2018/4/27 15:38 《現在地》
それではいよいよ本番、道道740号北檜山大成線の未成道と思われる道へ足を踏み入れるとしよう。
先ほどはここから素直に太田トンネルへ進んだが、坑口の左側に細長い空き地がある。
これが、太田トンネル完成以前の道路敷である。
この空き地は坑口脇にある電気室の建物によって、それ以上奥が見通せないようになっているが、歩行者や自転車ならば簡単に脇をすり抜けて行くことができる。特に立ち入り禁止の表示もなかった。
ほら、あった!(嬉)
やっぱりあったじゃないか〜。(笑)
しかも、半永久の建物を入口の障害物とすることで、もうここには永遠に自動車を入れる気はないと、管理者自らが暗に告白している。
すなわち、廃道になることを約束された存在というわけだ。
ここから先は、全て皆。
そう思うと、私の目に映る景色は俄然色めきを増すのだった。
まだ新品の風合いを色濃く残す太田トンネルの外壁に別れを告げ、忘れられた領域へ足を踏み入れる!
15:39 《現在地》
広〜い!
不必要と思えるほどに広い道幅。
舗装がないため、正確にはどこからどこまで道だったのかも分からないが、
工事中には、この広場に飯場やコンクリートのプラントなどが置かれていたようだ。
googleが撮影した2009年の航空写真に、それらしいものが写っていた。
前方やべぇ!
この場所の横方向の広さは、束の間の憩いである。
少しの未来には、この土地の広がりが90°倒立する驚異の変貌を遂げる。
この5日間に訪れた道内各所で私の進行を阻んだ“凶悪な海食断崖”が、
最後の探索地であるここにも、当然のように待ち受けていた!
あった! 洞門!!
北海道内では「覆道(ふくどう)」と呼ばれているのをよく見るが、洞門とは同じものである。
スノーシェッドとロックシェッド、あるいはその両方を兼ねたものを総称して、そう呼ばれている。
広場の先に見えて来たのは、平成3(1991)年の地形図にもはっきりと描かれていた2本の覆道。
いかにも現代道路の姿をした巨大な覆道が、轍も疎らな未舗装路の先に忽然と現われた。
この情景が既に猛烈に濃厚な“未成道臭”を醸していて、私には堪らない興奮材料だ。
ぎょぎょ! 1本目の覆道は、ここから見ても分かるくらい、大きな仕事をしている!!
落石というレベルを超越した巨大な崩土を、屋根の上で支えているように見える。
それが仕事であるとはいえ、防げる“暴力”には限度があるのだが…。
覆道の高さに匹敵するほどの巨石が屋根の上に堆(うずたか)くなっている様子は、正直ただ事ではない!
大丈夫か?あの覆道! オーバーワークじゃないか?!
そして私は、あちら……、
2本目の覆道の奥にあるとみられる“未成トンネル”の先へも、目を向ける必要があった。
あの2本目の覆道の奥に眠るトンネルは、現在の太田トンネルに進路を奪われ、封鎖されたようだ。
だが、その奪われた進路の先には、確かに“未成トンネル”だけの出口があるはずなのだ。
平成3年の地形図には描かれていなかったが、【2016年の航空写真】にそれらしいものが写っていた。
私はそこへ行きたい! それこそが、この探索の最終目的地!
大海と絶巓の狭間を往け!
隧なかりせば、他に道はなし。
波濤の砕ける突兀とした海岸線の奥に、未だ陸路なく到達不能とされるこの島の最西端、尾花岬が見えた。
目指す場所は、こことあそこのほぼ中間の地点であり、おそらく700mくらいは磯を踏み越えねばならない。
果たしてそれが叶うのか。誰かの出した答えは、まだ手に入らない。
な、なんだあれは?!
穴だ。
穴がある!
広場の山側にある崖の一角、路面よりは10m以上も高いところに、ぽっかりと穴が開いていた。
しかも、カメラでズームして見ると、中に何か支保工のようなものが見えるではないか!
