2018/4/27 15:15 《現在地》
ここは北海道久遠郡せたな町にある太田集落である。
その大らかそうな地名に反して、山海の狭間である狭隘な海岸に細長く連なる集落で、旧大成町の北端に位置するこの土地は太田トンネルが開通するまで陸の袋小路に押し込められてきたのだった。集落の前面には立派な漁港が作られており、暮らしや交通の要をどこに置いてきたのか窺われるようだった。
今回、私は人生初の北海道での廃道探索旅をしているが、それも今日が5日目で最終日である。今日の深夜にはふたたび本州に戻ることになるので、時間的にこれが今回の北海道での最終探索になるだろう。とても楽しみにしていた場所なので、トリを飾るに相応しい。
いま私が立っている探索のスタート地点は、太田集落を北側から見渡せる村外れであり、かつては道道の終点だっただろう場所だ。
ここを起点に、長年にわたる尾花岬への挑戦が行われたと見る。
そしてそれはいま――
同位置から真後ろを振り返ると目の前に現われる、1本のトンネルによって果たされている。
頑丈そうな通行止めのゲートが開け放たれ、黒い口を開けるトンネルへ私を導いている。
あのトンネルを潜り抜けてふたたび外へ出たときには、既に北海道の最西端を通りぬけ、旧北檜山町の新城地区の人になっているのである。
一見したところ、ここにはゲートとトンネル入口、そしてトンネルの電気室と思われるコンクリート製の真新しい建物くらいしか見当たらない。
だが、事前に平成3年の地形図と、航空写真を見てきた私の目は欺けない。
建物によって奥が見通せなくされているが、この目の前の空き地こそ、以前の道路敷である。
この推理には自信を通り越した確信があるから、確かめるのは後で良い。
まずは、太田トンネルの内部の状況を、自転車の速度で確かめてこようと思う。
なお、ここで先に太田トンネルの内部の状況を調べる目的についてだが、左図を見ていただきたい。
もし、私が想定する通りに未成道のトンネルが存在するならば、それは現在の太田トンネルと地中で接触あるいは接続している可能性が疑われた。
少なくとも、地理院地図に描かれている太田トンネルがカーブが本当であれば、“未成トンネル”との接続の可能性は高いように思われた。
まあ、高低差があればそうもならないかも知れないが……。太田トンネルの内部を確かめることは、本格的な探索の事前情報収集として無駄な試みではないと考えたのだ。
なお、3kmを超える太田トンネルの全線を確かめる必要はないだろう。
この南口から1.5kmくらいまで調べれば、目的は達せられるはず。
なので、自身としても珍しい、貫通している現役トンネルの途中まで行って引き返してくるという行為を、これから行うことにする。
これが、太田トンネル大成側坑口(南口)だ。
当地を管轄する北海道檜山振興局の公式サイト内に「延長が3,395mで道道一長いトンネル
」と書かれているので間違いないのだと思うが、そんな記念すべき長大なトンネルとは思えないくらい、飾り気の全くないシンプルな坑口である。
飾りと言えるようなものは扁額だけで、あとは無装飾なコンクリートの平面だけで構成されている。
ドライバーにトンネルの長さを伝えるような看板も見当たらないので、何も知らず入り込めば、意外な長さに驚くかも知れない。
(現地の大字から採っただろう「太田トンネル」という名前も地味な部類だ)
なんとなく、災害復旧用に急遽作られたトンネルのような印象を持った。
それはともかく、いまは先入車もないようで、完全な静寂を保っているトンネル内へと進んでみよう。
トンネルの素性を知るのに役立つトンネル銘板が、定位置に設置されていた。
この5日間の北海道探索で、一定以上に新しいトンネルには大抵同じフォーマットのものが取り付けられているのを見ている。本州で一般的に目にする銘板よりも内容が詳細で、それが2枚セットになっているのである。うち1枚は、発注者や施工者や設計者の企業名や氏名がびっしりと書かれており、もう1枚がこの写真のものだった。
ここには、竣工年、全長、幅員、高さといった、一般的な銘板にも見る内容に加え、設計に適応された示方書の種類や使用コンクリートの配合内容など、トンネルの構造上の様々なデータまで記されていた。
とりあえず、私が欲している情報は“初心者”向けのものだけで――
太田トンネル 延長925.9m 幅員6.0m 内空高さ5.8m
2007年11月着工 2010年3月竣工
――というようなデータが判明したのだが、注目すべきは、延長の数字である。
檜山支庁の公式サイトにある全長3395mという数字ではなく、それよりも遙かに短い「925.9m」という数字は、いったい何を意味しているのだろう?
