国道13号旧道 栗子峠<万世大路> 再訪編・福島方 第2回

公開日 2006.06.29
探索日 2006.06.24

 ひょんなことから万世大路の視察会のガイド役を引き受けることになった私。
強力な助っ人である信夫山氏に大切なガイドの役目を押しつけ、早くも私のぎらついた視線は、栗子山の奥深くにある“あの穴”に向けられていた。
3年ぶりに訪問した万世大路に、私は何を見るのか?!

※この「視察会」の模様は、こちらのブログ『環境回廊あさか野塾』に詳しく掲載されています。


車列で行く廃道の妙

東栗子トンネル〜二ツ小屋隧道〜烏川橋

 この日の視察会では、集合場所の国道13号東栗子トンネル前の駐車場で四駆車数台に分乗し、万世大路の途中にある烏川橋までは車で進むことになっていた。
この区間を自動車で訪問する場合の注意点は、なんといっても東栗子トンネルから万世大路に合流するまでの、通称「スキー場道路」にある。
 荒廃著しく通行不可能となった旧国道に代わって唯一のアプローチルートとして機能しているありがたい道なのだが、その約900mの道のりは車にとってはギリギリ限界。その状況はゴツイの一言で、車高の低い車は絶対に通れない道なのである。


 予定通りの時刻に集合した参加者一同は、4台の四駆車で車列を作り、いざスキー場道路へ侵入開始。
私の運転するエスクードは私の他に2人を乗せ、しんがりを走ることになった。
山チャリのアプローチと称して、この一年間、エスクードでも結構山道を走りはしたが、万世大路に来るのはこれが初めてである。
ただ、車に揺られてこの難所を通るのは初めてではなく、一昨年の万世大路工事用軌道の探索でも体験済み。そのときは、余りの揺れにまるでロデオのようだと思った。
…ま、エスクードなら問題ないだろうが、実際に入ってみると、こりゃさすがに厳しい。
写真を撮っている暇など無かった。


 やがて、車列は無事に万世大路に合流。
ここまでくれば、もう安心だ。


 万世大路に入った車列は、路傍に現れた長い石垣の前で停車。
参加者たちは、先人達の仕事ぶりを目の当たりにして、一様に興味深げ。
それぞれが素人さんではないので、各々の専門分野についてのコメントや、質問などが飛び交っている。
とてもその全てを一人では拾えないのが残念だが、それはもう多様な話が語られていた。
 その中から一つだけ。
現在のこの万世大路を誰が管理しているのかという、オブローダーならば少なからず興味のある問題だが。
その答えは、「誰も管理していません」とのこと。
ただ、所有者はあって、国有ではないかとのこと。
私が、この道は道交法上の道路ではないなら、無免許で運転してもいいのですかと馬鹿なことを聞くと、苦笑しておられた(笑)。


 で、順調に一行は二ツ小屋隧道に到着。
多くの参加者がここは感動しておられた。
わかるッ! わかるぞ!! その気持ちッ!!
傍に建つ明治天皇巡幸記念碑と相俟って、おそらく“万世大路”が最も高密度に濃縮された場面だ。

 ここで、進行役の方の粋な計らいで、車の運転手以外は隧道内を歩いて反対側まで行くことに。
隧道内は天然のクーラー状態で、真っ暗ではないものの全長は384mもあり、慣れない人にはちょっと不気味かと思われたが、さすがは強者の方々。
皆喜んで隧道内へ消えていった。


 徒歩のペースに合わせて、ゆっくりゆっくりとその後を追う4台の自動車。
隧道内側の壁という壁が地下水で濡れており、各車のヘッドライト・テールライトが美しく乱反射する。
元々は2車線ギリギリの幅があったはずだが、壁際には所々瓦礫の山が出来ていて、今は一車線分の幅しかない隧道。
しかし、この景色、この音…… 感涙!!!