あの山の地中には、この道と併走するように現在の太田トンネルが貫いているのであり、その横坑である可能性が疑われた。
これを放置することはできず、すぐさま斜面に取付いた。
だが、草の下は体重を乗せた傍からガラガラと音を立てて崩れ始めるような岩屑の山で、立地から予想できたことだが、典型的な崖錐斜面だった。
そのため、たった10mそこらを上り詰めることに予想以上に苦労させられた。
そうしてやっと辿り着いた穴だったが、遠目に見た印象よりも小さなものでしかなく、大人一人分くらいのサイズ感だった。
奥行きもまるでなかったのである。
下から支保工のように見えたものは、木と金属を組み合わせた1.5m四方ほどの小部屋の壁であり、奥の木壁の向こう側には空洞も何かを埋め戻した痕もなく、単純にこれだけの“凹み”だった。
この穴、もとい凹みの正体は、不明である。
何かを祀っていた跡なのか、超小型の火薬庫か、何かの測定を行っていた場所か。
使用されている金属の錆び具合からして最近のものではなさそうだ。
道に戻って進もうとすると、今度は海側にも気になるものがあった。
港と呼ぶほどでもない、小規模な船揚場だ。
漁船のような小型船を進水・揚陸する施設だが、全くといって良いほど、使用感がない。
実際、一艘の船も係留されていないし、進水路には付き物である“コロ”(滑り材)や、それを固定していた釘の跡もない。
コンクリートで頑丈に作られているが、あまりに使用感がないので、目の前の道と一緒に未成に終わった港なのではないかという疑いが。
あるいは、工事用資材の陸揚げに使われた工事専用港?
昭和51(1976)年の航空写真には見えないので、工事開始以前には存在しなかったと思う。
いずれにせよ、現状では唯一の入口である道が建物で塞がれているため、船揚場としてほとんど死んだ施設である。
船揚場を過ぎると、異様に広かった道幅も普通の2車線程度に戻り、航空写真では平穏な2車線幅の砂利道に見えていた区間に入ったが、実態は、なおも異様な感じがあった。
道が、まともな砂利道じゃなかったのである。
この路面の状況は、むしろ河原か礫浜に近い。
大小の丸石が大量に散乱していて、砂利道のように自転車で快適に走れる状況ではなかった。
しかも、目の錯覚などではなく、明らかに海側に路面全体が傾斜している。
2009年の航空写真では、ここにも普通に工事用車両の轍が刻まれているように見えたが、その後の数年で何があったのか。
普通に考えて、傍らに海があるこの状況でこれは、高波で浸水して路面の砂利が洗われた状況だろう。何か漂流物のようなものも多少転がっているし、たぶん、高波の仕業だと思う。
そしていよいよ、近づいてきた。
この未成廃道とみられる道の第1のハイライト、1本目の覆道が。
ここから見ただけでも、この覆道の置かれている自然環境の厳しさが、目に入りきらないくらい見せつけられている。
大量の消波ブロックと防波堤によって全く見えなくなっている海と、おびただしい量の巨岩を零して覆道を蹂躙している海食断崖の陸が、その両者の間をすり抜けようとする道を常に脅かしている。
こんな頑丈そうな防波堤や覆道をもってしても道の安全を守れないなら、打つ手はもう陸上になく、トンネルを選ばざるを得ないだろう。
実際、そんな判断から、今の太田トンネルが作られた可能性は高いのではないか。
おそらくは高波によって洗掘された路面と、覆道の上に覆い被さっている巨大落石の山が、そう物語っているように思われた。
15:50 《現在地》
えらく漕ぎ足に力を要する不安定な路面を無理矢理気味に乗り越えて、1本目の覆道の目前に辿り着いた。
入口からここまでの距離は、約400m。
基本的にはだだっ広い海岸線の平坦路だったので、意外に長い距離を進んでいた。
覆道は、いかにも覆道らしい装飾のない外見をしていた。
コンクリートと鋼鉄を使って道を外襲より守る、その機能をシンプルに形にした“質実剛健”の佇まいで、あまり古さの感じられない現代の道路構造物だ。
この飾り気の無さは太田トンネルに通じるところがあるが、扁額が取り付けられていた。
「太田覆道」 と。
これが本当に未成道だとしたら、同じ名を冠する構造物に未来を譲ったことになるのか…。そんなことに感慨を覚える人は、一部かも知れないが…。
覆道の入口付近壁面に、トンネルでよく見る工事銘板が取り付けられていた。覆道(洞門)の工事銘板は、本州では比較的稀だと思うが、北海道ではよく見られるアイテムのようだ。
太田覆道
1987年11月
北海道開発局
延長 120m 幅員 5.5m
高 4.7m
施工 工藤・間・丸彦共同企業体
同名の太田トンネルに較べれば、長さにして28分の1に過ぎない存在。
これ1本で一連の難所を一気に突破してやろうなどという野望を抱くこともない、あくまでも脇役っぽい規模である。
だが、発注者は同じ「北海道開発局」だった。これは北海道以外での「国土交通省●●地方整備局」に相当し、国直轄の整備事業であったことを示している。一介の道道でありながら国が整備を担当していたからくりも北海道独自のものだったが、その話は今はしない。
そして個人的には最も気になっていた竣工年だが、昭和62(1987)年であるという。
意外に古かった!
