まだ眠りから覚めていない横川の集落を、自転車に乗って進んでいく。
既に目的地は見えており(!)、今までこんな分かり易い探索をしたことがあったろうかと自問自答をしておかしく思ったが、決して笑う事は出来なかった。
真剣だ。とても真剣だ。そして、怖い。
なお今回の計画では、塩那道路に辿りついたら、そのまま同じ道を辿って下山してくるという日帰りの予定である。
自分でも面白みがあまりないと思ったが、藪の濃い行程が想定される中で山中泊の装備を持ち歩くのは、時間と体力の面で大きな負担になるだろうという冷静な判断だった。
これはかつての清水峠攻略作戦(1年目)の教訓でもあった。
なので、遅くとも昼前には塩那道路に辿りつき、昼過ぎには下山を開始して、夕方にはこの道を戻ってくるはずである。
だから今は通りすぎる風景が、いつも以上に愛おしく感じられた。
集落を外れると道はすぐ森の中に入るが、鋪装はされており、勾配も緩やかなので良いペースで漕ぎ進む。
このままずっと奥まで行けると楽なのだが、そうは行かないことも私は既に知っていた。
前述したように、この道を私は既に何度か辿ったことがあり、ある程度奥までは知っているのである。
そして、そんな私の記憶が間違いではないと教えるように、日光市が立てた通行禁止の予告看板が現れた。
そしてそれから間もなく現れた、
いつ見ても、いい気がしない看板たち。
この山域で行方不明や滑落事故が多発しているというのが、脅しなのかそうでないのかは分からないが、いつ来てもここは物々しいいんだよな…。
この看板たちが並んでいる場所は――
5:18 (出発から18分) 《現在地》
入口からわずか1.6kmの地点に設定された、
一般車(者も)通行止めゲートである。
私が時間を惜しみながらも、麓に車を置いて自転車で出発したのは、
この序盤に待ち受けているゲートの存在を知っていたからであった。
ちなみに、封鎖ゲートの脇にあるのはキャンプ場の管理棟。
静かにゲートの脇をすり抜け、特に起点を示す標識などは見られないものの、関東森林管理局宇都宮森林管理署が監理する男鹿(おじか)山林道へ進入する。
20分ほどの間にますます空が明るさを増しており、今にも太陽が顔を出しそうだ。
そして相変わらず、私の目指す塩那道路の走る稜線は、正面に聳えている。
挑戦者を待ちうけるかのような堂々たる山壁だ。
だが、私の知る限り、この先は道が谷間に入るこむため、もうあの稜線を見晴らせる場所は無い。
だから、次に私が塩那道路の稜線を目にするとしたら、それは無事に「成し遂げる」、その寸前かもしれないと思った。
…それにしても、寒い。
今日がまだ9月とはとても信じられないが、さすがは標高800mを越えた山中だ。
心なしか、草むらに霜が降りているようにさえ見える。
…って、 マジで霜降りてるし!!(汗)
おいおい、まだ9月28日だぞ……。
道理で寒いと思ったワケだ…。
これでは、塩那道路を建設しても1年の半分しか通れなかっただろうとか言われているのも頷ける気がするわなぁ。
ゲートを越えてキャンプ場の広い敷地を抜けると、すぐに橋に差し掛かる。
男鹿(おじか)川を渡る橋だが、銘板が無いので名前は分からない。
架設時期も不明だが、すぐ隣に旧橋の物と思われる橋台(両岸とも)と橋脚1本が現存している。
これは以前から気になっていた物だが、自動車道の橋にしては幅が足らないように見える。いかにも森林鉄道用だが、これまでの私の調べではここに林鉄が存在したという情報は無い。
…気にはなるが、今回の本題ではないので普通にスルーする。
5:47 (出発から25分) 《現在地》
橋を渡ってすぐに分岐地点がある。
ここを右折すると男鹿山林道のウドガ沢支線で、本線は直進である。
そして以前私が通った事があると書いたのは、このウドガ沢支線である。
本線については、この分岐から200mそこいらまでしか行ったことがない。
上の《現在地》の地図に記入したが、私がウドガ沢支線を以前通った理由は、その先の山の奥にある「桃の木峠」を探索した事があるからだ。
地元以外ではほとんど知られていないが、桃の木峠の道は明治17〜18年に“あの”三島通庸が栃木県令として最後に開削していた「塩原新道」(地図はここ)であり、福島県境の山王峠から桃の木峠を経て中塩原(奇しくも起点が塩那道路と同一地点!)に至る、全長32kmという日本有数の明治未成廃道である(三島通庸が生涯の最後に携わった道でもある)。探索のレポートは以前「日本の廃道」で書いたので、興味があればご購読を頂きたい。私にとって3本の指に入る長大明治廃道探索だった。
驚かしついでに、もう一つだけ。
たぶん誰に言ってもすぐには信じて貰えないのだが、この分岐地点の頭上には、塩原新道の巨大な木橋が架かっていた形跡がある。
その位置はだいたい、チェンジ後の画像で示した通りである。
本当ですよ!!
