前編冒頭で述べた通り、今回の情報提供者の一人にょ氏は、天野橋の来歴について記録した資料を二つ、その内容と共に教えてくれた。
二つの資料とは、『歴史探訪関山街道を歩く』(平成21(2009)年/社団法人東北建設協会)と、『宮城地区平成風土記』(平成15(2003)年/いきいき青葉区推進協議会)である。前者を実際に入手して読んでみたが、天野橋については後者を引用した記述であると書かれており、実際その通りのようなので、ここでは後者『宮城地区平成風土記』(以下『風土記』)の記述内容を掲載する。
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@ 地理院地図(現在) | A 昭和26(1951)年 | B 明治40(1907)年 |
定義方面へは青下川が広瀬川と合流する地点の広瀬川左岸断崖を斜めに登り降りしていた。(中略)
昭和6年8月30日仙山東線の開通に伴って大倉方面の人々や定義如来参詣者の多くは陸前白沢駅からこの危険な道を往来するか、熊ヶ根駅から青下水源地を通って大原に出るかであった。同11年ごろから同14年頃まで、芋沢畑前出身の天野政吉氏が、陸前白沢駅と定義間にバスを運行したが崖の斜めの道は徒歩で連絡していた。私財を投じて開いたその道跡と「天野橋」と命名した朽ちかかった橋がかろうじて当時を物語っている。
関山街道から野川橋の袂で分かれ、萱場を経て定義(じょうげ)如来へと詣でる道が古くからあった。
明治40(1907)年の地形図において、後に天野橋が架けられる位置に既に橋があり、「荷車を通せざる部」であることを意味する片破線の「里道」が定義方面へ通じているが、これが当時の ――風土記が広瀬川左岸断崖を斜めに登り降り
する危険な道
と書く―― 古道である。
定義如来へは仙台から通じる道(定義街道…現在の県道55号沿い)もあるが、山形方面からの参拝者にとっては、この里道を通った方が遙かに近かった。
そんな、便利だけど“危険な道”をどうにかしようという気運が高まったのは、仙台より建設が進められていた仙山東線が、昭和6(1931)年に作並まで開業し、同時に陸前白沢と熊ケ根の駅を駅を開業させたことによるらしい。この鉄道の開業により、仙台方面から定義如来への最短ルートは、陸前白沢駅で下車し前出の里道を通るものとなったからだ。(萱場集落で見た馬頭観音も昭和6年の建立だったが、無関係ではなさそうだ)<
そこで突然のように登場するのが、芋沢畑前出身の天野政吉
という人物である。
『風土記』に彼の功績として書かれていることは二つある。
私財を投じて「天野橋」と橋へ通じる新道を開削したことと、「天野橋」を通る陸前白沢駅〜定義間のバスを運行したことである。
昭和26(1951)年の地形図を、明治40年のものと比較すると、青下川を渡る橋自体は書き換えられていないが、左岸の崖を上り下りする道が2本に増えている。
1本は従来からの旧道で、新たに描かれているもう1本の道が、天野氏の開削した新道とみられる。この新道は描かれ方も(里道/町村道)としては最も上等な「達路」を示す二重線になっており、前後とは異質である。さらに良く見ると、野川橋から萱場を経て定義へ至る一連の道路全体が、「荷車を通せざる部」ではなくなっている。(←補足説明)
これらは地図上では地味な変化に過ぎないが、『風土記』の記述とあわせれば、かつて徒歩専用だった道が、バスの運行が出来るまで大幅に改修されたことを窺わせる。
もっとも、『風土記』によれば、バスの運行開始後も、崖の斜めの道は徒歩で連絡していた
とのことであるから、新道とて、大型車両が(まして大勢の客の命を預かって)通行するには危険過ぎる道であったのだろう。このことは、実際にこの道を開通から三四半世紀の後に歩き、放置された惨状を目にした一人として、とてもよく実感出来る。
いったいどこまでバスが入り、どこから徒歩であったかは正確には分からないが、左岸崖道の途中に【妙に広い場所】があった。もしかしたらそこで転回していたのかもしれない。
なお、現地の探索では、新道開通以前に存在していたはずの旧道や旧橋について、全く痕跡を認めなかった。
『風土記』の記述から判明したのは、以上のような事柄である。