太田トンネルが完成して道道の全線開通が果たされたのが平成25(2013)年だというが、実にその26年も前に、この立派な覆道は完成していたのか。
未成道の行く道を推し量る個人的スケールでも、初期の工事から四半世紀を経過して開通していないと、「もう駄目かな」と思うところだが、この道道740号線はそこを見事に凌いで完成まで辿り着いたということか。
こんな初期に完成したのに、最終的には使用されなかった哀れな構造物を残しはしたが…。
太田覆道内部へ進入開始!
とりあえず、祝!貫通! である。
何を言っているのか分からないかも知れないが、この人生初の北海道探索において、私は飽きるほど数多くの封鎖トンネルに行く手を阻まれ、その都度に辛酸と甘美とを味わった。
北海道の廃止された旧トンネルは坑口を完全に塞がれているケースがとても多いということを、思い知った5日間だった。そしてなかには、トンネルではない覆道でも、封鎖されているものがあった。だから私は、この覆道も封鎖されているのではないかと恐れたが、幸いにして完全に貫通していた。
覆道の海側には見慣れた柱が並んでいたが、柱と柱の間の窓の部分がコンクリートの板でほぼ埋められていて、上部にわずかに明り採りの小窓が残されていた。
このような造りもこれまでいくつかの覆道で目にしたが、高波や潮混じりの横風から洞内を守るための特殊な構造である。
一般的な覆道よりは暗く、トンネルよりは明るいという、微妙な明るさだ。
こもった潮騒が小さく響くこの場所は、開演前の劇場のような静謐と神聖とが感じられた。
なお、覆道内の路面はコンクリートだが、これは舗装された路盤ではなく、覆道の底面そのものだ。
本来の路面はこの上にアスファルトなどを敷いて完成するのであり、明らかに未成の構造物である。
廃止後にわざわざアスファルトを剥がしたとも思えないので、これで未成道ということが確定した。
そして、覆道の出口へと近づくと、入口よりさらに異様な光景が……。
路上が、ラグーン(潟湖)化している……?
1本目の覆道と2本目の覆道の間の短い明り区間(ここは“未成トンネル”前の最後の明りだ)は、
本来の平坦な路面がすっかり失われ、代わりに礫浜のような地形になっていた。
本来の海から切断されているが、まるで天然の小さな海岸のようだ。
ここに溜っている大量の水は、おそらく雨水より、防波堤を越えた波や飛沫がもたらした海水だろう。
舐めて塩分を確かめたわけではないが、大量の水であるのに長時間溜まった真水の淀み方をしていない。
本来なら排水溝から排出されなければならない海水が、どこかで詰まって堰き止められているのだと思う。
もっとも、大嵐の直後ならばまだしも、ここ数日は最大2.5m程度の波高だったので、
これほどの海水の浸入は、この道の位置自体の問題である気もする…。
それにしても、 これは…… いいなぁ……。
海に交わる廃道の風景として、単純に美しいぞこれは……。
寂寞と荒涼の間の景色だ。これで未成道というのも ますます いい……。
15:55 《現在地》
うおーーーー!!
