3年ぶりの再会を果たした、本邦最古最長の歴史を持つ栗子山隧道。
昭和初期の大改修でその姿を大きく変えたが、今なおその存在感は見る物を惹きつけずにおかない。
再会した私の心拍数も、既にかつて無いほどに上昇していた。
目指すは、その果て。
かつて山形側の閉塞地点で感じた、あの“風”の正体を求め、私はガイドの仮面を脱ぐ。
※この「視察会」の模様は、こちらのブログ『環境回廊あさか野塾』に詳しく掲載されています。
3年ぶりの再会を果たした、本邦最古最長の歴史を持つ栗子山隧道。
昭和初期の大改修でその姿を大きく変えたが、今なおその存在感は見る物を惹きつけずにおかない。
再会した私の心拍数も、既にかつて無いほどに上昇していた。
目指すは、その果て。
かつて山形側の閉塞地点で感じた、あの“風”の正体を求め、私はガイドの仮面を脱ぐ。
※この「視察会」の模様は、こちらのブログ『環境回廊あさか野塾』に詳しく掲載されています。
烏川橋からここまで4.5kmほど、途中休憩を挟みつつゆっくり歩いて2時間ほどの道のり。
ただ歩くだけなら1時間強で着けるだろう。
私と信夫山氏にとっては、やや拍子抜けするほどに容易い到達であった。
坑口前では1時間ほどの長い休憩をとる予定になっていたので、私は早速自身の探索を開始するのであった。
まずは、この石組みの坑口の上に登る。そのためには、向かって左側の水路スロープの縁の通路を利用する。
足場が狭く、苔の生えたコンクリなので移動には気を遣った。
特に下りるときが怖かった。
このスロープを流れている水は、沢の奥まったところに口を開ける隧道の、さらに上部から流れてくる沢水を坑口の脇へ迂回させるためのものだ。
坑口の上部の斜面は急傾斜で300mも高い稜線に迫り上がっているが、この流水は夏でも涸れることが無い。
豪雪地である栗子山が蓄えた膨大な水は、通年通して流れ出しているのだ。
そして、スロープからはこんなアングルで栗子隧道の坑門を撮影することが出来る。
互いに行き来することが出来ない1つの隧道の2つの坑門ではあるが、現在の様相は大きく異なっている。
掘り割りの奥の日影に口を開けるこの福島口は状態が良く、そのディテールを残すが、一方、強烈な西日をもろに受け、冬期は猛烈な西よりの吹雪を山脈の矢面に立って受ける山形口は信じられないほどに風化している。(参考画像:山形口03年撮影)
いずれ、この栗子隧道の坑門のデザインは、首都圏からの玄関口となった二ツ小屋隧道に比べると、些か平凡に思えるが、それは壁柱が無い事によるもので、それ以外は類似している。
そして、これがおそらくWEB初公開?となる、栗子隧道扁額裏のコンクリート壁である。
一見石組みの重厚な坑門も、裏はただのコンクリの壁である。これは二つ小屋隧道の山形口の裏も同じである。
それもそのはずで、この隧道が改良竣功した昭和11年頃にはもう、隧道工事の主要な材料はコンクリートになっていた。
昭和に入ってからの石組み隧道などは、その大半が強度的な意味合いよりも、峠のシンボルである隧道の威厳のため、様式美として存在していたものである。
え?
隧道裏はいい。早く中に入れ?
まあ待ってくれよ。別にこのコンクリを見たくて登ってきたわけではないのですよ。
坑口上部のコンクリートの裏に立って、隧道の進行方向を見る。
そこには、当然だが地山が通せんぼしている。
しかし、私はある読者から、ここに明治隧道の痕跡が残っているという情報を頂いていたのだ。
しかし、見たところ、山菜の茂る土の斜面と、水の滴る岩山との接線には、穴らしきものは……ない。
さらに接近してみる。
だが、穴は?
