2018/4/27 13:31 《現在地》
北口から約350m入った地点に、この大きな切通しがある。
島歌隧道を潜って間もないところからしばらく目視の限界を作ってきた、印象的な中継地だ。
残りはあと3分の2と少しだ。
地形図上では、この先もしばらく厳しい地形が続くようだ。
「クズレ」というあまりにも直截な地名が書かれているのもこのあたりからで、「ク」の字から「レ」の字まで約200mの範囲である。
そのことが厳密に「クズレ」と呼ばれた範囲を示していたわけではないはずで、単なる「自然地形」に対する地名注記(だから斜体になっている)なのだろうが、やはり地図上の印象は、ここから先の200mが最大核心のように見せている。
それでは、切通しの向こう側へと、探索のフィールドを広げよう! まずは、目視!
一気に最後の方まで見えた。
手前の半分までは、相変わらずとんでもなく高い崖がそそり立っている。
山の上を見る時みたいに、崖の上の方が霞んで見えるのが、まず可笑しい。
あれが道路の法面と言えるかは異論大だろうが、もし認められるなら、高さ日本一だろう。
ん? 道はどうなっているのかって?
安心してくれ。
道はあるぞ〜!
凄まじいという言葉の大安売りになってしまっているが、凄まじいとしか言いようがない。
あれは終盤3分の1の道のりだろうが、ここよりももっと高くまで登ってから、緩やかに虻羅集落へ下っている。
絶壁ではなく、よく草が繁った崖錐斜面だが、冬場はひっきりなしに雪崩が襲ってきそうな地形。
昔の人は、よくぞあの位置に、道を維持してきたものだと思う……。
海岸に直立している岩山が見えるが、あれってもしかして、崩れ落ちた山体だったりしない?
素人目になんとなくそう見えるというだけの話だが、もしこれが当たっていたら、日本一大きな“落石”かもな(笑)。
ちなみに、その岩山のあたりの道がどうなっているのかは、ここからはよく見えなかった。 ……怖いな。
これは、現在地の切通しから見上げた、山側の崖。高さに目が慣れつつある(笑)。
崖に黒い滝のような模様が見えるが、あそこは“雨降り滝”なのだろう。
今日は本当に最良の探索日和だが、いろいろな天候をこの地で迎えてみたいという欲が湧いている。それほど気に入りつつある。
切通しを後にしてすぐ、道の左側の少し高くなっている藪へと足を踏み入れた。
本来の道は右の広い草むらにあって爽快な場所だったが、この脇地が気になった。
この行動が、“ある発見”へと結びついた。
ちなみにその発見を予期して道を外れたのではなかった。
道外れの理由は、「なぜここが平らなの?」という、単純な疑問だった。
この疑問の謎解きは、継続しての課題となる。
今はまず、“ある発見”を、ご覧いただきたい。
この位置から、左を見たところ――
あれはっ!!
あの控えめな佇まいには、日本人としての既視感が!
13:33 《現在地》
やっぱり、お地蔵さまだった!
立地の厳しさを物語るかのように、恐ろしく風化していて風貌を留めないが、
周囲に見られない色の石であることや、起立していること、天然の祠のような凹みに鎮座することなど、
間違いなくこれは、往来の安全と加護を神仏に祈念するために安置された、お地蔵さまだった……
…いや、勝手に過去形にするのは良くないな。
弾避け落石避けの御利益を信じて、お祈りをしていこう。
本当に献身的なお姿を見せて下さっている。身を挺して“避難所”を守っておられる。
頭を下げて、私も“避難所”へ入れていただいた。
入ってみると、いよいよここは落石から身を守る“避難所”であり、日避け、雨宿りにも絶好。
いつの時代のものかは定かでないが、一升瓶やウィスキーのボトルが残されていた。
このお地蔵さまは度の強いお酒がお好みか。これも、風雨に閉じ込められた旅人が、
身体を温める役目にも使えそうなところで、心憎いチョイスであった。
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お地蔵さまと、道路の位置関係。
このように少し離れていて、一段高いところから見守っている。
さすがにこの道路状況だ。参拝は長く絶えているらしく、周囲に刈り払いの痕跡はなし。
“避難所”にいるときに、記銘などがないかを裏側も探したか、全体に風化していて見当たらず。
どんな経緯があって、いつから、ここに安置されることになったのだろう。
経緯については、やはり不幸な事故が想像されるが…。
この場所を歩くとき、頭上に絶えず気を配り、万が一に降り注ぐ一石あれば、冷静に回避する。
覆道で空を見られなくなるまでは、そういう注意深い行動が実際の生存確率を上げていただろうが、
直撃弾を回避出来る運動神経を持つ人は稀であり、やはり多くの人は神頼みであったのだろう。
しかし、この小さなお地蔵さまが背負う風景の大きさたるや――
比肩する者なし!