こんな山に挑もうと思う奴らが、我々だ。
間違っても私個人ではなく、我々。この道を作った我々という人類。
どういうわけか、せっかく作った道は使われず終わってしまったようだが、あの名前から、外見から、全てが薄味に見えた太田トンネルが、しれっとこんな巨峰を攻略していやがった。
そのことを知り、誇るためには、こうして少しばかり道から逸脱する必要があった。
なお、地図に拠るとこの岩山の名は天狗岳。海面から直抜する頂は508mであるという。
そして、これを穿つ“未成トンネル”の門戸である2本目の覆道には、その名も「天狗覆道」 の扁額が!
かっこいいな〜。
景色も、名前も、極上だぜ! この未成道!
これには私も思わずニッコリしつつ、これからこの岩山の裏側にあるトンネルの反対側出口へどうやって辿り着こうかと戦々恐々である!
太田トンネル南口から約700m。
知らない人が見れば単純な旧道にも見えただろう一連の未成廃道は、遂に地上の道を失った。
海水に半分浸かったような、なんとも言えない微妙な光景と共に。
これより奥は、地形図にも描かれたことがないはずだ。しかしまだ道はある。
だが、初めて明確な封鎖に妨げられた。
ここから始まる天狗覆道は、施錠されたフェンスゲートで封鎖されていた。
しかし、北海道開発局が旧道トンネルを本気で封鎖しようとした場合は、こんなもんでは済まされない。
普通に天井までぎっちりとコンクリートウォールで塞ぐので、これは相当に手心があるし、そもそも施錠された“ゲート”がある時点で、放棄ではなく「関係者以外通行禁止」に過ぎないと考えられる。 まあ、ここが解放される機会など、もうありそうにないが…。
太田覆道とは比べものにならないほど闇が濃く見える、天狗覆道。
フェンスの上から内部を覗いてみると……、
……中もすっかり浸水していた。
そして、入口そばの側壁には、太田覆道で見たものと同じデザインの工事銘板が取り付けられているのを見た。
天狗覆道
1988年12月
北海道開発局
延長 60m 幅員 5.5m
高 4.7m
施工 工藤・岩崎・菱中共同企業体
太田覆道完成のわずか1年後に、この覆道も完成していた。
全長は60mとあるが、天狗岳の岩盤に突き刺さる進路を持つこの覆道は単体で成立せず、連続するトンネルとセットである。
ようするに、今から四半世紀以上前に、“未成トンネル”ルートの工事が、太田集落から700mあまりも進んでいたことになる。
そして、ここから始まる“未成トンネル”の出口らしい構造物が、さらに約700m離れた海岸線上に存在していることを、2016年と2009年の航空写真の両方で確認している。
これから、そこへ向おうとしているのだ。
ああ、間違いない。
例の“銀扉”だ。
今から約30分前、私は【あの扉の向こう側】にいた。
そこは、太田トンネルの南口約800m地点で見つけた横坑の奥で、かんぬきがされていて開かない扉だったが、あの時点で「おそらくこういう繋がりだろう」と予想していた通りということが、いま確かめられた。
フェンスは高いものではなく、内部の水没もさほどの深さではない。
侵して侵せない領域ではないのだが、ここは後回しにすることにした。
できるだけ足を濡らすのを後にしたいのと、既に16時になろうという現状は、これからの探索を考えると時間的余裕がなさそうなのだ。
ここだけなら暗くなっても探索は可能。だから帰路に回すことにした。
さて、始めようか。
このトンネルを迂回して、出口を目指す行程を。
しかし、初っ端から障害だ。
覆道をかわして海岸線に取り付きたいが、できるだけ足を濡らしたくないと言っているのに、覆道前の道を横断して防波堤に立つ初っ端からアタマを悩ます状況なのだ。この水没した道を、どうやって濡れずに渡ろう。
ここでは、封鎖のためのフェンスゲートを活用した。
「ストリートファイターII」のバルログか、「スーパーマリオワールド」の最初のボス砦でのマリオよろしく、フェンス横渡りという行為で、足を濡らさず道を横断したのである。
どうでも良さそうなところで苦労してるな……。
いま少しのサヨナラだ、道よ。
だが、俺は必ず帰ってくるぞ。
なぜか完全に取り残されてしまった、お前の哀れな切れ端を、この目で確かめて戻ってくる。
しかし…、ここを行くしかないのかぁ。
最初から、こわい なぁ…。
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