穴は無いのだろうか。
無論、人が入れるほどの穴が有るわけはないのだが。
有ると情報を頂いたのは、明治の隧道の隧道の上部の痕跡。
すなわち、明治13年に貫通した素堀りの栗子山隧道(延長866m、当時日本最長)だが、狭くて自動車の交通には適さなかったので、同様の事情があった二ツ小屋隧道と共に、昭和の改修時には洞床を2m以上も掘り下げ、さらに左右に拡幅する堀り直しが行われているのだ。
だから、両隧道の上部には、明治隧道の上部痕跡が残っていてもおかしくはない。
あったー!!
よく見ると、水がしとどに流れ落ちる岩陰に、確かに空洞が存在していた。
ここは紛れもなく栗子隧道の中心線上である。
これとて元々の岩肌ではなく、おそらく昭和の改修時に手を付けられてはいるだろうが、ともかく、明治隧道の上端部分に違いないだろう。
カメラを突っ込んで右の写真を撮るのが精一杯の程度の隙間であり、内部へ入ることは出来ない。
明治隧道の痕跡としては、山形方坑口の二つ並んだ穴ばかりが有名で、それ以外はないと考えられていたが、その常識に一石を投じる発見であった。
そして、本題。
栗子隧道の閉塞地点を目指しての内部探索である。
03年にそれを行わなかった理由は、何か一つということではなく、時間的・精神的、そして水没という物理的な障害、それらが複合したものであった。
あのときは、何時間も誰にも会わない状況で真っ白な雪渓に覆われた山道を歩いてきたから、この期に及んでさらに腰まで水没しそうな隧道内へ立ち入る勇気がなかったのだ。
山形側で閉塞を確認していた為というのも、もちろんある。
しかし、その後数人の同志がこの隧道内部への侵入調査を敢行している。
やはり閉塞しているという答えに違いはないのだが、私としても、その閉塞点を見極めなかったという後悔を背負うこととなった。
そしてようやく今回、機会が巡ってきた。
当初、今回も腰までの水位を覚悟していたが、夏場は水位が下がっているとの情報の通り、その水位は最大でも膝丈ほどしかなかった。
私はもとよりトレッキングシューズ着用なので濡れるつもりだったのだが、その気の無かった信夫山氏も、水位が低いことから洞内探索に同行してくれることとなった。
しかし、彼は電灯は持っていなかった。
03年の探索時には、この坑口から水面がどこまでも続いているのが見えていたし、水面の乱反射にお陰で、かなり奥まで明るく見えたものだ。
そして、レポートでは坑口から撮影した望遠写真を持ち出してきて、「もしや閉塞部分が見えている?!」などと、辿り着けなかった悔しさを紛らわせるような論を展開したわけだが、今回の再調査によって、おそらくどう頑張っても坑口から閉塞部は見えないことが判明するのである。
今回の調査では、この洞内プールが隧道内部に起因するものではなく、外からの雨水や沢水の流入によるものであったことも分かった。
隧道内のどこにも、溜まるほどに大量の水を出している箇所はなかったのだ。
これで、一年のうちに水位が1m近くも上下している原因も分かった。
一年の三分の一ほどは、坑口部が高い雪渓に囲まれ、内部へ流れ込んだ水の出口が塞がれることになるのだ。
それが、雪渓のない時期には徐々に乾燥してくのだろう。実際に、かつてまったく水のない状況に遭遇したというレポートもある。
隧道へ入って始めの30mほどは厚く堆積した泥に足を取られるものの、その先はコンクリートの洞床が水面下に見えるようになる。
以降、進むほどに水位は下がっていく。
異様なのは、このコンクリートの床に著しい亀裂や、周囲から押しつぶされたような盛り上がりが多数見られることだ。
特に、水際のあたりが特に酷い。
右の写真は、水面下にあるコンクリートの亀裂である。
アスファルト舗装よりも遙かに堅牢であるはずのコンクリート鋪装が、これほどずたずたになっているのは、凍結と融解の繰り返しによるダメージだと思われる。コンクリートは確かに堅いが、洞床に使われているような無筋のものは、引っ張りや剪断には非常に弱いのだ。
