽快な気持ちで探索をしている。
廃道にありがちな鬱然としたところがない! あの薄暗いのが良いんだよという気持ちの時もあるが、今はこれが最高だ!




この辺りで頭上を見ると、もう一つの切通しのように見える大きなキレットがある。
自然の地形だと思われるが、より古い時代の徒歩道はあそこを通っていた ……なんてことがあったらロマンだ。

それにしても、この一木一草も育たない絶壁は、何があってこんなにも平面的な壁をここに作り出したのか。
北海道の大地を作り出した太古の溶岩は、これほどの厚みを持って海に迫ったのか。





怖っ!

亀裂こわっ!

うっかりスマホ歩きでもしていたら……。
藪が深くなる夏場だったら、すっかり見えなくなる可能性も…?
切通し手前のこの道は、海に退場する準備を着実に進めていた。




ここを歩いてきた。

険しいが、それ以上に楽しい。それほど難しいところもなく、

楽しすぎるぞ、この廃道!

俺というオブローダーの4日半の頑張りを賞するためのボーナスステージが、ここにあったんだ!




Post from RICOH THETA. - Spherical Image - RICOH THETA

ここにある全てを連れて帰りたい気持ちでシャッターを切った、全天球画像!
足元に忍び寄る怪しい亀裂、海と陸の間を分かつ圧倒的隔絶、頭上にあるスケールぶっ壊れ風景、
依然として、切通しが可愛らしいサイズに見えるかも知れないが――




13:30 《現在地》

これ小さくないからね。切通し到達!

切り離された右の岩山も、余裕で3階建てくらいの高さがある。切通しの道幅は5mくらい。
これを掘り抜く仕事をした人がどこかにいる。語り継がれるべき偉大な仕事だったが、岩くれに帰っている。
しかし、なぜか景色に悲壮感はない。人間のちっぽけさと、したたかさ、その両方を綯い交ぜにした――

底抜けに明るい景色だった。



……息継ぎをする暇もなかったが、これでようやく序盤戦が終わった。