 二ツ小屋隧道に、車の賑わいが戻ってきた!!
おい! 隧道よ!
味わえ、味わえ!! この音を、この振動を、この光を!
お前はまだまだ生きて、生きて人々を通さねばならない!!
おそらく、日本でただ一箇所の、道路管理者がいないために不通にされることもなく、崩壊のその瞬間まで往来を許す定めの隧道よ!!



 出口付近は、長靴でないと浸水するほどに大きなプールになっている。
その原因は、これもまた二ツ小屋隧道のシンボルとなりつつある、“滝”である。
おそらく、隧道内に注ぎ落ちる滝としては日本最大級。
落差5m、幅1mほどの、なかなか立派な滝である。



 遠くない将来、この滝の落ち口の壁は崩落するだろうが、それが隧道そのものの不通にまでつながるかは不明であり、現実問題、なってみないとどう対処もしようが無い状況である。
ここ数年で、亀裂はさらに大きくなっていると伝えられるが……。



 再び車に乗り込んだ一行は、そのまま烏川橋へ。
橋を渡った直ぐ先が、車数台分の駐車スペースとなっていて、我々は大事をとってここに車を停めて歩くことにしていた。
この日は、さらに2kmほど奥の大平集落まで車が入っていたが、例年は倒木などが多く、4輪車には厳しい道のりである。

 車から降りた一行は、まず少しだけ戻って、万世大路の代表的な橋の一つ。
烏川橋を視察した。
構造自体は特に珍しいところのないPC橋だが、その痩せ細った欄干に、この橋が取り残された過酷な自然環境を思い知らされるようだ。



復習ポイント続々

烏川橋〜大平峠〜大平集落跡

 歩き出した一行は、九十九折りを一つ二つ三つと乗り越え、道中では栗子隧道に次いで高所である、通称“大平(おおだいら)峠”へ。
この区間の砂利道は、一部路肩に崩壊の前兆が発生していたりするが、おおむね良好。
その気になれば車で大平まで入れるのだが、あんまり歩く時間が短いと…ね、有り難みがないってゆーか?

 俺なんかさ、チャリであれほど悲痛な顔して攻略したんだぜー。
なんてな、それは冗談。
歩いていて、何とも気持ちの良い梅雨の晴れ間であった。


 再び下りに転じた道を辿っていくと、いよいよ車の最終地点。
大平集落跡の広場に到着。

 ここに、万世大路の工事以前から人が住んでいたのかはわからないが、万世大路によって発展した事は間違いない。
その後ながらく福島方の最奥集落として、その人家の灯りが夜道の心の拠り所となった。
昭和に入ってからも、峠を行く乗り合いバスがここに停まってトイレ休憩をしたそうだが、国道が廃止されて間もなく無人となった。
現在は、一面の山林となり、その面影は、無さ過ぎるほどに無い。



 大平集落跡を過ぎると、ぷっつりと轍は途切れ、代わりといってはあまりに貧弱な小径が延びている。(写真左)
滑谷沢が形作る山間の小盆地を、万世大路は大規模な築堤で一直線に通り抜けていた。
今もその道の形に変化はないが、道幅の殆どが低木の茂る林となり、全体像は掴みづらい。

 東栗子トンネルを発してからここまで既に2つの峠を越えている。
そして、ようやく栗子峠をその腹部に納めた栗子山の稜線が眼前に迫ってくる。(写真右)
奥羽山脈そのものの決して低くない稜線に、なぜ長大な隧道を穿ってまでまったく新しい峠道を拓こうとしたのか。
三島の考えは、私のような凡人には理解できない。



 巨大な刈り払い棒を手にした信夫山氏を先頭に、一行は間もなく二つ目の橋。大平橋に到着。
相変わらず、この直線の築堤は人一人分の幅を残して沢にえぐり取られたままになっていた。