逆に水深の深い部分は凍らないので、それほど被害がないのだと思う。
入口から50mほどで、早くも陸地が現れた。
以後、二度と水面が現れることはない。
思いのほか、隧道内は乾いていた。
我々の足跡が、隧道の奥に反響する。
昭和初期のものとしては破格の断面積を持つ、大型の隧道である。
強力照明SF501といえども、洞内を十分に照らすには足りなかった。
これほど山奥の辺鄙な場所にある廃隧道としては、他に比類する場所が無いほど、多くの人が訪れていると思われる栗子隧道であるが、内部に立ち入るのはその中でもごく一部の人だけであるようだ。
ほぼ一年中水没していることもあるだろうし、閉塞していることを知っている人なら、入る意味がないと考えるかも知れない。また、閉塞の事実を知らないとしても、入口から覗き込んだときに反対側の明かりが見えない時点で、尻込みするのも当然だろう。
隧道内部には、殆ど人が訪れたような痕跡はない。
何年前に棄てられたのか分からない泥に汚れた瓶が、立ったままになっている。すぐ傍には錆びた王冠も転がっていた。
なんとなく、不気味だ。
動く物の気配を感じて天井を見ると、巨大な天井の穴からコウモリが出入りしていた。
崩れ落ちた瓦礫は洞床に散乱したままになっている。
普通の隧道では考えられないことに、この栗子隧道のコンクリートの天井の上には、大きな空洞が存在しているようだ。
おそらくそれは、明治隧道を掘り下げて建設されたことに由来する、“古い”空洞なのだろうと思うが、この不必要な空洞が隧道の劣化を早めているのではないかと思われる。
そして巨大な地圧から生存権を守るための砦、コンクリートの覆工だが、悲しくなるほどに薄っぺらだ。
後でその断面をお見せするが、ホント、見ると泣きたくなるほどに薄い。
坑口から300mくらいは来ただろうか。
私と信夫山氏は並んで歩きながら、思ったよりも閉塞壁が遠いなという感想を漏らし合った。
山形側の閉塞壁へ行ったことがある私だが、あれは入口から500mも入った場所だったと記憶している。
栗子隧道全体の延長が870mほどだから、この福島側に残された延長は400mにも満たないはずである。
もう閉塞壁が見えてきてもおかしくないはずなのだ。
それなのに、すっかり乾いた妙に白い隧道は、初めのうち見られたような亀裂や崩落もなりを潜め、不気味に綺麗な姿のまま、我々をその闇の奥へ誘っている。
「うわー!」
……わたしは、次の瞬間、大変な物を発見してしまった。
思わず吐き出した声が上ずっていた。
突然しゃがみ込んだ私に気付かず、そのまま先へ進もうとしていた信夫山氏の背中に、私は叫んだ!
やべー!!
すげぇ物発見しちまった!!
県界標だった。
それは、坑門に取り付けられた大きくて誇らしげな扁額に比して、あまりに日影、あまりに秘やかな存在。
今まで気が付かれなかったのも頷けるほど、小さな姿。
刻印された文字も、泥と埃で埋もれてしまっている。
だがこれは、この栗子隧道の「山形と福島を繋ぐ」という機能の面において、最も価値ある存在。
いま、私は栗子山主稜線の直下、最も深い地底にいる!
この地点より先に一歩歩けば、そこはもはや山形の県土である。
その存在さえ知られていなかったと思われる、栗子隧道のある意味象徴的な存在が、ここに隠れていた!
福島方坑口から、約300mの地点である!
まるで土中から発掘された古代の遺品を丁寧に鑑定するように、優しい手つきで我々はその表面の泥を取り払った。
本当なら水で洗ってあげたかったが、持ち合わせが無く、右の写真で限界だった。
そこに刻まれた文字は、今日のトンネルでもよく見られる県境を示す壁のペイントや標識の走りとなるものだろう。
周囲はコンクリートの無機質な壁の中にあって、この板だけは御影石を使っている。
大切な物だったのだ。隧道にとって。作り上げた人たちにとって!
