入口はこんな感じだった。
↓↓↓
「2t制限」の表示と「一方通行」の標識があったが、
風景的には至って普通の道であった。
だが、しかし
そこから一方通行の一本道を250m弱進む(約4分経過)と
大変な状況になった。
(運転免許のお持ちのあなたは、)
あなた自身がドライバーになったと仮定して、
この先をお読みください。
入口はこんな感じだった。
↓↓↓
「2t制限」の表示と「一方通行」の標識があったが、
風景的には至って普通の道であった。
だが、しかし
そこから一方通行の一本道を250m弱進む(約4分経過)と
大変な状況になった。
(運転免許のお持ちのあなたは、)
あなた自身がドライバーになったと仮定して、
この先をお読みください。
2011/1/2 15:32 《現在地》
どうすんよ、これ。
この自転車の全長とほぼ同じだけしかない道幅も、周囲が森や草原だったらまだ許せる。
しかし、この場所は極めて厳密に幅員が制限されている。
左側には僅かの余地なく垂直の石塀が立ち上がり(案の定何かが擦った痕跡あり)、
右側にも些かの猶予なく、 屋根…、
一段下に立つ民家の、赤いトタン屋根があった。
“道”と“屋根”を隔てるものは、全く「申し訳程度」というより他のない、お手製の欄干だった。
そしてこの欄干もみな不揃いに外側へ折れ曲がっていて…。
万が一にも、この路肩から脱輪した車が重ければ、屋根が破壊され、最悪は民家が押し潰される危険があると思う。
だからこその“2t制限”ではなかったかと、私は結構真剣に推測している。
(単に路肩が弱いからかもしれないが)
ここに来て、屋根越しに初めて見下ろす新倉集落の姿。
もっとも、今いるこの場所も新倉集落であり、
この上下の集落全体を新倉という。
物凄い高低差である。
というか、高度感が凄い。
それだけ斜面が急峻だということだろう。
そして向こうの“下界”には、こちらとは比べものにならない広々とした道が見える。
実際には普通の2車線の県道と、1.5車線の旧県道なのだが、こちら“上界”にある0.8車線くらいの道に較べれば、別世界のハイウェイだ。
交通という一事が全てではないといえ、この集落の下界と上界、どちらが住みやすいかと言われれば、下界を選ぶ人が多いだろう。
しかし前回も引用したとおり、『角川日本地名大辞典』の「新倉」の項曰く、新倉の最初の集落は「山裾」に広がっていたが、大正時代の発電所工事を契機に川沿いの低地が開発され、発電所の社宅が建ち並んだというのである。
そう言われてみれば、下界に見える家屋には社宅っぽい平屋建てが目立っていた。
古い集落が交通に便利な川沿いに立地しなかった理由は、そこが早川の氾濫原だったからだろうか。
かつて早川の水量は年間を通じて豊富だったが、地形が極めて急峻であるため水源涵養力が低く、しばしば激流となって下流を襲った事が知られている。
であったが、発電所の開発によって河川の水量が減少して安定したことと、大量の人口流入とが、氾濫原へ集落が拡張される原因になったと想像する。
“激狭屋根上ゾーン”を過ぎても、激狭なのは相変わらずで、家屋との近接ぶりも変化無い。
勾配については、最初に登りついた場所が一番高く、そこから緩急を交えつつも、ずっと下り続けている。
また、住民たちの人通りは今のところない。
出来ればここを走行中の車を見たかったが、残念ながらいつまでも車はこなかった。
さらにあまりに道が狭いので、本当に車が通るのか心配になったりした。
しかし、ここまで一本道の一方通行なので、入口を通った車は全てここを通らねばならないのだ。
あなたも。
15:34 《現在地》
ここに来て初めて、分岐 が現れた。
そして、
車(第一号)を発見!
