今回は、相手が悪かった。
そう思ってくれ。
私なりに、よくやったんだ。
これ以上は私には無理だから未練を感じさせるような再訪はしないし、実際にもう2年訪れていない。
ああ、そこ(早川町)か。
そこならば、敗北も已む無しだよね。
この地図を見ただけで、そんな風に庇ってくれる人がどれくらい居るかは知らないが、私にとっては、はっきりいって、「敗北ばかりが重ねられてきた土地」。
それが、山梨県早川町である。
え? そんな話は聞いていないぞ?
そりゃそうだろう。
核心に入る前に敗北したような話を自慢げに垂れるには、私はまだ若すぎる。
再訪して結論を得てから書いた方が、きっと皆様のお目見えはよいに違いない。
だが、そんな数ある“敗北譚”の中から、ようやく一つ、「俺もう無理」と零れ出て来た。
それが今回のレポートだ。
早川町だが、360平方qという広大な面積に住んでいるのは僅か1200人弱で、日本一人口が少ない“町”であるということが当サイト定番の紹介セリフだ。
町の最高地点は3189mもある南アルプスの間ノ岳山頂で、最低地点との標高差が実に2900m近いということからも、ここが如何にも自由な山河跋渉には向かない、翻(ひるがえ)っては道路のかけがえの無さが痛感出来る土地である事が分かると思う。
早川町で道を逸れるということは、即座に絶壁に身を躍らせることと理解して良い。割とマジで。
なお、「山行が」には既に、この特異なフィールドである早川町を紹介したレポートが数編ある。
これらのレポートは全て今回のレポートの前哨戦といえるものであるから、もしお暇ならご一読をお薦めする。
- 県道37号南アルプス公園線 角瀬トンネル旧道
- 明治末頃から昭和55年に至るまで、早川町のほぼ全ての住民が町の内外の行き来に利用していた隧道である。逆に言えば、ここを通らねばほとんど出入り出来ない町だったのである。
- 県道37号南アルプス公園線 保隧道
- 町内の保(ほ)地区に残る、絶壁地の旧隧道&旧道跡。今回紹介地への通路上である。
- 早川町新倉集落の“2トン制限一方通行路”
- 町内で最大の人口を誇る新倉(あらくら)集落の特異な立地条件と、それを遺憾なく発揮した道路景観のレポート。
そしてこの新倉が、今回探索の「起点」であり、また「終点」にもなった…。
まずは、なぜ私は負け癖の付いたこの地へ、
また行くことになったのかをお話ししよう。
←今回の探索の起点となった、早川町最大の集落である新倉付近の現代の地形図である。
町いちばんの幹線道路である山梨県道37号南アルプス公園線が地区を通り抜けており、その道は早川という、町の名前となった川と絡み合っている。
途中には比較的長いトンネルもあって、明らかに旧道らしき道も見える。
かと思えば、左上の方には長々と車道然とした線形を見せる「徒歩道」の記号もある。
なるほど、ネタには困らなそうな地形図である。
だが、今回の私の本題は、これらの “見える” 道ではなかった。
それは、もっととうの昔に役目を終えた道だった。
古地形図の力を借りねば、おそらく一生気付くことはなかった。
昭和27年応急修正版「身延」の上と同じ場所である。→
ここには、早川の両岸に道が描かれている。
そしてよく見れば、右岸(西側)の道は「特殊鉄道」の記号になっているが、これは山梨県林務課が管理していた一種の森林軌道で、西山林道(林用軌道)というものだ。
この昭和27年の当時は新倉が起点になっていて、早川上流へと伸びていた。
昭和33年にこの軌道が車道化して県有林道となり、その後に県道化して現在に至っているというのが大きな筋書きである。
問題なのは、左岸(東側)の道だ。
この道は現在の地形図に微塵も描かれていない。
これを見つけたのは、自慢じゃないが私自身である。
もちろん、この地形図を手にしさえすれば誰でも気付きうることだが、情報提供を受ける前に偶然見つけた時の興奮が今も忘れられない。
だってこれ、ただの“小径”じゃなさそうだぜ。
隧道… 描かれてるもの!
← で、これは上の地形図の繋がりである昭和27年版「鰍沢」だ。
画像の中央付近で両岸の道が左岸で一つになり、そして下湯島という小さな集落へ向かっている。
そしてこの図幅中にも左岸の道には1本の隧道が描かれていて、左岸の道には合わせて2本の隧道が描かれている事になる!
なぜ集落もない区間の川の両側に道があるのか。
そんなことまでをこの地図から読み解こうとするのは酷だが、シンプルに考えれば片方は軌道の線路なのだから、そうでない道(旧道?)が併置されているのはら不思議ではないかもしれない。或いはそもそも併置されていたわけではなく、単に地図上から旧道が抹消され忘れていただけかもしれない。
いずれにしても、この左岸の道は現在の地形図からは完全に消えている。
今強調した「完全に」というのは、実は山中の廃道においてはかなり珍しいことである。
一連の道が廃道になったとしても、その起点側や終点側の一部くらいは記述が残ることが多いし、そこから確かに旧道があったのだと、古い地形図を見なくても予想が付く場合がままある。
地形図に表記が残っていても大荒れでまともに通れない廃道は珍しくないが、表記が無い場合は、そのリスクが数倍にも跳ね上がるという経験則がある。
…嫌な予感しかしないが(早川町という時点で…)、旧版地形図だけに隧道が描かれているなんてという “特上ネタ” を、いつまでも放っておく私ではない。
気付いてから結構すぐに探索へ行ったのが、平成23年の“1月2日”などという、おおよそガチ探索には相応しくない日付となった理由だったように記憶している。
でも早まるな待て。
探索前にもう一つ、大切な作業が待っているではないか。
改めて現在の地形図上に“消えた”左岸道路を再現して、実踏探索の計画を立てるんだ。
現在の詳細な地形図が描き出す細やかな山ひだに、旧版地形図の大らかなラインをそのまま重ね合わせる訳にはいかないから、ある程度は自分の頭の中でカーブを補完して、この“赤線”を得た。
そして隧道の擬定地点も2箇所、推して定める事が出来た。
こうして推定された左岸道路の全長は、新倉集落から下湯島集落のすぐ南まで約6kmに及んだ。
これは、全線廃道と仮定すれば相当に長い距離と言える。
廃道の程度にもちろんよるが、最悪に近い場合は時速1kmに満たないペースになることもあるから、6kmは半日〜終日コースの恐れがある。
そもそも、とんでもなく地形が険しい場所に見えるので、破線の道さえない状況で無事歩き通せるのかどうか…。
しかも、左岸道路はほぼ全線にわたって川縁より相当高い山腹を通行しているようだった。
ということは、「難しくなったら川へ迂回」とか、「対岸の県道にエスケープ」ということが、容易ではないのではないか。
唯一、ほぼ中間地点の「青崖(あおがれ)隧道」の南側に連絡路たり得そうな徒歩道が描かれていることが救いといえた。
とりあえず、私の計画を以下の通りに決めた。
新倉から現県道を自転車で出発し、下湯島付近の左岸道路合流地点を目指す。
そこから徒歩で左岸道路に進入し、時間及び技術的に行けるところまで南下する。
新倉まで歩き通せれば、そこから今度は徒歩か路線バス(1日4本)で自転車デポ地へ引き返す。
それでは、ゆこう!!
そして…、何度でも存分に早川の怖さを味わってこい…。