このトンネル、やはり何か… … … きな臭い。
トンネル内部へ進入開始!
南口から内部を覗くと、いきなり右カーブが始まっており、その先は見通せない。
長いトンネル内がグネグネと何度も曲がっているのは、地理院地図にも描かれている通りで、実際そうなっているようだ。
まずは右カーブというのも、地図の通りである。
ちなみに、この日は南から北へ向って結構な風が吹いていたので、奥へ進むのには順風である。そのため、勾配はほとんど感じられないにもかかわらず、自転車はあまりペダルを漕がなくても、どんどん奥へ進もうとした。これで途中から引き返してくるのは、気が重いぜ…。
内部へ入ってすぐ、非常電話や消火器が壁に埋め込まれており、そこにもトンネル名とトンネルの全長が記されていた。「太田トンネル L=3395m」とあり、これは私が事前に把握していた全長と一緒だ。
最初に右カーブがあり、それを過ぎると直線が始まった。
だが、南口から400mか500mくらいから、今度は左カーブが始まった。
地理院地図では、このトンネル内に南口から北口に向って右左右右左右の順序でカーブが描かれており、これらのカーブの間には最長1km、短いところでも2〜300mほどの直線が挿入されている。
現代の長大トンネルでは、地質の良いところを利用して効率的に工事が進められるよう、様々なカーブをトンネル内に設けるケースがあるが、この太田トンネルの場合、海岸線からの距離を一定の範囲に抑えるような意図で各カーブが挿入されているような印象がある。あくまでも地図上から受ける印象だが。
左カーブが終わると、あまり間を空けずに今度は右カーブが見えてきた。
南口からこの右カーブの始まりまで、で約700mの距離があった。
そして、ここまではまったく何の変哲もないトンネルだったのに、この右カーブの先の壁面に、見慣れない横穴のような影が見えてきたのである……
車両の方向転換用の横穴かとも思ったが、それにしては小さいし、あまり見通しも良くない場所に唐突にあるのも不自然だ。
まさかこれは!
15:28
うわー…。
マジで、洞内分岐っぽいものを、発見…!
真新しいトンネルなので、洞内分岐っぽいこの場所もなんか「小綺麗」で、トンネル内照明が白いこともあって、得体の知れない気持ち悪さはあまり感じない。
しかし、興奮は禁じ得ない!
南口から約800mの地点で発見された、謎の洞内分岐……!
意外にも進入を拒む意識はあまり高くないようで、入口には簡単に乗り越えられるチェーンが1本掛かっているだけだった。
立ち入り禁止などとも特に書いていないし、また反対に「非常口」として案内されていることもない。一見すると、長大トンネルにありがちな非常口のようにも見えるが、現在そのように使われている様子がないのである。
そして、ここからが私にとっての興奮の“肝”であったのだが、この謎の分岐坑の進行方向は、南を向いていた。
この方角にピンとくるモノがあった。
このことを、地図上で説明すると――
太田トンネル(青破線)は、私が航空写真からその存在を想定した未成トンネル(赤破線)の中間部を、右図のように再利用して作られているのではないかという疑いが、いよいよ現実味を帯びてきたのである!
(ここで想定する太田トンネルの位置は、地理院地図に描かれているラインとは一部ズレるが、経験上、地形図にあるトンネル位置はあまり正確ではないことがある)
“未成トンネル”は、ただ無為に役目を終えたのではなく、地中で二度の洞内接続手術という“ウルトラC”の技によって、見事に太田トンネルの一部として再生したのではないか。
この分岐こそ、接続していた“未成トンネル”の名残ではないか!
自転車ごと進入を開始! 行く先を確かめるぞ!
光だッッ!