そして、仏の前でも悲壮感なし! 底抜けに明るい景色。
名不知ゆえ、僭越ながら仮りの名を送りませば、
“弾除け地蔵”
軍人と弾幕シューター御用達。
ただし、参拝の安全は保証致しかねる。
2018/4/27 13:36 《現在地》
お地蔵さまを後にすると、道は緩やかな下り坂となる。周囲の地形は緩やかさとは無縁のようだが、道自体は緩やかで、路上もススキは繁っているものの荒れていない。切通しの手前で覆道の連続も途切れている。
遠くに見える巨大な崖が、ロダンの「考える人」のような彫りの深い横顔に見え始めたら、もうそれとしか見えなくなった。髪の毛まで生えていて精巧だ。
その“顎”の下辺りに、とても気になる物が見えていた。
あれは終盤戦の路上にあるものだ。
アーチ型の覆道とみられる。
ボロボロだが、一応は“建って”残っているようだ。
……あんなものまで、造っていたいのか…。
まだまだ楽しみは尽きないと言うことだ。本当に、いいところだ。
下って行くとすぐに広場のようなところがあって、その向こう側の道は再び上りに転じていた。その先に、まだ倒れていない覆道を発見! やったぜ!
次の覆道は長いもののようで、カーブしながら150mくらい先に見える大きな切通しへと吸い込まれていた。
あの切通し、ここから見ても巨大だが、人が掘ったものなのだろうか。
はっきりしないが、形状としてはまさしく切通しで、道を通り抜けさせている。
その先は岩の陰で見えないので、当面の目的地は、あの切通しだ。
切通しの姿が鮮明になるにつれ、驚きが大きくなってくる。
背後に見える大絶壁のせいで、その前にある全てのものが矮小化のバイアスを受けているが、そこだけを切り取って見ることが出来たなら、壮大な切通しではなかろうか。
……本当に切通しだろうか?
あれは、もとからあった岩と岩の隙間、地山と巨大な落石の隙間を、都合良く道として利用しているだけなのかも知れない。
もちろん、岩角を削ったりといった程度の加工はしているとしても、一から造った切通しというには大きく、野趣に富みすぎている気がする…。
上の写真の素掘りの法面に、赤いペンキが塗られているのを発見。
いくつかの文字か図形が書かれていたようだが、風化著しく解読は困難であった。
だが、一番赤く目立っている右の部分は、「山」と読めるようである。
これが正しければ、営林署の林班界表示の可能性が大である。
このようなところで林業というのもなかなか想像しづらいものがあるが、国有林経営は木を伐るだけの仕事ではなく、山を管理すること全てであって、ここに林班界の表示があっても不自然ではない。
下りから上りに転じる広場である。
2〜30m前方に、初めて倒壊していない覆道が見えている。
道は広場を突っ切って、真っ直ぐそこを目指しているが、直前の成功体験に気を良くした私は、またしても脇が気になった。
この左側の土地には、いったい何があるんだ?
そこは一見するに、巨大な岩が散らばる、いわゆるロックガーデンだ。
異常な高密度の灌木に覆われているが、その中にあるのは一軒家ほどもある巨大な岩たちのよう。
背後の尋常ならざる大絶壁がもたらした巨大な落石の累々としたところが、このロックガーデンなのだとすれば……
次の写真の光景を、どう説明出来るだろうか?
灌木や枯れ草に隠されたロックガーデンの地面は、なぜかそこもみな平坦で、広場の延長のようであった。
しかも、巨石の間に、通路なのか偶然の産物なのか分からないが、抜け道があって、
その向こう側(そこは大絶壁の直下である)に、隔絶された“小さなスペース”が隠されるように存在していた。
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何ここ!超不思議なんですけど?!
なんで大絶壁の直下にこんな平らな場所があるの?!
これって、自然に出来たものなの?
崖錐だったら、傾斜した地形にならない?