だって、両岸にちゃんと道の痕跡がありますから。
今日は行きませんけどね…。
それに、ちゃんと「絵」が残っているんです。
向かって右側の橋頭辺りから、“あの”高橋由一が描いた絵がね。 →【絵】
この絵の橋は、あまりに大きなスケールであるため、多くの人は由一がオーバーに描いたものだと思っているが、実はそんなことはないのである。
…この辺りの山には、塩那道路もそうなんだが、本当に凄い廃道が眠っているんダスよ…。
ウドガ沢支線との分岐地点を境に砂利道となり、急に林道らしくなった。
ちなみにもうこの辺りから先は初めて入るエリアである。
法面も削りっぱなしで随所に落石が見られるなど、一般車両通行止めが頷ける荒々しい道路状況である。
左側の男鹿川の谷も深く、険しい。
しかし、道の勾配は相変わらず揺るやか目なので(林鉄っぽい…)、進行のペースは順調さを堅持している。
この調子でどんどんいくぞ。
しばらく進んでいくと、見慣れない光景に出会った。
この先には男鹿川の支流を渡る橋があるのだが、その橋の手前に続く路肩がコンクリートの擁壁でしっかりと固められていたのである。
これまでの道路状況と比較して、いかにもこの路肩の施工は大仰な感じがして、それ自体は大騒ぎするほどの構造物ではないのだろうが、違和感を憶えた。
しかも最近のものでないことは、コンクリートの沈んだ風合いが物語っている。
直前に感じた違和感は、実際にそこに立ち入って確信へ変わった。
道は橋に連なる築堤になっている。そこまでは割と良くある光景だが、築堤の片側に“コンクリートの帯”で囲まれた狭いコンクリート鋪装部分があるのが不自然だった。
そして私の結論として、この違和感の正体は道路の拡幅にあると考えている。
現在は路肩にない“コンクリートの帯”は、埋められた古い路肩擁壁の上面であろう。
この場所以外にも同じ幅の“帯”が度々路肩にあるのを目撃しているので、間違いないと思う。
5:58 (出発から36分) 《現在地》
不自然な拡幅区間の最後に待ち受けていた橋。
橋の名前は、銘板によると「紅藤橋」というらしい。
読みは「くどうはし」である。変わった名前だが、沢の名前がクドウ沢というので、それに漢字を充てたのだろう。
そして気になる竣工年は「昭和42年9月」で、これはまさに塩那道路のパイロット道路建設が自衛隊の手で進められている時期だ!