復習ポイント2 大平橋


 さながら樹海のような道中にあって、ここと、この少し先の杭甲(きこう)橋の橋上は、いまもって樹海の侵略に耐え、文明の路面を露わにしている箇所である。
必然的に、訪れる皆が腰を下ろし休む場所となっている。
日影でないのが少し辛いが、水面の上にある風通しの良い橋上は害虫も少なく、絶好の休憩地と言える。



 皆が少し長めに休憩をとっている最中、私は今回初めて橋の下へと降りてみることにした。

 橋台はコンクリート製だが、それを斜面に支えている土台はやや不揃いな谷積みの石垣だ。
石垣の崩れた部分を足場にして河原まで降りてみると、やっと橋の全体像を見ることができた。
欄干のデザインが違うだけで、烏川橋とは印象をだいぶ異にしている本橋だが、構造自体は至ってオーソドックスなPC橋である。
築70年ほどを経過している。



 今回の小さな新発見要素として、大平橋と杭甲橋の間だに見つけた小さな暗渠が挙げられる。
四角い断面の小さなボックスカルパートが、今もさらさらと水を通していた。



復習ポイント3 杭甲橋


 大平橋から杭甲橋までは800mほど。
左に滑谷沢の源流を見下ろしながら、樹海のような道を進む。
この区間は、全線中最も薮が濃かったと記憶されている部分で、忘れもしない3年前の残雪の中、私は無念のチャリ放棄となった。
だが、この数年の訪問者の多さを物語るように、支障木の刈り払いがかなり進んでいて、身軽なら容易に通過できるようになっていた。
楽に進めることにホッとする反面、いざ隧道を前にしたときの感動が薄れやしないかと、ちょっとだけ不安になる。



 そして、何事もなく難所だったエリアを突破した我々の前には、旧国道としては最も峠よりの橋となる杭甲橋が、その偉容を現した。

 例によって銘板は全て失われている。
ある参加者は、マニアの仕業ではないかと言っていたが、同じ道路マニアとしてそんな奴はいない、と思いたい。



 さて、新沢橋、烏川橋、大平橋と来て、この杭甲橋。
どの橋も前回はただ通り過ぎただけだったわけだが、今回はもう一歩進めて、その全体像を掴みたかった。
そういう目でこの杭甲橋を見ると、実はかなり高い橋だったということに、今さらながら気が付いた。
頑丈そうな欄干から身を乗り出して下を覗き込んでみると、チョロチョロとしか水の流れていない谷に対し、なんとも大袈裟な橋が架けられていたのだ。
特に、山形方のコンクリート橋台は非常に重厚なもので、これは是非もっと傍から見てみたい。



 例によって、橋の上には思い思いに休息し、また語らう面々。
緑一色の世界に、ポンと飛び出したようなコンクリートの橋は、異様な佇まいである。
 なお、奥に見える鞍部の直下に栗子隧道は穿たれている。
この橋を過ぎれば、目指す栗子隧道の福島口まではもう1kmと少しの道のりである。



 この橋の跨ぐ谷は予想以上に深く、直接谷底に降りることは難しい。
また、特に巨大な橋台が目を引く福島方は日なたのため猛烈なブッシュになっていて、相当に時間をかけなければ降りることは出来なさそうである。
スピーディに橋の全容を掴める場所を探した結果、福島方の橋台の下に降りることにした。

 写真は、福島方橋台。
支承(橋台と橋桁の接点の構造物)には、鋼鉄のプレートが噛まされていることが見えた。
おそらく、昔ながらの固定支承だろうから、大きな地震などがあれば、橋が丸ごと落ちてしまう心配がある。



 福島方の橋台と地山斜面との接線付近から、対岸の橋台を見る。
今回新発見だったのが、福島方の橋台にだけ設けられた、橋台の突起物である。
写真にも良く写っているが、ちょうど橋桁裏面の4列ある補強梁に対応するかのように、4つの突起物がある。
不思議なことに、これは福島方の橋台だけの設備だ。