左図は、ここの地形を模式的に描いた断面図だ。
「道」と書いたところが覆道に守られた道路(覆道はない部分もある)で、海の際に立地しているが、道と大絶壁の間は20mくらいもあって、そこには大きな岩がごろごろしているが、地面自体はほぼ平坦である。
この「平坦」というところが、大いなる謎なのだ。
先ほど地蔵を見つけたところも、全く同じように道路の山側に平坦な土地があって、その正体が気になって踏み込んだところ、偶然に地蔵を発見したのだったが、ここでもさらに広い山側の平坦地が確認された。
そのことで、この奇妙な地形は、いよいよ偶然の産物だと思えなくなってきた。
道路があるところの地面は全体に土っぽいので、もともと崖錐であったところを掘り下げて、均して路面としたのだと想像している。
だが、本当にそれだけならば、道の山側まで広い平坦地がある理由は説明出来ない。
そこで私は、次のような工法で道が造られたと考えている。
道路整備以前、ここには“チェンジ後の画像”のような、自然な崖錐斜面があったと仮定する。
工事は、この巨大な崖錐を部分的に10m以上掘り下げつつ、その残土を均して広い平坦地を造り出した。そして最後にその海際に路面を敷設した。
土工分野において、このように残土を上手く活用して効率化することは珍しいことではない。
後に、いくつもの巨大な落石が降り注ぎ、現状のようなロックガーデンが生まれた。もしくは、掘り下げる最中に地中から現われた大岩を退かさずに残したのが、現状のロックガーデンだ。
上記の仮説を用いれば、路面として必要がない崖下まで平坦になっている理由の説明が可能である。
もちろん、このように平坦地を設けた理由は一つしかない。
落石が路上まで転がってくる確率を減らすためだ。(これは非常に功を奏しているとみられ、ここの路上に大きな落石はほとんど飛来していない)
13:45 《現在地》
よくぞ残っていてくれた!
ここまでに踏み越えてきた5基か6基の残骸から想像されていたことだが、やはり狭小断面だ。
現代の道路ユーザーが覆道や洞門といったものに想像するサイズ感ではおそらくなく、
途中にあった島歌隧道が完全素掘りで幅3.1m高さ3mというスペックであったことを考えれば、
この大きさ以上のものは不要であったといえるが、大型車がどうにか通れるだけのサイズである。
そして、やっぱり屋根上には一定の厚みで土が敷かれていたようだ。
奥が崩れているのが見えるが、せっかくなので中を通過しよう。
ここを最後の車が通過したのは、いつのことだろう。
昭和47年に現道が開通した時点で、すぐさま廃止されたのか、しばらくは存続したのか。
どちらかというと、前者っぽい感じがある。これまででは圧倒的に原形をよく留めた
覆道内の路面だったが、それでも轍らしいものは残っていなかった。廃止の早さが伺えた。
(←)
全面的な倒壊を免れていたこの覆道も、全く無事というわけではなく、途中に天井が崩れ落ちた箇所があった。
大量の土砂が流れ込んでいるが、どうもその大部分は、屋根の上に載せされていた緩衝材代わりの砂利や土(そこに生えた草も)らしかった。
ここも自重で支柱が折れたことによる倒壊で、落石のせいではないのかも知れない。
(→)
頽廃美というものを存分に発揮している、クズレかけの覆道。
この地の奇抜な名前を、構造物でも再現していた。
見上げた空には、春の穏やかな陽気があった。
命をつけ狙う崖に朗らかさを感じるのは、おかしなことだろうか。
これが道路にとって凶悪な崖であることは確かだろうが、もしここにあるのが車道ではなく登山道であったなら、危険さより美しさを強調されて、愛され続けていられたかも知れない。
(←)
覆道の部分的に倒壊したところを、一旦路外へ出ることで迂回し、再び内部へ復帰した。
覆道は、路面と一緒にコンクリート製の土台に築設されており、両者は同時に施工されたもののようだった。
島歌隧道が昭和2年竣工と記録されていることから見るに、その頃にある程度の道が整備されたのだろうが、覆道が整備されたのは戦後であろうし、戦前の道がどのような形で置かれていたかについては、いろいろと想像の余地がある。
前述したような崖錐を大規模に掘り下げて平準化するような工事が実際にあったとして、それがいつ行われたのか。そういう工事がなされる前は、もっと高いところ(この道の上の空中にあたる位置)を通過していた可能性もあろう。
これは上と同じ崩壊ではなく、その奥にあった崩壊地点だ。
もう満身創痍も良いところなのである。
ここも前と同じような感じで、天井を支えられなくなった支柱がぐにゃりと曲がって倒壊していた。
矢印のように迂回して、再び外へ。
外へ出ると――
空気を読んだか、勝手に“通行止めバリケード”へとその姿を変異させた覆道出口の向こう側に、後半戦の入口となる巨大切通しが接近! まもなく北口から600mの地点で、地図上の中間地点に到達する。
そして始まる後半部の前半は、引き続いて極めて高い崖の下を行くようだが、今までの崖と完全に連続しているものではなく、小さな谷で隔てられているようだ。
切通しの直前に、その谷の姿が見えてきた。
ここに来るまでは全く姿を見せなかった、伏兵のような谷が。
そこは谷というよりも、滝と言った方が適切そうだ。
水量は少ないが、黒い岩の割れ目を迸る不気味な水しぶきが見えた。
問題は、谷があるなら、渡る橋があるかどうか。
もし橋がなくても、それでも渡れるかどうか。
しばらく長閑な気持ちで探索していたが、ちょっと緊張してきた。
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