ちなみに、写真では分かりづらいが、刻まれた文字は上から順に「縣界」「山形縣」「福島縣」である。
壁には、このように何気なく埋め込まれている。
反対側の壁にも、同じ物があった。
歩きでなければまず気がつけない。
当時車で運転していたドライバーでも、この存在を知っている人がどれだけいただろうか。
この発見に、私は感涙!
いつもは冷静な信夫山氏もこの時ばかりは体を激しく揺らして喜んでいた。
「すごい!」「これは凄い発見だ!」 そう何度も連呼していた。
この時、隧道の外では至って平穏な昼休みが流れていた。
しかし、我々はまだ引き返さない。
終の地は近い。
間もなく、洞床の乾いた泥に無数のタイヤ痕を発見。
だが、この複雑なタイヤ痕は、2輪車の付けた形ではない。
軽トラのような車が、ここで切り返しをした痕に違いない。
まだ、闇の中に、終わりは見えなかった。
しかし、3年前に私を恐怖させ圧倒した、あの全てを呑み込む瓦解の壁は、もうすぐそこに息を潜めている…気がした。
それにしても、何十年前のタイヤ痕なのだろう。
ここまで車で来れたというのは……。
もう、二度とそんな日は来ないだろう。
闇が一際濃くなった気がして振り返ると、その理由が分かった。
なんと、隧道は下り勾配に転じていた。
そう。
先ほどの県界石を境にして、米沢市へ向けての下りが始まっていたのだ。
坑口の光の見え方が、サミット越えを果たしたことの最大のサインであったが、歩いていても、微妙に下っていることは感じられた。
ライトに照らし出された洞床に、不思議な文様が見えた。
よく目を凝らしてみると、それは小石で描かれた文字である。
そこには、いくつかの文字が残されていた。
いずれも、この地へ到達した者の残した記念のサインだろう。
その全てを以下に列記する。(奥から順に)
YK●(判読できず)
ORR
●●●(判読できず)DARK
幾つもの伝説が、この地には刻まれている。
そして、遂に現れた大崩落。
坑口からおおよそ350m。
県界石からは、信夫山氏の歩幅で69歩の地点であった。(約62mほど)
天井のコンクリートが抜け、その上にあった土砂…というより、岩山がごっそり落ちている。
踏めばカラカラと音を立てるような脆い瓦礫が、堆く積もる。
その高さたるや、本来の隧道の天井(約5m)よりもさらに高い。
抜けた天井の上には、元々この岩山が収まっていたはずのスペースが、巨大な空洞として存在している。
それは、隧道の自然崩落のパターン的な光景である。
しかし、その規模はこれまで見たどの崩落よりも、破壊的である。
そして、この壁は、真の閉塞壁ではない。
かりに超大光量の照明を坑口から照らしたとしても、見えるのはこの、第一閉塞壁のみであろう。
本当の壁は、この瓦礫の山に登ったとき、初めてその姿を晒すのである。
誰しもが畏怖し、撤退を決する、その姿を。
だが、まずはこの第一閉塞壁の周辺をよく観察しておこう。
真の閉塞壁の周辺は、安定した足場という物が殆ど無く、また精神的な圧迫もあり、長居できない場所なのだ。
左の写真は、隧道の天井の断面である。
その上にある岩肌は、正真正銘の地山であり、言わば地球の肉である。
栗子山の稜線より、地表下約300mの岩盤だ。
比較的滑らかな面を見せており、おそらくは元々存在した節理に沿って崩壊転落したのだろうと想像させる。
次の崩壊があるのか、有るとしたらいつ起きるのか、素人には想像できない。
ただ、この第一閉塞壁の天井については、その滑らかさが印象深い。
これは、崩壊した瓦礫の中にあった、天井の崩壊したコンクリート片である。
余りにも薄っぺらい。厚みは10cmくらいしかない。
しかも、無筋コンクリートである。それは崩壊した断面を見れば明らかだ。