それは歴とした“普通の車”だった…。
遂に続々と出現し始めた、新倉に宿る車たち。
集落や道の姿は“ただならない”ものなのに、車だけは当たり前の姿をしているのが、面白かった。
異邦ではなく、我々の街とも地続きなのだと実感する。
そしてこの第二号車の車庫出し風景を想像するのも、面白いことだった。
道路が一方通行であり、また左の道は車庫で行き止まりになっているので、実質的にはやはり一本道であった。
この第二号車を外界へ発進させるためには、
【この様にスイッチバック】させるより無いであろう。
この自転車の全長と同じしか道幅の無い部分をバックで通行するのは、いかにも怖そうだ。
ところで、この写真の右下にある赤っぽい部分って、
なんだと思います?
車1台分だけのガレージだった。
…しかも、屋根の上にある…。
よく見ると、路肩の(申し訳程度の)転び止めが人為的に削り取られている。ということは、このガレージが後付けだと言うことだろう。
路肩から張り出したガレージは、下にある屋根にギリギリ触れないようにセットされていた。
それにしてもバックでここに進入する時って、路肩から中空へと逸脱するハンドル操作をするわけで、頭の中では大丈夫だと分かっていても気持ちが悪そうだ…。
思えば、ここに上ってくる最中の突飛なところにあったガレージは、こうした光景の伏線だった。
前回の読者さまの感想にもあったが、新倉集落の住民は車をどこに駐めているのかという疑問はその通りで、おそらく昔から各戸が所有する土地の広さが変らない中で、自家用車という巨大な財物を各戸が所有するようになり、その保管スペースをどうするかという苦渋の策が、こういう変則的なガレージに結実したのである。
新倉が早川町最大の集落であったとしても、なお“都会”から遠い場所で自家用車無しの生活をするのが難しい時代になっているということでもあろう。
そういう意味では、新倉はいたって平凡な集落といえた。
しかし、引き続き眼前には平凡ならざる“さまざま”が現れた。
分岐から50mほど進んだ所の路肩側に建つ民家。
その矢印の所にあったのは…。
このハシゴ同然の階段であった。
この扉からの出入りは、かなりエキサイティングな体験になりそうだ。
ここからの飛び出しは、即・接触事故である。
また扉が引き戸になっているのは、道路交通に対する“良心”であろう。
さらに興味深いのは、その隣にあるコンクリートの階段だ。
上の写真を見れば分かるとおり、階段の行き先は民家の1階と2階の間の壁にぶつかっていて、どこへ行くことも出来ないのである。
いわゆる「トマソン」であった。
集落内の斜面には、ほとんど立錐の余地も無く民家が建ち並んでおり、畑や庭園は極めて限られていた。
この左に見える植木も、沿道では希少な存在であった。
写真は“分岐地点”から100mほど進行した所で、相変わらずの狭路っぷりである。
その狭い道の面白さもさることながら、急峻な地形を宅地化するために築かれた、各戸ごと違う土台がまた個性的で面白かった。
普通の山道なれば法面である部分がみな、1軒ごとに作りが異なる石垣やコンクリートの擁壁になっていた。
当然、それぞれに違った歴史を刻んでいるのであろうが、新しそうなものはひとつもなかった。
こうした土台の堅牢さは、この集落にとって、各戸のみの問題ではない。
万が一にも倒壊することがあれば、下方にある家屋もただでは済みそうにないからだ。
個性的な土台は、家によってはただの土台ではなく、家屋の一部にもなっていた。
そして、段差に建っている家の多くは、出入口が複数の階に備え付けられていた。
何処が本当の玄関なのか、部外者には分からないキライもあった。
私が通行しているこの道は、かなり下界より高い所にあるが、それでも新倉集落全体の中では、トップではなかった。
さらに上部にも家並みがずっと続いていて、さすがに車は無理であるが、人や犬や猫が行き来出来る階段通路が、縦横に通じていた。
今回は深く立ち入らなかったが、間違いなくそこは“小迷宮”だったろう。