一つの橋を巡る地方交通史として矛盾のないストーリーであるけれど、天野政吉という人物の正体(動機も)には謎が残る。
彼について僅かに与えられている情報は、芋沢畑前出身というものだが、この地名は萱場集落から見て大倉川の対岸へ2kmほど離れた、仙台市青葉区芋沢の畑前集落であろう。
天野橋を建設された昭和10年代、萱場も畑前も共に宮城郡大沢村に属する集落であり、青下川は同郡広瀬村との村境だった。(両村が合併し宮城村となったのは昭和30年、宮城町を経て仙台市に編入されたのは昭和62年である)
天野政吉氏が大沢村の村政に関わる人物であった可能性に着目したが、少なくとも歴代村長に天野氏の名は見られない。
また、バス事業を経営したとの記述に着目して、国立公文書館でバス事業の免許に関する記録を調べたが、やはり彼の名前は見つからなかった。
そういえば本編では省略したが、我々が探索の最後に立ち寄った萱場集落でお話しを伺った70歳前後の古老から、橋を架けた天野氏はその後に「金福建設」という会社を立ち上げ、いまも市内の大崎八幡に会社があるということが分かったが、このルートについては未調査だ。
そんなこんなで調べていくと、仙台市が運営する「広瀬川ホームページ」にある連載記事「広瀬川の記録」のvol.20が、天野橋についての多くの聞き取り調査を含む、とても濃い内容であることが判明した。→【広瀬川の記憶 vol.20】
天野橋をボンネット型の木炭バスが運行していたことや、橋を渡ってお嫁に来た人の話など、貴重な内容はリンク先を訪れて読んで貰いたいが、天野政吉氏についても証言があった。「自動車会社を経営し、材木商もしてて山から木を伐り出したりしてたみたいです
」と。
天野政吉氏が経営したバス会社の社名だが、定義乗合自動車であった可能性が高い。
wikipedia:仙台市交通局白沢出張所によると、定義乗合自動車は昭和18(1943)年に仙台市により買収されたが、その当時、陸前白沢駅前と定義如来を結ぶ路線を経営し、車庫が陸前白沢駅前にあったという。
橋の上からいち早く身を退いて渓水に洗われ続ける「天野専用橋」の親柱が、謎を孕んでより一層、私にこの小さな橋への興味を深くさせている。
私は、天野政吉氏が私費をもって架橋と開道を行って地方に多大な貢献をした、そんな善意の人であったということを疑わない。
しかしそれだけに、完成させた橋の銘板に「天野橋」ではなく「天野専用橋」と仰々しく記したことの意外さと、その真意に興味が湧いた。
関係者に直接聞き取りをすれば解決出来る可能性のある問題を、そのままにして私見を述べるのは私の怠惰だが、バスや貨物を用いた自動車事業を行ったという記述と絡めた一仮説として、同業他者の利用に一定の制限を与えたい意図をもって、このように名付けた可能性がある。
より単純に私設の道「私道」であった可能性もあるが、なんらかの料金徴収や通行制限が行われていたという証言はみあたらず、誰もが自由に渡っていたようだ。
ともかくこうして、段丘崖の険しさには苦しめられながらも、住民の生活に旅行者の参詣にと大活躍をした天野橋が役目を終えるのは、大倉ダムの工事用道路として昭和33(1958)年に(旧)青下橋が架けられたことによる。この新道に対して、天野橋と旧道はあらゆる意味で太刀打ち出来なかったことだろう。
だが、天野橋を含む今回探索した一連の廃道は、いまなお仙台市の認定する市道であり続けている。
「仙台市市道路線認定網図」には、左図のような経路を持った市道(路線番号:青葉5476、路線名:野川大原線)が記載されており、路線データとして、最少幅員3.4m、最大幅員9.3m、延長1256mとあるほか、図中で破線をもって示した区間は「交通不能道路等」であるとされていた。
この市道の一部として、天野橋(或いは天野専用橋?)は、いまなお市の管理する物件なのだろうか。
通行不能区間の前後には通行止めの看板一つ見あたらず、もはや通行を試みる者もないと判断されていそうな“廃道”であるが、法的な廃道には非ず、歴とした市道である。
こんなところにも、天野氏がこの道を私道ではなく公道として提供し、大沢村や広瀬村の村道として認定されていた名残があるように思われるが、いかがだろうか。