 当時の設計書でも無い限り正確な由来は不明だが、おそらくは工事中に使った何らかの仮橋の土台ではないかという意見が、現地では大半であった。



 想像以上に大きな橋だった杭甲橋の全体像を、今回初めてカメラは捉えた。
この深い谷を跨ぎ、いよいよ万世大路は峠の隧道へと最後の登りに取りかかるのである。
視察会も、佳境に差し掛かる。
と同時に、私にとっての本番も近付く…。
 私にとって、この万世大路の再訪は、ひたすらに前進するだけで精一杯だった前回に比して、色々な意味で実りの多い探索となった。
冒険という意味では、やはり初めての興奮に勝るものはないのだが、なんとなく知っていた物も、こうやってはっきりと確認できるとさらに愛着が湧く。
今回の再訪では、万世大路がますます好きになった。



復習ポイント4 上杭甲橋


 杭甲橋から栗子隧道までは、三つの九十九折りの道のりである。
ここも以前は大変な薮で、倒木を乗り越え、覆い被さる枝を掻き分け、雑草の門をくぐり、踝まで埋まるような泥沼を突き進む道だったが、今回はだいぶ状況が改善。
なんと、比較的新しそうなバイクの轍さえあった。
オイオイこの先行き止まりだぞ。
 写真は、最初のヘアピンの先に見えた滑谷沢源流の二段の滝。



 いよいよ海抜800m超のエリアへ。
この高度まで来ると、残雪が地形の凹みの各所に残っていた。
まだ雪が消えたばかりだと一目見てわかるような若い緑の一角が斑に現れた。
 この高度にまで来れば、奥羽山脈全体で見れば、隧道など無くとも越えられる箇所が少なくない。
山形と福島の県境一帯だけで見ても、二井宿峠などここよりも遙かに低い峠がいくつもある。
そんな中で、並行し旧来の街道筋であった板谷峠よりも遙かに高い山地を越えようとした、このルート設計の真意は諸説あるようだ。
説の一つは、積雪が(板谷峠)に比べて少なく、雪解けが早いというものだ。



 石垣に見守られながら、律儀に三段のヘアピンカーブを登り詰めると、やがて沢の音が近付いてくる。
視界が開け、灌木と高山植物(雑草?)に覆われた少し広い一角が現れる。


 この薮の中に隠れた形になっているのが、当初の万世大路にだけあった上杭甲橋である。
この橋と、その前後の僅かな区間は、昭和の改良時に直線化され、橋は廃止されて大変久しい。
現役当時から、何度となく雪崩の被害を受け、度々架け替えられた橋だったという。



 この写真は02年の撮影で、以前のレポートに使ったので覚えている方もいるかも知れない。
視界の利く時期だと、旧国道からは上杭甲橋がこのように見える。
上の地図では少し誇張して書いたが、旧道と旧旧道はかなり近接しているのだ。
そして、当然のように02年の段階で橋桁は跡形もなく消滅していた。

 だが、今回薮を押してまで、この橋に接近してみることにした。



 前後はかなり深い薮に覆われた上杭甲橋であるが、16人もの足で踏み固められた帰路には、しっかりとした踏み跡が出来上がっていた。
写真は、引き返し時に振り返って撮影したもの。
左側に並んでいるコンクリートの物体が、上杭甲橋の橋台である。



 これは私は初めて見た。
上杭甲橋と、並行する旧国道の暗渠である。
殆ど水量のない沢に架かる上杭甲橋だが、風化著しく、一応コンクリートの橋台だったと分かる物体の他には、何も残ってはいない。
橋桁は最後まで木製だったのだろう。
そして、橋のすぐ下で沢は昭和10年頃に建設された名もない暗渠に吸い込まれていく。