しかも気になるのは、この道路自体は昭和33年版の地形図には既に車道として描かれていることである。(→)
クドウ沢を渡る橋も当時から存在していたはずだが、実際に現地にあるのは「昭和42年竣工」の橋だけである。
つまり、昭和30年代以前からここに車道があったのに、昭和42年になって今の橋に架け替えられている。
この路肩の拡幅や橋の架け替えが、塩那道路の工事用車両を通すために行われたものだというという確証は残念ながら無い。
だが、塩那道路の工事着手が昭和39年で、完了が46年とされていることと照らしても、42年頃に工事用道路の開削や利用が本格化し、それと接続するこの林道の強化が行われたという説には特に矛盾がない。
…う〜〜む。
謎は残るが、こいつは楽しいぞ。
大好きな塩那道路との関わりを想像するだけで、わくわくがとまらねぇよ。
まだまだ塩那の「え」の字も見えない谷底なんだけどなぁ。
そうそう、紅藤橋の袂には、林道では見慣れた存在のこの看板もあった。
この手の看板の地図には必ず目を通すようにしている。
大抵は情報が古いので以前の状況を知る手がかりになるし、地形図には無い林道名なども書かれている事が多い。
そして今回も大きな収穫があった。
塩那道路が描かれているゥ!
…ので、この地図は昭和40年代以降のものだと思われる。
一方で工事用道路は描かれていないが(その理由は不明。工事用道路の廃止後に書かれたのかも知れない)、工事用道路に接続していたと考えられる林道に「男鹿山林道白滝沢支線」という名前が書かれているというのが、この地図の最大の収穫である。
辿るべき道の名は、白滝沢支線だ!
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橋を渡って更に進むと、前よりも道幅が広くなった気がする。
未舗装なのは変わらないが、それに似つかわしくないような立派な法面の擁壁のお陰だ。
…これも、工事用道路絡みなのか?
そう考えると萌えるが、これだけではさすがに断定出来ないな…。
でも、古ぼけた味のある擁壁だ。
路肩もちゃんと擁壁で固められているが、その下にある男鹿川の谷の深さに震えた。
水量も多く、ここまでザーザーという渓声が届いている。
この川の水の最初の一滴は、きっと塩那道路の路肩から流れ出ているのである。
この川の水の最初の一滴まで遡るのだと思うと、さすがに途方もなく感じた。
6:05 (出発から43分) 《現在地》
今度は山側から降りてくる道と合流した。
写真は振り返って撮影しているので右がいま来た道で、このまま手前に進むのが本線だ。
降りてきた道の行き先は、標識によると横川放牧場というらしい。
この放牧場が開設された時期は不明だが、ここまでの林道が後から追加で整備された理由は、工事用道路ではなく、放牧場絡みという可能性もあるわけだな。
それにしても、本当に等高線を丁寧になぞる道だ。
勾配はずっと登りではあるのだが非常に緩やかで、進行のペースも依然として頗る良好。
既にスタート地点から3.5km以上は進んでおり、残り10kmを切っている。早くも往路全体の4分の1を終えたことになる。
写真は小さな枝沢を巻き取るように進んでいる様子で、林鉄のような線形だ。
歴代の地形図を明治から全てチェックしても軌道は描かれていなかったが、ちょっと普通ではない。
6:16 (出発から54分) 《現在地》
出発からそろそろ1時間となるが、ここで横川放牧場への3番目の入口(A団地、B団地、C団地の順に入口があった)に着いた。
地図を見る限り、放牧場への分岐はこれが最後である。
もうこの先には放牧場のような大きな施設もないであろうし、工事用道路が林道に与えた影響を知るには、これまでとこの先の道を比較するのが良さそうだと思った。
なお、ここまででスタートから4.4kmを前進。
非常に良いペースだった。
ここまでは、本当に申し分ない。
とはいえ、この辺りで苦労していては先が思いやられるだけだし、まだ喜ぶほどのことではない。少しホッとしただけだ。
うおっ!