山形側坑口付近には鉄筋コンクリートが崩れ落ち、その鉄筋が無惨に露出している箇所があるのだが、今回見てきた限り、福島側には鉄筋の姿がない。
おそらく、隧道深部の巻立てには無筋コンクリートが使われているのだろう。
今日では、無筋有筋に限らず、隧道の巻立てに何らかの補強のなされたコンクリートを用いないなど、考えられないことだ。
技術的には、既にこの昭和初期には鉄筋コンクリが実用化されており、使わなかったのは、必要がないと判断されたためだろう。
その理由は想像より無いのだが、元々ここにあった栗子山隧道は一部に木製支保工を置いた他素堀であったにもかかわらず、改良工事に至るまで50年以上も存続していたことから、洞内の地山は安定していると判断されたのかも知れない。
(実際、栗子隧道内部でもコンクリートの巻厚が何度か変化しており、外見上でも断面が大きい場所と小さい場所が交互に現れている。この崩壊地点は、その中では巻厚が小さいと考えられるゾーンであり、やはり危険箇所とは思われていなかったのだろうと想像される)
第一閉塞壁の土砂の山の上に立って、遙か遠い入口を振り返る。
当然だが、外の音はまったく届かないし、ここで何をしているかも、外からは見えていないだろう。
そして私は、一度洞床まで下りて、第二閉塞壁……真の閉塞壁と考えられている……に、接近を試みる。
「あっ!」
ベシャ…
「いてててててて……」
私は、恥ずかしながら、洞床へ下る落差4mほどの斜面で前のめりに転倒し、2mほど腕を前にして転がり落ちた。
足を、木の板に乗せたときにそれが腐っていて砕けたのだ。
木の板は、地山とコンクリの壁の間に挟まれていた物だったろう。
幸い、両手の爪を傷つけ、全身数箇所を擦りむいただけで済んだが、情けないことだ。
それを見て、ライトを持っていない信夫山氏は、進むのを止めたようだった。
転倒直後で、まだ全身の傷がどのように有るのかも分からず動転している(何せ現場は殆ど真っ暗なのだ)私は、まず振り返って信夫山氏の姿をカメラに納めていた。
思いがけず、いい写真が撮れた。
崩壊の現状、巨大さが、よく分かるだろう。
これでもまだ、第二閉塞から見れば、小さい。
栗子隧道、最終閉塞部。
昭和47年に、この崩落が発生し、以来、誰一人この隧道を通り抜けた者はいない。
その断末魔の叫びを、聞いた者は誰もいないのだろうか。
もし、その場にいたとしたら、どんな景色を見ることができたのだろうか…。
山を揺らす地鳴りがして、坑門から雷鳴のような轟音が発せられる。
次に坑門から吹き出してくる突風と、砂煙……。
そんな瞬間が、かつてあったのかも知れない。
想像を掻き立てる破滅的な崩壊地点にて、
カメラは大変な物をも写し込んでいた!
それは、風である。
見えないはずの、風が…、3年前私の心を揺らした、あの風が、はっきりと写っている。
帯状にたなびくような靄が、はっきり見えるではないか。
第一閉塞とは、崩壊の規模がまったく違う。
第一閉塞は、“平屋の民家ぐらい”の崩れ方だが、この第二閉塞たるや、大袈裟でなく“3階建てのビル”くらい落ちている。
そして、天井の空洞の大きさも信じられないものがあり、右の写真では、まるでちょっとしたホールのような空洞が写っている。
これでも、元々の天井近くまで登って撮影しているのだ。
元来の洞床から、抜け落ちた天井までの高さは、隧道の高さの倍ではきかないだろう。
信じられないというより無いが、目の前の景色だけは、すべて事実である。
よじ登る作業も、もはやちょっとした岩山登山の様相を呈するが、人間の通ずる隙間は無いだろう閉塞についても、私は完全に諦めているわけではなかった。
この風もまた、真実なのだ。
崩れずに残った内壁と、隧道内に充填された瓦礫の隙間を探す。
すると辛うじて、福島側から向かって左側、山形側からなら右側の壁よりに、空間を発見!