 表面にコンクリートを使ってはいるが、質の悪いコンクリートの表面はボロボロに剥がれ落ち、その内側の砕石の層が露出していた。
コンクリートの打設方法も、おそらく当時は現在と異なるものだったのだろう。(この施工が行われたのは、早くて大正、遅くても昭和8年以前だ)
現在は、コンクリートの内部にこのように層状の構造を設けるというのは無いはずだ。
当時はまだ技術が確立していなかったのか、砕石の層とモルタルの層をサンドイッチ状に重ねて打設していたようだ。
(現地を見て初めてそう思ったのだが、こんな断面は初めて見た。)


 上杭甲橋の福島方の旧国道につながる部分は、橋から見るとこのように鮮明なルートが見えるものの、旧国道側からは傾斜が急でルートは判然としない。
我々は、山形方から接近している。
 おそらく、栗子隧道に残る痕跡を除いては、万世大路の最高所に残る明治道の痕跡である。
人力を総動員しての命懸けの除雪を持ってしても、一年のうち5ヶ月は殆ど通行が途絶したという豪雪地の道である。
短い夏をひっそりと過ごしているようだった。



 さらさらと水流を呑み込んでいる旧国道の暗渠坑口。
規模が大きく、さながら万世大路第三の隧道である。

 せっかくだから反対側まで抜けてみようと思ったのだが、暗渠の出入り口を中心に、もの凄い羽虫の大群。
おそらく蚊ではないと思うのだが、カメラを構えていると全身にピシピシと接触の感触を感じる。
おそらく数万〜数十万匹はいる。 何か見ているだけで痒い。
が、諦めない俺。虫に守られた(?)暗渠へいざ!



 内部も、坑口付近ほどではないが、虫が凄い。
写真にもしっかり写っているし。
内部は総コンクリート張りなのだが、洞床はコンクリートが剥がれ、元々の地肌がだいぶ露出している。
また、側壁も下部がかなり浸蝕され、亀裂が地山に達している。
まだ相当に遠い話だと思うが、いずれは暗渠が崩れ、溜まった水や雪崩によって残骸もろとも押し流される定めだろう。
暗渠は、結構急な傾斜が付けられており、全長は10mほど。



 地形的に必然として見上げるような感じになる下流側の暗渠坑口。
ここも猛烈な虫柱の中にあった。
そそくさと退散し、参加者の皆様にあたたかい(やっと来たか)というお言葉(視線)を浴びる。


 山行がの万世大路復習行事も、いよいよ最終ターゲットを残すのみとなった。
かつて見ただけで満足し引き返した栗子隧道、福島口の内部が、最終目標だ!
目指せ! 閉塞壁両側コンプリート!(02年に山形側閉塞壁を確認済みである)



最終復習ポイント 栗子隧道(福島口) 遭遇


 上杭甲橋は栗子隧道から目と鼻の先にある。
歩き出すとすぐに、道の右側に沢を埋め立てたような広大な草原が現れる。
これは、栗子山隧道(“山”が付くのが初代)を掘った残土で埋め立てられた場所。
開通後には旅籠が、昭和の改修時にも作業者達の飯場が建てられたりと利用されて来た。


 道はここで平坦となり、まるで緑の壁のような栗子山南東壁に直進していく。
ついに、“王手”だ。



 キタッ。

 内心小躍りしながら、体はあくまで冷静に、再びの訪問であることをさりげなくアピール。

 が、前回とはあまりに様子が違う。
それも当然、訪れた時期が全然違うのだ。
深い残雪と雪渓によってまだ冬山の様相を呈していた前回とは、緑萌えるこの光景が想像できなかった。
だが、これぞ廃道の王道というべき、緑と灰色が入り交じった景色に、萌えないわけがない。 萌エーッ!



 これが“廃美”なんだよと、思わず側にいる誰にでも熱弁をふるいたくなったが、幸い一番近くにいたのが同志信夫山氏だったので、怪しい姿を大勢の参加者に晒さずに済んだ。

 いまなら、遠慮無く言える!

これが、廃美だ!!



 延長866mの伝説、
  栗子隧道、
    いまふたたび……。



 次回、文字通り 「想像を絶する光景」 が、私を直撃する!