まるで山城や要塞のような石垣段々の壁。
そして、得難い平地を屋上に求めて休む、3台の車たち。
いずれも、新倉世界における“解”といえる風景だった。
新倉集落の中段辺りを横断する小さな旅は、そろそろ終盤に差し掛かっているようだ。
下界との連絡を担う道が見えてきた。
しかし、ここからは見えない部分の高低差は、まだかなり大きい。
新倉集落において数が少ないビルディングタイプの建物の平らな屋根は、これ以上のない理想的駐車スペースを提供していた。
普通は屋上駐車場へ行くためのスロープがあるが、ここでは道と同じ高さにあって至極便利である。
ただ、一方通行のために、入庫するためにはどうしてもさっきの“狭路”を攻略しないといけない…。
振り返り見ると、家々の屋根がまるで階段のように連なっていた。
そこはおおよそ集落には適さない急傾斜地のようであるが、背後に折り重なる山々の険しさを同時に見れば、「住う適地は他になかった」という感じを受けるのも事実である。
また、ここが北向きや南向きではなく、西向きの斜面であることも、深い谷間よりない早川沿いの土地の中にあって、少しでも長時間日光を浴びることが出来るという、周囲の山腹に畑を開墾するにあたって有利となる“比較的”自活に適した土地と評価出来る。
2011年1月2日における新倉と同標高・同緯度経度での日没時刻は、計算に由れば午後4時49分である。
にも関わらず、現在時刻15時40分には、とうに日は西の山へ落ちていたのである。(15時頃に日没していた)
先に述べた河川の氾濫の問題だけでなく、日照の面でも、谷底というのは生活に“明るくなかった”のかもしれない。
参拝するのにさぞかし骨が折れそうな急な石段の上にある寺を、多段石垣の中腹に見上げつつ、いよいよ道は冒頭で登った分を全部放出する勢いで、一気に下り始めた。
また、道は下りの途中からようやく“まとも”な、最初と同じ、1車線のアスファルト舗装路となった。
15:50 《現在地》
道の先に、合流地点が現れた。
どうやらお迎えが来たらしい。
この“出口”にも、入口と同じように「2t制限」と「一方通行」の表示がなされていたが、この一方通行は守られているんだろうかという、素朴な疑問を持った。
普通の一方通行路の出口だったら、進入を前提とした「2t制限」の表示はいらない気がするのだ。
…きっと、守っているよね! (「新倉区」の自主規制だとしても)
合流したこの道は、早川町新倉と富士川町十谷を結ぶ十谷峠越えの林道である。
ゴミの回収ボックスはこの分岐の所にあり、おそらくゴミ収集車はここまでしか来れないのだろう。
私はここを右折して、新倉集落の“下界”へ向かった。
15:51 《現在地》
十谷林道と旧県道の合流地点までは、自転車でわずか1分の下り坂だった。
こちらの入口には「茂倉入口」とあるが、茂倉集落は新倉の端村として江戸期から記録がある、
ここから4kmほど奥に入ったところにある山間の小集落である(行った事はない)。
(左の高峰のテッペンには、新倉が見る本日最後の日なたが輝いている。
あんな山があっては、新倉の日没が早いのも無理からぬ事だった。)
大昔には、今の“下界”は全て河原だったのだろう。
“上界”との境にある思いのほかに大きな段差は、そんな想像を強くさせた。
それはまるで、コンクリートによる城壁のようであった。
(この背後の山には壮絶な廃道があって、私はそれを体験したが、別の機会に述べる。)
2011/1/3 7:14 《現在地》
これはオマケの1枚。
翌朝、“壮絶廃道”への旅立ちに通った新倉集落最上段の道から見る、集落の(ほぼ)全景である。
(ちなみに、1月3日の日の出は計算上午前6時49分であったが、実際には午前9時頃まで日陰になっていたはずである)
重畳する家並みの隙間には、本当に車1台分しかない“昨日の道”が見えていた。
例のハシゴ階段がある家の青い屋根は、よく目立っていた。
新倉は、なんだか私がワクワクする集落だ。
何匹くらい猫が棲んでいるかも含め、もっと深く知りたいものである。