この位置は、私が3年前に山形側の閉塞壁によじ登って、身を詰まらせた隙間と対応している!
もしや、あのとき感じた風は、ここを通っているのでは!!
確かに、この空洞に体を寄せると、風は一際強く感じられた。
今日もまた、福島から山形へと風は流れている。
恐怖心も忘れ、私は限界まで身を潜らせた。
無理に体をよじって前進するも、1mも入ることは叶わなかった。
あまりに狭い。
汗が眉毛を濡らす。風が心地よい。
一縷の望みを懸け、SF501で奥を照らしてみるが、期待されたような空隙は発見されない。
むしろ、さらに奥ではもっと密度のある土砂が詰まっている様だ。
スコップやシャベルを持っていたとしても、掘り進めることは、相当に困難だと考えざるを得ない。
少なくとも、未来5mに大きな空洞は無さそうだった。(光が届く限界)
ただ、何度も言うように、風だけは、びゅーびゅーと流れ込んでいく。
内壁沿いの閉塞打開を諦め、斜面に沿って天井の上の空洞へ進んで見ることにした。
おおよそ45度の斜度の瓦礫の山が、頭上へ続いていた。
写真は、その天辺から洞床を振り返ったもの。
まるで窓のような部分が、本来の天井の高さである。
如何に高いかお分かり頂けよう。
そして、落盤した土砂の上部に達する。
そこには、想像していた以上の奥行きがあった。
完全に天井よりも上の高さにいるはずだが、この奥行きの下にあった天井が全て抜け落ちてしまったというのだろうか。
だとすれば、この第二閉塞の規模は、壁というレベルではなく、長さ20mを越えるものと言うことになる。
……。
正直、こんなの抜けれません!
ちまちま掘っていったって 無駄……。
肩を落としながら、進めるだけ進んでみた。
最も天井の高い場所から5mほどで、再び天井は隧道の天井の高さへ向かって下降していく。
だが、足元の瓦礫の山は余り下がって行かないので、直ぐに頭が閊えてしまう。
中腰、しゃがみ、匍匐……という感じになっているのだが、頭を足より下にして、これ以上行き先不明の亀裂に潜るのは、さすがに×。
ここで、限界です。
第一閉塞壁からは、約30m前進している。
ただし、ここは天井の上の空洞にいる訳で、厳密には隧道内部でない。
もしかしたら、この足元の岩場を砕けば天井の上に立てるかも知れないし、さらに天井を砕けば……。
夢は広がるが、夢は寝ながら見るものだ。
諦めの悪い私、足を突っ張らせ亀裂の奥の方を照らそうと足掻く。
だからここは天井の上だから、幾ら覗いても無駄だよ……。
そうアタマでは分かっていても、そこに空洞の気配があると思えば、どうしても、見たくなる。
私は、色々に身をよじりながら辺りを観察した。
気が付けば夢中の余り、ライトを持たない信夫山氏を第一閉塞壁に置き去りなのも忘れていた。
え、ガイド……?
あわてて使命を思い出し、撤退を開始する私。
閉塞壁にいた時間は、10分間に及んでいた。
閉塞部を横から見た概念図を描いてみた。
私が足掻いていた空隙は、「pocketX」である。
如何に無駄な足掻きだったかが分かるだろう(苦笑)。
結論から言えば、栗子隧道は何らかの土木工事無くしては再開通不可能。
どこが最も壁が薄いかと問われれば、おそらくはpocketXだが……。
手も足も出ない。
以上!
撤収!!
世にも危ないガイド、やっと生還す。
栗子隧道の闇は、当初の想像以上に深く、険しく、ロマンに満ちたものだった。