本坑とは違い全く照明のない分岐坑へと飛び込んだ私を即座に迎えたのは、“四角い光の塊”だった。
いったい何がどう見えているのかは、まだ判別が付かないが、この光源が外光であることは間違いないと思う。
照明がないだけでなく、本坑とは比べものにならないほど断面も小さい分岐坑の奥へ、
この不思議な白い光源と、ヘッドライトの灯りを頼りに、恐る恐る自転車を走らせた。
豹変する、怪しき分岐坑…。
白く綺麗な肌触りの良いコンクリートの壁は、本坑から目の届く範囲だけを巧みに覆っていたのであり、
そこを一歩踏み出すと、まさに舞台裏、お客からは決して見えない、見せる気もない、無骨の作業現場が現われた。
さび付いた鋼鉄の骨組み(トンネルを支えるセントルのようでもある)によって形作られた、長方形断面の坑道だった。
だがそれも長くは続かず、分岐から50mにも満たない位置で、SFチックな光沢を見せる銀色の鉄扉に封鎖されていた。
先程来の“白い四角の外光”は、この銀扉の上部に開けられた開口部から漏れてきていたものだった。
15:24 《現在地》
銀の扉は巨大で、完全に開け放てば軽自動車くらいなら通行できそうだったが、扉の向こう側にある坑道はさらに大きな断面であることが、外光の漏れ来る上部の四角い窓の向こうにわずかに見える天井の高さから、窺い知れた。
というか、この扉の向こう側にはおそらく、本坑と同様の2車線断面のトンネルがあるのだと思う。
これが地上に直接面している扉でないことは、光の薄暗さから明らかだった。
私が“未成トンネル”だと考えているトンネルが、この扉の向こうに往時の姿のままで眠っている。 その可能性は極めて高いと思った。
行ってみたい!
しかし、この扉は突破することが出来なかった。
両開きの扉には鍵穴と回転する取っ手があったが、鍵穴は錆びに埋もれて塞がれていた。さらに取っ手の一つは根元から外れ、近くの床に転がされていた。
錆はともかく、取っ手の破壊は明らかに暴力の結果であろう。暴力を物語るように、泥足で足蹴にされたような汚れが壊れた取っ手の周囲には無数に残されてもいた。
いわゆる“関係者”の仕業とは思えない惨状の痕で、まるで闇に閉じ込められた狂人の業のようで不気味であったが、この鍵も取っ手も壊れた扉には新たに木のつっかえ棒がかんぬきのように仕込まれていて、どうやってもここから外へは出すまいという信念が感じられた。(かんぬきはさらに多数の針金で扉に頑丈に固定されていて、取り外しはとても大変そうだった)
あとはもう、長い梯子でも持ってきて上部の四角い穴から出入りするくらいしか考えられない。
ここから出入りすることは諦めるしかないが、まだこの向こう側に立てる可能性が失われたわけではない。
後ほど、地上から改めて、この扉の向こう側を目指すつもりである。
一旦ここは本坑へ撤退だ!
ここでの期待された成果は、もう十分得られた。
15:29 本坑との分岐地点に戻ってきた。
写真は分岐地点から、北口方向を撮影している。
私の推理が正しければ、太田トンネルが作られる以前からここには1本のトンネルが存在していた(本稿ではそれを“未成トンネル”と呼んでいる)。だが結局そのトンネルは道道として供用されることはなく、新たに作られた太田トンネルの一部になったのだ。
太田トンネルの南口から約800m地点に始まるこの直線部は、“未成トンネル”として建設されていた部分を手直ししたのだと思う。
15:33 《現在地》
洞内分岐地点から始まった直線部は、おおよそ300m続き、南口から1100mの表示が現われた先で、右カーブになっていた。
私の読みでは、この右カーブも“未成トンネル”との分岐地点であり、ここにも先ほどと同じような直進コースの分岐坑があると考えていたのだが、その姿はまだ見えてきていない。
そして結局、存在が予想されていた2回目の洞内分岐については、それらしい痕跡を全く見いだすことが出来なかった。
後ろ髪を引かれた私は、洞内分岐の擬定地点であった1100mから始まる右カーブを通り過ぎ、1300m過ぎにある左カーブのさらに先、1500m付近まで進行してみたが、第2の洞内分岐は影も形もなかった。
この結果、航空写真で見た【“未成トンネル”の北口】へ辿り着くためには、おそらく断崖絶壁になっている地上の海岸線を、何百メートルも歩いて行くしかないということが明らかになってしまった。
多少の覚悟はしていたが、この到達は容易ではないだろう…。
そもそも、あれが本当にトンネルの出口であるかどうかも、確定していないのだが…。
15:38 《現在地》
最終的に南口から1500m付近で引き返した私は、20分ぶりにスタート地点の南口へと戻ってきた。
往復約3kmの出口に至らぬ不思議なトンネル探索は、これから始まる本番の前哨戦になった。
いざ、謎の未成道へ!