山側の小さな谷が、大量の土砂を林道上に押し出した痕跡があった。
それもかなり最近の出来事らしく、まだ土砂は寄せられていない。
だが、そこには四輪車で強引に突っ切った形跡があった。
まさか塩那道路目的ではないと思うが、新しい轍の存在は心強い。
今はまだ廃道になって貰っては困る。
工事用道路の入口までは、このまますんなり行かせて貰いたい。
林道がまた支流の谷に引っ張られていく途中で、これまで路肩を定位置としていたコンクリート擁壁の上面が、路肩を離れて道を斜めに横断している場面に出くわした。
最初からこのような位置に擁壁を埋め込んだとは思えないから、元々の道は今よりも山側にあったのだろう。
それが度重なる山の押し出しにより埋没し、道路の位置も谷側へ移動した結果が現状であると思われた。
塩那道路絡みの道路補強の成果かもしれない路肩擁壁の“表情”は、私の興味を常に惹いた。
一旦は道路の山側にまで遷移した擁壁上面のコンクリートは、そこで弓なりに反転して再び路肩へ戻っていった。
この様相からも、やはり道路位置が変化したという私の予想は間違いではないと感じた。
そして路肩に戻った擁壁の先には、この支流を渡る小さな橋が現れた。
橋らしい橋は、紅藤橋以来である。
銘板の竣工年を早く確かめたいと思った。
6:23 (出発から1時間01分) 《現在地》
今度の橋の名前は「尾ヶ倉(おがくら)橋」で、竣工年は「昭和45年10月」という銘板があった。
…これは、塩那道路絡みではないのかも?
ちょっと工事用に橋を強化したにしては時期が遅過ぎる気がする。
しかし、現在の橋が工事用道路との関わりで架け替えられたものでは無いとなると、その隣で無惨な屍体を晒しているこの木橋が、工事用道路当時の主役ということに。
…お、 おいおい。
自衛隊の使う工事用資材とか、こんな橋を通ったのか?
或いはこれはさらにそれ以前の橋の残骸で、工事用道路としてはまた別の、例えば仮設橋でも(現橋の位置に)設けていたのか?
昭和30年代の林道に架かっていたと考えれば、誠に相応しい木橋であるが、工事用道路という言葉のイメージにはどうしても重ならなかった。
相変わらず前進のペースは快調だったが、精神面においては一喜一憂に溺れ過ぎるきらいがあった。
この林道で目にする様々なものに、いちいち「工事用道路」などという掴み所の薄いものを重ねて考えようとするために、不要に振り回されている感じだ。
まあ、いろいろと思索を働かせるだけの余裕の裏返しでもあるが…。
そんなことを考えていると、さらに私を混乱へ引き込もうとする何者かの罠が転がっていた。
小さな谷から押し出されてきたように見える、錆び付いたレール片…。
その太さは見慣れた林鉄用で、まるでこの道の上部にレールが敷かれたままの路盤でもあるような雰囲気だが、実際に目の届く範囲にそんな物は見あたらないし、レールがあるからって林鉄がここいらに敷かれていた証拠にはならない。
谷止め工として廃レールを用いる事も、かつては良く見られた光景である。
だが、この林道が醸しだす“林鉄臭”が、もはや気のせいとは思えないレベルで高まっているのも事実…。(この謎については追加調査中)
再び道は本流沿いに。
初冬のような朝の冷気には似つかわしくない盛夏の色を見せる木々の向こうには、やはり真夏の海を思わせるような青い水面が轟々と渦巻いていた。
少し遠いが、ここにはなかなか凄い天然美の光景があるようだ。
これはいわゆる“ナメ滝”というやつだろう。
大きな一枚岩が形作る幅広の河床を、水が複雑に深浅緩急をもって流れ落ちている。
少し深いところが見せる水色がかった色は、未だ谷間に日光が注がない今時分であっても十分に鮮烈な美しさを見せていた。
もし、案外早い時間に下山できたら、あそこで行水でもしていくのも良さそうだな。随分と気持ちよさそうだ。
―― そうして、出発から1時間13分が経った午前6時35分 ――
6:35 (出発から1時間13分) 《現在地》
男鹿山林道本線と白滝沢支線(工事用道路に接続)の分岐地点に到着した。
ここはスタート地点から6.3kmの場所で、塩那道路までは残り半分と少しといったところ。
頗る順調だった。
挑戦者よ、次のステージへ来たれ。
塩那道路まで あと6.7km
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